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待機室に入った瞬間、むっとした空気が肌にまとわりつく。
冷房は効いているはずなのに、汗と化粧とタバコの匂いが混ざり合って、どこか粘ついた臭気になって漂っている。ソファは色あせ、カーテンは煙に燻されて薄茶色に染まっていた。
ソファに沈み込んでいる嬢たちは、口々に笑っている。だけど笑い声には芯がない。
「昨日の客、やばかったよ。腕が痺れるかと思った」
「私なんて、二日連続でロング入れられて……生理前なのに」
聞いてもいないのに飛び込んでくる愚痴は、ここでは日常のBGMみたいなものだった。
誰も止めない。誰も慰めない。ただ「分かる」と頷いて、それぞれのスマホを見つめている。
テーブルにはペットボトルの栄養ドリンクと鎮痛剤のシートが散らかっていた。
腰をさすりながら笑う子もいれば、脚を投げ出して寝たふりをしている子もいる。
客には「お姫様」のように笑顔を見せる彼女たちも、ここではただの疲れ切った女だ。
化粧直しのために鏡の前に立つと、自分の顔がやけに老けて見えた。ファンデーションで隠したはずの隈は浮かび上がり、口角は重力に逆らえずに落ちている。
アイライナーを引き直し、口紅を重ねる。――仕事用の顔を、もう一度作る。
ノルマがある。
出勤日数、指名本数、オプションの売上。
何もかも数字に換算されて、私たちの価値は決まる。
客を満足させられなければ「次は呼ばれない」。呼ばれなければ稼げない。稼げなければ「やる気がない」と責められる。
給料明細を見ても、そこから引かれる雑費や罰金で、残る額は見かけほど多くはない。
――それでも、私はここにいる。
普通の仕事では得られない金額を、短時間で稼げる。
それに、「必要とされる」感覚をまだ味わえる。
――そう思いたいのに、最近は「必要とされる」より「消耗される」感覚の方が強い。
「ねえ聞いてよ」
隣の嬢が小声で言った。
「昨日の客に、“お前みたいな仕事してる女は結婚できないだろ”って笑われたの」
彼女は冗談みたいに笑ったけど、声の奥は震えていた。
「分かってるよ、こっちだって。でもさ、仕事中に言われると、やっぱ刺さる」
私は頷くしかなかった。そんなこと、私だって何度も言われてきたから。
待機室は、仲間であり、ライバルでもある女たちの集まりだ。
励まし合いもするし、傷の舐め合いもする。
だけど結局は、自分の枠を守るために他人を蹴落とさなきゃいけない場でもある。
笑いながら愚痴を言い合っていても、内心では「次の指名は自分に回ってきて」と祈っている。
そんな場所で、私は息を殺して座っていた。
客は選べない。
優しい人もいれば、こちらを物のように扱う人もいる。
「金払ってるんだから、当然だろ」
そんな目で見られるたびに、自分の価値が値札一枚に換算される気がする。
だけど、ここでしか稼げない。ここでしか“女としての役割”を全うできない。
その矛盾が、日々じわじわと私を蝕んでいく。
ふと、過去の恋人の顔が浮かんだ。
私が“普通に欲しがる”だけで、困ったように眉を寄せていた男たち。
「お前、ちょっと異常なんじゃないか」
笑いながら言われたその言葉は、今でも胸の奥で錆びついて残っている。
――だから私は、普通の恋愛を諦めた。
ここなら、客なら、お金を払う相手なら、私を拒まない。
そう信じて、この世界に足を踏み入れた。
だけど現実は違った。
私は満たされるどころか、ますます孤独を深めている。
仕事を終えても渇きは消えない。
むしろ、心も身体もすり減って、空っぽになる一方だった。
ふいに、フロントの呼び出し音が鳴った。
「○○さん、次のお客様です」
スタッフの声に、私は立ち上がる。
スカートの裾を直し、化粧の崩れを確認する。
心は何も動かない。ただ、また次の男が来た、それだけ。
“また同じことを繰り返すだけ”。
私は、足を前に運んだ。
それが、いつもの夜のはじまりだった。
冷房は効いているはずなのに、汗と化粧とタバコの匂いが混ざり合って、どこか粘ついた臭気になって漂っている。ソファは色あせ、カーテンは煙に燻されて薄茶色に染まっていた。
ソファに沈み込んでいる嬢たちは、口々に笑っている。だけど笑い声には芯がない。
「昨日の客、やばかったよ。腕が痺れるかと思った」
「私なんて、二日連続でロング入れられて……生理前なのに」
聞いてもいないのに飛び込んでくる愚痴は、ここでは日常のBGMみたいなものだった。
誰も止めない。誰も慰めない。ただ「分かる」と頷いて、それぞれのスマホを見つめている。
テーブルにはペットボトルの栄養ドリンクと鎮痛剤のシートが散らかっていた。
腰をさすりながら笑う子もいれば、脚を投げ出して寝たふりをしている子もいる。
客には「お姫様」のように笑顔を見せる彼女たちも、ここではただの疲れ切った女だ。
化粧直しのために鏡の前に立つと、自分の顔がやけに老けて見えた。ファンデーションで隠したはずの隈は浮かび上がり、口角は重力に逆らえずに落ちている。
アイライナーを引き直し、口紅を重ねる。――仕事用の顔を、もう一度作る。
ノルマがある。
出勤日数、指名本数、オプションの売上。
何もかも数字に換算されて、私たちの価値は決まる。
客を満足させられなければ「次は呼ばれない」。呼ばれなければ稼げない。稼げなければ「やる気がない」と責められる。
給料明細を見ても、そこから引かれる雑費や罰金で、残る額は見かけほど多くはない。
――それでも、私はここにいる。
普通の仕事では得られない金額を、短時間で稼げる。
それに、「必要とされる」感覚をまだ味わえる。
――そう思いたいのに、最近は「必要とされる」より「消耗される」感覚の方が強い。
「ねえ聞いてよ」
隣の嬢が小声で言った。
「昨日の客に、“お前みたいな仕事してる女は結婚できないだろ”って笑われたの」
彼女は冗談みたいに笑ったけど、声の奥は震えていた。
「分かってるよ、こっちだって。でもさ、仕事中に言われると、やっぱ刺さる」
私は頷くしかなかった。そんなこと、私だって何度も言われてきたから。
待機室は、仲間であり、ライバルでもある女たちの集まりだ。
励まし合いもするし、傷の舐め合いもする。
だけど結局は、自分の枠を守るために他人を蹴落とさなきゃいけない場でもある。
笑いながら愚痴を言い合っていても、内心では「次の指名は自分に回ってきて」と祈っている。
そんな場所で、私は息を殺して座っていた。
客は選べない。
優しい人もいれば、こちらを物のように扱う人もいる。
「金払ってるんだから、当然だろ」
そんな目で見られるたびに、自分の価値が値札一枚に換算される気がする。
だけど、ここでしか稼げない。ここでしか“女としての役割”を全うできない。
その矛盾が、日々じわじわと私を蝕んでいく。
ふと、過去の恋人の顔が浮かんだ。
私が“普通に欲しがる”だけで、困ったように眉を寄せていた男たち。
「お前、ちょっと異常なんじゃないか」
笑いながら言われたその言葉は、今でも胸の奥で錆びついて残っている。
――だから私は、普通の恋愛を諦めた。
ここなら、客なら、お金を払う相手なら、私を拒まない。
そう信じて、この世界に足を踏み入れた。
だけど現実は違った。
私は満たされるどころか、ますます孤独を深めている。
仕事を終えても渇きは消えない。
むしろ、心も身体もすり減って、空っぽになる一方だった。
ふいに、フロントの呼び出し音が鳴った。
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