高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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10 ドレスの一計 - une bonne couturière -

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 翌朝、イオネは早速ソニアに仕立屋を手配するよう願い出た。
 ソニアの反応は、イオネがちょっと驚くほどだ。空色の目をキラキラ輝かせ、まるで何かの記念日に欲しいものを贈られたように嬉しそうにしている。
「アリアーヌ教授!」
 と、ソニアはイオネの仕事用の鞄を手渡しながら、勢いよく言った。
「よろしければ、ドレスのお仕立てはわたくしにお任せくださいませんか」
 イオネは目を丸くした。いつも控えめなこの侍女がこれほど強く主張してくることは珍しい。イオネとしてはあまり公爵家の世話になりたくないところだが、ソニアがどのような才覚を持ち合わせているのかということには、正直ひどく興味をそそられる。
 何しろソニア・ラブレという一見普通の少女のような侍女は、イオネが欲しいと思ったときに望ましい温度の茶を出し、インクや紙を常に一定の量に保ち、イオネが何を言うまでもなく朝になったら気候や気分に相応しいドレスを用意している。それでいて、恩着せがましく煩わしい世話を焼いてくることが一切ないのだ。優秀であるという以上に、彼女の心根の素直さが、イオネのソニアに対する興味に繋がっている。
「お願いするわ」
 イオネが微かに目元を和らげて言うと、ソニアの顔がぱあっと明るくなった。イオネが鼻白むほどの輝きだ。
「では早速、本日の帰宅時間に合わせて仕立て屋を手配しますね。お帰りになったら書庫ではなく一階のサロンにいらしてください。靴と宝飾品はいかがしましょうか。どうせならドレスとお揃いに――」
「待って。ソニア」
 イオネは片手を上げて制した。やる気に水を差すことは忍びないが、残念ながらイオネの予算はそれほど多くない。
 が、この有能な侍女は心得ている。
「ご安心ください、アリアーヌ教授」
 ソニアは胸を張った。
「ご予算の中でやりくりします。ドレスはわたくしが裁断から縫製までいたしますから、掛かるのは生地の費用だけです。浮いた予算で靴や装飾品も賄えます」
 聞きたいことを先に言われてしまった。よく頭の回る子だ。
 イオネは苦笑して執務机の上の紙片とペンを取ってサラサラと走り書きをし、ソニアに手渡した。
「これが予算よ。それからわたし、首にまとわりつくものは好きじゃないの。色にもこだわりはないし、締め付けのきついものでなければ形は何でも良いわ。あとはあなたの好きにして」
「お任せください」
 ソニアは満面の笑みで応じた。

 この日の昼下がり、大学からコルネール邸へ戻ってきたイオネは、鼻息荒く待ち構えていたソニアによってあれよあれよという間に来客用のサロンへ引っ張り込まれた。
 既にふくよかな生地屋の女将が繊細な地織りの美しい黒のドレスを纏って待機し、年若く上品な奉公人たちに夥しい数の筒状に巻いた生地を運ばせている。色とりどりで、どれも繊細な地織りや刺繍が施され、ごく僅かな地域でしか行われていない染色のものもある。一目見ただけで、これらの価値は明白だ。
(生地だけだとしても、本当に予算で収まるのかしら)
 代金のことが心配になったが、後の祭りだ。全てをソニアに一任している。信頼して任せるほかない。
 よく見るとその手には、何枚かのデザイン画が握られていた。どれも襟が広く、高い位置にウエストラインがくる。普段から前時代的で煩わしいコルセットを使わないイオネのために、後方に襞を寄せたボリュームのあるスカートを下に履き、後ろ腰を少し膨らませるような形になっているものや、或いは、敢えてスカートにボリュームをつくることなく襞を流麗に広げて足元へ流れ落ちるような襞を広げ、足元を優美に見せるものもある。その他のデザインもイオネの好みに合い、軽やかながら上品な美しさの際立つものだ。
 イオネは目を見張った。朝から数時間でこの仕事ぶりは、並大抵の才覚ではない。
 ここでのイオネの役割は、姿見の前で人形になりきることだった。
 女将が広げた生地をイオネの肩から腰へと当て、ソニアがそれを見たこともない鋭い視線であらゆる角度からじっくりと観察し、「こっちの方がお肌の色が映える」とか「髪の色にはこっちの方がいい」とか、「襞を大きく作るならこの生地」とか、女将と専門的な相談をしている。
 そこへ、招かれざる客が現れた。
「仕立屋を呼ぶ場所を提供してくださって感謝するわ、寛大なルドヴァン公爵閣下」
 イオネが皮肉たっぷりにサロンの入り口へ視線を向けると、袖を捲った腕を組んで立つアルヴィーゼが面白そうに唇を吊り上げ、指をちょいちょいと動かしてソニアに合図を送った。
 訝しげに首を傾げながらソニアが主人のもとへ向かう様を、イオネは奇妙な気持ちで見ていた。アルヴィーゼがソニアに直接用事を言いつけるのを見たことがない。彼女に何か命じるときは執事であるドミニクが来るのが通常だ。
(いやな予感…)
 まさかドレスの仕立てに口を出すつもりではないだろうか。と、イオネが怪しんだのも無理はない。アルヴィーゼがソニアのデザイン画をぱらぱらと見て、イオネには聞こえない程度の声で何かを命じているのだ。
 口を挟むなと面と向かって言ってやろうと思ったが、女将がイオネの身体に巻き尺を当てて採寸を始めてしまったために身動きが取れない。イオネが今年の秋の流行色について話しながら腰回りの採寸を続ける女将に相槌を打っているうちに、ソニアがアルヴィーゼにぺこりと頭を下げてこちらへ戻ってきた。
 アルヴィーゼは中に入ってくることなく、サロンの入り口に立ったままイオネに笑いかけた。
「では、また晩餐の席で。アリアーヌ教授」
「今日も?」
 最初の夜に食事の時間を合わせる必要はないと宣言しておいたにもかかわらず、ここのところはイオネが食事のために食堂に赴くと、必ずと言っていいほど先にいる。苦痛とまではいかないものの、会話もそれほど多いわけではないし、喋れば八割の確率で皮肉の応酬になる。それがなかったとしても、イオネはどちらかと言えば一人で食事する方が性に合っているのだ。
 が、公爵は当然のように言った。
「そうだ」
 優雅に笑いかけて去るアルヴィーゼに向かって、イオネは威嚇するように鼻に皺を寄せた。ソニアは何事もなかったように生地選びの作業に戻っている。
「公爵は何の用事だったの?」
「えぇと…、わたくしの通常の仕事に支障が出ないか確認にいらしたようです」
 いつもハキハキと言葉を口にするソニアにしては、やや歯切れが悪い。が、イオネは神妙に頷いた。無理もないと思ったからだ。
「わたしがあなたにドレスの仕立てまで任せてしまったせいね。もし差し支えるようなら、わたしの身の回りのことはいいからドレスの方に集中してもらって構わないわ。お茶の用意も着替えも自分ひとりでできるもの」
 今はイオネの侍女についているとは言え、ソニアは公爵家の女中なのだ。ソニア本人からの提案があったとはいえ、考えが甘かったと自省した。ところが、ソニアは勢いよく首を振った。必死の形相だ。
「いいえ。いいえ、アリアーヌ教授。まったくもって、全然差し支えませんので、ご安心ください!」
 その勢いにやや気圧されながら、イオネはこくこくと頷いた。
 
 この日の晩餐へは、いつもより二時間も遅れて行った。意図したのではない。予定外の翻訳の仕事を受けたために、作業に没頭してしまったのだ。
 アルヴィーゼは食事を共にするつもりのようだったが、きっと先に終えて部屋へ戻っているだろう。向こうが一方的に決めた勝手な予定に過ぎないものの、僅かばかりの罪悪感がなくもない。
(でも、時間を合わせる必要はないと言ってあるのだし)
 と、イオネは自分を納得させた。
 ところが、食堂にはアルヴィーゼが座っていた。貴婦人との晩餐に相応しく、カジュアルながらきちんとした装いだ。
 それも、食事を先に取った形跡はなく、待っているあいだ書類をテーブルに置いて仕事をしていたようだ。
「来たか」
 アルヴィーゼが書類から顔を上げた。
「どうしているの?」
「俺は礼儀を知ってる」
 イオネはきょとんとしてアルヴィーゼの顔を眺めた。自分から晩餐に誘っておいて先に食事を始めるような礼儀知らずではないと言いたいのだろう。表情から察するに、別段腹を立てているわけでもなさそうだ。
「複雑な人」
 寛容なんだか、冷淡なんだか、なんとも人間性が掴みにくい。
「お互いさまだ」
 アルヴィーゼはにべなく言って、表情の少ないイオネの顔を見ると、椅子から立ち上がって礼儀正しくイオネが席に着くのを促した。
「どうも、公爵」
 わざわざ椅子を引きに来ないのは、イオネがそういう煩わしい扱われ方を望んでいないと理解しているからだろう。
 イオネは自ら椅子を引いて座ると、アルヴィーゼに微笑を向けた。
「あなたって他人に興味を持たない割に、相手を理解する能力に長けているのね。むしろ興味を持たないからこそ主観的な概念を持たずに他人を理解できるということかしら。逆説的ね。不思議だわ」
 アルヴィーゼは応えず、じっとこちらを見て黙している。給仕係が食前酒を運んできたが、それに手を付けるよりもイオネの顔を覗き込む方が優先事項のようだ。
「…飲まないの?」
「ああ」
 アルヴィーゼは唇だけを動かして応えた。その深い緑色の視線が、何故かちくちくと痛い。グラスを持つ指の先までぴりぴりと神経が張り詰めるようだ。
 この男の視線は、身体に悪い。そんな気がする。
「珍しいものを見た」
 グラスを手に持ったアルヴィーゼの顔に、笑みがゆったりと広がっていく。
「珍しいもの?」
 掲げたグラスの蜜色のワイン越しに視線が絡む。弧を描くアルヴィーゼの目を見た瞬間、何を言われているのか理解した。
「失礼ね。わたしだって笑うことはあるわ。楽しくもないのに愛想笑いをしないっていうだけよ」
「では今は楽しんでいるということだな」
 イオネは顔をしかめ、グラスに口をつけた。顔が熱くなったのは、酒のせいではない。
「苦ではないと言う方が正確だわ」
 アルヴィーゼがおかしそうに片方の眉を上げた。
「それで、用件は?わたしをわざわざ待っていたのは、何か用があるからでしょう?」
「用がなければ食事を共にできないのか?同居人どの」
「ええ、そうよ。最初の日に言った通り、あなたとわたしには私的な関係はないもの」
 イオネはツンと顎を上げて、運ばれてきた前菜のプロシュットとレタスにフォークを刺した。ふ、とアルヴィーゼが吐息で笑う声が聞こえる。
「では仕事の話を。提携業者の選定について」
 アルヴィーゼの宣言通り、その後の食事の時間はほとんど仕事の話に費やした。
 船長を紹介している組合の特徴や、船長や船員との報酬の交渉などについては、アルヴィーゼよりもイオネの方が詳しい。かつて父がするのを一番近くで見てきたからだ。
「エマンシュナの南岸くらいまでならエウデュケ組合、ウェヌス大陸まで行くならネレイア組合がいいわ。どちらも報酬の相場はルメオの船員組合の中で一番高いけど、その分経験豊富で信頼できる船長が雇える。新参者なら尚更出し惜しみしてはその程度かと舐められるわ。あなたがまさかそんなことするはずはないと思うけど」
 イオネはキジ肉のポワレを切り分けながら言い、口に運んだ。何故か、アルヴィーゼの視線がまた刺さるように感じる。
「なるほど。参考にしよう」
「それから、交渉前に通達するといいわ。行き先と積み荷、積載量と品目を明記してね。組合長に直接話すのよ。この日のこの時間に、コルネール家の誰がここに来ると明確にした上で。自分たちが信頼の置ける者であって、あなたがたと確実な仕事ができると示すの。ルメオの商人は大らかそうでいて意外にも細かいところを注視しているわ。交渉時の対応の迅速さから、万が一船が事故に遭ったときの補償に至るまで――」
 イオネが話している間に、アルヴィーゼは既にメインディッシュを食べ終え、食後のグラッパを飲みながら耳を傾けている。
「俺はお前にとって信頼に足るか?」
「ええ。無駄と隙のない仕事ぶりに関しては」
 イオネはデザートのマルメロとモモのピューレまで食べ終えた後、食後酒を辞退して茶を所望した。
 どういうわけか、仕事の話を続けるわけでもなく、アルヴィーゼがこちらの様子を眺めてくるのがどうにも落ち着かない。
「公爵――」
 堪りかねてイオネが口を開いた。
「わたしの食事が終わるまで待たなくていいわ。というか、待たないで。食べているところを人にじろじろ見られるのには慣れていないし、好きじゃない。落ち着かないの」
「そうか。だが俺の言動は俺に決定権がある」
 アルヴィーゼはそれだけ言うと、特に席を立つでもなく、相変わらずイオネを観察している。
(意味がわからない)
 この男の言動に意味を求める方が間違っているのかもしれない。なにしろ、反応を面白がってわざと喧嘩をふっかけてくるような、悪童じみた男だ。
(気にした方が負けね)
 それなら黙殺という手段で抗戦するまでだ。
 それにしても、奇妙だ。見られていると自覚した身体の部分が、ちくちくと痛い。何か感覚を奪われていくような気がする。
 この男の視線は、やはり身体に悪い。
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