雪原脳花

帽子屋

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間奏曲

lamentazione(34)

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 グレンとキャロルは互いにバックパックを一つだけ背負い、中心街にあるセントラルターミナルへ向かって歩いていた。二人が持っていく荷物はこの背中にあるバックパックひとつずつ十分だった。
 グレンが数時間前にここではない、キラキラした場所へ行こうと話すと、キャロルは抱きついて、昔、二人でいつかここを抜け出してどこかへ行こうと話したときから大切にしていたバックパックにお気に入りのぬいぐるみを一つとマフラーと服を数枚畳んで入れると「準備完了」と笑った。

「アタシ、もう少し学校に行っても良かったかも。せっかくお兄ちゃんと通えてたし」
 手を繋いで歩きながら、ふと遠くに学校の屋上が見えキャロルはぽつりと呟いた。
「僕にはもう学校は必要ないけど、おまえには新しい学校を探すよ」

 グレンは少しだけキャロルの手を握る手に力をこめてそう応えた。以前だったら兄の発した言葉は、学校をくだらない人間が集まる場所と、吐き捨てるような意味合いだったが、今は、もうあの学校では学ぶべきことがないという意味として口にしているのだとキャロルは納得した。
 退院してしばらくしてから学校へ通い始めた兄を、まるで人が変わったようだと周囲は言った。だがキャロルはこれが本来の兄の姿なのだろうと、毎日宿題を見てもらいながら思った。ずっと兄が好きだった。病院へ運ばれる前の兄も好きだったが、本来の姿を取り戻した今はもっと好きになっている。
「それにこんな薄暗いところじゃなくキラキラした場所に行きたいっていつも言っていたじゃないか」
「うん。そうだけど」
「母親のことが気になるのか? おまえの足枷になるような親はいらない。そんな親は必要ないんだ」
「母親って……お兄ちゃん、言葉遣いがおじさんみたいだよ。ねぇ本当はあの病院で頭が良くなる薬もらったんじゃないの? それとも年寄りになっちゃう薬とか。ほら、前にお兄ちゃんがよく見ていたテレビ番組で軍や政府が秘密実験して、アンデットとか不死の兵隊を作るとか言ってたでしょ! まさかお兄ちゃんも……」
 一瞬、本気で心配そうな顔をするキャロルに笑ってグレンは応える。
「バカだな、キャロル。そんなことあるわけないだろ。おまえは僕がゾンビにでもなったって言うのか?」
「あ! バカって言った!」
「ごめん。でもテレビの見過ぎだ。頭が良くなる薬なんてもらってない。事故のショックで奇跡が起きたんだ。その奇跡で頭の中が整理され、再構築された。不幸中の幸い、超ラッキーだ。おかげでこうして本来の僕を取り戻すことが出来たんだから。おまえは僕が本当にゾンビや別人だと思うのかい?」
「ううん! お兄ちゃんはゾンビじゃないし今も昔も変わりない!だけど、言葉遣いはおじさん」
「年寄り臭い話し方はダメか。話を戻すが、おまえにはもう親は必要ない。僕がいる」
「ママのことは……いいの。昨日から帰ってこなくなっちゃったし、きっともう帰ってこないと思う。ただ、アニタにバイバイって言いたかったなって。あ、アンニにも!」
「そうか」
「それに」
「なんだ。まだお別れを言う相手がいるのか?」
「おにいちゃんやあたしのことバカにしていたやつらに腐った卵を投げつけてやればよかった」
 グレンはくぐもった声で笑い「腐った卵か、そりゃいいね」とキャロルの頭を撫でた。
「僕もちょっと驚かしてやろうとは思ったよ。おまえほどのアイディアじゃないけど」
「もしかして学校の窓ガラスとかカフェテラスのお皿割ったとか?」
 キャロルがいたずらを発見したような顔で兄を見る。
「ちがうよ。割れているかもしれないが、卵でもガラスでもない」
 兄妹は楽しそうに日の当らない細い路地裏を抜け、光の当たる町の片隅へ出た。
 少し離れた道の向こうで男が路上に座りギターを静かに奏でる音が、まばらに行き交う人の合間を縫って流れグレンの耳に届いた。ぴたりと足を止めた兄を不思議に思い、キャロルが繋いでいた手を引く。
「どうしたのお兄ちゃん? もしかして忘れ物?」
「ああ、すまない。忘れ物はないよ……忘れたりしない」
「じゃあ、早く渡しに行こうよ。この先にいるんでしょ、おじさん」
 きょとんとした顔のキャロルにグレンは笑って「彼に渡す物はおまえが持っているだろう? もしかして、お前こそ忘れたりしてないよな?」からかう。
「忘れたりしてないよ! お兄ちゃんとアタシからのお礼なんだから!」
 キャロルには遠くから響く音色は聴こえていないようだったが、グレンの耳ははっきりと自分を導いた奇跡の音をとらえ、その音に向かって迷うことなく歩き始めた。
 キャロルには事故のショックで奇跡が起きたと説明したが、グレンはこの音こそが、自分を導いた奇跡の音だと信じて疑わなかった。


 あの時のように、開けたギターケースの前にこどもの影が出来て男はその影の主を確かめるように顔を上げた。影の主は、今日は1人ではなく2人で、あの夜のように泣いてもいなかった。
「これ、アタシたちから」
 差し出された少女の手には、最近では珍しい紙の雑誌と古びたスナック菓子の缶が握られていた。男はギターを弾く手をとめ、ずいと差し出された雑誌の表紙に一瞬目を留めたあと、薄い陽の光を遮る二つの影を見上げた。あの夜泣き出した女の子は、今日は随分と晴れ晴れとした顔をしている。そして、背を真っ直ぐに伸ばして立つ少年は、以前、自分の知る彼とは全くの別人に見えた。
「これアタシたちから歌の代金と、それから、あのとき一緒に帰ってくれたお礼。この雑誌はアタシが選んだの……おじさん、モバイル持ってなさそうだからリアルの雑誌がいいかなって思って。それからこれは、お兄ちゃんから」
キャロルは屈んで男の手を取り、掌の上に缶を載せた。缶は今までにない重さがあったが、金属がぶつかる音はカチリとも鳴らなかった。
「今、この蓋あけちゃダメなんだよ。誰もいないところで開けるの。ね、お兄ちゃん」
 キャロルは隣に立つ兄を振り返った。
「キャロルを送ってくれて有難うございました」
「……いや。礼を言われる程のことじゃない。だからこれは受け取れない」
「キャロルのことだけじゃない。僕はあなたの歌に救われた」
「もー、お兄ちゃん、そういうくっさい台詞がおじさんくさいんだよ。お兄ちゃんたら、あの事故のショックで奇跡が起きたとか、歌に救われたとか、そんなことばっかし言うの! たしかに、おじさんの声も歌も素敵だけど、そういう時はクール!! とか、共鳴のイイ波!!って言うの」
「なんだその共鳴のイイ波って言うのは」
「知らないの? リン・キャロノーがよく言ってるじゃん!」
 むきになるキャロルの頭を撫で小脇に抱え込むと、グレンはまっすぐに男を見た。
「僕はあのとき、あの崩れる教会の中であなたを見た気がするんです。実は事故にあったときの記憶は、まだぼんやりとしか思い出せないんですが、確かにあの場で僕はあなたを見た気がする。そしてあなたの歌を聴いて、こうして人生のやり直しを始めている。これはそのお礼でもあるんです。だから受け取ってください」
 男はグレンの変化を伸びた前髪の隙間からうかがう。明らかに少年は“変化”していた。顔や背格好には殆ど変わりがないのに、その表面が内包する何かは異質と呼べるほどの変化だった。
 男の脳裏に、崩れた教会の原因、仕掛けられた爆薬と謎の連中が思い浮かぶ。が、男はそれを口にする気はなかった。言ったところで、自分にはその責任は負えない。連中の正体も理由も狙いも何もわからない。もしいまこの自分の中に沸き起こった不確かな推測が当たっていたとしても、この二人を守ってやる術などないことは百も承知だった。
「俺は、ここで、おまえに教会へは行くなと言っただけだ」
「……そうですか」
 グレンは外された視線に男がそれ以上何も語らないと理解した。
「今はそれでもいいです」
 だが、納得はしていなかった。この目の前の、みすぼらしい痩せたアジア系の男はきっと何かを知っている。そして、あの事故ではなく事件と言われたあの場所に確かにいたのだと疑わなかった。それは、彼が自分と同様なんらかの奇跡の恩恵を受けているのだとグレンは考えていた。このアジア人のあの瞳の中に走った光は、幻なんかではない。
「そう! いいの! これはアタシたち二人の気持ちなの! だから受け取って! もうこれで最後だから」
 キャロルは、ぱっと兄に抱え込まれていたからだを離し、男が返そうとした贈物を力いっぱい男の胸へと押し返した。勢い余って倒れこみそうになるキャロルの体を、男はギターを素早く脇に置くと支えた。
「僕たち、ここを去るんです」
 グレンがトーンを下げて発した声に、一度そらした視線を戻す。
「そうか」
「でも、僕が記憶を全て手に入れたらあなたにまた会える気がする」
「そうそう! またどこかで会いたいな! もしかしたらおじさん、どこかでチャンスを手に入れてビックなロックスターになってるかもしれないしね! アタシ、応援してる。お兄ちゃんじゃないけど、おじさん、歌うまいよ、こんなところで歌ってるのもったいない」
 キャロルは「ロックスターになってもアタシのこと忘れないでね!」と満面の笑顔を男に向け、ハグした。
「……ありがとう、キャロル」
 どこまでも無邪気なキャロルに気圧された男は、小さくだがよく通る声で呟いた。
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