雪原脳花

帽子屋

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間奏曲

lamentazione(10)

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ふと男が廊下の奥を振り返り誰に言うでもなく「ああ。急がなくては」と呟く。なんのことだと問いかけようとしたグレンはかすかに誰かの助けを求める声と悲鳴を聞いた気がした。
「い、い、いま、なんか悲鳴が……」
 男はグレンの問いには応えず立ち上がると片手でぞうさもなくグレンの腕を引き食堂に背を向けさせ出口の方向へと立たせた。
「いいかい、グレン。もう後ろは見ないで、前だけを見て走って」
 そう言って両肩に置かれた男の手は、そう言えばさっきまではひんやりとしていたように思うのに、今はやけに熱く感じられた。「さあ行って」とその手が優しく背中を押すと同時にグレンはもう何も考えず、ただ言われた通りまっすぐに前だけを見て走り出した。
 薄暗がりの中、グレンの背中を見送る男の瞳ははっきりと発光し、両の光は血で染まったシャツのボタンをいくつか外して中をのぞきこんだ。穴のあいた胸は周囲の組織が波打つようにして次第にその径をせばめていく。
「ああ早く行こう、私たちの獲物が生きているうちに。腹が空いたよ、とても腹が空いた」
 二つの燐光は愉悦を覚え引き上げられた口角をぼんやりと照らし、瞼によって閉ざされるとともに暗闇に消えた。

「あれはなんだ鼠か?ターゲットか?」
いくつものモニタに囲まれた部屋のメインモニタには、顎を突き出し息も絶え絶えに走るグレンの姿が映し出されていた。尋ねた男の声にこたえるようにグレンの顔がモニタに大きくズームアップされる。
「グレン・ケイヴィス。ターゲットです」
横に立つ男に口早に尋ねられたリッケンは、反していかにも落ち着いた様子でデスクの上で軽く手を振り、宙空投影されたグレンの立体像を浮かび上がらせた。目の前の空中で走る小さなグレンの横に照合データが表示され頭上には赤くTARGETの文字が浮かんでいた。
「逃げられるぞ」
「それは困りますね。ですが彼女と彼女の部下たちは優秀です。そのようなことはないでしょう」
「もったいぶらずに今撃ってしまえばいい。万が一逃げられてここでの出来事を外の人間に話しでもしたら……マスコミに嗅ぎつけられるかもしれん。その責任はどうする?」
「このターゲットは未知数です。やみくもに攻撃するべきではないかと。それに、可能な限り損傷の少ない状態で確保せよとのオーダーがきています」
「ラボの連中か」
「ええ。それ以外からも」
 こちらを見向きもしないリッケンをギブスは苦々しい思いで見つめた。情報部調査分析課内に急遽現れたタスクフォース、その実行部隊と課内の橋渡しを行うために抜擢されたリッケンは自分よりも二十は若く見えた。その人事には本部長自らが推挙したという。
畜生。課長補佐だと?俺が課長になるまでどれだけ苦労してきたと思ってるんだ。実行部隊の指揮権は課長たる俺にあってしかるべきだろう?なんなんだ、この若造も、そしてあの女も。
情報本部長がその権力をもってすれば特例人事など、そっと人事部長の耳に囁けばその日のうちに辞令がおりる。わかってはいるが納得のいくはずもないギブスは人事通達とタスクフォースが突然やってきたその日から今日まで、はらわたが煮えくり返る思いをなんとか企業人としての理性、情報部の一課長であるプライドでおさえつけていた。そんな情報部の人間としてはあるまじきわかりやすいギブスから発せられるだだもれの感情をリッケンはどこ吹く風と気にも留めはしなかったが、いささか暑苦しいなとグレンの映像から別のカメラへと切り替え、同時に音量を最大にした。途端、室内には悲鳴と叫び声が響きわたり、ギブスは思わず息を呑み喉まで這い上がってきた憤懣も瞬時に腹の底へと張り付いた。
「失礼しました」
 意気消沈して黙ったギブスに心にもない言葉をさらりと伝えてミュートボタンをタップする。モニタには長い髪を振り乱した女に腕に喰い付かれたデニスが映し出されていた。デニスのもう片方の腕は肘からしたが食いちぎられたように失われ、露になった骨を血液が伝いそこら中に撒き散らしていた。
「……あ、あいかわらず安いB級ホラー映画のようだな」
 治めた苛立ちの変わりに胃液が込み上げる感覚をギブスは取り出したハンカチでおさえ平静を装う。
「ご気分が悪いようでしたら、ご自身のオフィスか社内カフェでご一服されていてはいかがでしょうか。作業が完了次第ご報告に上がります。なに、もうすぐ終わりますよ」
 リッケンは突入部隊にGOサインを出した指揮官、少し離れた席に座るパナガリスに目をやった。
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