現実的な愛の妄想

タロウ

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フロントに呼ばれて、私は無意識に立ち上がった。
 化粧の崩れを鏡で確認し、口角を上げる。笑顔の形はもう身体に染みついていて、心が動かなくても作れるようになっている。
 「はい、行きます」
 スタッフに短く返して、廊下を歩く。足音はカツカツと響き、頭の中は空っぽだった。

 客の顔を見るまでは、何も考えない。考えても仕方ない。どうせ、また同じ繰り返しだから。
 ベッドに倒れ込む男。途中で疲れ切って眠る男。気持ちよさより料金の元を取ろうと必死な男。
 私に残るのは「ごめんね」と笑いながら引き上げる虚しさだけ。
 だから、期待なんてしない。

 扉をノックし、軽く息を吸い込んでから開ける。
 そこにいた男は、少し意外な雰囲気をしていた。

 年齢は四十代くらい。スーツ姿でもなく、ラフすぎる格好でもない。ホテルの照明に照らされた横顔は、どこか疲れているように見えた。
 普通なら、初対面の客は必要以上にニヤついたり、こちらを値踏みするように舐め回す視線を送ってくる。
 でも彼は、ただ静かにこちらを見た。視線に熱も、いやらしさもなかった。

 「どうぞ」
 低い声でそう言われ、私は一瞬だけ戸惑った。
 まるで、ここにいるのが当たり前ではないみたいに、距離を置いた声だったから。

 「失礼します」
 いつも通りの言葉を口にして、私は中に入った。
 カーテンの隙間から街の明かりが差し込んでいる。小綺麗に整えられた部屋なのに、空気が妙に静かだった。

 彼は座ったまま、こちらを観察するでもなく、俯くでもなく、ただ落ち着いた姿勢を崩さない。
 ――なんだろう、この感じ。
 客っていうより、誰かの部屋に遊びに来たみたいな、奇妙な距離感。

 私はいつもの笑顔を作った。
 「よろしくお願いします」
 言い慣れた台詞なのに、彼の目がふっと細くなる。笑ったわけでもないのに、拒絶でもないのに、不思議とこちらの呼吸が乱れる。

 バッグをソファに置き、手を洗うために洗面台に向かう。鏡越しにチラリと見える彼の姿は、やはり落ち着いていた。待っている客の多くはソワソワしたり、こちらの身体をじろじろと眺めたりするものだ。けれど彼は、姿勢を崩さず、視線を無理に向けてこない。

 「お仕事、お疲れさまです」
 唐突にかけられた言葉に、私は思わず振り向いた。
 「え?」
 「……いや、なんとなく。大変だろうなと思って」
 そう言って彼は視線を逸らした。

 仕事で労われるなんて、滅多にないことだ。
 “ありがとう”は言われても、“お疲れさま”なんて――。
 笑顔を貼り付け直しながら、心のどこかがざわつく。

 「お気遣いありがとうございます」
 マニュアル通りの返答をして、タオルを準備する。
 客の前で乱れるわけにはいかない。プロとして、役割を果たすだけだ。

 「シャワー、どうぞ」
 そう促すと、彼は頷き、静かに立ち上がった。
 歩き方も落ち着いている。慌てて服を脱ぐでもなく、緊張で動きがぎこちないでもなく。
 まるで、ここが非日常ではないかのような自然さ。

 浴室のドアが閉まる音を聞きながら、私はソファに腰を下ろした。
 ――なんなんだろう、あの人。
 特別イケメンってわけでもない。話が面白いわけでもない。
 でも、嫌悪感がなかった。
 それだけで、すでに“いつもと違う”と感じてしまう自分がいた。

 他の客なら、ここで「早くこいよ」「裸になれよ」と軽口を叩いてくる。
 あるいはシャワーもろくに浴びず、すぐにベッドに押し倒そうとする。
 それが日常だ。
 だからこそ、無言でシャワーに向かう姿に、私はかえって戸惑っていた。

 ――まあ、いい。
 どうせ、また同じだ。
 シャワーを終えれば、結局は求められる。
 私はそれに応えるだけ。

 浴室からシャワーの音が響き出す。
 その規則正しい水音を聞きながら、私は呼吸を整えた。
 どんな客でも、結末は一緒。
 ――そう思い込もうとしていた。
シャワーの音が止まり、ドアが開いた。
 湯気の中から出てきた彼は、タオルで髪を乱暴に拭いながら、こちらに目をやった。
 裸を見せつけるでもなく、必要以上に隠すでもなく、ただ淡々としている。
 私はいつもの笑顔を保ったまま、用意していたタオルを差し出した。

 「ありがとうございます」
 彼はそれを受け取って、短く言った。
 ――礼を言う客なんて、珍しい。
 大半は当然のように受け取るか、無言でひったくるかだ。

 「こちらにどうぞ」
 ベッドを手で示すと、彼は素直に腰を下ろした。
 私はオイルを手に取り、当たり障りのない会話を口にする。
 「今日はお仕事帰りですか?」
 「……まあ、そんなところです」
 曖昧な返事。でも、不思議と嫌味はない。むしろ、こちらの問いに気を遣っているようにも感じられた。

 オイルを塗り広げると、彼の肩がわずかに震えた。
 敏感なのかと思ったけれど、声を漏らすでもなく、表情を歪めるでもない。
 ただ、呼吸が少しだけ深くなった。
 ――反応が静かすぎる。
 そう思う一方で、妙に扱いやすい安心感があった。

 「強さはどうですか?」
 「ちょうどいいです」
 簡潔な答え。求めすぎず、拒みすぎず。
 このバランスが、かえって私を落ち着かせていた。

 オイルを広げながら、私はふと考える。
 なぜだろう、この人となら、焦らずに進められる気がする。
 “また同じ”だと諦めていたのに、どこかで“違うかもしれない”と予感している自分がいた。

 彼の呼吸は一定で、瞼を閉じている姿は眠っているようにも見える。
 けれど、時折こちらの動きを追うようにわずかに眉が動いた。
 ――ちゃんと感じてる。
 そう確信した瞬間、胸の奥に小さな熱が芽生えた。

 プロとして、私は流れをこなすだけ。
 だけど今夜は、その役割以上の何かが起こる気がしてならなかった。
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