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懸念
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部屋にはいつかのようにオイルランプが灯っていた。
気のせいか、石油の匂いに何かがが焦げたような匂いを感じる。しかし、見渡してみてもその原因になるような物は見当たらなかった。
「やあ、兄さん。……あれ、その人は?」
清那はベッドに腰かけて本を読んでいた。柔和な笑みで初子に椅子をすすめ、愛想よく自己紹介をする。初子は少しだけ緊張した声で名乗った。
「この人に勉強を教えてやってほしい」
椅子に座った初子の隣で、侃爾が清那を見る。
清那はニコニコとして「勿論」と返した。
傍で初子の顔が明るくなったのが分かった。
そのそきルカが茶と一口饅頭を持って来た。
作ったように笑い、すぐに退室する。その間際に清那に向けた、不信感に満ちた視線を侃爾は見逃さなかった。静かに戸を閉めて彼女が出ていくと、待ってましたとばかりに初子が饅頭に手を伸ばす。
頬張りながら、
「美味しいっ」
と幸せそうな笑みを浮かべる姿は、母性本能に似たものを擽るには十分だった。
「これも食べていいぞ」
侃爾が自分のぶんを差し出す。
初子は喜んでそれを受け取った。
彼女を見守っていた清那が目を細くして、「じゃあ来れるときに来てね。僕はいつでもここにいるから」とやはり初子を年下と思っているような言葉遣いで言う。
侃爾は饅頭を平らげた初子を横目に、清那に先ほど家から出て行った女のことを聞いた。
「お前の教え子だろう」
「そうだけど、嫌になっちゃったみたい。厳しくしているつもりはないんだけど……勉強が難しいのかもしれないね」
そう清那は膝を擦りながら目を伏せた。
「お前はそれで、辛くはならないか?」
「ああ、うん、それは大丈夫。こんな体でも出来ることがあるなら人の役に立ちたいんだ。少しくらい傷付いても、へこたれたりしないさ。――あ、ねえシイちゃんは元気?」
突然方向を変えた話題に、侃爾は顔を顰めた。
「……いつも通りだ」
「いつも、がわかるくらいシイちゃんに会ってるんだね。羨ましいなあ。ねえ、兄さん。彼女をここに連れてきてよ。お寿司でも取ってさ、みんなで食べようよ」
「多分あいつはそういうの、嫌がるぞ」
「そうか、……そうだよね。シイちゃん人と関わるの苦手だしね。でも僕とはよくお喋りしてたんだよ? あのことはもう許してるんだ。ううん、元から恨んでも無い。兄さんはシイちゃんのことが嫌いかもしれないけど、僕は大好きなんだよ」
「清那、お前は優し過ぎるんだ。お前が許しても俺は許さない。せめて謝罪くらい欲しくは無いか? あいつはそういうこと、お前に何も言ってないだろう?」
「別にいいんだ。でも、そのために会いに来てくれるなら、……うん、いいね。兄さん彼女に言ってくれない? 『清那に謝りに来るように』って」
片方の口角を上げる清那に、侃爾の心は複雑な形に歪んだ。
シイを引っ張って連れてくればいいだけなのに、妙な迷いが生まれる。
そのとき初子が侃爾の袖を引っ張った。
茶まできれいに飲み干し、興味の無い話に飽きた様子だった。
彼女の子どものような仕草に呆れながら、侃爾は清那に別れを告げ、不自然な匂いのする部屋を出た。階段を下るとルカがやってきて「どうでした?」と手で口の端につい立てを作る。
「どうも何もいつも通りだ」
「また、じゃないですか。先ほど出て行った方は三度来ただけのお嬢さんですよ。どうしたら逃げ帰るようなことになるのやら」
「だから、相手が悪いんだ。知性も根性も無いんだろう。清那が悪いわけじゃない」
「侃爾様は本当に清那様を大事にされていますねえ」
ルカが結わえた短い髪の先を摘まんで、嫌味を含ませた。
「お前、愚かな考えは止せよ。流石の俺でも怒るぞ」
侃爾が言葉尻を強くして言うと、ルカは物怖じせずに「侃爾様のようなご立派な方に愛される人は幸せでしょうね」と呟いた。
「どんなことがあっても守ってくれるんでしょうね」
その言葉には嫌味に加え羨望が混じっていて、侃爾はただ無意味にルカの鼻先を睨みつけた。
ツンツンと腕を突かれ、見るとすでに三和土に下がっていた初子が帰宅を促すように頬を膨らませていた。侃爾は息を吐いて玄関の戸を開ける。
「お気をつけて」
きれいに頭を下げるルカ。
侃爾は初子を連れて町に戻った。
初子は終始嬉しそうだった。対して侃爾は彼女と清那を会わせたことへの満足感を抱きながら、背筋を這うような不安感を覚えていた。――ルカの言うことも、全く理解できないわけではないのだ。清那に紹介した女が悉く逃げ帰っていくさまを不可解に思っていたし、その発端を作ったのが自分であると思うと胸中穏やかではなかった。
もしかしたら、初子も同じように――――……。
まだ起こってもいないことへの懸念と罪悪感が、道中の口数を減らした。
初子と別れて寮に戻る道を進みながら、しかし足は橋の向こうへ歩んでいた。ずっと行くと長屋のひしめく狭い空間に着く。裏道に入ると、見慣れた張り紙がされた一軒に辿り着いた。
玄関戸には相変わらずびっしりと悪意の籠った紙が貼られている。それを煙草を吸いながら剥しているうちに、家の中から足音が聞こえて戸が開いた。
「や………………っ」
シイは体を縮めて兢々とした表情を浮かべた。
しかし来訪者が侃爾だと認めると微かに警戒を解き、青い顔で「何か、ご、ござい、……ましした、で、しょうか?」とどもりながら尋ねた。
気のせいか、石油の匂いに何かがが焦げたような匂いを感じる。しかし、見渡してみてもその原因になるような物は見当たらなかった。
「やあ、兄さん。……あれ、その人は?」
清那はベッドに腰かけて本を読んでいた。柔和な笑みで初子に椅子をすすめ、愛想よく自己紹介をする。初子は少しだけ緊張した声で名乗った。
「この人に勉強を教えてやってほしい」
椅子に座った初子の隣で、侃爾が清那を見る。
清那はニコニコとして「勿論」と返した。
傍で初子の顔が明るくなったのが分かった。
そのそきルカが茶と一口饅頭を持って来た。
作ったように笑い、すぐに退室する。その間際に清那に向けた、不信感に満ちた視線を侃爾は見逃さなかった。静かに戸を閉めて彼女が出ていくと、待ってましたとばかりに初子が饅頭に手を伸ばす。
頬張りながら、
「美味しいっ」
と幸せそうな笑みを浮かべる姿は、母性本能に似たものを擽るには十分だった。
「これも食べていいぞ」
侃爾が自分のぶんを差し出す。
初子は喜んでそれを受け取った。
彼女を見守っていた清那が目を細くして、「じゃあ来れるときに来てね。僕はいつでもここにいるから」とやはり初子を年下と思っているような言葉遣いで言う。
侃爾は饅頭を平らげた初子を横目に、清那に先ほど家から出て行った女のことを聞いた。
「お前の教え子だろう」
「そうだけど、嫌になっちゃったみたい。厳しくしているつもりはないんだけど……勉強が難しいのかもしれないね」
そう清那は膝を擦りながら目を伏せた。
「お前はそれで、辛くはならないか?」
「ああ、うん、それは大丈夫。こんな体でも出来ることがあるなら人の役に立ちたいんだ。少しくらい傷付いても、へこたれたりしないさ。――あ、ねえシイちゃんは元気?」
突然方向を変えた話題に、侃爾は顔を顰めた。
「……いつも通りだ」
「いつも、がわかるくらいシイちゃんに会ってるんだね。羨ましいなあ。ねえ、兄さん。彼女をここに連れてきてよ。お寿司でも取ってさ、みんなで食べようよ」
「多分あいつはそういうの、嫌がるぞ」
「そうか、……そうだよね。シイちゃん人と関わるの苦手だしね。でも僕とはよくお喋りしてたんだよ? あのことはもう許してるんだ。ううん、元から恨んでも無い。兄さんはシイちゃんのことが嫌いかもしれないけど、僕は大好きなんだよ」
「清那、お前は優し過ぎるんだ。お前が許しても俺は許さない。せめて謝罪くらい欲しくは無いか? あいつはそういうこと、お前に何も言ってないだろう?」
「別にいいんだ。でも、そのために会いに来てくれるなら、……うん、いいね。兄さん彼女に言ってくれない? 『清那に謝りに来るように』って」
片方の口角を上げる清那に、侃爾の心は複雑な形に歪んだ。
シイを引っ張って連れてくればいいだけなのに、妙な迷いが生まれる。
そのとき初子が侃爾の袖を引っ張った。
茶まできれいに飲み干し、興味の無い話に飽きた様子だった。
彼女の子どものような仕草に呆れながら、侃爾は清那に別れを告げ、不自然な匂いのする部屋を出た。階段を下るとルカがやってきて「どうでした?」と手で口の端につい立てを作る。
「どうも何もいつも通りだ」
「また、じゃないですか。先ほど出て行った方は三度来ただけのお嬢さんですよ。どうしたら逃げ帰るようなことになるのやら」
「だから、相手が悪いんだ。知性も根性も無いんだろう。清那が悪いわけじゃない」
「侃爾様は本当に清那様を大事にされていますねえ」
ルカが結わえた短い髪の先を摘まんで、嫌味を含ませた。
「お前、愚かな考えは止せよ。流石の俺でも怒るぞ」
侃爾が言葉尻を強くして言うと、ルカは物怖じせずに「侃爾様のようなご立派な方に愛される人は幸せでしょうね」と呟いた。
「どんなことがあっても守ってくれるんでしょうね」
その言葉には嫌味に加え羨望が混じっていて、侃爾はただ無意味にルカの鼻先を睨みつけた。
ツンツンと腕を突かれ、見るとすでに三和土に下がっていた初子が帰宅を促すように頬を膨らませていた。侃爾は息を吐いて玄関の戸を開ける。
「お気をつけて」
きれいに頭を下げるルカ。
侃爾は初子を連れて町に戻った。
初子は終始嬉しそうだった。対して侃爾は彼女と清那を会わせたことへの満足感を抱きながら、背筋を這うような不安感を覚えていた。――ルカの言うことも、全く理解できないわけではないのだ。清那に紹介した女が悉く逃げ帰っていくさまを不可解に思っていたし、その発端を作ったのが自分であると思うと胸中穏やかではなかった。
もしかしたら、初子も同じように――――……。
まだ起こってもいないことへの懸念と罪悪感が、道中の口数を減らした。
初子と別れて寮に戻る道を進みながら、しかし足は橋の向こうへ歩んでいた。ずっと行くと長屋のひしめく狭い空間に着く。裏道に入ると、見慣れた張り紙がされた一軒に辿り着いた。
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「や………………っ」
シイは体を縮めて兢々とした表情を浮かべた。
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