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十二 安息ではない日曜の夕べ - une soirée du dies Solis dur -

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「ひゃあ!ちょ、ちょっと待って…!」
 イオネはプルプルとさせながら片足を踏み台に乗せ、もう片方の足は爪先を馬の鎧に引っ掛けた体勢のまま、必死で腕を伸ばして鞍を掴んでいる。脚が震えて体重を掛けられないせいで、鞍を掴んだ手もどう引っ込めたらよいのか全く分からずそのまま固まってしまった。
「ハハ。存外どんくさいな、教授」
 アルヴィーゼはカラカラと笑い声を上げてその様子を見物している。まさか屋敷の敷地を出るのにこれほど時間がかかるとは思ってもいなかった。愉快な発見だ。
「あっ、あなたの馬がこんなに大きいなんて聞いてないもの!」
 イオネがヒラヒラとドレスの裾を風にそよがせ、片脚を上げたままの体勢でいきり立った。
 アルヴィーゼの愛馬は海を渡ってきたウェヌス大陸の原産馬との交雑種だ。マルス大陸で見る一般的な馬と比べて一回りほどは馬体が大きく、黒い毛並みには美しい艶があり、筋肉も良く発達している。アルヴィーゼの所有する馬の中でも、この馬の市場価値は群を抜いている。
 ところが、イオネはそれどころではない。
「一度手を離せ。セザールも迷惑そうだ」
 セザールと呼ばれた馬はぶるる、と鼻を鳴らして、大人しくイオネがプルプルと脚を震わせる様子を一瞥し、足元の草を食み始めた。
「ううっ、今手を離したら転ぶわ。どうしたらいい?つ、爪先が抜けないの」
 助けなど乞いたくないのに自分ではどうしようもないのだろう。
「落ち着け」
 アルヴィーゼは肩を竦めて言うと、屈んで鐙に乗せたイオネのブーツの爪先をそっと外し、後ろで身体を支えながら鞍から離してやった。
 イオネは涙目になっている。相当に怖かったらしい。
「もう無理。辻馬車を捕まえるわ」
 その顔で訴えられても、逆効果だ。ますます無体を働きたくなる。
「ダメだ。予定は変えない」
 アルヴィーゼはにベなく言って軽々と馬に跨がり、イオネの方へ腕を伸ばした。
「俺に借りがある立場だぞ」
 イオネが不承不承その腕を掴んだ瞬間、アルヴィーゼはぐい、とその身体を引き上げ、腰を支えながら、自分の前に横向きの状態で座らせた。
「うう…!」
 本当なら拒絶したいだろうに、高いからか身体が強張っている。これも教授の面白い反応だ。
 馬が足を踏み出した瞬間にぐらりとイオネの身体が揺れ、アルヴィーゼは咄嗟に細い腰を支えた。イオネは声にならない悲鳴を上げて、アルヴィーゼの腕にしがみついた。
 こういう教授も悪くない。
「案内はどうした。仕事をしろ、教授」
 イオネの指が微かに震えている。わざと淡々とした声色で命令すると、案の定イオネは挑発に乗ってキッと眦を上げた。
 首筋が愉悦でぞくりとした。屈辱に顔色を変えたイオネ嬢の姿は、額に飾っておきたいほどそそるものがある。
 既にコルネール邸の門を出て通りを暫く進み、目の前には商人たちの活気に満ちたユルクスの大通りが広がっている。
 ここボレアス通りはユルクスにおけるメインストリートの一つで、舶来の香辛料や酒の他、ルメオ国内で収穫された農作物や漁港から届いた海産物、隣接する地方で育てられた家畜の肉などを扱う店が軒を連ねる、謂わば食料品の大市場である。学生の出入りが多い平日は大学の終わる時間帯に特売があったり、料理屋ではしばしば学生向けの特別メニューが出たりする。
 そういう話を、イオネは馬上で淡々と聞かせた。
「ここがバシルの家」
 と、イオネが指差した右手の建物は、ファサードに細長いパンを持つ商いの神を描いた三角屋根のパン屋だ。パンの焼ける香ばしい匂いが辺りに漂い、軒先には[ただいま焼きたて]の看板が出ている。店舗の隣には長細く大きな窓が並んだトラットリアが併設されていて、昼も過ぎた時分なのに、外の席まで客で賑わいを見せていた。
「お父さまと一番上のお兄さんが共同経営しているの。バシルも時々料理人として手伝いをしているのよ」
 なぜか身内でもないイオネが自慢げだ。アルヴィーゼは静かに笑った。
 雑踏を分け入るように、二人を乗せた大きな黒馬が進んで行く。
 時折イオネがぐらりとバランスを崩しそうになって、喉の奥で小さく息を呑みながら鞍を掴む様子が堪らなく可笑しかった。
 改めてそばで見ると、イオネ嬢は地元で評判の教授だけあって、顔が広い。どの店が何を扱っているかということから、店主の家族のことまで、この通りに限って言えばほとんど網羅している。人付き合いが希薄だと言うが、案外そう思っているのは当人だけかもしれない。
 アルヴィーゼはイオネがくそ真面目に商店や街の歴史について詳細かつ手短に話すのを聞きながら、頭では別のことを考えていた。
 例えば、たった今すれ違った庶民の若造が、呆けた顔でイオネを見上げながら何を思っていたか、あるいは、イオネに手を振ってくる店の男がその愛想のよい笑顔の下にどんな邪心を持ってこの女の気を引こうとしているのかということだ。一方で、羨望と嫉妬をチラつかせる女たちや、崇拝するような目で見上げてくる娘たちもいる。
 ところが当のイオネは、そんな視線など歯牙にも掛けない。
 見慣れない大きな馬に身なりの良い貴公子と一緒に乗っているということを差し引いても、この女は無自覚に注目を集め過ぎる。 
 目当ての店は、通りの一番奥にあった。イオネはちょっと不満そうにアルヴィーゼの手を借りてよたよたと下馬し、シニョール・モレノの一見ただの古い民家のような商店へ入っていった。
 アルヴィーゼは店の戸口に立って内部の様子を注視した。舶来の珍しい酒や香辛料を扱う店らしく、珍しい焼き物の瓶や香辛料の詰められたガラスの瓶がズラリと棚に並んでいて、中はカルダモンやクローブ、シナモンなどの雑多な匂いが漂っていた。
 並んだ酒瓶の前でどれにしようかと悩むイオネは、真剣そのものだ。細く白い指をふっくらした唇に当て、小さく唸りながら黄褐色の肌をした恰幅のよい店主の話す外国語に耳を傾けている。
 結局、イオネは陶製の瓶一本分の蜂蜜酒を手に入れて来た。一見無表情だが、よく見ると微かにほくほくと頬を紅潮させている。
「悩むくらいなら全て購えばいいものを」
 心底不思議に思って、アルヴィーゼが言った。
「一般的かつ常識的な生活をしている人は、自分の収入に見合う分を必要に応じて買うものよ。公爵閣下」
 イオネは大真面目に言って、瓶をずい、と差し出した。馬の荷袋にでも入れておけと公爵を顎で使っているのだ。
(一般的かつ常識的な生活?)
 それは甚だ疑問だ。
「俺を連れているのにか」
 アルヴィーゼは瓶を受け取りながら訊ねた。
 共に街へ出掛けて何もねだってこない女は初めてだ。借りを作りたくないと思っていることは承知の上だが、強引に連れ出されたのだから男に金ぐらい出させて当然と思っていても不思議はないのに、そんな素振りさえない。
「あなたにそんなことをしてもらう義理はないし、他人に頼って手に入れたものに何の価値があるっていうの?」
 じりじりと、灼かれるような感覚だ。
 スミレ色の瞳が強い光を宿してこちらを見ている。まるで、挑発するように。
「…あまりそういう目で男を見ない方がいい」
 アルヴィーゼの顔からは、いつもの不遜な笑みが消えている。
「どうして?…どういう目?」
 イオネが眉を寄せた。
(ほら、その顔だ)
 その眉間に寄った皺まで、挑発的だ。少なくともアルヴィーゼの目にはそう見える。
「知りたければ次も試してみろ。俺は忠告したぞ、教授」
 イオネは何を言われているのか全くわからないといった様子で、相変わらず顔をしかめている。馬鹿にされたと思ったのか、ひどく不機嫌そうだ。
 アルヴィーゼは背筋にぞくりと暗い愉悦が走るのを感じた。
(その細い首に噛み付きたくなるからだよ、イオネ嬢)
 これを知ったら、その不機嫌な顔はどう変わるのだろうか。
 
 この夜のことだ。
 入浴を終えた後、イオネはすっかりお気に入りの場所となった三階のバルコニーに燭台を置き、読書をしていた。傍らに置かれた陶のカップには、温めた蜂蜜酒が入っている。
 既に残暑は去り、風の冷たい季節になったものの、暑がりなイオネにはまだ肌を覆い隠すほどの気候ではない。いつもの袖のないシュミーズの上に、頼りない紗のショールをふわりと掛けているだけの格好だ。
 イオネは髪を左側の肩に寄せ、胸の前へ流して、指でするすると梳きながら片手でページをめくった。天体図の挿絵が見開きで載っているページに差し掛かると、椅子から立ち上がり、空を見上げて本をくるくる回しては向きを変え、星座の線をなぞるように指を伸ばした。何千年も昔の人々と同じ星を見ているとは、何とも不思議な気分だ。
 その時、バルコニーの扉が開いて風が吹き、ショールがひらりと肩から落ちた。
 扉の奥から現れたのは、アルヴィーゼだ。ゆったりしたシャツとズボンを着て、手には筒状に巻いた大きな紙を持っている。いつも隙なく整えている髪は額を隠し、その容貌をいつもよりも少しだけ若く見せている。イオネはアルヴィーゼが拾ったショールをちょっとむすっとしながら受け取って椅子に腰を下ろし、再び本に視線を落とした。
「天体観測の邪魔をして悪いが――」
 全く悪いと思っていない口ぶりで言いながら、アルヴィーゼが向かいの椅子に腰掛けた。
「意見を聞きたい。航路についての条目を契約書に追記することになった」
 アルヴィーゼが持っていた筒状の紙をテーブルに広げると、海図が表れた。マルス大陸の東部からウェヌス大陸西部までが大きく描かれ、大洋には海の女神と海の王の小さな挿絵と共に、潮の流れや航海路が複数の線で記されている。
「あなた日曜日のこんな時間まで仕事をしているの?」
「俺が教授を自由にできるのは土曜と日曜だけだからな」
「自由にさせた覚えはないけど」
 と言いつつイオネは本を閉じ、燭台の灯りに照らされた海図を見た。
「…基本航路は南路がいいと思うわ。でもこっちの海域は避けた方がいい。近頃また海賊が出没しているそうよ」
 イオネは白い指で大陸の南の海域を差した。
「南東は比較的荒れやすい海流だけど、慣れている船長なら問題ない。バイロヌスのフラヴァリ閣下は自警海軍も組織しているから、この海域までなら安全に航海ができるわ。それから…」
 と、イオネが顔を上げると、アルヴィーゼの視線は海図ではなく自分の顔に向いている。
 真面目に聞いているのかと詰問するより先に、アルヴィーゼが口を開いた。
「学習しないな、教授。言ったばかりのことを忘れるとは」
 こちらの手落ちを責めるような言い方だ。イオネはムッと眉を寄せた。
「服のことならわたしも今朝言ったはずよ。あなたにとやかく言われる筋合いはないって」
 アルヴィーゼは溜め息をつき、椅子から立ち上がって丸いテーブルの縁をなぞるように歩み、イオネの目の前に立った。
 黒い前髪の奥からこちらを覗き込む緑色の目が、ほんの一瞬の間、イオネに呼吸の仕方を忘れさせた。
(ああ、また…)
 指先まで痺れるような、奇妙な感覚だ。
 離れたい。が、ここで引いたら逃げたと揶揄われる。それこそ悪辣な公爵の思う壺だ。それはあまりに癪に障る。
 イオネはキッ、とその目を見返した。細まった男の目が、吸い込まれそうなほどの剣呑な光を帯びて近付いてくる。
 腕を引かれて立ち上がらされるまで、自分が動けずにいたことに気付かなかった。何か、呪いにでもかかったみたいに。――
「アリアーヌ教授」
 アルヴィーゼの秀麗な顔が近づいてくる。黒い睫毛の下で、緑色の瞳が捕食するようにこちらを見据えている。
「お前はそろそろ身をもって知った方がいい」
 また、動けない。吐息が髪を滑り、柔らかい髪が頬を掠め、右側の首筋に柔らかいものが触れた。
「なっ、何――いた!」
 首筋に走った小さな痛みが、イオネを正気に戻した。
「何をするの!」
 イオネはアルヴィーゼの肩を拳で打った。すんなり身体を離して顔を上げたアルヴィーゼの表情は、いつものように人を揶揄って遊ぶ悪童のそれだ。だが、その視線にはイオネの胸をざわつかせる何かがある。
「教育だ」
「意味が分からない」
 イオネは眉間の皺を深くしてアルヴィーゼを威嚇するように睨め付け、ストンと椅子に腰を戻した。
 馬鹿馬鹿しい。これ以上こんな悪戯に付き合っていられない。
「ではまた明日の朝食の席で。おやすみ、イオネ嬢」
 そう言って機嫌良く微笑むと、アルヴィーゼは航海図を纏めてさっさとバルコニーから出て行った。
「なんなのよ!」
 イオネの怒声が虚しくバルコニーに響いた。
 
 イオネが自分の身に起きたことをようやく理解したのは、翌朝のことだ。
 いつものように布団の中でしばらくぼんやりした後で、髪を整えようと鏡台に向かった時、右の鎖骨と首の間に痣のようなものを見つけた。
(何かぶつけたかな)
 しかし触れても痛くない。不思議に思っていると、昨夜そこにアルヴィーゼの顔が触れたのを思い出した。イオネの男性経験と言えば十歳の時に同い年の男の子と手を繋いだくらいのものだが、これがどういうものなのかは理解できる。アルヴィーゼが吸い付いた痕だ。
 これに気付いた瞬間、羞恥と怒りで顔が沸騰したように熱くなった。
「アリアーヌ教授?」
 イオネの様子がおかしいことに気付いて、ベッドの乱れを直していたソニアが声を掛けてきたが、イオネはそれに構うことなく、寝衣のまま身支度もせず部屋を出た。
 食堂で朝食の卵料理を優雅に食すアルヴィーゼの姿を認めると、イオネは猛然と一直線に向かって行った。
「やってくれたわね!」
 どぎついトーレの方言だ。間髪入れずに、手元にあった水差しの水を叩きつけるようにしてアルヴィーゼの顔に吹っかけた。
 ドミニクとイオネを追い掛けてきたソニアが、動くことを忘れてしまったかの様に目を大きく見開いて口をあんぐり開けている。
 アルヴィーゼは怒りもせず、感情の読み取れない顔で、顔を真っ赤にして怒り狂うイオネを見上げている。
「今頃気付いたのか」
 水の滴る前髪を除けて、アルヴィーゼが面白そうに笑った。
「こんな辱めを受けたのは初めてだわ!」
 悪びれる様子もないアルヴィーゼに、イオネの爆発したはずの怒りが更に膨れ上がった。
「初めてか」
 と、アルヴィーゼはそのことに関心があるようだった。
「二度とわたしに近づかないで。今後あなたとは食事も一緒にしない。屋敷で会っても話しかけないでちょうだい」
 イオネはそれだけ言って、やってきた時と同じように猛然と食堂を出て行った。ソニアはそれに気づくと、再び時間が動き出したように、慌ただしく厨房へと向かった。
「イノシシみたいな女だな」
 からからと声を上げて笑うアルヴィーゼに、ドミニクがたしなめるような視線を向けた。その手には既に布が用意されている。
「一体何をなさったんです」
「別に。ちょっとした忠告をしただけだ」
 アルヴィーゼはドミニクから布を受け取り、白々と言った。
「ちょっとした忠告ぐらいであんなにお怒りにはならないでしょう」
 ドミニクは呆れ顔だ。内心ひどく驚いてもいる。女性の扱いには長けている主が、相手を怒らせて愉しむなどということは、今までになかったことだ。裏を返せば、今までそれほどの興味を引く人物がいなかったとも言える。
「いつか刺されますよ」
「あの女にそれほどの執念を持たせることができるとすれば、本望だな」
 アルヴィーゼは額に落ちてきた水滴を手で拭い、黒髪を後ろへ撫で付けて、ニヤリと笑った。
 ドミニクはそんな主に対して溜め息を隠そうともしない。容姿端麗で有能、外では貴族としての振る舞いに申し分のないこの若い主にも、存外困った悪癖があったものだ。
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