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第八十八話 「無根の罵言たちまち身命を損ず」
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新著聞集 神谷養勇軒編 寛延二(1749)年
第八 侫奸篇 「無根の罵言たちまち身命を損ず」より
江戸は下谷でのこと、ある浪人が道端の溝に向かって小便をしていると、その後ろを二人の侍が通りかかった。
江戸勤番と思われるその二人の武士が浪人とすれ違うときに、一人の武士の刀の鞘の先がカチリと浪人の刀に当たった。
なにか隣の武士と話をしていた勤番者の武士は、その事に気付かずにそのまま通り過ぎて行ってしまった。
武士同士で刀を当てるというのは、鞘当てといって相手を大変侮辱し、愚弄する行為である。
あるいは相手を挑発する行為でもある。
小便をしていた浪人は、通りすがりの侍の刀の鞘が自分の刀に当たったのに気づいたが、
・・・あの侍は見知らぬ人であるから偶然であろう、なにか遺恨があっての事でもあるまい・・・・
そう思って、知らぬ振りをしようとも思ったが、自分の納得の為に念のため聞き合せることとした。
浪人は、侍二人の後から走って追いつき、さきほど鞘を当てた侍に声をかける。
「突然失礼つかまりつます、先ほど往来で通り過ぎた節、拙者の刀に貴殿の刀が当たったのでございますが、これは何か趣意があってのことでございますか・・いや、偶然当たってお気づきにならなかったものとは存じておりますが、念のためにお聞きしたのでございます」
勤番者の侍は、浪人の言う通り全く気付かずに鞘を当ててしまっただけだったので、浪人に呼び止められて丁寧に詫びを入れる。
「それは大変不調法な事をいたしまして大変失礼つかまつりました、何分気付かずに当たってしまったものでございますので、平にご容赦くだされ」
そういって慇懃に頭を下げた。
「いや、それだけお聞きしましたら何も遺恨はござらん、ご通行のところ呼び止めまして大変失礼申しました、それでは・・・・」
浪人も丁寧に礼を述べてその場を分かれた。
侍が、先を歩いていた同僚に早足で追いつくと、同僚の侍が聞く。
「・・・今の浪人者は一体なにを言ってきたのだ」
「先ほどすれ違う時に拙者の刀が浪人の刀に当たったそうでな・・・いや、拙者も気づかなかったのだが・・・」
「それでお主、どうしたのじゃ」
「いや、どうするも何もない・・・こちらが知らずにしたことだ、浪人に詫びを入れてそれで終わりだ」
それを聞いた連れの侍は、馬鹿にしたように笑って言った。
「お主はなんという腰抜けじゃ!そんな浪人者、なぜぞの場で切り捨てにしなかったのだ、無礼ではないか浪人者の分際で・・・・」
そう言われた侍はちょっとムッとした顔で反論する。
「・・・・一面識もない者同士だ、たまたま鞘が当たったくらいでどうしてそんな馬鹿な真似ができようか!拙者の落ち度だったので詫びをしただけの話だ」
「いや、浪人にそんな言いがかりをつけられて頭を下げるなどは、お主はとんでもない腰抜けじゃ!」
「なに?そんな下らないことで刀を抜く者のほうが弱虫のたわけ者ではないか!」
「なんだと!たわけとはなんじゃ、刀も抜けない腰抜けが!」
「なにを!腰抜けはお前だ!・・・・もう堪忍ならぬ」
二人の侍は、とうとう口論から罵り合いを始め、ついには往来で互いに刀を抜いて斬り合いを始めた。
刀同士が当たり火花が散り、互いに数か所に疵を負ったが、それでも果し合いを止めない。
周囲の町人たちは悲鳴を上げて逃げ始め、周囲は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
後から歩いていた浪人が、その往来の騒ぎを聞きつけて走り寄ると、先ほどの侍が血だらけになりながら、血刀にすがりついているではないか。
「こ、これは一体・・・どうなされたのじゃ・・・」
出血で青ざめた顔を上げて、侍が浪人を見る。
「・・・あぁ・・・これは先ほどのご浪人・・・・」
侍は、事の顛末を浪人に話し、相手の同輩の侍はそのまま逃げたと伝えた。
「こんな事になろうとは・・・・承知した、拙者から起こったことだ、助太刀をいたす・・・・」
浪人は、そう言うと走り出し、侍と斬り合った同輩を追い、後ろから声をかけると一刀のものに切り伏せた。
浪人は討ち取った同輩の男の血の滴る首を下げて、先ほどの侍の所に戻ると、首を見せて言った。
「これを見なされ・・・討ち取りましたぞ」
血だらけの侍は、その浪人の助太刀に大変感謝し何度も礼を言った、そして姿勢を正して浪人に向かって言った。
「この喧嘩の始末、拙者がその相手であるから、この場で切腹して責任を取りましょう・・・」
浪人は、それを聞いて押し止める。
「卒爾なさるな・・・この大元は拙者から起こった事でござる、切腹して責任をとるならば、それは拙者がすること」
「そのお言葉かたじけない・・・・しかし藩の同輩とこのような事になった以上、拙者も切腹するのは当然・・・・」
「それでは、互いに差し違えることといたそう・・・」
浪人と侍が差し違えようとしていると、周りで見ていた町人が慌てて割って入り、二人を押し止めた。
その後、この事件は奉行所に持ち込まれお裁きを待つことになったが、奉行は、これは喧嘩ではない、罵言を吐いて討たれた男は乱心したものであろう・・・乱心者を斬ったとて罪にはならぬとして、相手の侍と浪人を無罪としたという。
第八 侫奸篇 「無根の罵言たちまち身命を損ず」より
江戸は下谷でのこと、ある浪人が道端の溝に向かって小便をしていると、その後ろを二人の侍が通りかかった。
江戸勤番と思われるその二人の武士が浪人とすれ違うときに、一人の武士の刀の鞘の先がカチリと浪人の刀に当たった。
なにか隣の武士と話をしていた勤番者の武士は、その事に気付かずにそのまま通り過ぎて行ってしまった。
武士同士で刀を当てるというのは、鞘当てといって相手を大変侮辱し、愚弄する行為である。
あるいは相手を挑発する行為でもある。
小便をしていた浪人は、通りすがりの侍の刀の鞘が自分の刀に当たったのに気づいたが、
・・・あの侍は見知らぬ人であるから偶然であろう、なにか遺恨があっての事でもあるまい・・・・
そう思って、知らぬ振りをしようとも思ったが、自分の納得の為に念のため聞き合せることとした。
浪人は、侍二人の後から走って追いつき、さきほど鞘を当てた侍に声をかける。
「突然失礼つかまりつます、先ほど往来で通り過ぎた節、拙者の刀に貴殿の刀が当たったのでございますが、これは何か趣意があってのことでございますか・・いや、偶然当たってお気づきにならなかったものとは存じておりますが、念のためにお聞きしたのでございます」
勤番者の侍は、浪人の言う通り全く気付かずに鞘を当ててしまっただけだったので、浪人に呼び止められて丁寧に詫びを入れる。
「それは大変不調法な事をいたしまして大変失礼つかまつりました、何分気付かずに当たってしまったものでございますので、平にご容赦くだされ」
そういって慇懃に頭を下げた。
「いや、それだけお聞きしましたら何も遺恨はござらん、ご通行のところ呼び止めまして大変失礼申しました、それでは・・・・」
浪人も丁寧に礼を述べてその場を分かれた。
侍が、先を歩いていた同僚に早足で追いつくと、同僚の侍が聞く。
「・・・今の浪人者は一体なにを言ってきたのだ」
「先ほどすれ違う時に拙者の刀が浪人の刀に当たったそうでな・・・いや、拙者も気づかなかったのだが・・・」
「それでお主、どうしたのじゃ」
「いや、どうするも何もない・・・こちらが知らずにしたことだ、浪人に詫びを入れてそれで終わりだ」
それを聞いた連れの侍は、馬鹿にしたように笑って言った。
「お主はなんという腰抜けじゃ!そんな浪人者、なぜぞの場で切り捨てにしなかったのだ、無礼ではないか浪人者の分際で・・・・」
そう言われた侍はちょっとムッとした顔で反論する。
「・・・・一面識もない者同士だ、たまたま鞘が当たったくらいでどうしてそんな馬鹿な真似ができようか!拙者の落ち度だったので詫びをしただけの話だ」
「いや、浪人にそんな言いがかりをつけられて頭を下げるなどは、お主はとんでもない腰抜けじゃ!」
「なに?そんな下らないことで刀を抜く者のほうが弱虫のたわけ者ではないか!」
「なんだと!たわけとはなんじゃ、刀も抜けない腰抜けが!」
「なにを!腰抜けはお前だ!・・・・もう堪忍ならぬ」
二人の侍は、とうとう口論から罵り合いを始め、ついには往来で互いに刀を抜いて斬り合いを始めた。
刀同士が当たり火花が散り、互いに数か所に疵を負ったが、それでも果し合いを止めない。
周囲の町人たちは悲鳴を上げて逃げ始め、周囲は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
後から歩いていた浪人が、その往来の騒ぎを聞きつけて走り寄ると、先ほどの侍が血だらけになりながら、血刀にすがりついているではないか。
「こ、これは一体・・・どうなされたのじゃ・・・」
出血で青ざめた顔を上げて、侍が浪人を見る。
「・・・あぁ・・・これは先ほどのご浪人・・・・」
侍は、事の顛末を浪人に話し、相手の同輩の侍はそのまま逃げたと伝えた。
「こんな事になろうとは・・・・承知した、拙者から起こったことだ、助太刀をいたす・・・・」
浪人は、そう言うと走り出し、侍と斬り合った同輩を追い、後ろから声をかけると一刀のものに切り伏せた。
浪人は討ち取った同輩の男の血の滴る首を下げて、先ほどの侍の所に戻ると、首を見せて言った。
「これを見なされ・・・討ち取りましたぞ」
血だらけの侍は、その浪人の助太刀に大変感謝し何度も礼を言った、そして姿勢を正して浪人に向かって言った。
「この喧嘩の始末、拙者がその相手であるから、この場で切腹して責任を取りましょう・・・」
浪人は、それを聞いて押し止める。
「卒爾なさるな・・・この大元は拙者から起こった事でござる、切腹して責任をとるならば、それは拙者がすること」
「そのお言葉かたじけない・・・・しかし藩の同輩とこのような事になった以上、拙者も切腹するのは当然・・・・」
「それでは、互いに差し違えることといたそう・・・」
浪人と侍が差し違えようとしていると、周りで見ていた町人が慌てて割って入り、二人を押し止めた。
その後、この事件は奉行所に持ち込まれお裁きを待つことになったが、奉行は、これは喧嘩ではない、罵言を吐いて討たれた男は乱心したものであろう・・・乱心者を斬ったとて罪にはならぬとして、相手の侍と浪人を無罪としたという。
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