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18 嵐の後 - après la tempête -
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まるで獣にでもなったような気分だ。
アルヴィーゼは荒く呼吸を繰り返しながら、イオネのぎゅうぎゅうと収縮する柔らかな肉体に欲望を解き放ち、今まで味わったことのない法悦にその身を震わせた。
これほど強烈に誰かを欲し、何の準備もなく、略奪するようにその身体を暴いたことはなかった。
これまで遊び相手になる女たちの条件は、世慣れていて、後腐れなく関係を解消でき、アルヴィーゼ自身への執着はなく、身体と快楽だけを求めているということだ。頭が堅くて男遊びも知らない女は対象外だし、処女など論外だ。
しかし、そういう人生に、イオネ・アリアーヌ・クレテが現れた。
彼女は既存のどういうものにもあてはまらない。単なる遊び相手にはできない。どんな手を使っても手に入れようと決めていた。――多分、大学でその眼差しを見たときからだ。
本当はもっとじわじわと追い込んで逃げ道を断ってから雁字搦めにしてやろうと思っていた。
ところが、スミレの花を思わせるイオネの香りに包まれて目を覚まし、彼女が顔中で花咲くように笑った瞬間、箍が外れた。あれは、箍が外れたとしか言い表せない。
ブロスキ邸でダンスをしたときにはそのドレスの下の感触を想像し、馬車の中ではどうやってこのドレスを脱がせようかと夢想していた。それでもアルヴィーゼは元来理性的な男だ。事を急いて逃げられるような失態はあり得ない。
が、やめた。自制心など無駄だ。今すぐ、この場でこの女を手に入れると、本能が決めた。
もはや天啓のようなものだ。神や運命など信じていないが、これこそそういう類の、激しい引力を伴う現象だった。
それなら、甘美な身体から手に入れて、快楽の果てに堕とし、自分にしか触れられないようにしてしまえばいい。ただ手順が入れ替わっただけの話だ。
アルヴィーゼは狭く熱いイオネの中から出て、イオネの脚の間を濡らした。イオネはぐったりとして柔らかな胸を上下させ、寝息を立てている。
白い腿に僅かに鮮血が付いているのを見ると、胸がひどく下劣な悦びで満ちた。この女の肉体の奥を知っているのは自分だけだ。そしてそれは、これからも変わらない。
「逃がさないぞ、イオネ」
アルヴィーゼは薄く笑ってイオネの乱れた髪を額からよけ、官能的な左頬の黒子に口付けをして、唇を重ねた。
明日どんな顔で一日を過ごすのか、想像するだけで頬が緩む。
深い眠りから意識がゆるやかに朝へ昇ってゆく。その途中でイオネが感じたものは、まぶたの奥で柔らかに感じる早朝の仄明かりと、肌に心地よい毛布、それから糸杉に似た微かな匂いだ。離れたところから舶来のコーヒーの香りが漂ってきてイオネの感覚を刺激し、紙をめくる音が、頭を覚醒させた。
目を開いたイオネは、弾けるように身を起こした。
寝台の上には自分しかいない。見慣れない天蓋が宇宙のようにイオネの頭上に鎮座して、天蓋から垂れる薄地の白いカーテンが周囲を覆い、イオネを筺の中に捕らえているようだ。これが誰の寝台か、匂いで分かる程度にはあの男に近付きすぎた。
自分が服を着ていないことに気づいた後で、じわじわと昨夜の記憶を身体が思い出し始めた。
(やってしまった…)
どうしてあんなことを赦したのか分からない。強引な行為だったのに、殺す気で抵抗しろと言われて、そうしなかったのは自分だ。アルヴィーゼに対して恐怖を感じることもなかった。
怖いのは、自分が自分でなくなることだ。
あんな現象は初めてだった。腹の奥から脳へ突き上がるような、爆発的な衝撃が自分の身に起きるなんて、信じられない。男女の間に起きる性的な物事を理屈では知っていたつもりだったが、何ひとつ理解していなかった。――昨夜までは。
じくりと開かれたばかりの腹の奥が疼いた。
(これでは、いけない)
イオネはぷるぷると首を振って、寝台から下りようと足を床につけた瞬間、ぐにゃりと膝から崩れ落ちた。身体が床に落ちる前に、腰を強い力で引き上げられ、衝突を免れた。
上げた視線の先に、アルヴィーゼがいる。精悍な上半身を露わにして、昨夜意識を失う前に見たままの姿だ。
顔から火が吹き出しそうだ。そして次の瞬間には、身体が燃えるように熱くなった。
「…っ、離して!」
恋人でもない男と寝てしまった背徳感と恥ずかしさで、どう対処してよいかわからない。
しかし、アルヴィーゼはますます強く腰を抱き、イオネの身体はその腕の中に収まった。アルヴィーゼと同じ匂いが、自分の肌からもする。言葉なく首筋に触れてくる唇が、肌の内側に小さな炎を灯していく。
一体どういうつもりなのかと問い詰め、怒るべきだ。それなのに、言葉が出なかった。
(いいえ。そんなことしても、意味がないわ)
わかりきったことだ。不埒な公爵にとっては女と寝ることなんてちょっとした遊びに過ぎない。初めてここへやってきた時にドミニクが自分をそういう手合いと勘違いし、慣れた様子であしらおうとしたことを、イオネは忘れていない。
今はそれが事実になってしまったことがひどく不本意だが、イオネもいい大人だ。これをただの事故だと割り切るぐらいの肚があって然るべきだろう。
「…身体は大丈夫か」
アルヴィーゼの低い声が耳をくすぐった途端に、イオネの頭に理不尽な怒りが湧いた。
「大丈夫かですって」
イオネはアルヴィーゼの肩を突き放して身体を引き剥がした。
「大丈夫なわけないでしょ!初めてって分かっていたわね!やめてって言ったのに…それなのに、あ、あんな、あんな…」
イオネは言葉を呑んだ。アルヴィーゼの目がゆったりと弧を描いてこちらを見つめているからだ。
鏡を見なくてもわかる。今の自分は、間違いなく熟れきったコケモモのように顔を赤くしている。これ以上の醜態を晒す前に、退散する方がいい。
イオネは俯いて、唇を小さく開いた。
「…お風呂に入るから、服を返して」
「歩けるのか?」
身体は離れたが、腕は支えられたままだ。
「あなたの手を借りなくても、ひとりで歩けるわ。馬鹿にしないで」
頭上で溜め息が聞こえる。
せいぜい可愛げのない女だとがっかりすればいい。一度寝たくらいで態度を変えたりはしない。
目の前からアルヴィーゼがいなくなると、イオネは深く息を吸って長く吐き出した。安堵と失望に似た冷ややかさが綯い交ぜになって、胸に空洞ができた。
この事態を受け入れるのには、やはり時間が必要だ。少なくとも、アルヴィーゼの前で顔色を変えないようになるまで距離を置いた方がいい。
ところが、アルヴィーゼは再び目の前にやってきた。乱雑にシャツを着て、開いた襟からよく鍛えられた胸が覗いている。
アルヴィーゼはいつものように唇の左端を吊り上げ、イオネの身体に毛布を巻き付けると、猫を抱くような気軽さでその身体を横向きに抱き上げた。
「ひゃっ!ちょっと――」
「湯殿まで運んでやる」
腹の立つ男だ。起き抜けの乱れた髪まで、この男を官能的に見せる要素になっている。
イオネは逃げ出したくなるのを堪え、バランスを崩さないようアルヴィーゼのシャツにしがみついた。
(歩けないのはこの人のせいなんだし、これくらいしてもらって当然だわ)
と、自分を納得させた。
入浴と自室での朝食を終えたイオネは、誰にも告げず公爵邸を出て大学へ向かった。
あのままアルヴィーゼと同じ屋敷にいたら、何も手につかない。
「おや、アリアーヌ教授。今日もお仕事ですか?」
と、声を掛けてきたのは、大学図書館の司書長だ。白い口髭を生やした老爺で、イオネが学生の頃から図書館の管理をしている。
「ええ。依頼されている翻訳を進めたくて」
司書長は目尻の皺を深くした。
「熱心なことですなぁ。お帰りが遅くなるようなら、誰かに送らせますからお声がけを」
「ありがとう」
司書長がその場を去った後、イオネは小さく溜め息をついた。夜道を送ってもらうのはありがたいが、そうなれば公爵邸で暮らしていることが露見してしまう。かと言って、すぐに帰れるほどには気持ちの整理が付いていない。
(どうしよう)
アルヴィーゼはおろか、ドミニクやソニアと顔を合わせるのも気まずい。早朝に入浴したとき、アルヴィーゼに抱えられて三階から一階へ移動したというのに誰にも鉢合わせなかった。にもかかわらず、湯殿が示し合わせたように整っていたことを考えると、アルヴィーゼが風呂の支度をさせて人払いをしたに違いない。
それはつまり、昨夜二人の間に何があったのかを使用人たちは既に知っているということになる。
着替えや朝食を用意してくれたソニアは何も言わなかったが、少なくともイオネの挙動不審な様子には気付いていたはずだ。いつも通りのにこやかな顔でイオネに接しながら、どこかこちらの気分を伺うような目をしていた。
これは、居たたまれないことこの上ない。
しかし、幸いイオネには仕事がある。仕事をしているときだけは、余計なことを考えずに済む。
イオネは仕事用の鞄から天文学の論文を取り出して、その横に新しい料紙を揃え、青のインク壺とペンを二本並べた。
片方のペンは、背へ流しっぱなしの髪をまとめるために取り出したものだ。くるくるとペン軸に髪を巻き付けて最後に挿してまとめると、意識を異国の文字が並ぶ論文へ向けた。
「アリアーヌ教授、そろそろ閉館ですよ」
と司書長に声を掛けられて、イオネは顔を上げた。どれほど時間が経ったのか、窓の外が暗くなっている。
「今日もすごい集中力でしたな。学生が何人か声を掛けようとしていましたが、お気付きにならないほどで」
「本当に?気付かなかった…」
イオネは参考資料に棚から出した天文の本を司書長に手渡し、のろのろと帰り支度を始めた。
「はぁ…」
身体が重い。それに、これからアルヴィーゼのいるあの屋敷に帰るのだと思うと、それだけで顔が熱くなる。
仕事は捗った。仕事に向き合えば、きちんと切り替えもできる。それなのに、あの男の縄張りに戻る時間が近づいた途端にこれだ。
「見送りのものを呼んできますよ。寮生なら暇してるでしょうし、女性に夜道は危ないですからね」
図書館の外まで灯りを持って見送りに来てくれた司書長が気遣ってくれたが、イオネはウウンと悩んだ。公爵邸で暮らしていることが派手に露見することは避けたいが、司書長の言うことも一理ある。
(屋敷の近所までなら大丈夫かしら…)
そう思い直した時、前方に馬の影が見えた。
「必要ない」
馬上の影が言った。アルヴィーゼの声だ。イオネの心臓がぎゅう、と縮んだ。
アルヴィーゼは馬から下り、図書館へ足を向けた司書長に見送りの礼を告げた後、イオネに手を差し出した。馬に乗れということだ。イオネはその手を取らず、アルヴィーゼの視線から逃れるように顔を背け、黒い馬の前肢を凝視した。
「な、何してるの」
「迎えに来た」
「頼んでいないわ。だいたい、どうして居場所が分かるのよ」
「お前の行きそうな場所はわかっている」
これは厳密には事実ではない。イオネの居場所は概ね予想通りではあったが、彼女が屋敷を出たときから使用人に後を尾行させている。
「侍女が心配しているぞ」
子供を宥めるような口調だ。イオネは反抗的にむう、と唇を結び、左手の小指に嵌まったアメシストの指輪をくるくる弄んだ。
「…だからって、あなたが来る必要ないでしょ」
屋敷の使用人を迎えに寄越せば良いだけなのに、わざわざ主人が単騎迎えに来るなど聞いたことがない。
「黙って屋敷を出た原因は俺だろう。他の者に任せる気はない」
「なにそれ…」
顔が熱い。
しかし無言で目の前に手を差し出されると、それ以上の抵抗も無意味だと観念してアルヴィーゼに従うことにした。
アルヴィーゼはイオネを抱き上げて鞍の上に横向きに座らせ、自分はその後ろに跨がって、愛馬のセザールを歩ませ始めた。馬が苦手なイオネが時折バランスを崩してびくりと身体を震わせ、遠慮がちに腕に掴まってくるのが、堪らなく可愛かった。
昨夜の一件は、相当にイオネを悩ませているらしい。あの気の強い教授が、憎まれ口の一つもなく大人しく腕の中に納まっている光景は、なかなか愉快だ。
(もっと悩めばいい)
学問と仕事ばかりに使っているその頭の中を、もっと自分でいっぱいにすればいいのだ。
アルヴィーゼはイオネの細い首を眺めながら、唇で触れた時の感触を思い出した。瞬時に働いた引力に抗うことなく、そこに強く吸い付くと、イオネが怒ったように唸り声を上げた。
「ふ」
アルヴィーゼは上機嫌に笑い、イオネの髪からペンを抜き取った。
胡桃色の髪が、柔らかな月光を受けて金色の光を纏い、ふわりと夜風に靡いた。
不機嫌な教授がじろりと横目で睨め付けてくる。この視線を独り占めしていると、不思議な充足感が胸に湧く。
「髪がインクで汚れるぞ」
「余計なお世話よ」
イオネがペンを取り返そうと腕を伸ばした時、アルヴィーゼはペンを持つ手をサッと上げ、その拍子にバランスを崩したイオネを胸に受け止めて、顎を摘まみ、その唇を奪った。啄むだけのささやかな口づけだ。
「何のつもり」
イオネの瞳が小さな熱を映して、心許なげに揺れている。
「さあな。その明晰な頭脳で考えてみろ、教授」
アルヴィーゼがニヤリと笑うと、イオネはカッとなってアルヴィーゼの胸を拳で叩いた。が、アルヴィーゼはイオネの腰を強く引き寄せて離れることを許さなかった。
ドレス越しにイオネの体温が上がったのがわかる。いや、熱くなったのは自分かもしれない。
今、唯一確かなことは、この女が一度抱いたくらいでは手に入る女ではないということだ。
(さて、どうやって料理してやろうか)
アルヴィーゼはイオネの髪から漂う花のような匂いで鼻腔を満たし、上機嫌に馬を駆った。
アルヴィーゼは荒く呼吸を繰り返しながら、イオネのぎゅうぎゅうと収縮する柔らかな肉体に欲望を解き放ち、今まで味わったことのない法悦にその身を震わせた。
これほど強烈に誰かを欲し、何の準備もなく、略奪するようにその身体を暴いたことはなかった。
これまで遊び相手になる女たちの条件は、世慣れていて、後腐れなく関係を解消でき、アルヴィーゼ自身への執着はなく、身体と快楽だけを求めているということだ。頭が堅くて男遊びも知らない女は対象外だし、処女など論外だ。
しかし、そういう人生に、イオネ・アリアーヌ・クレテが現れた。
彼女は既存のどういうものにもあてはまらない。単なる遊び相手にはできない。どんな手を使っても手に入れようと決めていた。――多分、大学でその眼差しを見たときからだ。
本当はもっとじわじわと追い込んで逃げ道を断ってから雁字搦めにしてやろうと思っていた。
ところが、スミレの花を思わせるイオネの香りに包まれて目を覚まし、彼女が顔中で花咲くように笑った瞬間、箍が外れた。あれは、箍が外れたとしか言い表せない。
ブロスキ邸でダンスをしたときにはそのドレスの下の感触を想像し、馬車の中ではどうやってこのドレスを脱がせようかと夢想していた。それでもアルヴィーゼは元来理性的な男だ。事を急いて逃げられるような失態はあり得ない。
が、やめた。自制心など無駄だ。今すぐ、この場でこの女を手に入れると、本能が決めた。
もはや天啓のようなものだ。神や運命など信じていないが、これこそそういう類の、激しい引力を伴う現象だった。
それなら、甘美な身体から手に入れて、快楽の果てに堕とし、自分にしか触れられないようにしてしまえばいい。ただ手順が入れ替わっただけの話だ。
アルヴィーゼは狭く熱いイオネの中から出て、イオネの脚の間を濡らした。イオネはぐったりとして柔らかな胸を上下させ、寝息を立てている。
白い腿に僅かに鮮血が付いているのを見ると、胸がひどく下劣な悦びで満ちた。この女の肉体の奥を知っているのは自分だけだ。そしてそれは、これからも変わらない。
「逃がさないぞ、イオネ」
アルヴィーゼは薄く笑ってイオネの乱れた髪を額からよけ、官能的な左頬の黒子に口付けをして、唇を重ねた。
明日どんな顔で一日を過ごすのか、想像するだけで頬が緩む。
深い眠りから意識がゆるやかに朝へ昇ってゆく。その途中でイオネが感じたものは、まぶたの奥で柔らかに感じる早朝の仄明かりと、肌に心地よい毛布、それから糸杉に似た微かな匂いだ。離れたところから舶来のコーヒーの香りが漂ってきてイオネの感覚を刺激し、紙をめくる音が、頭を覚醒させた。
目を開いたイオネは、弾けるように身を起こした。
寝台の上には自分しかいない。見慣れない天蓋が宇宙のようにイオネの頭上に鎮座して、天蓋から垂れる薄地の白いカーテンが周囲を覆い、イオネを筺の中に捕らえているようだ。これが誰の寝台か、匂いで分かる程度にはあの男に近付きすぎた。
自分が服を着ていないことに気づいた後で、じわじわと昨夜の記憶を身体が思い出し始めた。
(やってしまった…)
どうしてあんなことを赦したのか分からない。強引な行為だったのに、殺す気で抵抗しろと言われて、そうしなかったのは自分だ。アルヴィーゼに対して恐怖を感じることもなかった。
怖いのは、自分が自分でなくなることだ。
あんな現象は初めてだった。腹の奥から脳へ突き上がるような、爆発的な衝撃が自分の身に起きるなんて、信じられない。男女の間に起きる性的な物事を理屈では知っていたつもりだったが、何ひとつ理解していなかった。――昨夜までは。
じくりと開かれたばかりの腹の奥が疼いた。
(これでは、いけない)
イオネはぷるぷると首を振って、寝台から下りようと足を床につけた瞬間、ぐにゃりと膝から崩れ落ちた。身体が床に落ちる前に、腰を強い力で引き上げられ、衝突を免れた。
上げた視線の先に、アルヴィーゼがいる。精悍な上半身を露わにして、昨夜意識を失う前に見たままの姿だ。
顔から火が吹き出しそうだ。そして次の瞬間には、身体が燃えるように熱くなった。
「…っ、離して!」
恋人でもない男と寝てしまった背徳感と恥ずかしさで、どう対処してよいかわからない。
しかし、アルヴィーゼはますます強く腰を抱き、イオネの身体はその腕の中に収まった。アルヴィーゼと同じ匂いが、自分の肌からもする。言葉なく首筋に触れてくる唇が、肌の内側に小さな炎を灯していく。
一体どういうつもりなのかと問い詰め、怒るべきだ。それなのに、言葉が出なかった。
(いいえ。そんなことしても、意味がないわ)
わかりきったことだ。不埒な公爵にとっては女と寝ることなんてちょっとした遊びに過ぎない。初めてここへやってきた時にドミニクが自分をそういう手合いと勘違いし、慣れた様子であしらおうとしたことを、イオネは忘れていない。
今はそれが事実になってしまったことがひどく不本意だが、イオネもいい大人だ。これをただの事故だと割り切るぐらいの肚があって然るべきだろう。
「…身体は大丈夫か」
アルヴィーゼの低い声が耳をくすぐった途端に、イオネの頭に理不尽な怒りが湧いた。
「大丈夫かですって」
イオネはアルヴィーゼの肩を突き放して身体を引き剥がした。
「大丈夫なわけないでしょ!初めてって分かっていたわね!やめてって言ったのに…それなのに、あ、あんな、あんな…」
イオネは言葉を呑んだ。アルヴィーゼの目がゆったりと弧を描いてこちらを見つめているからだ。
鏡を見なくてもわかる。今の自分は、間違いなく熟れきったコケモモのように顔を赤くしている。これ以上の醜態を晒す前に、退散する方がいい。
イオネは俯いて、唇を小さく開いた。
「…お風呂に入るから、服を返して」
「歩けるのか?」
身体は離れたが、腕は支えられたままだ。
「あなたの手を借りなくても、ひとりで歩けるわ。馬鹿にしないで」
頭上で溜め息が聞こえる。
せいぜい可愛げのない女だとがっかりすればいい。一度寝たくらいで態度を変えたりはしない。
目の前からアルヴィーゼがいなくなると、イオネは深く息を吸って長く吐き出した。安堵と失望に似た冷ややかさが綯い交ぜになって、胸に空洞ができた。
この事態を受け入れるのには、やはり時間が必要だ。少なくとも、アルヴィーゼの前で顔色を変えないようになるまで距離を置いた方がいい。
ところが、アルヴィーゼは再び目の前にやってきた。乱雑にシャツを着て、開いた襟からよく鍛えられた胸が覗いている。
アルヴィーゼはいつものように唇の左端を吊り上げ、イオネの身体に毛布を巻き付けると、猫を抱くような気軽さでその身体を横向きに抱き上げた。
「ひゃっ!ちょっと――」
「湯殿まで運んでやる」
腹の立つ男だ。起き抜けの乱れた髪まで、この男を官能的に見せる要素になっている。
イオネは逃げ出したくなるのを堪え、バランスを崩さないようアルヴィーゼのシャツにしがみついた。
(歩けないのはこの人のせいなんだし、これくらいしてもらって当然だわ)
と、自分を納得させた。
入浴と自室での朝食を終えたイオネは、誰にも告げず公爵邸を出て大学へ向かった。
あのままアルヴィーゼと同じ屋敷にいたら、何も手につかない。
「おや、アリアーヌ教授。今日もお仕事ですか?」
と、声を掛けてきたのは、大学図書館の司書長だ。白い口髭を生やした老爺で、イオネが学生の頃から図書館の管理をしている。
「ええ。依頼されている翻訳を進めたくて」
司書長は目尻の皺を深くした。
「熱心なことですなぁ。お帰りが遅くなるようなら、誰かに送らせますからお声がけを」
「ありがとう」
司書長がその場を去った後、イオネは小さく溜め息をついた。夜道を送ってもらうのはありがたいが、そうなれば公爵邸で暮らしていることが露見してしまう。かと言って、すぐに帰れるほどには気持ちの整理が付いていない。
(どうしよう)
アルヴィーゼはおろか、ドミニクやソニアと顔を合わせるのも気まずい。早朝に入浴したとき、アルヴィーゼに抱えられて三階から一階へ移動したというのに誰にも鉢合わせなかった。にもかかわらず、湯殿が示し合わせたように整っていたことを考えると、アルヴィーゼが風呂の支度をさせて人払いをしたに違いない。
それはつまり、昨夜二人の間に何があったのかを使用人たちは既に知っているということになる。
着替えや朝食を用意してくれたソニアは何も言わなかったが、少なくともイオネの挙動不審な様子には気付いていたはずだ。いつも通りのにこやかな顔でイオネに接しながら、どこかこちらの気分を伺うような目をしていた。
これは、居たたまれないことこの上ない。
しかし、幸いイオネには仕事がある。仕事をしているときだけは、余計なことを考えずに済む。
イオネは仕事用の鞄から天文学の論文を取り出して、その横に新しい料紙を揃え、青のインク壺とペンを二本並べた。
片方のペンは、背へ流しっぱなしの髪をまとめるために取り出したものだ。くるくるとペン軸に髪を巻き付けて最後に挿してまとめると、意識を異国の文字が並ぶ論文へ向けた。
「アリアーヌ教授、そろそろ閉館ですよ」
と司書長に声を掛けられて、イオネは顔を上げた。どれほど時間が経ったのか、窓の外が暗くなっている。
「今日もすごい集中力でしたな。学生が何人か声を掛けようとしていましたが、お気付きにならないほどで」
「本当に?気付かなかった…」
イオネは参考資料に棚から出した天文の本を司書長に手渡し、のろのろと帰り支度を始めた。
「はぁ…」
身体が重い。それに、これからアルヴィーゼのいるあの屋敷に帰るのだと思うと、それだけで顔が熱くなる。
仕事は捗った。仕事に向き合えば、きちんと切り替えもできる。それなのに、あの男の縄張りに戻る時間が近づいた途端にこれだ。
「見送りのものを呼んできますよ。寮生なら暇してるでしょうし、女性に夜道は危ないですからね」
図書館の外まで灯りを持って見送りに来てくれた司書長が気遣ってくれたが、イオネはウウンと悩んだ。公爵邸で暮らしていることが派手に露見することは避けたいが、司書長の言うことも一理ある。
(屋敷の近所までなら大丈夫かしら…)
そう思い直した時、前方に馬の影が見えた。
「必要ない」
馬上の影が言った。アルヴィーゼの声だ。イオネの心臓がぎゅう、と縮んだ。
アルヴィーゼは馬から下り、図書館へ足を向けた司書長に見送りの礼を告げた後、イオネに手を差し出した。馬に乗れということだ。イオネはその手を取らず、アルヴィーゼの視線から逃れるように顔を背け、黒い馬の前肢を凝視した。
「な、何してるの」
「迎えに来た」
「頼んでいないわ。だいたい、どうして居場所が分かるのよ」
「お前の行きそうな場所はわかっている」
これは厳密には事実ではない。イオネの居場所は概ね予想通りではあったが、彼女が屋敷を出たときから使用人に後を尾行させている。
「侍女が心配しているぞ」
子供を宥めるような口調だ。イオネは反抗的にむう、と唇を結び、左手の小指に嵌まったアメシストの指輪をくるくる弄んだ。
「…だからって、あなたが来る必要ないでしょ」
屋敷の使用人を迎えに寄越せば良いだけなのに、わざわざ主人が単騎迎えに来るなど聞いたことがない。
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「なにそれ…」
顔が熱い。
しかし無言で目の前に手を差し出されると、それ以上の抵抗も無意味だと観念してアルヴィーゼに従うことにした。
アルヴィーゼはイオネを抱き上げて鞍の上に横向きに座らせ、自分はその後ろに跨がって、愛馬のセザールを歩ませ始めた。馬が苦手なイオネが時折バランスを崩してびくりと身体を震わせ、遠慮がちに腕に掴まってくるのが、堪らなく可愛かった。
昨夜の一件は、相当にイオネを悩ませているらしい。あの気の強い教授が、憎まれ口の一つもなく大人しく腕の中に納まっている光景は、なかなか愉快だ。
(もっと悩めばいい)
学問と仕事ばかりに使っているその頭の中を、もっと自分でいっぱいにすればいいのだ。
アルヴィーゼはイオネの細い首を眺めながら、唇で触れた時の感触を思い出した。瞬時に働いた引力に抗うことなく、そこに強く吸い付くと、イオネが怒ったように唸り声を上げた。
「ふ」
アルヴィーゼは上機嫌に笑い、イオネの髪からペンを抜き取った。
胡桃色の髪が、柔らかな月光を受けて金色の光を纏い、ふわりと夜風に靡いた。
不機嫌な教授がじろりと横目で睨め付けてくる。この視線を独り占めしていると、不思議な充足感が胸に湧く。
「髪がインクで汚れるぞ」
「余計なお世話よ」
イオネがペンを取り返そうと腕を伸ばした時、アルヴィーゼはペンを持つ手をサッと上げ、その拍子にバランスを崩したイオネを胸に受け止めて、顎を摘まみ、その唇を奪った。啄むだけのささやかな口づけだ。
「何のつもり」
イオネの瞳が小さな熱を映して、心許なげに揺れている。
「さあな。その明晰な頭脳で考えてみろ、教授」
アルヴィーゼがニヤリと笑うと、イオネはカッとなってアルヴィーゼの胸を拳で叩いた。が、アルヴィーゼはイオネの腰を強く引き寄せて離れることを許さなかった。
ドレス越しにイオネの体温が上がったのがわかる。いや、熱くなったのは自分かもしれない。
今、唯一確かなことは、この女が一度抱いたくらいでは手に入る女ではないということだ。
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苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
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