【短編エッセイ】 紙魚の海

糺ノ杜 胡瓜堂

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第九十四話 「熊野浦鯨突之事」(徳川吉宗の若い頃の話)

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 根岸鎮衛著「耳嚢」 巻之三


 「熊野浦鯨突之事」より


 紀州(現在の和歌山県)の熊野浦は鯨の名産地で、鯨が寄る浦として有名である。

 八代将軍、徳川吉宗公がまだ紀州藩主の頃、鯨漁の様子を見てみたいと仰せられたので、熊野浦の漁村にもその旨通達があった。
 ある日、吉宗公が領地の検分に出られた際、「本日湾に鯨が寄りましたので、鯨漁をご覧ください」と村から申し出があった。

 吉宗公は以前から見たいと思っていた鯨漁を見られるとあって大変ご機嫌で浜辺にお越しになった。

 浜から数百艘の漁船が幟を立てて一斉に沖へと漕ぎ出る。
 鯨に近づいた漁船から、一の銛、二の銛と次々と銛が放たれ、鯨を仕留めたという合図の軍配が上がる。

 「鯨を仕留めたぞ!」

 吉宗公の家来の者達からも歓声が上がる。
 
 次々と漁船が音頭を取りながら戻り始め、漁師の女房や子供達も駆け寄り、浜は興奮状態となる。
 浜辺に近付いた頃に、漁師の一人が海面に浮き沈みしている鯨を見て怪訝な顔をする。

 「・・・こ・・・これは鯨じゃないぞ・・・・」

 「・・・・古い漂流船だ!」

 鯨と思ったものは、沖に流された古船だったのである。

 藩主が観覧されている鯨漁でこれは取り返しのつかない失態である。

 漁師たちが真っ青な顔をしていると、浜の老村長が吉宗公の前にまかり出て説明する。

 「鯨が湾に入ったのを発見してからご連絡を差し上げたのでは、上様にお越しいただくまでに鯨は去って行ってしまいます、とても鯨漁の様子はご覧いただくことは出来ませんので、漁の様子を再現してご覧頂きました・・・本物の鯨漁も今の様子といささかも変わることはございません」

 そう吉宗公に申し上げた。

 吉宗公は大変喜んで村にご褒美を下された。
 この村長の咄嗟の機転は見事でした・・・・と紀州出身の老人が語った話である。


 あの「暴れん坊将軍」徳川吉宗が紀州藩主だった頃のお話です。
 著者の根岸鎮衛はそこまで言及していませんが、吉宗公も村の漁師達が「やらかした」のを分かっていたのではないでしょうかね。
 ただ、藩主の御前で「鯨かと思ったら古船でした・・・」となると、責任者が咎を被ることになるので、村長の話に合わせて、何も気づかない振りをしたのでは・・・そんな気がしました。








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