お江戸物語 才蔵とお艶

一章 辻斬り

ニ話

「あの人遅いねぇ…」

“いわきや”を店じまいし、繕い物をしながら、才蔵の帰りを待つお艶。

お膳には夕飯が乗っていて布巾が掛かっている。


「魚屋の源さんが、烏賊いかのいい所を持って来てくれたのに……」


烏賊の煮付けが才蔵の好物なのだ。

今日はそれを“いわきや”のおすすめにし、客にも好評で全て売れ切れ。


だがお艶は、亭主の好物をちゃんと別に取り分けておいたのである。



その時、激しく戸が叩かれ、伸張り棒も外す勢いで才蔵が倒れ込んで来た。

肩が朱に染まって、土間に赤い滴しずくを落としている。


「お前さん！」

お艶の悲鳴が響き渡った。


真っ青になって、近所の棟梁に助けを求めたお艶の話に、直ちにそこの若い大工が使いに走り、医者を呼んだ。


引きずられるようにやって来たのは、長崎帰りの蘭方医で、幸いに外科も達者な杉浦と言う医者だった。


「フム、思ったより、酷くはないな。随分出血していると心配したが、雨に濡れたせいで多く見えたんだろう。薄皮一枚ってトコだ。…何があった？」手早く傷を焼酎で消毒し、縫いながら言った。


才蔵は痛みに途切れ途切れになりながらも医者の質問に答えた。「……多分……辻斬りで、しょう。さ、最近雨になると出てくるって……話。遂にこの辺まで……つっ！あ、足を伸ばしやがった……!」

「ああ、噂で聞いたぞ。しかし良く助かったな」


「あ、あっしが傘を前の方に差して……たんで刀の間合いが狂ったらしいんで。くっ！や、奴の踏み込み、が浅かった。とっさに火事だっ！って叫んでやった……んですよ……」

こう言った場合、人は“人殺し！”は怖れて家から出て来なくても“火事だ！”は、聞き逃せずに飛び出して来るものだからだ。


「で、ソイツは逃げたんだな？」

「…わらわらと人が覗いたり、飛び出して来たんで……」


亭主より青い顔で、治療を見守っている恋女房に何とか笑いかける。「……俺が助かったのは……コイツが無理矢理、傘を持たせてくれたおかげ、でさ……」


杉浦は傷を縫い終わり、真新しいサラシを巻いた。「神経にも損傷はないが、暫く痛むぞ。あまり無理はしない事だな」

熱が出た時の為にと薬を置いて帰って行った。