桜の朽木に虫の這うこと

朽木桜斎

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第3章 そして虫たちは這い出す

第77話 人間論

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「お師匠様ししょうさま、最高の勝負を、ありがとう、ございました……」

 ウツロの目から一筋ひとすじなみだしたたちた。

 たおんだ大きな山犬やまいぬの体がどんどんちぢんでいって、もとの似嵐鏡月にがらし きょうげつの姿へともどった。

「……なぜ、なぜだ……」

 彼は薄れた意識の中、まだそう問いかけていた。

 ウツロもまたもとの姿へと戻り、その場にしゃがんで、りんと正座をした。

かせをはめられ、くさりにつながれていることに立ち向かうからこそ、自由の大切さがわかる。存在を否定されることに向き合うからこそ、自分を肯定こうていできる。矮小わいしょうな自分を認めるからこそ、勇気をしぼることができる。悪を思うからこそ、善に向かうことができる」

 星川雅ほしかわ みやび南柾樹みなみ まさき真田虎太郎さなだ こたろう、そして真田龍子さなだ りょうこ――

 みんなはウツロが自分たちへ向けて、それぞれ言ってくれたことを理解した。

 そしてそれは、ウツロが自分自身へ向けて言ったことでもあり、無理やり言いきかせているのではなく、本心からそう思えたことだった。

 ウツロはこのとき、すべての存在を肯定することができたのだ。

 自身をのろう父までも。

「お師匠様、俺は毒虫だってなんだっていい。毒虫が自分のみにくさを呪ったら、本当に毒虫になってしまう。立ち止まっている毒虫ではなく、俺は、いつづける毒虫になりたい。きっとそれが、人間になるということなんです。それが俺の、『人間論』です……!」

 ウツロはこのように、決然として言い放った。

 似嵐鏡月は少年時代の自分を思い出した。

 思索しさくぐ思索の果てに形成された「人間論にんげんろん」。

 その解答を必死で見出みいだそうとしていた。

「……どうやらわしは、もうひらこうとして、逆にしずんでいたようだのう……」

 鏡月、この能なしが!

 貴様は似嵐の面汚つらよごしだ!

 くすくす、鏡月、またお父様にしかられて。

 本当に、ダメな弟よね。

「わしはただ、ほめてもらいたかった……親父に、姉貴に……それだけなのに……」

 ウツロは悲痛な気持ちになった。

 自分の人生をもてあそんだ父。

 だが、彼もまた、弄ばれた存在だったのだ。

「ウツロよ、わしは自分に負けた……だがお前は、お前というやつは……」

 似嵐鏡月の顔が次第しだいおだやかになっていく。

 うまく言えないけれど、いい気分だ……

 彼は心の中のくもりが晴れていくのを感じた。

「ウツロよ、わしにとどめをすのだ」

「……!」

 その言葉にウツロは衝撃を受けた。

「それだけのことを、わしはお前たちにした。人としてあるまじきこと、生きている価値などない……さあ、ウツロよ、頼む……!」

 ウツロはアクタのほうを見た。

「……ウツロ、お前にぜんぶ、任せるぜ……」

 兄の委任いにんを受け、ウツロも覚悟を決めた。

「されば、お師匠様……!」

 彼は立ち上がり、師に向けてびかかった。

「お覚悟!」

 似嵐鏡月は目を閉じた。

 だが、土をえぐにぶい音を首の横に聞き、再び目をけた。

 ウツロの黒刀こくとうは師をとどめてはいなかった。

 歯を食いしばって涙をこらえる息子の顔が、眼前がんぜんにある。

「……お師匠様、あなたがここで死を選んだのなら……いままであなたに踏みにじられた者の存在は、なんだったというのでしょうか……?」

「……」

「あなたがなすべきことは……生きて、それらへのつぐないをする……それしかないのではありませんか……?」

「ウツロ……」

「生きてください、お師匠様……! そしてまた、アクタと三人で、隠れ里で暮らしましょう……!」

 これを聞いたアクタは、満足そうに落涙らくるいした。

 似嵐鏡月も同様だ。

「……完全に、わしの負けのようだな……そして、強くなったな、ウツロよ……」

「……」

「お前はもう、毒虫などではない……はばたけ、はばたくのだ、ウツロ……!」

 ウツロはこらえきれずに、涙をこぼした。

 その場にいる全員が、泣いていた。

 いままでバラバラだったものを、ウツロがひとつにつなぎ合わせた。

 みんながみんな、それがうれしくてしかたがなかった。

 夜空よぞらが少しずつしらいでくる。

 もう夜明けか。

 しかしそれは、特別な意味での夜明け。

 みんながそう思っていたとき――

「……!?」

「な、なんだ、この音は……!」

 星川雅と南柾樹はあたりを見回した。

「地震……いえ、違うわ……!」

「姉さん、何かがおかしいです……! 気をつけて……!」

 真田虎太郎は姉・龍子を守った。

「いったい、なんだってんだ、こんなときによ……!」

 アクタも満身創痍まんしんそういながら、身を守るしぐさをした。

「この感じ……まさか、まさか……!」

「お師匠様、お気をつけください……!」

 ウツロも地面にしている師をかばった。

 地鳴じなりはどんどん大きくなり、地は割れ、桜の森はけていく。

 そして鎮守ちんじゅ一本桜いっぽんざくら一同いちどうを残して、すべてが粉々こなごなくだった。

 暗黒の世界と化したその空間。

 一本桜がにわかにうごめきだす。

 みるみるうちに巨大化し、アクタ以外の全員が知る、忘れもしない、いや、忘れることなどできない、あの異形いぎょうの王の姿へと、変貌へんぼうげた。

「これは、魔王桜まおうざくら……」

(『第78話 降臨こうりん』へ続く)
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