母がだんだん消えていく

あおみなみ

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青いソファとコイバナ

 2022年8月第2週の某日、母は自宅寝室で低血糖を起こし、たまたま訪ねてきたケアマネジャーさんの手配により、病院に緊急搬送された。

 もともと母は夏の暑さに弱く、コンディションを崩しがちだったが、特に顕著になったのは、やはりこの緊急搬送以降だと思う。

 食欲がないといって食べようとしない。
 そして悪くしたことに、その状態で糖尿のかかりつけ医に診せると、「血圧も血糖値も大分下がりましたね」などと褒められたり?する。

 しかし食べないと薬も飲めないので、体調自体はいいわけではない。だるいだるいと言って午前中はずっとベッドにいて、お昼過ぎに冷蔵庫を漁り、食べられそうなものを食べるが、8月後半は、それすらする元気がないということが多かった。

◇◇◇

 2022年10月始まりの「2023年手帳」を買ったので、整理のために現行品の手帳をチェックしていて、あることに気づいた。
 8月第3週某日、私の手帳には書いてあるが母の手帳には書いていない、しかし母に絡む予定があった。

「14時 H地区包括支援センター」

 私はこの日、母の担当のケアマネさんと面談の約束をしていた。
 母の目があるところではしづらい話をざっくばらんに聞かせてほしいという意図があったようだ。
 去年(2021年)までの、いまいち認識の甘い私だったら、「適当に無難にやり過ごそう」と思っていたろうが、このときは自分自身の不安までも打ち明けることができ、建設的なご提案もいろいろといただいた。

 1時間ほどの面談の後、とりあえず私がやるしかないよなあ…などとぼんやり考えつつ自転車を走らせていると、スマホが鳴った。母からだった。

『もしもし、今大丈夫?』
「あ、うん。どした?」
『何かおいしいもの食べたくて。買ってきてほしいなって』
「お菓子とか?」
『そうだね。お昼はデイで食べてきたから』

 その日は週2回のデイサービスの日で、午前中に入浴するので、朝ちゃんと起きて、ご飯を食べて、薬を飲まなければならない。つまり、その日はそれが「できた」ということだろう。

「和菓子、洋菓子?どっちがいい?」
『どっちもいいなあ。あんたに任せる。あと炭酸水飲みたい』
「分かった。今K町あたりにいるから、ベニマル(スーパー)に寄ってすぐ行けるよ」
『ほんと?待ってるよ』

 糖尿の人にあるまじきリクエストだが、母が意欲的にあれが欲しい、これが食べたいと言うのがうれしくて仕方なかった。
 チーズケーキと葛饅頭、それにラムネ瓶に入った飲み物、あとは自分用のかんぴょう巻きとかっぱ巻きのセットとお茶を買った。

◇◇◇

「K町で何か用事あったの?」
「あー、うん。あの辺のオフィスで仕事の打ち合わせがね…」
「そうか。仕事があるのはありがたいね」
「そういうこと」

 母は私がとっさについた嘘を疑わなかったし、正直どうでもいいとるに足らない世間話と捉えたと思う。
 ばりばりリモートワーク歴30年。ここ2年の感染症蔓延の折、わざわざ対面で打ち合わせする理由がない。

 買ったものを次々に母の前に並べ、合計額+お駄賃を受け取って、「私お昼まだだから、ここで食べるね」と言って、ほぼ物置状態の青いソファのわずかなスペースに座った。思ったよりも人をダメにする系の沈み方をした(断じて私の体重のせいではなく、そういうソファだったの!)


 母はラムネの瓶を手に取ると、「こういうの飲んだことないよ」と言って少し戸惑った様子だった。
 だから私がビー玉を押し込んで、炭酸が落ち着いた頃渡した。「こっち向きに持って、ここでビー玉を受けるようにして飲むんだよ」と言うと、恐る恐るあおった。
 味の感想は「おいしいけど、普通のソーダ水だね」だった。

 母が82歳にして本当にラムネ初体験だったか、遠い昔の記憶がノーカウントになっていたのか、それは分からない。

 私はいつになくスムーズな会話がうれしくて、少し踏み込んだ話題を持ち出した。

「ねえ、Aさんって覚えてる?私が高校時代付き合ってた大学生」
「ああ、政治家になりたいとか言っていた?」
「そこまで覚えてたんだ」
「イケメンさんだったけど、打算的な感じだったよね」
「まあ、そうかな…?」

 そういえば母は、「長年の恋人がいても、偉い人の娘との縁談が持ち上がったらあっさり捨てそうな人」と言っていたな。
 私はそこまでは考えたことがなかったけれど、母はどこを見てそんな印象を受けたのだろうか。
 一本気まっすぐな人ではなかったし、遊び人風ではあったけれど、少なくとも私が振られた理由はそういうことではなかったので、根拠のない中傷だとさえ思っていた。

「で、Aさんがどうしたの?」
「私Aさんに、『お前イナカもんのくせにラムネの飲み方も知らないのかよ』って笑われたことがあったんだ」
「えー、何それ?」
「ねー、本当にだよね」

 ちなみにAさんは私より小さな地方都市の出身である。
 いや、出身地の規模はどうでもいいんだけれど、そもそも付き合いたての頃は「私の(田舎娘らしい)素朴なところがいい」と言っていたはずなのだが、「単に見下せる対象がよかったということなんだろうか」と邪推せざるを得ない言葉だった。

 よくも悪くも印象的だったAさんについての話題は、まだ続く。

「Aさん今頃どうしてるんだろう?」
「…死んだらしいよ」
「え?!」
「多分40歳になる前に、病気だったみたい」
「そうなの?誰に聞いたの?」
「話すと長くなるんだけど、ネット掲示板でそんな書き込みがあってね…」

 Aさんはある趣味の世界で少し知られた名前だったので、そんな情報をたまたまのだ。

「人の寿命って分かんないもんだねえ」
「そうなんだよね。逆にお母さんなんか、あと20年ぐらい余裕で生きるかもよ?」
「まあ、お祖母ちゃん(母の母親)も長生きだったしねえ…」

◇◇◇

 今になって振り返ると、私が知る限り、母の最後のベストコンディションは「あの日」だったのだと思う。
 
 弟にお片付け番長に任命された私の使命は、「可燃ごみとして出せるものは全て出して掃除をする」までで、粗大ごみ扱いになるようなものや、どこかに売却できるようなものは弟にお任せになる。

 台所の片づけが済んだら、この青いソファに腰かけて、海苔巻きなど食べつつ、ラムネ瓶を傾けてみようかな。
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