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正直お豊の幸福
しおりを挟む「・・・・仕事も思いの外早く片付いたし、まだ日も高い・・・少し遊んで帰ろうか」
数えで二十六と年の若い四郎左衛門はふと、ムラムラと娼婦を買って遊びたくなった。
江戸時代、幕府の旗本・御家人の俸給は米で支払われていた、しかし旗本や御家人が俸給として支給された米を現物でやり取りするのは大変な労力である。
また、既に貨幣経済が浸透していたその当時、俸給として米を貰ってもそれを換金しないと生活は出来ない。
そのため旗本達が俸給としてもらった米の受領を代理し、換金等を請け負っていたのが「札差」と呼ばれる業者達であった。
単なる米の受領、換金の代理業務から、後にはそれを担保に貸金業を行うようになり札差は裕福になっていった。
四郎左衛門もそんな札差の子息で、今日は旗本達から預かった手形の裏判も終え店に帰る途中だったのである。
懐も温かい四郎左衛門は、浅草前を通った時偶然目にした茶屋の女に引き付けられるようにして、茶屋へと入る。
女はお豊と言った。
当時、お上の公認の遊場と言えば吉原だが、それ以外にも旅籠や茶屋などでは酌婦という名目で秘かに娼婦を抱えており、その中でも下級な娼婦のことを「けころ」と呼んでいた。
いずれも、僅かな年季で店に抱えられている不幸な女性達だった。
お豊もそんな「けころ」の一人であった。
年は二十四、美人ではないが色の白い、丸顔の誠実そうな女であった。
四郎左衛門は店の二階へと上がると、お豊と一時の春を楽しんだ。
男が帰り、部屋の片づけを始めたお豊が、部屋の障子際に落ちていた鼻紙袋に気が付く。
・・・・あらっ、今のお客さんの落とし物・・・・。
お豊が、下駄をつっかけ慌てて階段を降りて、今の客を探すが既にその姿は見えなかった。
もう一度二階へ戻り、客の落としていった鼻紙袋の中身を改めると、印鑑や裏書の入った御切米手形等が入っている。
・・・・これは・・・さっきのお客さんも困るでしょう、これはそのままにはしておけない、どうにかして返さないと・・・。
お豊は、どうしていいものか思案に暮れたが、店の親方や同輩には深く隠して思い悩んだ。
特に茶店の主人は日頃からあくどい人間なのをお豊は知っているので、こんな事をうっかり話すとどうされるか分からない・・・横領されるか、強請りの材料に使われるか。
そんな事のあった二日後、顔見知りの車力の親方が店で茶を飲みながら遅い昼飯を食べていた。
「・・・・親方、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが・・・」
「・・・・なんだいお豊ちゃん、急に改まって・・・・」
「蔵前の辺りに伊勢屋とかいう札差の方はおりませんかねぇ・・・」
「う~ん、蔵前の伊勢屋と言われても何軒もあるからなぁ・・・・お豊さん、どうしてそんな事を聞くんだい?」
「・・・・じつは・・・・」
お豊は、他の者達に聞かれないように、小声で囁くように親方に落とし物の件を打ち明ける。
方々に出歩く職業ゆえ、親方に相談すればなんとか落とし主を探し出してくれるかもしれない、そう思ったからだ。
「・・・・・一昨日ここで落とし物?鼻紙袋かい!・・・いやぁよかった!実はある家からその落とし物を探すよう頼まれているんだ!お豊さん、お前さんが拾ってくれたのかい・・・その鼻紙袋を見せてくれないか?」
お豊は、ちょっと申し訳なさそうな顔をする。
「・・・・ごめんなさい、親方を疑うような了見はないんだけど・・・中身が中身だけに親方にも見せることは出来ないよ、親方、本当に申し訳ないんだけど、その頼んだ方に手紙を届けて欲しいんだけど・・・・」
「・・・・いや、お豊さんのいう事ももっともだ、引き受けた!俺が伊勢屋さんまで文を届けてやるから待ってな」
車力の親方も侠気のある者だったので、お豊の文の使いを喜んで引き受ける。
一方、四郎左衛門が裏判入りの手形や印鑑を紛失した伊勢屋では、上を下への大騒ぎとなっていた。
若いとはいえ、使いの帰りに娼婦を買って遊んでいた四郎左衛門は父親から厳しく叱られ、店としても奉行所へ申し出をすべきかどうか番頭一同が集まって相談をし、奉公人らは四郎左衛門の通った道筋を探しに歩いた。
母は日頃信心をしている神仏へ祈願し、下女達も近所の八卦見や占い師などに失せ物の在処を占ってもらいに行った。
家中が暗い顔をしていた。
お旗本から預かった御切米手形等を紛失したとなれば、当然にその弁償はしなければならない、それ以上に店の信用が大いに疵付くのは判り切ったことである。
あるいは信用を失った結果、今後この商売をしてゆくのに支障が出るかもしれない・・・・。
家中が嘆き悲しんている中、店の表で車力の親方の大きな声が響いた。
「伊勢屋さん、拾い主が見つかったよ!」
「ああっ、親方、本当かい!」
翌日、親方に案内させて四郎左衛門が茶店へと出向き、店の者にお豊を呼び出してもらう。
・・・間違いない、一昨日遊んだ娘だ・・・・。
二階の座敷に座った四郎左衛門に向かってお豊が嬉しそうに口を開く。
「日々、情を商う卑しい勤めの私ですが、先日いらっしゃったのはお前さんに違いありません、お顔を覚えております」
「お豊さん・・・とか言ったね、本当に有難う!・・・おかげで店の者全員が助かった・・・本当に有難う」
「あの、間違いは無いとは存じますが、念のために落とした鼻紙袋の柄や中身をおっしゃって頂けますか・・・・」
四郎左衛門が、全てを正確に答えたのを聞いた後、お豊は手文庫に入れていた鼻紙袋を四郎左衛門に渡した。
中身も全く紛失しておらず、そっくりそのままだった。
四郎左衛門はお豊の手を取って拝まんばかりに礼を言う。
その様子を陰でこっそり見ていた四郎左衛門の父親が、息子と入れ替わるように座敷に顔を出す。
父親も改めてお豊に丁寧に礼を述べる。
「お豊さんとおっしゃいますか・・・私はこの四郎左衛門の父でございます、この度は本当に有難うございました、改めてお礼を申し上げます」
お豊は、少し照れたようにうつ向く。
「・・・当然のことをしただけですから・・・・」
「お豊さん、この店の主人にもお会いしたいのですが・・・・呼んで頂けますかな」
それを聞いて、お豊は暗い顔をする。
「ここの主人は心根の良くない者でございます・・・今回の事も店の主人の耳には入れておりません。もしこんな事をここの主人が聞いたら、後々強請りがましい事も言ってくるかもしれません・・・主人にお会いするのは止めた方がよろしゅうございます・・・」
お豊は、伊勢屋がこの店の主人にも今回の事を話し、礼を述べるつもりなのだと思ったのだ。
それを聞いた四郎左衛門の父は、大きく笑う。
「いやいや、そういう事では有りませんのでな・・・どうかご主人をお呼びくだされ」
茶店の主人を無理に呼び出してもらい対面すると、四郎左衛門の父はかの主人に向かって言った。
「・・・・ご当家で抱えていらっしゃるお豊さんという女を、是非身請けさせてもらいたい」
綺麗な身なりをした分別盛りの壮年の男がこんな下級の茶店の娼婦を身請けしたいという・・・・その突然の申し出に、茶屋の主人も目をしばたたかせる。
「お豊をでございますか?・・・それは私共としても一向に構いませんが・・・」
「あのような勤めの女であれば、女衒にでも掛け合えばよろしいのかな・・・」
「いえいえ旦那様、お豊は女衒を通している者ではございません、在方から十四両ほどの給金で年季を抱えている者でございますから、その年季の分だけ頂戴出来ればすぐにお渡しいたしますよ」
「ああ、そうか・・・それは好都合だ、それではご主人にこの場でそれだけお渡しすればよいのかな」
「はい、左様でございます」
それでは・・・と伊勢屋が茶店の主人の目の前に置いたのは迷子札のような小判三百両だった。
真っ白い包みの下からキラキラとした山吹色が透けて見える、重そうな小判の五十両包みが六つ並べられる。
それを見た主人は、ひっくり返らんばかりに驚いた。
「・・・おっ、お前さん、さっ、三百両って・・・こんな大金・・・今申し上げた通りあの女の年季は十四両でこざいますよっ・・・」
「いや、ご主人・・・これでよいのだ・・・・ただし・・・・」
四郎左衛門の父が続ける。
「・・・ただし、ご主人に、この先お豊の親元その他へ一切関わりを持たない旨、証文を入れて頂きたい」
伊勢屋は年季の他に、今後お豊に一切関わりを持たないという手切れの証文を出させることを条件に三百両の大金を差し出したのである。
このような性根の良くない者に金を惜しむと、後々まで禍根を残すことになる・・・そう思っての豪商らしい金の使い方であった。
晴れて自由の身となったお豊に聞けば、彼女も相応の町人の娘であったが、流行り病でほとんど同時に両親と死に別れ、叔父なる者に引き取られたが、その叔父がまた良からぬ者で、借金のカタにここに売られてきたのだという。
伊勢屋は、聡明で正直なお豊を大変気に入り、引き取って四郎左衛門の嫁にしたという。
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