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第2章 The Origin(起源)
しおりを挟むー虫は、泣く。
声にならない波で、世界と会話している。
俺には、それが――聞こえた。
子供の頃から、俺はずっとボッチだった。
転校が多く、居場所を作る前に次の土地へ移る。
そんな俺の孤独を慰めてくれたのは、大抵いつも虫たちだった。
ノートの余白には、昆虫の脚や羽のスケッチが並んでいた。
人間の顔よりも、節足動物の構造のほうが、よほど理に適って見えた。
⸻
まだ幼い頃、俺と母は“地下鉄毒ガステロ”に巻き込まれた。
それをきっかけに、父は自ら志願し、
海上保安庁のキャリア技官から
**対テロ特殊部隊《SST》(日本版ネイビーシールズ)**へジョブチェンジした。
まるでダース・ベイダーが闇落ちしたみたいだった。
父が特殊部隊の隊長だなんて、日本の小学生にはまずいない。
いや、いたとしても――普通には生きられないだろう。
⸻
マレーシアに移ったのは、小学六年の春、十一歳のとき。
父は現地沿岸警備隊の対テロ部隊の立ち上げに参加していた。
意外に思うかもしれないが、海上保安庁という組織は、
警察機能と準軍事機関の両面を持ち、
日本で唯一、公式に実戦経験を持つ特殊部隊を抱えている。
“海猿”のようなレスキューの顔とは別に、
対テロ特殊部隊であるSSTは――さしずめ“海サソリ”と言ったところだ。
海外では、父のようなクラスは**“キャプテン”**と呼ばれていた。
南シナ海の合同訓練では、米海軍SEALや英SBSと連携し、
“Captain Mao”――それが現地でのコールサインだった。
⸻
クアラルンプール郊外の住宅地。
昼は太陽が地面を焼き、夜は蛙と虫の声で空気が震えた。
遠くでアザーン(礼拝の呼び声)が響くたび、
世界の輪郭がわずかに波打つように感じられた。
その頃、母――リンダは、庭で蘭を育てながら、
不思議な生き物を飼っていた。
黒曜石のような甲殻、ゆるやかに動く八本の脚と一対の鋏。
――蠍だった。
「名前をつけてあげなさい。」
俺が迷っていると、母は微笑んだ。
「セルケト――呼吸と毒を司る女神。
古代エジプトでは“死者を守る蠍”として崇められていたのよ。」
子供の俺には、その蠍が途轍もなくカッコよく見えた。
それは今でも変わらない。
以来、マレーシアでの三年間、俺は“蠍オタク”と呼べるほど夢中で研究した。
⸻
やがて、父に勧められて《シラット》の道場に通うようになった。
宗教と舞踊と戦闘が溶け合う、奇妙な武術だ。
ある日、師匠が言った。
「蠍カラジャンの動きを見たことがあるか?
地を這い、尻尾で弧を描く――あれが“生と死の間”の構えだ。」
シラットの型には、蠍の動きを模したものがあった。
低い姿勢から跳ね上がるような打撃。
周囲と比べて運動神経はイマイチな俺だったが、
どういうわけか、その型だけは異様な速さで体得していった。
⸻
語学も得意だった。
家では日本語、ポルトガル語、英語、イタリア語が飛び交っていた。
言葉は“知識”ではなく“道具”。
リズムを掴めば、身体が勝手に覚える。
マレー訛りの英語も、日常会話レベルのマレー語も、自然と身についた。
⸻
母のリンダは、トラウマで地下鉄に乗れなかった。
あの日の“毒の霧”が、いまも彼女の中で封じられたままだ。
その代わり、心を落ち着けるため、
身の回りのすべてを**紫パープル**で統一していた。
服も家具も、食器も――家中が紫。
俺や父のスーツまで紫で、唯一の自由は靴下と下着くらい。
――皮肉なことに、蠍の名を持つ女、リンダ・デ・スカルピアが、
毒によって身体を蝕まれたのだ。
移動手段は“地下鉄”ではなく“足”。
ランチア・デルタ HF インテグラーレ・エボルツィオーネII《Viola Pianeta》――
惑星の紫。
限定モデルのその車体は、夜の街灯を浴びるたびに色を変えた。
黒にも見え、青にも見える、深い紫。
リンダはそれを、まるで自分の延長のように操った。
まるで――スピードの向こう側を、すでに知っているかのように。
通常はエンジンを降ろして作業するしかない――
その“タイミングベルト”を、
俺は載せたまま交換できるほど、この車の構造を知り尽くしていた。
⸻
十八歳になり、念願の大型バイクを手に入れた。
ドイツ製 MZ スコーピオン 660。
ヤマハ製660cc単気筒、ドライサンプ。
これまでの250ccとは根本的にパワーが違った。
アクセルをひねるたび、鉄が共鳴し、血の中の鉄分まで震えた。
俺もまた、このマシンで“スピードの向こう側”を見たいと思った。
ヘルメットはクラシックな BELL MOTO-3。
そして、空気圧で頬のフィットを変える SCORPION EXO-1000。
まるで蠍の呼吸器官が開閉するようだった。
レザージャケットはパープルのパンチングレザーを特注。
フラクタルボディによって体温が異常に高くなった俺には、通気性が必須だった。
タンクには、母の一族、デ・スカルピア家の紋章。
紫の盾に三匹の黒い蠍。
古代ローマ親衛隊から続く、蠍の血脈。
走るたび、月光がその紋章を撫でて光った。
⸻
夜の舗装路。
湿った風が頬を撫で、エンジンの鼓動が皮膚の下で共鳴する。
街の灯がその甲殻を照らすたび、俺は思った。
――世界は波でできている。
音も、光も、毒も、祈りも。
すべてが周波数であり、振動であり、呼吸だ。
そして、あの夜。
給油で立ち寄ったスタンドで、
俺は中学の同級生と再会した。
その瞬間、鼓動がわずかに速くなった。
静かなはずの夜に、何かが“音を立てて”動き始めた気がした。
――そう、あれは悪夢の続きじゃない。
“現実”の、最初の胎動だった。
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