消毒をして、ガーゼをあてて

九竜ツバサ

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 おずおずと差し出された皿を、侃爾はものの数秒で空にした。
 身を縮ませながら謝罪と感謝を口にするシイを無視して冷やを飲み、食後の一服を始めると、吸い慣れた苦味に気分が落ち着いた。

 頃合いを見計らってやって来た店員が、脚付きのガラス食器に入ったアイスクリームと、湯気の立つコーヒーを置いて行く。シイは自分の前に置かれたアイスクリームをまじまじと見てから上目で侃爾を見て、目の前の彼が居心地悪そうに頷くのを待ってから、冷えた山にスプーン刺した。

「んん!」

 シイの瞳が宝石を転がしたように輝く。

「美味いか?」
 侃爾が尋ねると、

「甘くてひんやりしていて……こんなに美味しいものは初めて食べました」

 とアイスクリームよりも先に溶け落ちそうなほど顔をとろけさせた。

「大袈裟だな」

 侃爾がシイに掛からないように煙を吹くと、シイは「ふふふ」と上機嫌に目を細めて、大事そうにそれを食べ進めた。侃爾は煙草とコーヒーを交互に口に含みながらその様子を観察していた。幸福を具現化するとこうした形になるのでは無いか、とぬるい想像しながら、……――しかし口の中の苦味が『復讐』という鈍い二文字を思い出させる。

『どうせ最後なのだから』と、手向けのような情で彼女をここへ誘った。
『どうせもうすぐ死ぬんだから』――と。
 しかしまだ、あどけない笑顔が生き生きとここに在るのを見ると、確かな戸惑いが生じる。

「あっ」

 シイが声を上げたので、侃爾は我に返った。
「灰が……」
 言われて己の手元を見ると、煙草の先から灰が零れていた。侃爾は苦々しく手拭でそれを拭き取り、短くなった煙草を灰皿の中で潰した。
 心配そうに眉を下げるシイはすでにアイスクリームを食べ終えていて、どこを見るともなくぼんやりとしていた侃爾の様子を窺っていた。

「――――帰るか」

 侃爾が暗然とした面持ちで立ち上がると、シイもひっそりとそれに続いた。レジスターの前で財布を取り出した彼女を不愛想に店外まで追い出すと、カウンターの向こうで店主がおかしそうに笑った。 

「もっと優しくしてあげなさいよ」
「だから、そういう関係じゃない」
「例えキミの気持ちが向いていなかったとしても、彼女はキミのことを好いているかもしれないよ?」
「……それは無い、絶対に」

 こんなにも傷つけているんだから嫌われているに違いない。
 明らかな事実に胸の奥がチクチクとする。

「素直じゃないねえ」

 頬の皺を持ち上げる店主を横目で見て、侃爾は店を出た。
 軒下で待っていたシイが、恐々と侃爾を見る。

「お代を…………」

 しかし侃爾は「俺が誘ったんだ。気にしなくていい」と威圧感のある顔をしてそっぽを向いた。
 シイは戸惑い立ちすくんでいたが、侃爾が歩き始めると躾のよい犬のように従った。

 侃爾が背後に向かって手を伸ばす。
 意図を察したシイは、ひそかに頬を染めながら彼の傍に駆け寄りぎゅっとその手を握り返した。
 藍色の闇の中、寄り添う影が進むこと惜しむようにゆっくりと動く。

「もう大丈夫です」
 家の前に着くと、シイは一瞬躊躇うような仕草を見せた後、目を伏せ指から力を抜いた。

「ありがとうございました。素敵なお店で美味しいごはんを食べることができて幸せでした」

 深く頭を下げる。顔を上げると、シイは暗がりでも分かるうるうるとした瞳を細めて、
「気をつけてお帰り下さいね」
 と花が散るような声で言った。

 侃爾は無表情でそれを見下ろしながら、せわしく巡り始めた己の思考にひそかに困惑し、勝手に口をついた言葉に更に驚いた。

「土曜日――――」

 どようび? とシイが反復する。

「温泉に、……行こう」

 シイは侃爾の言葉の意味を理解していない様子で目を瞠り、首を傾げた。

「お、んせん……」
「もし、予定が無ければ、でいい」

 細切れに言葉を紡いでいく侃爾を見つめて、彼女は曖昧な表情のままで「はい」と返した。
 侃爾はその返事に胸を撫で下ろし、冷えてきた彼女の体を家に入れて別れを告げた。

「おやすみなさい」

 シイはひたすらに無邪気に微笑んだ。
 寮へ向かう道すがら、欠けた月を憎らしく見上げる。
 嗚呼、もう、―――厭になる。





 音を立てずに寮の門を登り、床板を鳴らさず自室へ戻ると、布団の中で本を読んでいた透一が「門限過ぎてるぞ」とからかうように笑った。

「この間の女給のところか?」

 インバネスを脱ぎ、着替えを始めた侃爾に視線を向け、透一が本を閉じる。
 侃爾は目を合わせないようにして「違う」と答えた。

「ああ、例の女のところか。お前もよく通うな」
「……見張っておきたい」
「ふうん。何か悪いことをしないように?」
「…………まあ」

 ふうん、とまた声を籠らせて、透一は目に被っている前髪を指先で避けた。侃爾は浴衣を着終え、朝に畳んだ布団を丁寧に敷いていく。背中を布団に預けるとどっと疲労感が押し寄せてきて、吊りランプの眩しささえ煩わしく感じ目を瞑った。
 透一が肘をついて侃爾のほうに体を向ける。

「そういうのを『アイゾウ』、って言うんだろうなあ」
「馬鹿なことを言うなよ」
「だって侃爾は鈍感だから」

 透一は先ほどの喫茶店の店長のようにおかしそうに笑ってから立ち上がり、ランプの灯を消した。

 暗闇に慣れない目が、その暗幕に、先ほどまで共にいたシイの姿を映し出す。笑っている。侃爾が近付いていくと、シイが嬉しそうに侃爾に向かって手を伸ばす。

 侃爾もその手を取ろうと腕を伸ばし――――……、

 夢の中で目を覚ました。

 幼い侃爾が伸ばした手を、同じく小さな彼女の手はあからさまに避けた。
 擦れ違いに教室から駆け出て行った少女の怯えた顔、遠ざかって行く背中を呆然と見つめる。

 教室の中は無人で、一か所の窓だけが開き、通り道になったそこからは強い風が吹き込んで諸々の掲示物はためかせていた。夕方の暖色の光が差し込む教室。
 開いている、――あの窓。
 窓、――の外。
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