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第19章 電話

うわのそら

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 うちには固定電話があるのだが、20代の若い夫婦世帯にそれがあるのは、どうやら珍しいことらしい。

 ということは、こういうシチュエーションで配偶者の不貞が明るみに出るというのも、今どきはきっとレアケースなんだろう――と思いつつ、私は左手に持った受話器を耳にあて、その女性の声を聞いていた。

『幸助さんと別れてください』
『私、妊娠しているんです。幸助さんの子供です』
『愛のない結婚生活をこれ以上続けるのは、むなしくないですか?』

 はい。もちろんむなしいですが、余計なお世話です。
 そもそもが「彼」が私以外の女性と関係を持っていたのなんて、大分前から知っていたので、そのこと自体に関しては驚きもないし、何なら怒りもない。
 それでもいけしゃあしゃあと私のことも抱こうとするのを煩わしいなあと感じている程度で、「汚らわしい!私に触らないで!」とすら思わないのが、私の今の心境なのである。

 10代の頃は間違いなく「彼」のことが大好きだった。執着だって愛のうち、という意味でだけど。
 今は嫌いとすら思っていない。
 はばかりながら、私にも最低限の尊厳や人権的なものはあると思っているんだけれど、彼との結婚生活で、そういうベースの部分を踏みにじられ過ぎて、いろいろと麻痺してしまったようだ。

『あの、聞いているんですか?!』
「あ、ごめんなさい」

 私が受話器を片手にぼーっと考え事をしている間、あなたが何を話していたのか分からないという意味では、「全く聞いていませんでした」としか答えようがないので、そういうニュアンスを込めてわびた。

『とにかくですね…』
 あ、聞いていなかったことは察してくれなかったか。
 電話って不便だな。会って話せば表情からもいろいろ読み取れたろうけど。

◇◇◇

「あの…ごめんなさい。子供が泣いているので、そろそろいいかしら?」
 これは(面倒くさいことから)逃げるための方便ではあったんだけど、別に全くのうそでもない。
『え…ああ…』
「私基本的に家にいるので、明日もこのくらいの時間ならお話できるわ」

 ちなみに時間は平日の午後3時だった。
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