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第五十九話 「怨念無しと極難き事」

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 根岸鎮衛著「耳嚢」 巻之一


「怨念無しと極難きわめがたき事」

 湯島の聖堂で儒学を学び、現在は高松松平家に仕えている佐助という男がいた。
 彼の壮年の頃の事の話である。

 佐助が深川辺で儒学の講義を終えると、既に日は暮れかかっていた。
 佐助は、これから自宅に帰るのも遠いのでどこかで一泊しようと考え、適当な茶店に入り遊女を揚げて遊んだ。


 夜更けに、ふと気が付くと一階の方からしきりに念仏を唱える声が聞こえる。
 そして、人の気配が二階への階段を上がってくるように感じる・・・・。

 その気配が佐助が寝ている座敷の障子の外を通ってゆく。
 佐助が恐々と障子の隙間から廊下を覗くと、髪を振り乱した女が見えた。

 ・・・・その女の両手は真っ赤な血糊に染まっていた。

 佐助は、恐ろしくなり頭から夜着を被って震えていた。

 暫くして廊下の気配も消えたように感じたので、隣に寝ていた女郎を起こして今見たことを話す。

 「また出ましたか・・・・」

 女郎が話すには、この家の主人は以前、「夜鷹」と飛ばれていた最下級の娼婦達の親方をしており、多数の女を抱えていた。

 その中に一人、病気で体の弱い夜鷹がおり、一日客をとっては十日は臥せっているという有様だった。
 主人は冷酷で残忍な性格だったので、その夜鷹に度々折檻を加えていた。

 彼の妻は慈悲心もある女だったので、夫がかの夜鷹に折檻を加える度に夫を宥め、彼女をかばっていた。

 ある日、つまらないことで主人が激怒し、その夜鷹を殴っているのを妻が割って入り夫を止めようとする。
 しかし激高していた主人はいよいよ憤って、脇差を抜いて妻に斬りかかった。

 その時、かの夜鷹が主人の前に立ちはだかり、その白刃を両手で掴み妻を助けたのだった。
 夜鷹の両方の指は全て切れ落ち、それが元で彼女は死んでしまった。

 その夜鷹の亡霊が未だにこの茶屋に出るのだという。
 その噂が広まり、次第にその茶屋からは客も離れていったという事であった。

 佐助が、後日その店の前を通ると、既に茶店は廃業してその家名もなくなっていたという。

 

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