雪原脳花

帽子屋

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間奏曲

lamentazione(5)

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 いつ入ってきたのか、それとも最初からここにいたのか。
 自分を見つめる男、自分の独り言にこたえた男がいったいいつからここにいたのか、まったく気付かなかった。グレンは誰もいないと思って口にしたことを悔やんだ。ここまでうまく潜入出来ていると思っていた。なのに今のひとりごとを聞かれてしまっては、追い出されてしまうかもしれない。もしそうなれば、きっとまた殴られる。
「あ、あ、あの、俺……」
「奇跡は起きますよ」
 しどろもどろになるグレンに向かって男は静かに歩いてきた。
「ここ、座ってもいいですか?」
 グレンはなにも言うことができず、おずおずと頷いた。
「奇跡は起きるんです。なぜなら私はあなたを見たことを覚えているから」
 男はグレンの横に座るとゆっくりと、文節ごとにグレンに確認するようにして話し始めた。
「私は子供の頃から覚えるということが出来ない人間でした。聞いたことも、見たことも、全て忘れてしまう。相手が何を話しているのかを理解しようとしているうちに、何を言われたかを忘れてしまう。自分が何を話していたのか、考えていたのかすら忘れてしまう。だからまともに他人と話すことなんて出来なかった。出来損ない、バカ、クズ、それが私がようやく覚えた最初の言葉でした。親はそんな私を捨て、施設を転々としながら生きてきました。生きてきたというより、たまたま死ななかっただけ。そのうちなにかが起きても、それを忘れながら死ぬのだろうと、そう思ってました」
 出来損ない、バカ、クズ。覚えられない。理解出来ない。短い言葉のやりとりならまだしも、一度にたくさんの言葉が並び始めると混乱してくる。学校に行っていたときも、授業の内容は教師の話し声も文字も数字も、全てが混沌として、頭の中を滅茶苦茶にしていくだけでなにひとつ理解出来なかった。
 学校にも馴染めず勉強などというものは遠い国のおとぎ話、自分には無縁のものと思えた。どこにも居場所はなく、あてもなく街をうろついていたときに誘われたブロンディのグループでも、この教会へもぐりこむ仕事をぬきにすれば、決められた場所を回って電気を盗むこと、煙草を巻くことだけが唯一の任された仕事だった。一生懸命ほかの仕事も覚えようとしたが手から水が零れるように、情報はグレンの記憶に留まることはなく嘲笑うようにすり抜け、そして周りの人間たちはグレンを嘲笑った。いつしか、それを掬い直すことも零れる水を押し留める努力もしなくなった。
 グレンは男の身の上話が自分と重なって聞こえた。しかし今の男はとても自分と同じとは思えない。すらすらと、自分を気遣うそぶりすら見せ話している。
「だからあの日、あなたが私のところにやってきたときのことも、そのあとあなたの仲間がやってきて私の声が消えるまで殴ったり蹴ったり、そう、笑いながら何度も何度も私を踏み潰してからだじゅうの骨を折ったことも、私は覚えていなかった」
 グレンははっとして男の顔を見た。男もグレンを見ていた。その顔は微笑んでいるように見えた。
 グレンは男の顔をまじまじと眺め、ややあって思い出した。この男はあの冷たいひび割れだらけのコンクリートの中で、いまにもその薄汚れた壁と同化してしまいそうだった男だ。見違えていた。
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