獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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八十六、ミノイ - la vérité de Minoi Elvino -

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 セレン・ビアンカ・バルカは軍門の出だ。
 父親ジグはオーレン・シトーがまだ軍に入ったばかりの、ただの漁師の子だった時分からの付き合いで、オーレンが王になるとその家臣となって軍部の法務を総括した。エマンシュナとの戦で命を落とした二人の兄は自分の隊を持っていたし、現在嫡男となった三番目の兄アジロ・バレンも、今や多くの兵を束ねる司令官だ。末娘のセレンはそういう父や兄たちの背を見て育った。憧れてもいた。しかし、女の自分は戦場で戦うことは許されない。
 だから、自分が誰かを守る存在になれた時、心から嬉しかった。くりくりと大きな黒い目をした愛らしい姫から、生涯離れないでいようと幼心に誓った。
 ミノイ王子からの愛を受け入れたのも、どこかにそういう気持ちがあったからかもしれない。
 キセの兄であるミノイと結ばれれば、よその家から舞い込む縁談などに邪魔をされず、ずっとキセのそばにいられるのではないか。心優しく生真面目でどこか繊細なミノイに心惹かれながら、心の奥にずっとそういう打算があった。誰かと恋に落ちても、セレンの世界はキセが中心だった。今もそうだ。
 たとえ、キセの愛する男がミノイを死へ導いたと知っても、それは揺るがない。
 セレンはたった今目の前に差し出された金色のボタンを凝視した。
 傷だらけで、模様は潰れかかっている。
 それでも、はっきりとわかる。広げられた鷲の翼の中に二枚の羽が彫られたボタンを、セレンはかつて何度も外し、その下の肌に触れた。
 キセは、テオドリックがミノイを殺したとは言わなかった。キセにとっては、ミノイの死はテオドリックの手によるものではなく、戦と、それを起こした全てのものが原因だからだ。
「わたしは、セレンには秘密を持てません」
 そう言ってミノイが命尽きる時に身に付けていたボタンをセレンの手のひらに乗せた時、キセは不自然なほど表情を消していた。
 きっと悲嘆に暮れる余地をセレンに残すためだ。キセが傷付いた顔をしたら、彼女に骨の髄まで忠実なセレンはそれ以上に悲しむことはできない。そういうキセの情の深さを、セレンは知っている。
 ラピスラズリ色のセレンの目から、まるで泉が湧くような自然さで涙が流れた。
「わたしを許してください、セレン」
 キセはボタンをかたく握りしめたセレンの手を小さな両手で包んだ。セレンが流す涙を初めて見た。声が震えないように喉を引き絞っているから、喉の奥がヒリヒリと痛い。
「こんなに残酷な話を聞かせても、あなたにそばにいて欲しいわたしを許してください」
 この瞬間のセレンは、情緒を収めておく甕がひっくり返ったようになった。
 飛び上がるようにしてキセに強く抱きつき、子供のように声をあげて泣いた。忠誠心と悲しみが互いを引き裂き合い、悲鳴をあげている。
 呼吸が上手くできないほど、キセは胸が苦しかった。それでも自分が苦しむ素振りを見せてはいけない。今はただ、セレンだけの主君でいるべきだ。
 キセはセレンの慟哭が止むまで、無言でその身体を抱きしめた。一時間ほど経って寝室に静寂が戻った頃、キセの微風のような声が空気を小さく震わせてセレンの耳に届いた。
「あなたの忠誠心と、忍耐と、愛に、感謝します、セレン・ビアンカ。心からあなたを愛しています」
 目元を赤くしたセレンが顔を上げて唇を引き結び、キセから離れて、その手を取り、足元に跪いた。
「わたしの命は尽きるまで、姫さまのものです。この国にも、王太子殿下にも、憎しみはありません」
 セレンの言葉に嘘はない。キセは心底この侍女を愛おしく思いながら、柔らかく笑んだ。切ない思いがした。憎しみはなくても、生涯その悲しみが消えることはないだろうから。
 セレンは意を決したように眦を上げ、主人に懇願した。
「お願いです、姫さま。テオドリック殿下に、ミノイ殿下の最期を聞く許可をください」
 この願いはすぐに叶った。
 キセはあまり気が進まなかったが、こうなることは予想していた。ミノイの死の詳細については、キセも知らない。自分から聞くこともなかった。聞くのが怖い、というよりも、テオドリックの心の傷を抉ることになると思ったからだ。
 初めて自分がミノイを殺したと小さな礼拝堂で告白したテオドリックは、絶望の淵に立つような顔をしていた。もうそんな顔をさせたくない。
 しかし、これはセレンとテオドリックにとっての、超えるべき試練なのだ。最もそばに仕える人間がこの国にわだかまりを持ったまま、その主君であるキセが未来の王妃になることは許されない。
 執務室に現れたキセとその侍女を、テオドリックは革張りの椅子から立ち上がり、無表情で迎えた。無論、テオドリックもこの事態を想定していた。
「わかっていると思うが――」
「承知しています。姫さまの意志がわたしの意志です」
 この時には、セレンはすっかりいつもの軍門の女の顔に戻っている。
 キセにとって意外だったのは、テオドリックが当時感じた恐怖までをも包み隠さなかったことだ。
 突然起こった戦闘に恐怖し、竦んでいると斬りかかられ揉み合いになり、僅かな差でテオドリックが夢中で振った刃が先に襲撃者の頚椎に届いた。この経緯を、テオドリックは淡々と語った。
「戦った」
 とは、テオドリックは言わなかった。軍人なら雄々しく戦って相手を斬り伏せたと言うかもしれない。が、あの行為はただの、消えかかった生命に必死でしがみ付こうとした泥まみれの男の、薄汚い悪足掻きだった。
 しかし、セレンは手のひらに乗せた金のボタンを眺めながら、穏やかに言った。
「では、女神は戦いの勝者にあなたを選んだのですね」
 テオドリックは答えず、セレンの手にあるボタンを凝視した。生命をなくした男の身体が血しぶきを上げながら自分の上に崩れ落ちてきた時の、恐怖と混乱が胸の内に蘇ってくる。
「ミノイ殿下は軍でも一二を争う剣士でした。その彼が敵の王太子を狙ったのなら、本気で殺そうとしたはずです。それでもなお、あなたはあの海から生還した。それが運命です」
 そうだろうか。テオドリックは自問した。
「…あの時は、ひどい乱戦だった。ミノイ王子が王太子と知って俺の命を狙ったのかは、今となっては――」
「ミノイはあなたを王太子と認識した上で狙ったはずです」
 セレンはキッパリと言った。
 キセにはその理由が分からなかった。が、何も訊かず、ソファの上で膝に手を置き、置物のように二人の話に耳を傾けている。
「彼は――」
 と、セレンがひどく申し訳なさそうな顔でキセの顔を見た。
(あ…)
 と、キセは悟った。
 自分との結婚に関わることだ。
「――アクイラ海峡へ発つ前、わたしに求婚しました」
 先に恋人のセレンと結婚してしまえば、妹の人生にも自分の人生にも間違いが起こらないと考えたのだ。しかし――
「わたしは拒絶しました」
 知らなかった。キセは驚いた顔をしないように精一杯表情を消した。ミノイが楽しそうにセレンと結婚した後の人生について語る姿は、まだ記憶の中に残っている。
「わたし、彼を傷付けたまま、アクイラ海峡へ送り出しました。あんなに追い詰められている人を、突き放して…」
 セレンは言葉を飲み込んだ後、しばらく沈黙して、二人に話の続きを聞かせた。

 ミノイの出生は不運に満ちていた。
 オーレンがクーデタにより前国王をしいし自らが王になった時、前王朝の一族のうち、反抗した者は殺され、恭順を誓った者は氏を変えて前王家とは絶縁することを条件に赦された。前王朝の直系の子孫は、既にいない。しかし、将来彼らの血を継ぐ者が自らが持つ王権の正当性を主張して反乱を起こしかねないことを危惧し、オーレンは生き残った者のうち前王家に最も血縁が近い高貴な女を側室として招くことを試みた。が、既に女には夫がいた。夫は、オーレンに従ってクーデタで奮戦した将校だった。
 女は身籠もっていた。それも、身体が急激に衰弱していく病を発していた。
 戦場では鬼が如く恐ろしい将軍であっても、オーレンは生来情に篤い男だ。特に女人にはめっぽう弱い。自分も初めての子が生まれたばかりだったから、いっそう彼女に同情した。
 オーレンが人間らしい一面を曝け出して相談する相手は、年上の幼馴染みで子供の頃は姉のような存在でもあった第一王妃ユヤ・マリアだ。
 ユヤ・マリアはあっけらかんとして言った。
「生まれる子をうちの子にしてしまえばよいではないですか」
 前王朝の末裔がシトー家の子になれば反乱分子への牽制になる。というのはオーレンも考えていたが、ユヤ・マリアにはそれよりも現実的な配慮があった。実の母親は病の治療に専念でき、その夫は慣れない子育てよりも妻の看病に時間も金も費やせる、というのである。
 大義名分として悪くない。政治的な思惑のこの養子縁組を、あわよくば世間への美談として喧伝できる。オーレンにはそういう考えがあった。
 結果、その通りになった。
 しかし、実の両親の方はそうはいかなかった。実母はミノイを出産したあと、ユヤ・マリアが手配した優秀な医師が手を尽くしたものの産褥のうちに死に、実父はよほど妻への愛が深かったのか、心を病んで軍を辞め、どこぞの山奥に隠居してしまった。五年後、ユヤ・マリアのもとに病死したと報せが届いた。
 そういう経緯で、血の繋がりはなくともミノイの家族はシトー家の他になかった。父を尊敬し、母たちを敬愛し、常に兄と競い合い、弟妹には甘すぎるほどに優しかった。
 兄弟の中で自分だけ灰色の目をしていることに疑問を持ったのは、キセが生まれた頃だったらしい。ユヤ・マリアは子供に言うようにではなく、九歳のミノイを一人の男として見なし、包み隠さず丁寧に話して聞かせた。この時、「生まれたばかりの妹が将来妻になるだろう」と言われていた。ユヤ・マリアにとっては、実の息子同然に愛するミノイを名実ともに家族として迎え入れるための手段でもあった。
 ミノイはその実父の性質を受け継いだのか、ひどく生真面目な性格だった。――思い詰めやすい性質だ。自己に対して異常に厳しく、剣術であれ馬術であれ、常に一番を目指し、目標に達しなければ納得のいくまで分析をし、周囲が見れば怖気がするほどの鍛錬を積んだ。
 周囲はミノイを徹底した完璧主義者だと思ったが、彼には負い目があった。愛してやまないシトー家の血を引いていないというこの一事が、ミノイ・エルヴィノをして常に完璧な自分でいようと思わしめた。
「自分を殺したいみたいに見えます」
 と、セレンが声を掛けたのはいつだったか。彼女にも思い出せない。
 多分、十五、六の頃だ。ミノイが愛の告白に赤いチューリップをセレンに捧げたのは、その少し後だった。まだ幼いキセと姉妹のように常に一緒に行動していた侍女のセレンは、シトー家の他の兄弟から見ても親類のような存在だった。
 その二人が恋仲になってから、ミノイに変化があった。常に完璧であろうとすることを、セレンの前ではやめた。同時に、キセとの結婚を避ける方法を密かに模索し始めた。が、王と王妃には言えなかった。特に、自分を息子にしてくれたユヤ・マリアをがっかりさせてしまうのではないかと案じていたからだ。愛する母を失望させたくはない。しかし、セレンを女性として愛し、一方キセは妹として愛している。キセとの婚姻が成ったとすれば、ミノイにとってそれは近親相姦と同等の罪悪になり得た。
 ミノイがこの状況から脱却するために考えたのは、相応の「軍功」だ。
 前王朝の血ではなく、シトー家の名でもなく、軍功をもって自らを祖とする家を興し、シトー家の連枝という扱いを受けられれば、キセを娶ることなく堂々とシトー家の一員として、セレンを妻に迎えることができるのではないか。
 突飛な思いつきのようで、ミノイにとっては唯一考えつくことのできる現実的な計画だった。
「エマンシュナ王の首を取ったら実現するかな」
 と、セレンにこぼしたのは、泥の道の事件が起こるひと月ほど前のことだ。
 セレンは自室の鏡台に向かって乱れた髪を整え、狭いベッドに裸のまま横たわるミノイに下着姿のまま腕を組んで凄んで見せた。
「そういう冗談は笑えません」
 この時ミノイは苦笑しただけだった。セレンもまさか本気とは思っていなかった。
 休戦協定の調印のためにアクイラ海峡へ発つ前に、ミノイはセレンを呼び出して突然求婚した。
「準備が整ったら、結婚してくれ」
 ミノイの目は、暗く翳っていた。いつもの優しい目ではなく、殺人者のような鋭さに満ちていた。
「今はまだ、できません」
 としか、言えなかった。
 ミノイが何を考えているか、分かりたくなかった。ただ、漠然とした予感があった。
 もしこの時妻になると言っていたら、ミノイは自ら罪深い道へ進み、沈んでいっただろう。そうとしか、セレンには思えなかった。
 そして、泥の道でエマンシュナ軍の後方から矢が放たれた瞬間は、ミノイにとって予期せず訪れた絶好の機会だったに違いなかった。敵の王太子の首を、大義名分を持って戦利品とし、自分の計画を遂行するための供物にできる、唯一の好機だ。
「――ですから」
 と、セレンは言う。
「ミノイがあなたを狙ったのはあなたがアストル家の王太子だからです。あなたは襲撃者から身を守り、生き抜いた。それがあの日起こった全てです」
 キセは堪らずソファから立ち上がって、飛びつくようにセレンを抱き締めた。静かに、そよぐような声で、祈りの言葉を歌うように唱えた。
「きよきみたまは御母みおもがもとへ還り、沖つ波にかがやく粒になるでしょう。きよきみたまは御母がもとで、とわの光によろこぶでしょう。とわの光は――」
 キセは喉を引き絞った。ひりついて刺すように痛い。
「――われらに祝福を与えるでしょう。いつかわれらが御母がもとへ還るとき、しるべとなるでしょう」
 セレンを抱き締めるキセの袖が濡れる。キセは祈りの言葉を繰り返した。
 祈りが終わった後、ボタンを執務机に置こうとしたセレンに、テオドリックは言った。
「あんたが持っていてくれ。それもあるべき場所に還るべきだ」
 セレンはボタンを握りしめ、テオドリックに向かって膝を曲げた。
「テオドリック殿下、願いを聞いていただけますか」
「なんだ」
「ミノイ殿下の名誉のため、このことは全てここだけの話にしてください。勇敢で、誠実で、心優しいミノイ・エルヴィノ・シトーを人々の記憶に残しておきたいのです。どうか、彼を想う者からの願いです」
「――わかった」
 セレンは畏まって頭を下げ、テオドリックに初めて心からの笑顔を見せた。
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