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36話

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 夜道も全然余裕だと思っていた伊吹だが、失念してしまった事に気付いた。

 今日は朔であったか。

 星は輝いているが、夜道が見通せない。
 ある程度方角などは解るにしても、こう暗くては足元か覚束なかった。
 朔に灯りも持たず、夜道に出るのは無謀と言うもの。

 必ず気をつけて朔の夜は避けていたのに……

 自分らしからぬ失態であった。
 どうしよう。進む事も戻る事も出来ない。
 少し道を外れでもしたら、この山は慣れてても迷う。
 もし非ぬ方角に行こうものなら山続きとなり、完璧に遭難する。

 どうするか……
 
 伊吹が困り果てていると、急に馬が勝手に走り出してしまった。

「どうしたんだ! ドウ、ドウ。おい、こら、ああああ」

 普段大人しく、伊吹の言う事を聞く良い馬なのだが、どう言う訳か命令を無視して駆けて行く。
 途方に暮れていた伊吹は馬から降りて思案していた為に、置いていかれてしまった。

 俺は馬にまで見捨てられてしまったのだろうか。
 なんだか惨めだ。

 こうなったらもう、ここで野宿するしか無いだろうか。
 伊吹は、そう覚悟して木の根元に腰を下ろした。

「伊吹!?」
「うわぁ!!」

 暗がりがら徐に伸びてきた白い手。
 その手は伊吹の腕を掴む。
 思わずビックリし、悲鳴を上げた伊吹であるが、自分の名前を呼ぶその声には聞き覚えがある。

「と、殿?」

 そうだ。殿の声だ。

「こんな所で何をしているんだ! 馬だけ走って来たぞ。怪我でもしたのか? 何で袖が無いんだ!?」

 矢継早に言う春岳。
 流石に伊吹も夜目に慣れ、直ぐ側に立つ春岳の顔が見える。
 春岳は凄く焦った表情をしていた。

「申し訳ありません。夜目が効かずに立ち往生してしまいました」
  
 殿に迷惑を掛けてしまった事に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる伊吹。
 頭を下げる。

「馬は何故か急に走り出してしまいまして…… 片袖が無いのは途中、ゲガをした婦人の止血に使った為です私自身は怪我はしておりません」

 春岳の質問にも答える。
 殿に心配をかけてしまった。

「そうか、俺が近くまで来た事に気付いて呼びに来てくれたのだろう。本当に賢い馬だ。伊吹が無事でよかったよ」  

 伊吹が無事で良かったと、胸を撫で下ろす春岳。
 馬を撫でて褒めてやった。

「帰ろう」

 伊吹を抱きかかえると、馬に飛び乗る春岳。

「殿、荷はいがが致しましたか?」

 二人が乗れる場所は無かった筈だ。
 と、言う事は……

「その辺に放った」
「なんて事を……」

 春画を道中に放り投げるなんて、誰かに見られたら何と思われてしまうのだろう。

 伊吹は顔が熱くなってしまう。

「そんなに大事な物なのか? なら明日、朝一で取りに来てやるから……」

 焦った様子の伊吹を慰める様に言う春岳。
 それにしても、一体、あの荷は何だっただろう。

「お願いします。誰かに見つかると本当に恥ずかしいので……」
「一体何なんだ? 随分重たかったが?」

 顔色まで良く解らないが、伊吹は恥ずかしがっている。
 そんなに伊吹が恥ずかしがる重い荷物が検討も付かず、聞いてしまう春岳だ。

「春画です」
「ん?」

 聞き間違いか?
 春画?
 あんなに沢山?
 伊吹が?

「殿の趣味や趣向を知りたいと思いまして…… 春画ならば読んで頂けるかと……」
「あー……」

 なるほど……
 
 春岳は何だか気まずくなりつつも、ハッと、馬に掛け声を掛けた。


「殿、早い、早いです!」

 夜道も関わらず、スピードを感じて怖がる伊吹。

「私は夜目が効くので安心して下さい。あと、馬は夜目が効きますので彼に任せておけば良かったのですよ」

 伊吹が見えなくても、この馬ならば無事に伊吹を城まで運んでくれた事であろう。
 降りられてしまって困っただろうな。

「そ、そうなんですか!?」
「全く、名調教師なのに。ハイヤー!」

 何でも知っている様で、ちょっと抜けている伊吹が可愛い。
 アハっと笑ってしまう春岳だ。

「ああーー、でも本当に、ちょっと早い!!! ドウ! ドウ!!!」

 春岳や馬がどうかは知らないが、伊吹は全く見えないのに速さを上げられ、流石に怖すぎる。
 伊吹は無意識に春岳にしがみつき、馬に静止を促すが、やはり手綱を持つ春岳の言う事しか聞いてくれないのだった。

 春岳がしっかり伊吹を抱きかかえているので、落とす心配は無いのだが、必死にしがみついて来る伊吹が可愛くてニヤけてしまう春岳だった。
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