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第1話 呪術師シオン
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「犯人は、この女に決まっている!」
男は、目の前にいる女を指差しながら声を荒げた。
高級娼館『ペリドット』の一室にいるのは四人。
憤っているのは、昨夜やって来た客──マクラディン男爵の令息である。身に着けているのは流行りの紳士服に、オーダーメイドの装飾を施したものだった。肌や髪には健康的な色と艶がある。若々しく快活さがあり、顔立ちも悪くはない。しかし、位を与えられたばかりの新興貴族ということもあって、まだ貴族らしい品性は感じられなかった。
「わたし、やってません!」
突きつけられた指摘を、女は必死になって否定する。彼女は裸同然の格好をしていた。シーツ一枚を身体に巻きつけ、髪は乱れたままだった。名前はマーティ。ペリドットの娼婦ということもあって、容姿は申し分ない。だが、齢のわりに痩せていて、少女と言っても通用しそうな見た目をしていた。見習い期間を終えて間もないこともあり、青臭さが抜けていない。
マーティはシーツを握りしめながら、開きっぱなしの扉の前を陣取っているオーナーのほうを見た。
ペリドットのオーナーであるヴィルの表情は険しい。だが、中性的で艶やかな見た目と相まって、その姿はとても絵になっていた。
「つまり、こういうことですね」
ただ一人、冷静に状況を観察していた人物が言った。
「昨夜、ペリドットにやって来たマクラディン様は、マーティと共にこの部屋に入った。しばらくは酒を飲みながら談笑を楽しみ、その後ベッドに入った。そして朝になって、身に着けていた指輪の宝石がなくなっていることに気づいた──というわけですね」
美しい銀髪と碧眼の少女だった。はっきりとした目鼻立ちで、もう数年経てば花街の美姫たちにも劣らない風貌になるだろう。小柄だが、苛立ちを見せる大人を前にしても堂々とした態度を見せる彼女からは、意思の強さを感じる。
名前はシオン。呪術師を生業としている。
そうだ、とシオンの言葉にマクラディンは頷いた。
「この部屋には、私とその女しかいなかった。つまり、彼女が盗ったに決まっている!」
「違います!」
彼の主張に、マーティは反論する。その声は開いたままの扉から娼館中に響いていた。
シオンはベッドに目を向けた。マーティが着ていた衣服が広げられており、そのどこにも宝石は隠されていなかった。
「君じゃなかったら、誰が盗んだというんだ。私がどこかでなくしたことに気づかなかったと? そんなはずはない。酒を飲みながら羨むような目で、この指輪にはまっていた石を見ていたのを、私ははっきりと覚えている!」
マクラディンは指にはめた金の輪っかを見せながら、再び声を荒げる。指輪の台座自体は非常にシンプルなデザインで、宝石があったはずの場所がぽっかりと空いてしまっていた。そこから察するに、宝石はおおよそ小指の爪くらいの大きさだろうか。
「わたしは指輪に触ってません」
目に涙を浮かべ顔を赤くさせながら、マーティは無実を訴える。
シオンは彼女のことをよく知っていた。マーティがペリドットにやって来たのは、シオンが呪術師として、母親の仕事の跡を継いだ後のことだった。二年くらい前のことである。貧しい農家の一人娘で、出稼ぎのために帝都に赴いていたのだが、たった一人の家族である母親が病で亡くなり、その報せが届いてすぐに働いていた貴族の屋敷を不当に解雇されてしまったのである。行く当てのない彼女は、運よくオーナーに拾われた。
見目は良いのだが、教養はなく、また他人よりも繊細であった。そのため苦労が多かった。年上ではあるが、この街で仕事をする先輩として、シオンはマーティのことをよく気にかけていた。彼女の素直さと誠実さを知っているからこそ、シオンはマーティが盗んだとは思えなかった。
「娼館は信用第一なんだろう。それなのに、こんな嘘つきを働かせていいのか? それとも、この娼館そのものが嘘つきなのか?」
ふん、と鼻を鳴らしながら、マクラディンは強気だった。
よくそんな口が利けるな、とシオンはちらりとオーナーに目を向けた。
彼は鋭い視線をマクラディンに向けていた。ヴィルはかつて貧民街を牛耳っていた不良グループのトップであり、現在は花街を統括する一人である。そんな彼の前で生意気な口を利くとは、とても恐れ多いことだった。この街の常連にとっては常識なのだが、マクラディンはそのことを知らないらしい。
しかし、娼館が信用第一というのは事実である。
貧民街のすぐそばにあるこの場所は、かつては売春宿が集まる地区だった。その多くが違法で、女や子どもを食い物にしていた。しかし二十年ほど前に、今の皇帝が即位してから帝都の治安や風紀を見直す改革が行われ、違法な売春宿は次々に摘発された。そして十年前に、地区の半分を巻き込むほどの大火事に見舞われたのをきっかけに一掃された。
しかし悲しいことに、それまで身を売ることで生計を立てていた女たちが路頭に迷うことになってしまったのが現実だった。
そうして、できたのが花街である。
娼館は国の公的な許可を得て営業している。ここで働く者は娼婦であろうと、客を取らない下働きであろうと最低限の教養が与えられ、東国の高級妓女のように身体を売るだけでなく、巧みな話術や芸を売ることでも稼ぐことができるようになった。多くの娼婦が借金を抱えていたり、身寄りがいなかったりするが、娼館で働いているかぎり食うに困ることはなく、身元も保証された。
その代わり、娼館には信用が求められた。接客中に知り得た客の情報を許可なく漏洩したり、客の持ち物を盗んだりなどは、決してあってはならないことだった。
──そんな話をここで持ち出してくるということは、この男の目的は賠償金か。
シオンは思った。信用を第一としている娼館にとって、スキャンダルや不祥事は尤も避けなければならない問題である。おそらく彼は、このことを口外しない代わりに賠償金を請求するつもりなのだろう。もしそうなら、マーティは嵌められたということになる。
マーティの言っていることが本当なら、彼女は指輪に触れていない。その場合、宝石を隠したのはマクラディン本人ということになる。しかし、オーナーが念のために行った身体検査ではそれらしいものは見つからなかったという。
彼は一体、どこに宝石を隠したのか。
そう考えて、ふと思った。
──なぜ指輪でなく、宝石だけなのか。
盗むのであれば、指輪ごと盗むのが定石だろう。しかし、今回は指輪からわざわざ宝石を外している。それはとても手間で、簡単なことではない。
シオンはもう一度、マクラディンの指に残る金の輪っかに目をやる。よく見ると、細かい傷がいくつも付いていることに気づく。金に見えていたそれは、どうやらメッキ加工されたものらしい。あまり値の張るものではないようだ。
次に、マーティの手を取って観察する。彼女の指先や爪は滑らかで傷一つない。シオンが作ってあげた手荒れ防止クリームのおかげでもあるが、指輪から宝石を外す際に付くであろう痕跡すらなかった。やはり、彼女は指輪に触れていない。
最後に、シオンは部屋を見渡した。調度品は高級品ばかりではないが、洗練されたもので揃えてある。ふと、ベッドの脇の棚の上に置かれた、琥珀色の液体が入った小瓶が目に入った。部屋の装備品に、こんなものはなかったはずである。
「これは?」
シオンが訊ねると、香油だよ、とマクラディンが答える。
「今、行っている事業で香油の製造販売を行っていてね。これはその試供品だよ」
マクラディンは家業とは別に、友人たちと事業を始めたばかりらしく、知り合った女性に試供品を配っているのだという。
ふうん、とシオンは手に取った小瓶を眺める。
「しかし、こんなことがあったんだ。これは返してもらおう」
マクラディンがシオンの前にやって来る。すると、ふわりと花のような香りがした。香水かと思ったが、それよりも仄かな匂いだった。
その瞬間、シオンはひらめいた。
小瓶に伸ばされたマクラディンの手を、シオンはひょいと退けた。
「困ります。証拠を隠滅されては」
シオンは無邪気な笑みを浮かべる。
「何を言っているんだい? それはただの香油だぞ」
平静を装ってはいるが、その声には動揺の色が表れていた。
「何か判ったのか?」
オーナーが訊ねる。シオンは頷いた。
「まず、マーティは犯人ではありません」
「どうして、そう言い切れるんだ」
マクラディンは声をあげる。シオンの手の中にある小瓶に視線をやりながら。
「指輪から宝石を外すには、台座に触れる必要がある。けど、彼女の手にはその痕跡がないんです」
「痕跡だって?」
「繊細なんです、彼女は」
マーティはアレルギー持ちだった。金属はもちろん、一般的な化粧品なども肌に合わず、赤くなったりかぶれたりしてしまう。ひどいときは体調にまで影響が出てしまうのである。以前働いていた屋敷でも、それが原因で辞めさせられたのだという。
彼女が今使っている化粧品はシオンが作り方を教えた無添加なもので、装飾品も金属を使っていないものばかりだった。
「その指輪、金メッキですね。けれども、彼女の手はかぶれていません」
オーナーはマーティのそばに寄ると、彼女の手を確認した。マーティはよく見えるように両手を広げてみせる。傷一つなく、かぶれも赤みもない。
「じゃ……じゃあ、宝石はどこに行ったんだ!」
彼は声を荒げてみせる。しかし、その声からは動揺が感じられた。
「それは、あなたが教えてくれました」
「私が……?」
動揺が焦りに変わる。明らかに落ち着いてはいられないという様子だった。
その様子にシオンは口の端を持ち上げながら、小瓶を目の前に掲げた。
「これは、あなたの言う通り、ただの香油なのでしょう。けど──」
シオンは蓋を開けると、そのまま掌に中身をぶちまけた。
「あっ!」
マーティは驚いて声をあげる。
香油が零れ、床に流れ落ちる。仄かな薔薇の香りが部屋に広がった。そして、シオンの掌には、小指の爪ほどの大きさの透き通る石が残った。
「なくなったというのは、これですか?」
「そう、それです!」
シオンが確認すると、マーティが食い気味に肯定する。
「けど、どうして? 中には香油しか入っていなかったのに……」
「中に入っていたのはただの香油だよ。けど、そこにこういったガラスを入れると、光の加減で見えなくなってしまうんだ」
「今、ガラスと言ったかい?」
オーナーがハッとする。
「そうです。これは宝石じゃない。宝石に見えるように加工されたガラス玉です」
摘まみ上げたそれを覗き込むように、シオンは顔の前に掲げる。
「おかしいと思ったんです。どうして宝石だけが盗まれたのか。普通は指輪ごと盗むだろうに、わざわざ手間をかけて台座から外さなければならない理由でもあるのかな──と」
マクラディンの顔は真っ青になった。ネクタイに手をかけて首元を緩めている。
「知らない、私はそんなもの……。そ、その女がやったのかもしれないだろう!」
マーティを犯人だと訴えたときのように、マクラディンは彼女を指差した。びくっと肩を震わせるマーティを、オーナーが背中に庇う。
「言ったでしょう。彼女は繊細なんです。何が入っているかも判らないのに、彼女が香油に触れるわけないんです」
植物から採取される天然香料の精油と違って、香油は精油に別のオイルなどを混ぜたものである。髪や肌に直接使用することができるものではあるが、安い粗悪品のせいで体調不良を起こす事例が花街で確認されていた。
マーティは客からの貰い物であれ、すぐに手をつけないように注意を払っていた。
「ところで、そのズボンの染みはどうしたんですか?」
シオンはマクラディンのズボンを指差した。ジャケットの裾で見え隠れする位置に、染みができていた。
「香油をこぼした跡ではありませんか?」
「そ、それは……」
「その染み、すっかり乾いているようですね。つまり、あたしが中身をぶちまける前に付いた染みということになりますよね」
マーティが小瓶の蓋を開けていないのなら、その染みはいつ付いたというのだろうか。
「つまり、こういうことです。あなたはマーティが寝ている間に、指輪からガラス玉を外し、香油の中に隠した。その際、零れてしまった香油がズボンについてしまった」
違いますか? とシオンは首を傾げてみせる。
すると──
「す、すまなかった! 見逃してくれ!」
先ほどまでの自信に満ちた表情はどこへやら。彼は勢いよく頭を下げた。
「事業がうまくいっていなくて、金が必要だったんだ! ほんの出来心だったんだ!」
シオンの問い詰めに、逃げ場がないと思ったのだろう。今回のことが表沙汰になれば、事業は頓挫し、新興貴族である男爵家の立場は危うくなる。素直に謝罪することで、事態の収拾を図ろうという魂胆なのだろう。
「出来心ねえ……」
しかし、シオンは彼を冷たい目で見降ろす。
「これが初めてではないですよね」
「え……?」
「実は、ここ数ヶ月の間に、似たような手口で賠償請求されている娼館がいくつかあるんですよ。商売仇ということもあって、娼館同士は慣れ合うことがありません。けど、共通の出入り業者を通して、情報のやり取りをすることがあるんです。今回はその業者が、あたしだったというわけですが」
シオンは花街の四つの娼館から相談を受けていた。どれも新人の娼婦が指名され、朝になったら装飾品の宝石がなくなっていたというものである。一件目と二件目は小さな娼館ということもあってスキャンダルを避けたかったのだろう。すでに賠償金を支払った後だった。三件目と四件目はなんとか支払いを待ってもらっているらしい。
状況が似通っていたため、シオンはそれぞれの当事者に聞き込みを行ったのだが、相手の男性の特徴がまるで嚙み合っていなかった。さらに、なくなった宝石がどこにあるのか見当がつかなかった。そのため、真相を掴むことができないでいた。
そんなとき、シオンはオーナーから呼び出された。そして、現場の様子を見て、一連の出来事と関連があると察した。
「オーナーがあなたを引き留めて、あたしを呼んでくれたことで、証拠を押さえることができました。これは決して出来心なんかじゃない。計画された犯罪です」
事の真相が語られ、開けっ放しの扉から外へと伝わる。
それを聞いた他の娼婦や下働き、出入りの業者が耳にする。そして、それは瞬く間に花街全体へと広がっていくだろう。
「教えてもらえませんか? 他に仲間がいるんでしょう」
これは計画犯罪である。被害にあった娼館から得た男の特徴がかみ合わないということは、それだけ複数の人間が関わっているということ。おそらく、マクラディンとともに事業を行っている友人たちだろう。
シオンは彼の顔を覗き込む。その目は空よりも高く、海よりも深い紺碧だった。
彼は視線を彷徨わせている。額には汗が浮き、わずかに開いた口からは躊躇うような言葉がこぼれ出す。
「しょうがないなあ」
シオンは溜め息を吐くと、彼の胸ポケットから覗くハンカチを引き抜いた。それを四つ折りにして掌に乗せると、ふうと息を吹きかけた。
その流れるような動作を、一同は静かに眺めていた。
すると、ハンカチがふわりと浮かび上がった。それは蝶のように羽ばたきながら窓のほうに向かっていく。シオンが窓を開け放つと、蝶はそのまま外へ飛んでいった。
「あれを自警団に追わせてください。彼の仲間のところに連れて行ってくれます」
そう伝えると、オーナーは部屋の表に待機させていた下働きに言伝を頼んだ。
マクラディンは呆然としながら、シオンを見た。
「君は一体……」
これまで上手くいっていたものだから、見破られるとは思っていなかったのだろう。しかも、相手はまだ子どもである。
「あたしは、ただの呪術師ですよ」
シオンはそう言って、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
男は、目の前にいる女を指差しながら声を荒げた。
高級娼館『ペリドット』の一室にいるのは四人。
憤っているのは、昨夜やって来た客──マクラディン男爵の令息である。身に着けているのは流行りの紳士服に、オーダーメイドの装飾を施したものだった。肌や髪には健康的な色と艶がある。若々しく快活さがあり、顔立ちも悪くはない。しかし、位を与えられたばかりの新興貴族ということもあって、まだ貴族らしい品性は感じられなかった。
「わたし、やってません!」
突きつけられた指摘を、女は必死になって否定する。彼女は裸同然の格好をしていた。シーツ一枚を身体に巻きつけ、髪は乱れたままだった。名前はマーティ。ペリドットの娼婦ということもあって、容姿は申し分ない。だが、齢のわりに痩せていて、少女と言っても通用しそうな見た目をしていた。見習い期間を終えて間もないこともあり、青臭さが抜けていない。
マーティはシーツを握りしめながら、開きっぱなしの扉の前を陣取っているオーナーのほうを見た。
ペリドットのオーナーであるヴィルの表情は険しい。だが、中性的で艶やかな見た目と相まって、その姿はとても絵になっていた。
「つまり、こういうことですね」
ただ一人、冷静に状況を観察していた人物が言った。
「昨夜、ペリドットにやって来たマクラディン様は、マーティと共にこの部屋に入った。しばらくは酒を飲みながら談笑を楽しみ、その後ベッドに入った。そして朝になって、身に着けていた指輪の宝石がなくなっていることに気づいた──というわけですね」
美しい銀髪と碧眼の少女だった。はっきりとした目鼻立ちで、もう数年経てば花街の美姫たちにも劣らない風貌になるだろう。小柄だが、苛立ちを見せる大人を前にしても堂々とした態度を見せる彼女からは、意思の強さを感じる。
名前はシオン。呪術師を生業としている。
そうだ、とシオンの言葉にマクラディンは頷いた。
「この部屋には、私とその女しかいなかった。つまり、彼女が盗ったに決まっている!」
「違います!」
彼の主張に、マーティは反論する。その声は開いたままの扉から娼館中に響いていた。
シオンはベッドに目を向けた。マーティが着ていた衣服が広げられており、そのどこにも宝石は隠されていなかった。
「君じゃなかったら、誰が盗んだというんだ。私がどこかでなくしたことに気づかなかったと? そんなはずはない。酒を飲みながら羨むような目で、この指輪にはまっていた石を見ていたのを、私ははっきりと覚えている!」
マクラディンは指にはめた金の輪っかを見せながら、再び声を荒げる。指輪の台座自体は非常にシンプルなデザインで、宝石があったはずの場所がぽっかりと空いてしまっていた。そこから察するに、宝石はおおよそ小指の爪くらいの大きさだろうか。
「わたしは指輪に触ってません」
目に涙を浮かべ顔を赤くさせながら、マーティは無実を訴える。
シオンは彼女のことをよく知っていた。マーティがペリドットにやって来たのは、シオンが呪術師として、母親の仕事の跡を継いだ後のことだった。二年くらい前のことである。貧しい農家の一人娘で、出稼ぎのために帝都に赴いていたのだが、たった一人の家族である母親が病で亡くなり、その報せが届いてすぐに働いていた貴族の屋敷を不当に解雇されてしまったのである。行く当てのない彼女は、運よくオーナーに拾われた。
見目は良いのだが、教養はなく、また他人よりも繊細であった。そのため苦労が多かった。年上ではあるが、この街で仕事をする先輩として、シオンはマーティのことをよく気にかけていた。彼女の素直さと誠実さを知っているからこそ、シオンはマーティが盗んだとは思えなかった。
「娼館は信用第一なんだろう。それなのに、こんな嘘つきを働かせていいのか? それとも、この娼館そのものが嘘つきなのか?」
ふん、と鼻を鳴らしながら、マクラディンは強気だった。
よくそんな口が利けるな、とシオンはちらりとオーナーに目を向けた。
彼は鋭い視線をマクラディンに向けていた。ヴィルはかつて貧民街を牛耳っていた不良グループのトップであり、現在は花街を統括する一人である。そんな彼の前で生意気な口を利くとは、とても恐れ多いことだった。この街の常連にとっては常識なのだが、マクラディンはそのことを知らないらしい。
しかし、娼館が信用第一というのは事実である。
貧民街のすぐそばにあるこの場所は、かつては売春宿が集まる地区だった。その多くが違法で、女や子どもを食い物にしていた。しかし二十年ほど前に、今の皇帝が即位してから帝都の治安や風紀を見直す改革が行われ、違法な売春宿は次々に摘発された。そして十年前に、地区の半分を巻き込むほどの大火事に見舞われたのをきっかけに一掃された。
しかし悲しいことに、それまで身を売ることで生計を立てていた女たちが路頭に迷うことになってしまったのが現実だった。
そうして、できたのが花街である。
娼館は国の公的な許可を得て営業している。ここで働く者は娼婦であろうと、客を取らない下働きであろうと最低限の教養が与えられ、東国の高級妓女のように身体を売るだけでなく、巧みな話術や芸を売ることでも稼ぐことができるようになった。多くの娼婦が借金を抱えていたり、身寄りがいなかったりするが、娼館で働いているかぎり食うに困ることはなく、身元も保証された。
その代わり、娼館には信用が求められた。接客中に知り得た客の情報を許可なく漏洩したり、客の持ち物を盗んだりなどは、決してあってはならないことだった。
──そんな話をここで持ち出してくるということは、この男の目的は賠償金か。
シオンは思った。信用を第一としている娼館にとって、スキャンダルや不祥事は尤も避けなければならない問題である。おそらく彼は、このことを口外しない代わりに賠償金を請求するつもりなのだろう。もしそうなら、マーティは嵌められたということになる。
マーティの言っていることが本当なら、彼女は指輪に触れていない。その場合、宝石を隠したのはマクラディン本人ということになる。しかし、オーナーが念のために行った身体検査ではそれらしいものは見つからなかったという。
彼は一体、どこに宝石を隠したのか。
そう考えて、ふと思った。
──なぜ指輪でなく、宝石だけなのか。
盗むのであれば、指輪ごと盗むのが定石だろう。しかし、今回は指輪からわざわざ宝石を外している。それはとても手間で、簡単なことではない。
シオンはもう一度、マクラディンの指に残る金の輪っかに目をやる。よく見ると、細かい傷がいくつも付いていることに気づく。金に見えていたそれは、どうやらメッキ加工されたものらしい。あまり値の張るものではないようだ。
次に、マーティの手を取って観察する。彼女の指先や爪は滑らかで傷一つない。シオンが作ってあげた手荒れ防止クリームのおかげでもあるが、指輪から宝石を外す際に付くであろう痕跡すらなかった。やはり、彼女は指輪に触れていない。
最後に、シオンは部屋を見渡した。調度品は高級品ばかりではないが、洗練されたもので揃えてある。ふと、ベッドの脇の棚の上に置かれた、琥珀色の液体が入った小瓶が目に入った。部屋の装備品に、こんなものはなかったはずである。
「これは?」
シオンが訊ねると、香油だよ、とマクラディンが答える。
「今、行っている事業で香油の製造販売を行っていてね。これはその試供品だよ」
マクラディンは家業とは別に、友人たちと事業を始めたばかりらしく、知り合った女性に試供品を配っているのだという。
ふうん、とシオンは手に取った小瓶を眺める。
「しかし、こんなことがあったんだ。これは返してもらおう」
マクラディンがシオンの前にやって来る。すると、ふわりと花のような香りがした。香水かと思ったが、それよりも仄かな匂いだった。
その瞬間、シオンはひらめいた。
小瓶に伸ばされたマクラディンの手を、シオンはひょいと退けた。
「困ります。証拠を隠滅されては」
シオンは無邪気な笑みを浮かべる。
「何を言っているんだい? それはただの香油だぞ」
平静を装ってはいるが、その声には動揺の色が表れていた。
「何か判ったのか?」
オーナーが訊ねる。シオンは頷いた。
「まず、マーティは犯人ではありません」
「どうして、そう言い切れるんだ」
マクラディンは声をあげる。シオンの手の中にある小瓶に視線をやりながら。
「指輪から宝石を外すには、台座に触れる必要がある。けど、彼女の手にはその痕跡がないんです」
「痕跡だって?」
「繊細なんです、彼女は」
マーティはアレルギー持ちだった。金属はもちろん、一般的な化粧品なども肌に合わず、赤くなったりかぶれたりしてしまう。ひどいときは体調にまで影響が出てしまうのである。以前働いていた屋敷でも、それが原因で辞めさせられたのだという。
彼女が今使っている化粧品はシオンが作り方を教えた無添加なもので、装飾品も金属を使っていないものばかりだった。
「その指輪、金メッキですね。けれども、彼女の手はかぶれていません」
オーナーはマーティのそばに寄ると、彼女の手を確認した。マーティはよく見えるように両手を広げてみせる。傷一つなく、かぶれも赤みもない。
「じゃ……じゃあ、宝石はどこに行ったんだ!」
彼は声を荒げてみせる。しかし、その声からは動揺が感じられた。
「それは、あなたが教えてくれました」
「私が……?」
動揺が焦りに変わる。明らかに落ち着いてはいられないという様子だった。
その様子にシオンは口の端を持ち上げながら、小瓶を目の前に掲げた。
「これは、あなたの言う通り、ただの香油なのでしょう。けど──」
シオンは蓋を開けると、そのまま掌に中身をぶちまけた。
「あっ!」
マーティは驚いて声をあげる。
香油が零れ、床に流れ落ちる。仄かな薔薇の香りが部屋に広がった。そして、シオンの掌には、小指の爪ほどの大きさの透き通る石が残った。
「なくなったというのは、これですか?」
「そう、それです!」
シオンが確認すると、マーティが食い気味に肯定する。
「けど、どうして? 中には香油しか入っていなかったのに……」
「中に入っていたのはただの香油だよ。けど、そこにこういったガラスを入れると、光の加減で見えなくなってしまうんだ」
「今、ガラスと言ったかい?」
オーナーがハッとする。
「そうです。これは宝石じゃない。宝石に見えるように加工されたガラス玉です」
摘まみ上げたそれを覗き込むように、シオンは顔の前に掲げる。
「おかしいと思ったんです。どうして宝石だけが盗まれたのか。普通は指輪ごと盗むだろうに、わざわざ手間をかけて台座から外さなければならない理由でもあるのかな──と」
マクラディンの顔は真っ青になった。ネクタイに手をかけて首元を緩めている。
「知らない、私はそんなもの……。そ、その女がやったのかもしれないだろう!」
マーティを犯人だと訴えたときのように、マクラディンは彼女を指差した。びくっと肩を震わせるマーティを、オーナーが背中に庇う。
「言ったでしょう。彼女は繊細なんです。何が入っているかも判らないのに、彼女が香油に触れるわけないんです」
植物から採取される天然香料の精油と違って、香油は精油に別のオイルなどを混ぜたものである。髪や肌に直接使用することができるものではあるが、安い粗悪品のせいで体調不良を起こす事例が花街で確認されていた。
マーティは客からの貰い物であれ、すぐに手をつけないように注意を払っていた。
「ところで、そのズボンの染みはどうしたんですか?」
シオンはマクラディンのズボンを指差した。ジャケットの裾で見え隠れする位置に、染みができていた。
「香油をこぼした跡ではありませんか?」
「そ、それは……」
「その染み、すっかり乾いているようですね。つまり、あたしが中身をぶちまける前に付いた染みということになりますよね」
マーティが小瓶の蓋を開けていないのなら、その染みはいつ付いたというのだろうか。
「つまり、こういうことです。あなたはマーティが寝ている間に、指輪からガラス玉を外し、香油の中に隠した。その際、零れてしまった香油がズボンについてしまった」
違いますか? とシオンは首を傾げてみせる。
すると──
「す、すまなかった! 見逃してくれ!」
先ほどまでの自信に満ちた表情はどこへやら。彼は勢いよく頭を下げた。
「事業がうまくいっていなくて、金が必要だったんだ! ほんの出来心だったんだ!」
シオンの問い詰めに、逃げ場がないと思ったのだろう。今回のことが表沙汰になれば、事業は頓挫し、新興貴族である男爵家の立場は危うくなる。素直に謝罪することで、事態の収拾を図ろうという魂胆なのだろう。
「出来心ねえ……」
しかし、シオンは彼を冷たい目で見降ろす。
「これが初めてではないですよね」
「え……?」
「実は、ここ数ヶ月の間に、似たような手口で賠償請求されている娼館がいくつかあるんですよ。商売仇ということもあって、娼館同士は慣れ合うことがありません。けど、共通の出入り業者を通して、情報のやり取りをすることがあるんです。今回はその業者が、あたしだったというわけですが」
シオンは花街の四つの娼館から相談を受けていた。どれも新人の娼婦が指名され、朝になったら装飾品の宝石がなくなっていたというものである。一件目と二件目は小さな娼館ということもあってスキャンダルを避けたかったのだろう。すでに賠償金を支払った後だった。三件目と四件目はなんとか支払いを待ってもらっているらしい。
状況が似通っていたため、シオンはそれぞれの当事者に聞き込みを行ったのだが、相手の男性の特徴がまるで嚙み合っていなかった。さらに、なくなった宝石がどこにあるのか見当がつかなかった。そのため、真相を掴むことができないでいた。
そんなとき、シオンはオーナーから呼び出された。そして、現場の様子を見て、一連の出来事と関連があると察した。
「オーナーがあなたを引き留めて、あたしを呼んでくれたことで、証拠を押さえることができました。これは決して出来心なんかじゃない。計画された犯罪です」
事の真相が語られ、開けっ放しの扉から外へと伝わる。
それを聞いた他の娼婦や下働き、出入りの業者が耳にする。そして、それは瞬く間に花街全体へと広がっていくだろう。
「教えてもらえませんか? 他に仲間がいるんでしょう」
これは計画犯罪である。被害にあった娼館から得た男の特徴がかみ合わないということは、それだけ複数の人間が関わっているということ。おそらく、マクラディンとともに事業を行っている友人たちだろう。
シオンは彼の顔を覗き込む。その目は空よりも高く、海よりも深い紺碧だった。
彼は視線を彷徨わせている。額には汗が浮き、わずかに開いた口からは躊躇うような言葉がこぼれ出す。
「しょうがないなあ」
シオンは溜め息を吐くと、彼の胸ポケットから覗くハンカチを引き抜いた。それを四つ折りにして掌に乗せると、ふうと息を吹きかけた。
その流れるような動作を、一同は静かに眺めていた。
すると、ハンカチがふわりと浮かび上がった。それは蝶のように羽ばたきながら窓のほうに向かっていく。シオンが窓を開け放つと、蝶はそのまま外へ飛んでいった。
「あれを自警団に追わせてください。彼の仲間のところに連れて行ってくれます」
そう伝えると、オーナーは部屋の表に待機させていた下働きに言伝を頼んだ。
マクラディンは呆然としながら、シオンを見た。
「君は一体……」
これまで上手くいっていたものだから、見破られるとは思っていなかったのだろう。しかも、相手はまだ子どもである。
「あたしは、ただの呪術師ですよ」
シオンはそう言って、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
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