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インターホンが鳴ったとき、私は「またいつもの」と思っていた。
扉を開けて、呼吸が止まる。
――あの人だ。
ホテルの薄い灯りの下、前回は“客”だった男が、今日はセラピストの制服で立っている。彼も一瞬だけ固まった。けれど、すぐに仕事の顔に戻る。
「本日は、よろしくお願いします」
「……はい。よろしくお願いします」
声は滑らかに出た。心だけが嵐だった。
いつも通りに説明し、シャワーを促す。彼は短く会釈して、静かにバスルームへ消える。
扉が閉まる音のあと、私は拳を握って深呼吸した。
――仕事。これは、ただの仕事。
戻ってきた彼は、空気を濁さない距離で向かい合った。
手袋を広げる音まで静かで、こちらの体面を守る所作が一つずつ積み上がっていく。
「体勢、無理のない範囲で仰向けから。呼吸に合わせます」
女性向けのリードは、乱さないための合図から始まる。
胸元にタオルを掛けられ、肩に温かな掌が触れる。押し込まず、逃がしすぎず、ただ“そこにいる”触れ方。
言葉より先に、神経のほつれが解けていく。
「息、ひとつ長めに」
促されるままに吐くと、彼の手が私の呼吸を追って、鎖骨の下をすべっていく。
軽い。けれど、逃げ場がない。
いつもなら「早く次へ」と思うところで、私はもう“待てなく”なっていた。
「強さ、ここは?」
「……大丈夫」
「少しだけ薄くします。境目をなぞるので、嫌なら合図を」
境目。皮膚と意識の、わずかな段差を撫でる。
指先がそこで止まり、円を描き、離れて、また戻る。
浅い波が立つ。声が出そうになる。噛み殺す。
もう一周。次は、同じ場所ではなく、半周分ずらして。
そのずらし方が、私の「もっと」の手前で必ず止まる。
焦らされている。
でも、嫌じゃない。悔しいほど、心地よい。
彼は合間に水を一口すすめ、タオルの位置を直し、私が体勢を崩さないよう枕の角度を僅かに変える。
“こちらを乱れさせないための気遣い”が、容赦なく欲を煽ってくる。
足先まで温められ、腿の内側へ触れが入るころには、私は息の仕方を忘れていた。
細い電流みたいな快感が、浅く、しかし断続的に襲ってくる。
ひとつ、ふたつ――数えかけて、やめる。すぐに次が来るから。
「ここは?」
「……ん、そこ……」
「少し角度、変えます」
言葉と同時に、触れ方が刃先のように細くなる。切られたみたいに甘い痛みが走って、私は片手でシーツを握った。
浅い絶頂が重なる。
波の頂が高くない分だけ、間が短い。
押し寄せるたび、胸の奥がほどけて、また結ばれ、またほどける。
普段は二度あるかどうかなのに、今夜は途中で数えるのを諦めた。
「苦しくない?」
「……大丈夫。つづけて」
自分から言ってしまった言葉に、私は一瞬だけ我に返る。
プロだったはずの私が、求めている。
けれど、止められない。止めたくない。
彼は決して荒らさない。
境目、温度差、呼吸――その三つを揃えるたび、浅い波がすぐそこまで立ち上がる。
そのたび、彼はわずかに退く。落とさず、逸らさず、“繋いだまま”退く。
波は壊れず、次の波にすぐ重なる。
甘さだけが積み重なるうちに、涙腺が熱くなるのを自分で笑う。情けない。なのに、どうしようもない。
時間が長い。
女風はそういうものだと知っていたけれど、私の知っていた“長さ”とは違った。
引き延ばされる退屈ではなく、余白が増えるたびに敏感になる長さ。
触れていない瞬間ですら、触れられているみたいに感じる。
深いところは、まだ遠い。
でも、遠いことが今は怖くない。
届かない位置に“連れていかれている”実感が、かつてないほど安心だった。
壁の時計を見ないようにしていた。
それでも、終わりは来る。
いつもの準備の音が、少しだけ遠くで鳴る。
――やだ。まだ。
心が先に抗った。体は、素直に従うしかないのに。
「そろそろクールダウンに移します」
告げる声は落ち着いている。私は掠れた声で「うん」とだけ返した。
触れ方が柔らぎ、熱が散らされていく。
さっきまでの波は小さくなり、代わりに妙な名残が全身に残る。
足の指先まで、甘さの細片が沈んでいくような感覚。
水を受け取って口に含む。震えた。
彼は目を合わせない。合わせない礼儀。
その礼儀が、今はつらい。視線が欲しくなる自分が、もっとつらい。
「本日は以上です。お体、起こすのゆっくりで」
「……ありがとう」
言い終えて、自分の声がやけに低く聞こえた。
身支度のあいだ、会話は最小限。
タオルを畳む音、ボトルを閉める音、紙袋が擦れる音。
すべてが仕事の音で、すべてが気配のやさしい音だった。
玄関まで見送る。
ここで終わり。
わかっている。ここから先は、絶対に踏み越えてはいけない線だ。
それでも、足が止まらなかった。
「あの……」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
彼は立ち止まり、振り返る。表情は揺れない。けれど、喉がひとつ上下した。
「なにか、気になる点があれば、店にフィードバックを」
完璧な答え。プロとしての、正解。
私は首を横に振った。
鼓動が速い。背徳感が血の味になって舌に浮かぶ。
「違うの。……その、もし、よかったら」
言い切れない。言い切らないのが、かろうじて残った理性。
彼は短い沈黙の中で、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
迷っている。分かった。
分かったうえで、それでも私は退けなかった。
「……誰にも言わないでください」
低い声。
彼は身じろぎもせず、ポケットから名刺サイズのカードを取り出した。
店の連絡用に見せかけた、個人のコードが一行、印字されている。
ありえない。やってはいけない。
受け取った指先が、熱い。
「規約違反です。……本来は」
「分かってる。……分かってるけど」
言い訳はしない。できない。
けれど、今夜みたいな感覚は、私の二十代も三十代もどこにもなかった。
彼は扉に手をかけ、最後に言った。
「さっきのは、こちらの都合で切りました。……続きは、たぶん」
言葉をそこで切り、会釈して出ていく。
“たぶん”のあとを、私は勝手に補ってしまう。
扉が閉まる。
私はカードをテーブルに置いて、両手で顔を覆った。
だめだ。やっちゃいけない。
でも、胸の奥で小さく灯った火が、息をしている。
甘い波の残り香が、まだ脈を打っている。
ここまでずっと、私は“深く”いこうとして、届かなかった。
今夜は“浅い”のに、終わらない。
数えられないほど重なった甘さが、深さよりも重く、長く、私の中に沈んでいる。
通知のないスマホを、私は裏返した。
今はしない。今は、しない。
そう決めたはずの手が、いつでも動ける位置にあることを、情けなく思いながら。
――この感覚はレアだ。
そして、たぶん私も、彼も、そのことをもう知ってしまった。
扉を開けて、呼吸が止まる。
――あの人だ。
ホテルの薄い灯りの下、前回は“客”だった男が、今日はセラピストの制服で立っている。彼も一瞬だけ固まった。けれど、すぐに仕事の顔に戻る。
「本日は、よろしくお願いします」
「……はい。よろしくお願いします」
声は滑らかに出た。心だけが嵐だった。
いつも通りに説明し、シャワーを促す。彼は短く会釈して、静かにバスルームへ消える。
扉が閉まる音のあと、私は拳を握って深呼吸した。
――仕事。これは、ただの仕事。
戻ってきた彼は、空気を濁さない距離で向かい合った。
手袋を広げる音まで静かで、こちらの体面を守る所作が一つずつ積み上がっていく。
「体勢、無理のない範囲で仰向けから。呼吸に合わせます」
女性向けのリードは、乱さないための合図から始まる。
胸元にタオルを掛けられ、肩に温かな掌が触れる。押し込まず、逃がしすぎず、ただ“そこにいる”触れ方。
言葉より先に、神経のほつれが解けていく。
「息、ひとつ長めに」
促されるままに吐くと、彼の手が私の呼吸を追って、鎖骨の下をすべっていく。
軽い。けれど、逃げ場がない。
いつもなら「早く次へ」と思うところで、私はもう“待てなく”なっていた。
「強さ、ここは?」
「……大丈夫」
「少しだけ薄くします。境目をなぞるので、嫌なら合図を」
境目。皮膚と意識の、わずかな段差を撫でる。
指先がそこで止まり、円を描き、離れて、また戻る。
浅い波が立つ。声が出そうになる。噛み殺す。
もう一周。次は、同じ場所ではなく、半周分ずらして。
そのずらし方が、私の「もっと」の手前で必ず止まる。
焦らされている。
でも、嫌じゃない。悔しいほど、心地よい。
彼は合間に水を一口すすめ、タオルの位置を直し、私が体勢を崩さないよう枕の角度を僅かに変える。
“こちらを乱れさせないための気遣い”が、容赦なく欲を煽ってくる。
足先まで温められ、腿の内側へ触れが入るころには、私は息の仕方を忘れていた。
細い電流みたいな快感が、浅く、しかし断続的に襲ってくる。
ひとつ、ふたつ――数えかけて、やめる。すぐに次が来るから。
「ここは?」
「……ん、そこ……」
「少し角度、変えます」
言葉と同時に、触れ方が刃先のように細くなる。切られたみたいに甘い痛みが走って、私は片手でシーツを握った。
浅い絶頂が重なる。
波の頂が高くない分だけ、間が短い。
押し寄せるたび、胸の奥がほどけて、また結ばれ、またほどける。
普段は二度あるかどうかなのに、今夜は途中で数えるのを諦めた。
「苦しくない?」
「……大丈夫。つづけて」
自分から言ってしまった言葉に、私は一瞬だけ我に返る。
プロだったはずの私が、求めている。
けれど、止められない。止めたくない。
彼は決して荒らさない。
境目、温度差、呼吸――その三つを揃えるたび、浅い波がすぐそこまで立ち上がる。
そのたび、彼はわずかに退く。落とさず、逸らさず、“繋いだまま”退く。
波は壊れず、次の波にすぐ重なる。
甘さだけが積み重なるうちに、涙腺が熱くなるのを自分で笑う。情けない。なのに、どうしようもない。
時間が長い。
女風はそういうものだと知っていたけれど、私の知っていた“長さ”とは違った。
引き延ばされる退屈ではなく、余白が増えるたびに敏感になる長さ。
触れていない瞬間ですら、触れられているみたいに感じる。
深いところは、まだ遠い。
でも、遠いことが今は怖くない。
届かない位置に“連れていかれている”実感が、かつてないほど安心だった。
壁の時計を見ないようにしていた。
それでも、終わりは来る。
いつもの準備の音が、少しだけ遠くで鳴る。
――やだ。まだ。
心が先に抗った。体は、素直に従うしかないのに。
「そろそろクールダウンに移します」
告げる声は落ち着いている。私は掠れた声で「うん」とだけ返した。
触れ方が柔らぎ、熱が散らされていく。
さっきまでの波は小さくなり、代わりに妙な名残が全身に残る。
足の指先まで、甘さの細片が沈んでいくような感覚。
水を受け取って口に含む。震えた。
彼は目を合わせない。合わせない礼儀。
その礼儀が、今はつらい。視線が欲しくなる自分が、もっとつらい。
「本日は以上です。お体、起こすのゆっくりで」
「……ありがとう」
言い終えて、自分の声がやけに低く聞こえた。
身支度のあいだ、会話は最小限。
タオルを畳む音、ボトルを閉める音、紙袋が擦れる音。
すべてが仕事の音で、すべてが気配のやさしい音だった。
玄関まで見送る。
ここで終わり。
わかっている。ここから先は、絶対に踏み越えてはいけない線だ。
それでも、足が止まらなかった。
「あの……」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
彼は立ち止まり、振り返る。表情は揺れない。けれど、喉がひとつ上下した。
「なにか、気になる点があれば、店にフィードバックを」
完璧な答え。プロとしての、正解。
私は首を横に振った。
鼓動が速い。背徳感が血の味になって舌に浮かぶ。
「違うの。……その、もし、よかったら」
言い切れない。言い切らないのが、かろうじて残った理性。
彼は短い沈黙の中で、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
迷っている。分かった。
分かったうえで、それでも私は退けなかった。
「……誰にも言わないでください」
低い声。
彼は身じろぎもせず、ポケットから名刺サイズのカードを取り出した。
店の連絡用に見せかけた、個人のコードが一行、印字されている。
ありえない。やってはいけない。
受け取った指先が、熱い。
「規約違反です。……本来は」
「分かってる。……分かってるけど」
言い訳はしない。できない。
けれど、今夜みたいな感覚は、私の二十代も三十代もどこにもなかった。
彼は扉に手をかけ、最後に言った。
「さっきのは、こちらの都合で切りました。……続きは、たぶん」
言葉をそこで切り、会釈して出ていく。
“たぶん”のあとを、私は勝手に補ってしまう。
扉が閉まる。
私はカードをテーブルに置いて、両手で顔を覆った。
だめだ。やっちゃいけない。
でも、胸の奥で小さく灯った火が、息をしている。
甘い波の残り香が、まだ脈を打っている。
ここまでずっと、私は“深く”いこうとして、届かなかった。
今夜は“浅い”のに、終わらない。
数えられないほど重なった甘さが、深さよりも重く、長く、私の中に沈んでいる。
通知のないスマホを、私は裏返した。
今はしない。今は、しない。
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