潮騒の前奏曲(プレリュード)

岡本海堡

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7.想いに差し込む一筋の光

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第七番 イ長調 Andantinoやや緩やかに

 闇に包まれていくような私の日常にほんの少しだけ光が差し込んだような一日だった。
 院内は消灯時間。私はベッドに腰掛け、窓の外の月を眺めながら夕方の出来事を思い返していた。
 あの夜、音楽室への突然の来訪者がクラスメイトだったなんて。
 (同じ街に住んでいればこんな偶然もあるのかな)
 心のなかでそう呟いた。
 突然目の前に現れて『サン・サーンスの白鳥』の伴奏するよなんて言い出して、ピアノの前に座って、倒れちゃって。
 私は看護婦さんを呼んだだけだけどすごく心配だった。ここは病院だから、いろいろな病を抱えて過ごしている人がいるのは分かっている。待合室ではぐったりした人たちを何人も見てきたからもう多少は見慣れてきたけれど、目の前で人が倒れるとやっぱりどうしていいか分からなかった。海岸公園で再開した時は、彼の無事を知ってほっとした。
 病名を聞かれるのには少しは慣れてきた。自分自身受け入れることが出来てきたのかもしれない。今まで、お見舞いにきてくれた人は親戚と学校の先生くらい。そして親友だけ。だから同級生に話すのには少しためらいもあったけど話をしてみてよかったと思う。 
 ただ、自分の願いを話すなんてことになるとは思わなかった。楽器を好きな人ならば少しは理解してもらえるかなって勝手に思えたからかな。

 「ドヴォルザークのチェロ協奏曲を録音するのが私の最期の願いなんだ」

 台詞を思い返すと少し恥ずかしくなってくる。
 私はたまらず病室の戸棚から一冊の本を取り手元のライトを点ける。
 『風のジャクリーヌ』
 デュ・プレの姉と弟が書いた本で本人の著作ではないけれど音楽以外のデュ・プレについて知ることができ、何度も読み返してしまう。
 デュ・プレのことはずっと好きだったけど、デュ・プレの音楽以外の一面について知ろうと思ったことはなかった。響君にデュ・プレの病名を知っているか質問したけれど、私もデュ・プレを知って暫くは難病に苦しんだ程度しか知らなかった。
 体調不良がずっと続いて、私の病名がデュ・プレと同じ多発性硬化症だと判明して、病気と闘ったデュ・プレのことを知りたくてこの本の存在を知った。新刊は手に入らなかったけど古本はインターネットで簡単に入手することが出来てよかった。
 何度も読み返してしまう文章がある。デュ・プレがドキュメンタリーで語った言葉らしい。

 『私は弾きたい曲はすべて弾き、尊敬する人びとと共演しました。そういう意味で、やり残したことはないのです。だから、ふり返って「あぁ、どうしてまだスタートもしていないのに、こんなことになってしまったの?」と悔しがらなくてもすむのです。私はすでに数年間、充実した音楽家の生活を経験しました。もちろん、もうチェロを弾くことができないのはとても悲しいのですが、教師として新しいキャリアに踏み出す心の準備は整っているのです。』

 私は、デュ・プレは本当にそう思えたのかなといつも考えてしまう。チェロが弾けなくなって、自分の音楽を失って、それでも強く生きようとして答えたインタビュー。自分の録音を聴くことはあったのかなとか、聴いたらどう思ったのかなとか、想いを馳せる。
 私とデュ・プレを同類にするのだなんておこがましいのはわかっている。でも、それでも、少しでもデュ・プレの気持ちに寄り添ってみたい。
 私も演奏を残せたら、こんな気持ちになれるのだろうか。
 私はまた窓の外を眺める。月は満月だった。目を閉じて耳を澄ませると波の音が聴こえてくる。
 響君との会話を反芻する。音楽だけが聴こえない症状だなんて、世の中には様々な体の不調に悩まされる人がいるのだなって思った。それなのに、私のチェロの音だけが聴こえたって言っていたっけ。彼が苦しんでいるのならば、私の演奏でも何か力になれたらいいなって思った。
 考えることに少し疲れたので、私は本をまた戸棚にしまってチェロを入れたケースを手に取った。
 私は病室のドアを開け今夜もまた音楽室に足を運ぶことにした。
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