潮騒の前奏曲(プレリュード)

岡本海堡

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6.小さな願い事

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第六番 ロ短調 Assai非常に、大いに lento緩やかに

 夏の空は闇を呼び始めた。太陽は海に沈もうとしている。浜風は少し肌寒く感じるようになってきた。夏とは言え半袖のシャツ一枚は海辺では涼しい装いだ。ヒグラシの鳴き声もさっきより弱くなってきている。

 「響君は願い事ってある?」

 お互いの楽器についての話題が尽きたところで唐突な質問だった。
 「願い事?特に考えたことはないかな」
 「小説だと、よく余命宣告された人が最期の願いとか口にするじゃない?」
 「さっき、多発性硬化症は人によって違う症状が現れる自己免疫疾患の病気って教えたよね。私はどうしても指先の神経にノイズが発生しちゃうの。まだ日常生活には問題ないかもしれない程度でもチェロと共に生きられる時間はもうあと僅かなんだと思う」
 「それでね、私、指が動かなくなる前に自分の演奏を録音しておきたいの。録音しておければ私の生きた証が残せるかなって。デュ・プレの演奏を聴いたって言っても私は録音を聴いただけ。それでも、そこにデュ・プレがいるんだって思えるし、デュ・プレは私の心の中で何度も蘇ってくれる気がするの。だから私も録音を残せたらいいなって思っているの」

 自分の演奏を録音しておきたい。僕はそんなことに興味を持ったことはなかった。コンクールでただ目の前の相手を倒せればよいだけ。自分の力を誇示しただけ。勝ち誇りたいだけ。だからそう思うことは新鮮だった。
 もし僕が録音したいとすれば何の曲を選ぶだろうか。そう思ったので美海にこう尋ねた。
 「録音するとしたら何の曲を弾きたいの?」
 美海は迷わずこう答えた。

 「ドヴォルザークのチェロ協奏曲」

 「ドヴォルザークのチェロ協奏曲?」
 少し意外に思ったので聞き返してしまった。
 「デュ・プレといえばエルガーのチェロ協奏曲だって言われるくらいだからエルガーのチェロ協奏曲かと思った」
 僕が読んだクラシック名盤集でもデュ・プレについてはエルガーのチェロ協奏曲が紹介されているくらい名演奏と書かれていたからだ。
 エドガード・エルガー。イギリスの作曲家だ。ジャクリーヌ・デュ・プレもイギリス人。よくその土地の音楽はその土地で育った人間にしか本物は奏でられないだなんて言われてしまうが、それ以上にデュ・プレとエルガーのチェロ協奏曲はお互いのために存在しているとまで言われ、名演奏が残されている。
 それはさておき協奏曲を選ぶところには音楽家を目指す者としての一つの目標でもあるところとして共感できる部分はある。そしてそれは彼女の願いの強さが読み取れる。協奏曲とはその名の通りオーケストラとの共演が必要なのだ。
 「うん。たしかにデュ・プレと言えばエルガーだよね」
 美海は僕の問いかけに対して特別反論もせずに受け答えてきた。
 「でも私はドヴォルザークのチェロ協奏曲の方が好きなの」
 それは迷いもない確かな口調だった。
 「お父さんに毎晩おねだりした曲もドヴォルザークのチェロ協奏曲なんだ」
 「なんでだろうね。口ずさめるようなメロディが好きなのかな」
 おかしいかな?といった顔で小首を傾げながら彼女は笑った。
 「たしかにドヴォルザークってメロディ・メーカだよね。口ずさみやすいというか。別にデュ・プレ=エルガーのチェロ協奏曲だけではないわけじゃないし、好きな曲は人それぞれでいいと思うよ」
 ドヴォルザーク。チェコの作曲家。クラシックに詳しくない人でも交響曲9番『新世界』のメロディは耳にしたことがある人はいるんじゃないだろうか。2楽章においては『遠き山に日は落ちて』なんて歌詞をつけて日本人は歌ったりもするくらいだし。
 正直なところ僕はチェロの楽曲については知識として抑えておこうと思っただけだし、デュ・プレの演奏に深く耳を傾けたことがあるわけではない。
 美海は言葉に熱を帯びながら、
 「それとチェロ協奏曲はドヴォルザークがアメリカに渡った時に書かれた曲なのもあるのかな。ほら横須賀ってアメリカっぽくない。米軍基地あるし、ドブ板あるし」
 ドブ板というのはアメリカ海軍さんが飲みに繰り出すアメリカ風情が溢れた商店街だ。
 そんな例えをしてくる彼女がどれほどドヴォルザークのチェロ協奏曲が好きなのかが伝わってくる。
 「横須賀にアメリカ風土があるのかは他所と比べたことがないからわからないし、アメリカに行ったことはないからわからないけど多少は雰囲気があるのかもね。ただチェコが横須賀と同じかどうか言われるとそうじゃない気もするかな。ボヘミアの風土なんて知らないよ」
 僕はそう答えた。
 「たしかにそうかも。わたしもチェコのことはよくわからないや」
 えへへと彼女は笑う。
 僕もつられて口角が緩んでしまった。その土地の色ってなんだろうなって。住んでる人間にはわかるはずもないか。それが日常なんだから。
  
 「ドヴォルザークのチェロ協奏曲を録音するのが私の最期の願いなんだ」
 美海はもう一度そう言って、自分の話はもうおしまいとばかりにゆっくりと立ち上がった。
 スカートについた砂を払い終えると、両腕を後ろに組んで 
 「ねえ?響君もピアノを弾くのならば、そういうこと考えことないのかな?自分の演奏を残しておきたいって」
 僕の正面に立った彼女は真っ直ぐな瞳でみつめながら質問をしてきた。彼女の長い髪が浜風に揺れている。
 だけれど無言のままの僕の顔をみて答えを察してくれたのか
 「なんかごめんね。私の話ばかりして。でも、人とお話しするの久しぶりだったし、音楽やってる人と出会えたのもつい嬉しくて」
 「もう帰ろうか?」といった雰囲気を出した彼女は病院に向かってゆっくりと歩きだした。
 「いや、ありがとう。いろいろ話してくれて」
 僕はそう答えた。
 「またお見舞いにきてもいいかな?」
 病院に向かって歩き出している美海に向かって僕はとっさにそう美海に問いかけた。
 「うん。また待ってるね」
 帰り際に彼女の曇りがちな表情が少し明るく戻ったのが救いだった。

 海岸を振り返ると太陽は海に沈み終わり、街の灯りが半島の輪郭を作り出し始めていた。ヒグラシの鳴き声はもう聞こえない。
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