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第八十九話 雲萍雑誌より「百姓と茶の湯」
しおりを挟む雲萍雑誌 作者不詳 天保十四(1843)年刊
江戸は葛飾の在の農村に権兵衛という村長がいた。
ある年の春、伊勢大神宮で奉納神楽が開催されるというので、村人十三人とともに寺社の案内係である御師の自宅に泊めてもらった。
御師の家では山海の珍味を尽くして歓待され、食事が終わった後「お茶にお招きいたしましょう」と茶室に招かれた。
村長と村人十三が茶室の席に着くと、恩師は丁寧に挨拶をして、茶道の作法に則って心を配って茶を立て、権兵衛の前に差し出した。
村長の権兵衛は農民であるから、茶の湯の作法など知らない。
権兵衛は、出された茶を前にして当惑してしまった。
・・・・これはどうやっていただけばよいのやら、確か人に聞いた話だと、お茶は順々に回して飲むという事だったが、一杯の茶を十三人で回して飲むなどはとても足りないだろう・・・。
他の村民たちも、茶の湯の作法を知っている者などいようはずがない、村長がしたとおりに真似ようと、じっと権兵衛の一挙手一投足を伺っている・・・・。
・・・これは困った、村長の身として今更主人に作法を聞くのもみっともない・・・・。
権兵衛があれこれ悩んでいると、御師は口取りの菓子を権兵衛の前に差し出して「お召し上がりください」という。
そう言われて権兵衛はハッと茶を取り上げて一気に飲み干してしまった。
茶碗を置くと、御師がその茶碗をとって再び茶を入れる。
・・・・おかわりが出た!・・・・これも飲み干すのが作法なのだろうか・・・・。
そう思い、再び茶を一気に飲み干して、目の前の茶菓子を取って食う。
権兵衛が茶を飲み干すと、またまた御師が茶碗に茶を入れる。
そんな事を二三べん繰り返すと、権兵衛の腹は茶で一杯になってしまった。
さすがの権兵衛ももう飲めなくなり、御師に「沢山頂きましたのでもう、私は結構でございます」と言うと、御師はニコニコしながら、「それでは隣の方にお回しくだされ」と言う。
そんな風にして、村人十三人が茶を飲み終え茶会が終わると、権兵衛達はそそくさと退出した。
村人達は、「おいら達も茶の湯などというものは知らんもんで、村長様のすることを見てソックリ真似をしたんでございますが、緊張して茶の味など分かるものではございませんでしたよ・・・」そう言って村長の苦労を労った。
翌日、権兵衛と村人たちは、また茶の湯の饗応などかあってはたまらん・・・とばかりに、早々に村へと帰った。
そんな事があって、ある日権兵衛は江戸の大店の御隠居を尋ねた際にこう切り出した。
「じつは、御隠居様にお願いがございまして・・・」
「急に改まって、願いとはなんですな」
「茶の湯の作法を教えて頂きたいと存じまして・・・・」
「・・・なに、茶の湯ですか・・・それはまたどうして」
権兵衛は、伊勢で茶の湯に招待され作法を知らずに恥をかいた事を御隠居に話す。
「・・・こういう事がございまして、私も未だにそのことが忘れられず、恥ずかしく思いまして、是非茶の湯の作法を学びたいと思うのでございます」
それを聞いた御隠居は、ちょっと考えて諭すように言った。
「権兵衛さん、お前さんは分別もあり立派なお方だが、これはまた分からないことをおっしゃるものです、農民は農業が生業です、農業の事に詳しければ他に恥ずべきことなど無いでしょう・・・お茶などは元々隠遁者の手すさびの技です、農民や町人などがする事ではございません、隠居された後ならばともかく、村長さんが茶の湯を習い始めれば村の人々もそれに倣って茶の湯を始めましょう、そうして農事を怠ればどうなりますかな、田畑はことごとく不作になってしまいます、村長が茶の湯など知らないからこそ、村人は一心に畑を耕し作物を収穫するのです・・・・百人が畑を耕して、五十人が遊んで暮らせばその国は必ず飢饉となりましょう、百人が畑を耕し十人が遊ぶなら国は豊かになるのです」
そう言われて権兵衛も大変感心し、茶の湯を学ぶのを止めたという。
江戸の随筆の白眉として有名な「雲萍雑誌」その筆者は江戸時代中期の南画家、柳沢淇園とされていた時代もあった様ですが、現在はそうではないという説が有力らしいです。
滝沢馬琴の「兎園小説」のような奇談は少ないですが、教訓的な趣のあるお話が多くなかなか面白いです。
なお、雲萍雑誌の各話には題名がないのですが、内容から「百姓と茶の湯」としました。
茶道の心得の無い人が、茶会に招待されて困惑する話は、落語「茶の湯」などにもありますね。
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