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32 おちた銀梅花 - la Myrte sur l'oreiller -
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ユルクスへ戻った翌夕、イオネは最小限の荷物をまとめてフラヴァリ邸へ移った。
既に収穫祭は終わり、祭の後のなんとも言えない哀愁が街に漂っている。少し前まで空気中に感じていた夏の名残はすっかりなくなり、数日経つ頃には冬の眠りを待つ木々の乾いた葉擦れと渡り鳥の鳴き声がよく耳に届くようになった。
イオネの世界の中心は、相変わらずユルクス大学にある。
朝はのろのろ起きて大学へ行き、学生たちに講義をした後でマルス語での討論をさせ、新たな課題を与え、少々の時間を図書館で過ごしてから、ノンノ・ヴェッキオの屋敷へ帰る。
これが、イオネの標準的な生活だ。決して寝室へ勝手に入ってくる礼儀知らずもいなければ、悪い遊戯に巻き込もうと誘惑する悪魔もいない。
フラヴァリ邸に起居している十人ほどの使用人は、風呂や食事などの最低限の用意をするのみで、イオネの生活にはほとんど干渉してこない。一時的な管理者であることと、イオネがあれこれ世話を焼かれるのを好まないということをシルヴァンから聞かされているのだろう。
どういうわけか毎日フラヴァリ邸と大学を往復する送迎の馬車がコルネール家から派遣されているが、それを除けば、概ね自儘な日々が戻りつつある。
イオネはこの日も迎えに来た馬車に乗り込んで、ニコニコと嬉しそうに向かいに座るソニアに朝の挨拶をした。
イオネがもう関係のないはずのコルネール家の馬車を拒否できない理由は、ソニアが必ず同乗しているからだ。自分が思った以上に彼女への信頼を強く感じていたことを、迎えの馬車の前で待つソニアを見たときに初めて知った。
「公爵のお節介はいつまで続くの?」
イオネが表情少なく訊ねると、ソニアは穏やかに微笑んだ。
「イオネさまのお荷物がまだ半分ほど残っていますから、新しいお住まいを見つけて全て移されるまでは、まだ特別なお客様としておもてなしすると思います」
「そう」
胸の内側を細い針でちくちくと刺されているような気がする。
あの夜以来、アルヴィーゼと殆ど言葉を交わさないまま、屋敷を出た。酒のせいにも、アルヴィーゼのせいにもできない。初めてはっきりと自らあの行為を望んだのだ。危険な火遊びだと理解していながら、アルヴィーゼの遊戯に乗ってしまった。
柔らかな朝陽を受け、裸のまま肘に頭を乗せたアルヴィーゼが涼やかな目を伏せてイオネの髪を弄び、その先に口付けをしたとき、今まで自分の中で頑なに守ってきた堅牢な砦が、何か理不尽で不可思議な力によって崩されていくような、ひどく心許ない気分になった。
枕元に落ちたギンバイカは、衝動に身を焦がして心の奥底を曝け出した後の、自分の姿だ。
あの男は傀儡師だ。分が悪すぎる。屋敷を出ると告げた時は「ちょうどいい」などと言っていたくせに、肉体の誘惑を仕掛けてきて、こちらが陥落するさまを存分に愉しんでいた。
(だいたい、「ちょうどいい」ってどういう意味よ)
こんなことに腹を立てている自分にも嫌気が差す。これ以上関わるべきではないとわかっているのに、眠りに落ちる寸前、耳に残る優しい声が何を告げたのか、ふとした瞬間に思い出そうとしてしまう。
せっかく離れたというのに、こうしてソニアと他愛もない会話をしている間も、仕事に没頭している間も、頭の隅にはアルヴィーゼ・コルネールの影がある。受け入れたくないが、認めざるを得ない。
一方で、良いこともあった。ブロスキ教授に頼まれていた天文学の論文の翻訳をようやく終えたのだ。
元々の依頼人であるエル・ミエルドの学者は、イオネの想定を遙かに超えて翻訳本の完成を喜んだ。
「素晴らしい翻訳です、アリアーヌ・クレテ教授。あなたが引き受けてくださって本当によかった」
「光栄です、ムラト教授。次の機会があれば最初にお声掛けいただけるととても嬉しいわ」
イオネは型通りに礼儀正しく接しながら、チクリと棘を刺すことも忘れなかった。最初の人選が杜撰だったことに学者として苛立ちを感じていたし、素晴らしい論文には、学問への情熱があるものこそ介入すべきだ。
そういうイオネの気分を、ムラトも感じていた。同業者として少々気まずくもあっただろう。妥当と言うにはちょっと高すぎると思われるほどの金額が書かれた報酬の小切手の他に、ムラトは細長い匣をイオネに渡した。つやつやした重厚な質感の木箱で、蓋には繊細な異国の幾何学模様が彫られ、蓋と匣の本体を繋いでいる蝶番に至るまで、細やかで無駄のない仕上げだ。
中には深緑の石で作られたペンが二本収められていた。
「もしかして、翡翠?」
「いかにも」
ムラトは黒い肌を誇らしげに艶めかせて微笑んだ。
並の技巧ではない。紡錘形のペン先には微細な溝が美しい流線を描いて彫られ、軸には絡み合う草花の紋様が彫られている。とても一つの石から作られたとは思えない巧緻なものだ。間違いなく、翻訳の報酬を遙かに超える値打ちだろう。
「報酬は十分過ぎるほどいただいているし、こんなに高価なものをいただく理由はないわ」
イオネは辞退しようとしたが、ムラトはにっこりと笑って首を振った。
「これもささやかな外交の一環ですよ、アリアーヌ教授。この国にも我が国の素晴らしい風習を広めたい。まずは、身近な人たちから」
「風習って、どんなもの?」
「対になっているペンの片方を大切な人に贈るのです。わたしの国では、言葉で愛を告げる代わりに詩を綴って贈ります」
イオネはちょっと返答に困って、手の中にあるペンを眺めた。
「それは…素敵な文化だわ。とても情感豊かで…。でも折角だけど、わたしにそんな相手はいないんです。予定もないし」
たったいま頭に浮かんだ黒髪の男は、決してそういう対象ではない。ただ惑わされているだけだ。この不可解で苦しい感情もきっと時間が経てば消えてなくなるに違いない。
「ではいつか愛を綴りたくなる相手が現れた時に、是非片方を贈ってください」
そう言ってムラトが目尻の皺を深くしたとき、なんとなく自分の頭の中が見透かされているような気分になった。
この日、予告通りシルヴァンがユルクスに現れた。
仕事から戻ってきたイオネを使用人に紛れて出迎えて驚かせようというシルヴァンの計画は、見事に失敗に終わった。
「そこで何してるの、シルヴァン」
イオネが心底不思議に思って訊ねると、シルヴァンは肩を竦めて戸口に並んだ使用人たちの列から進み出た。使用人たちは互いに目を合わせてくすくす笑っている。
「ちぇ。ばれた」
「少なくとも密偵には向かないわね」
イオネが苦笑すると、シルヴァンはおどけて恭しく跪き、イオネの手を取った。芝居がかった大袈裟な動作だ。
「ごきげんよう、麗しの貴婦人。またお目にかかれて光栄の限りです」
「あなたっていつでもそうやってふざけてるのね」
イオネはおかしくなって笑い声を上げた。
「だって、何でも楽しい方がいいだろ」
「そうね」
シルヴァンと一緒に過ごすうちに、この胸の痞えも気にならなくなる日が来るかもしれない。
イオネが屋敷を出てからと言うもの、アルヴィーゼは不機嫌この上ない。そしてついさっきドミニクからもたらされた報告が、この不機嫌に拍車を掛けた。
「シルヴァン・フラヴァリが転がり込んだ?」
この上なく不愉快そうな声だ。ドミニクは背筋が凍る思いがした。
「転がり込んだという表現は、適切ではありませんね。もともとフラヴァリ家の所有ですから」
「それで、囮はどうなってる。勘付かれてはいないだろうな」
アルヴィーゼはピシャリと遮って別の話をした。このままシルヴァン・フラヴァリの話を続けていたらすぐにでも屋敷を飛び出してイオネを攫ってしまいそうだ。
「ええ。まんまと囮をつけ回してますよ。送迎の馬車には不審者は現れていません」
これこそ、イオネが屋敷を出ることを容認した上、毎日送迎の馬車を付けている最大の理由だ。
毎朝公爵邸からイオネに扮した囮が大学へ向かい、帰りは同じく囮が大学から歩いて屋敷へ帰ってくる。一方イオネは、毎朝フラヴァリ邸から馬車に乗り、帰りは大学の敷地内から馬車に乗っている。すべて追跡者の目をごまかすためだ。毎日ソニアを馬車に乗せているのも、彼女が一緒にいればイオネが拒まないだろうという確信があったからだった。
(そもそもカスピオのバカ息子がイオネを付け狙うような真似さえしなければ、ここに縛り付けておけたものを)
アルヴィーゼの激しい苛立ちの根源は、そこにある。
明らかにイオネの感情がこちらへ傾き始めた状況で、他の男の領域に踏み入らせることなど絶対に許さないのに、身の安全を脅かされている状況ではそうせざるを得なかった。イオネに何も気取られることなく囮を使うには、身体中から血が流れそうなほど気に入らなくても、この機に乗じる他なかったのだ。
「まあまあ、イライラするなって」
マルクが蒸留酒のなみなみと入ったグラスを片手に、アルヴィーゼの隣にドカッと腰掛けた。この日は軍服ではなく、上流階級の平服姿だ。
今はソファの座面が沈むだけでも神経に障る。アルヴィーゼは眉間の皺を深くして無遠慮な旧友を睨め付け、コーヒーの入ったカップに口を付けた。
「教授は安全だ。それに、教授をつけ回してるやつらも特定できた」
「複数いるのか」
「三人だ。同じ順番で日替わりに違う男が尾行してる。これだけ毎日見張ってるってことは、教授の日常を徹底的に調べて隙を伺ってるんじゃないか?拉致する気なのかもな。あれだけ美人じゃ危ないやつに目を付けられてもおかしくない」
マルクは意味ありげにアルヴィーゼを横目で見た。アルヴィーゼは、マルクが今まで見たこともない恐ろしい形相で報告の書類に目を通している。
「怖い顔するなよ。色男が台無しだぞ」
アルヴィーゼは今にも人を殺しそうな顔でマルクを睨め付け、黙殺した。マルクは口元がニヤリとしそうになるのを堪えながら、蒸留酒のグラスに口を付けた。
(こいつは、自分がいちばん危険だって気付いてるのかね)
ジャシント・カスピオも、厄介な男を敵に回したものだ。
「いちばん尋問に弱そうな者を取り押さえろ」
アルヴィーゼ・コルネールの怖いところだ。追跡者の動向を探るための追跡者がそこまで相手を観察しているということを前提に話をしている。
マルクは、今度は笑みを隠さなかった。この傲慢で抜け目のない男の意図を外すことなく任務を遂行している自分がなんとなく誇らしくなったのだ。
「いちばん若くて経験値の浅いやつがいる」
「ではその男を取り押さえろ。決して逃すな」
「いいぜ、親友」
マルクは白い歯を見せた。常ならば個人的な頼み事にナヴァレの戦力を割くことは御法度だが、王国政府もルドヴァン公爵の意向とあっては無碍にはできないだろう。
何より、マルクにとっては無二の親友が初恋に溺れているのだ。これほど貴重なものを見守れるのだから、多少の規則を破って一肌脱いでやるのも吝かではない。
既に収穫祭は終わり、祭の後のなんとも言えない哀愁が街に漂っている。少し前まで空気中に感じていた夏の名残はすっかりなくなり、数日経つ頃には冬の眠りを待つ木々の乾いた葉擦れと渡り鳥の鳴き声がよく耳に届くようになった。
イオネの世界の中心は、相変わらずユルクス大学にある。
朝はのろのろ起きて大学へ行き、学生たちに講義をした後でマルス語での討論をさせ、新たな課題を与え、少々の時間を図書館で過ごしてから、ノンノ・ヴェッキオの屋敷へ帰る。
これが、イオネの標準的な生活だ。決して寝室へ勝手に入ってくる礼儀知らずもいなければ、悪い遊戯に巻き込もうと誘惑する悪魔もいない。
フラヴァリ邸に起居している十人ほどの使用人は、風呂や食事などの最低限の用意をするのみで、イオネの生活にはほとんど干渉してこない。一時的な管理者であることと、イオネがあれこれ世話を焼かれるのを好まないということをシルヴァンから聞かされているのだろう。
どういうわけか毎日フラヴァリ邸と大学を往復する送迎の馬車がコルネール家から派遣されているが、それを除けば、概ね自儘な日々が戻りつつある。
イオネはこの日も迎えに来た馬車に乗り込んで、ニコニコと嬉しそうに向かいに座るソニアに朝の挨拶をした。
イオネがもう関係のないはずのコルネール家の馬車を拒否できない理由は、ソニアが必ず同乗しているからだ。自分が思った以上に彼女への信頼を強く感じていたことを、迎えの馬車の前で待つソニアを見たときに初めて知った。
「公爵のお節介はいつまで続くの?」
イオネが表情少なく訊ねると、ソニアは穏やかに微笑んだ。
「イオネさまのお荷物がまだ半分ほど残っていますから、新しいお住まいを見つけて全て移されるまでは、まだ特別なお客様としておもてなしすると思います」
「そう」
胸の内側を細い針でちくちくと刺されているような気がする。
あの夜以来、アルヴィーゼと殆ど言葉を交わさないまま、屋敷を出た。酒のせいにも、アルヴィーゼのせいにもできない。初めてはっきりと自らあの行為を望んだのだ。危険な火遊びだと理解していながら、アルヴィーゼの遊戯に乗ってしまった。
柔らかな朝陽を受け、裸のまま肘に頭を乗せたアルヴィーゼが涼やかな目を伏せてイオネの髪を弄び、その先に口付けをしたとき、今まで自分の中で頑なに守ってきた堅牢な砦が、何か理不尽で不可思議な力によって崩されていくような、ひどく心許ない気分になった。
枕元に落ちたギンバイカは、衝動に身を焦がして心の奥底を曝け出した後の、自分の姿だ。
あの男は傀儡師だ。分が悪すぎる。屋敷を出ると告げた時は「ちょうどいい」などと言っていたくせに、肉体の誘惑を仕掛けてきて、こちらが陥落するさまを存分に愉しんでいた。
(だいたい、「ちょうどいい」ってどういう意味よ)
こんなことに腹を立てている自分にも嫌気が差す。これ以上関わるべきではないとわかっているのに、眠りに落ちる寸前、耳に残る優しい声が何を告げたのか、ふとした瞬間に思い出そうとしてしまう。
せっかく離れたというのに、こうしてソニアと他愛もない会話をしている間も、仕事に没頭している間も、頭の隅にはアルヴィーゼ・コルネールの影がある。受け入れたくないが、認めざるを得ない。
一方で、良いこともあった。ブロスキ教授に頼まれていた天文学の論文の翻訳をようやく終えたのだ。
元々の依頼人であるエル・ミエルドの学者は、イオネの想定を遙かに超えて翻訳本の完成を喜んだ。
「素晴らしい翻訳です、アリアーヌ・クレテ教授。あなたが引き受けてくださって本当によかった」
「光栄です、ムラト教授。次の機会があれば最初にお声掛けいただけるととても嬉しいわ」
イオネは型通りに礼儀正しく接しながら、チクリと棘を刺すことも忘れなかった。最初の人選が杜撰だったことに学者として苛立ちを感じていたし、素晴らしい論文には、学問への情熱があるものこそ介入すべきだ。
そういうイオネの気分を、ムラトも感じていた。同業者として少々気まずくもあっただろう。妥当と言うにはちょっと高すぎると思われるほどの金額が書かれた報酬の小切手の他に、ムラトは細長い匣をイオネに渡した。つやつやした重厚な質感の木箱で、蓋には繊細な異国の幾何学模様が彫られ、蓋と匣の本体を繋いでいる蝶番に至るまで、細やかで無駄のない仕上げだ。
中には深緑の石で作られたペンが二本収められていた。
「もしかして、翡翠?」
「いかにも」
ムラトは黒い肌を誇らしげに艶めかせて微笑んだ。
並の技巧ではない。紡錘形のペン先には微細な溝が美しい流線を描いて彫られ、軸には絡み合う草花の紋様が彫られている。とても一つの石から作られたとは思えない巧緻なものだ。間違いなく、翻訳の報酬を遙かに超える値打ちだろう。
「報酬は十分過ぎるほどいただいているし、こんなに高価なものをいただく理由はないわ」
イオネは辞退しようとしたが、ムラトはにっこりと笑って首を振った。
「これもささやかな外交の一環ですよ、アリアーヌ教授。この国にも我が国の素晴らしい風習を広めたい。まずは、身近な人たちから」
「風習って、どんなもの?」
「対になっているペンの片方を大切な人に贈るのです。わたしの国では、言葉で愛を告げる代わりに詩を綴って贈ります」
イオネはちょっと返答に困って、手の中にあるペンを眺めた。
「それは…素敵な文化だわ。とても情感豊かで…。でも折角だけど、わたしにそんな相手はいないんです。予定もないし」
たったいま頭に浮かんだ黒髪の男は、決してそういう対象ではない。ただ惑わされているだけだ。この不可解で苦しい感情もきっと時間が経てば消えてなくなるに違いない。
「ではいつか愛を綴りたくなる相手が現れた時に、是非片方を贈ってください」
そう言ってムラトが目尻の皺を深くしたとき、なんとなく自分の頭の中が見透かされているような気分になった。
この日、予告通りシルヴァンがユルクスに現れた。
仕事から戻ってきたイオネを使用人に紛れて出迎えて驚かせようというシルヴァンの計画は、見事に失敗に終わった。
「そこで何してるの、シルヴァン」
イオネが心底不思議に思って訊ねると、シルヴァンは肩を竦めて戸口に並んだ使用人たちの列から進み出た。使用人たちは互いに目を合わせてくすくす笑っている。
「ちぇ。ばれた」
「少なくとも密偵には向かないわね」
イオネが苦笑すると、シルヴァンはおどけて恭しく跪き、イオネの手を取った。芝居がかった大袈裟な動作だ。
「ごきげんよう、麗しの貴婦人。またお目にかかれて光栄の限りです」
「あなたっていつでもそうやってふざけてるのね」
イオネはおかしくなって笑い声を上げた。
「だって、何でも楽しい方がいいだろ」
「そうね」
シルヴァンと一緒に過ごすうちに、この胸の痞えも気にならなくなる日が来るかもしれない。
イオネが屋敷を出てからと言うもの、アルヴィーゼは不機嫌この上ない。そしてついさっきドミニクからもたらされた報告が、この不機嫌に拍車を掛けた。
「シルヴァン・フラヴァリが転がり込んだ?」
この上なく不愉快そうな声だ。ドミニクは背筋が凍る思いがした。
「転がり込んだという表現は、適切ではありませんね。もともとフラヴァリ家の所有ですから」
「それで、囮はどうなってる。勘付かれてはいないだろうな」
アルヴィーゼはピシャリと遮って別の話をした。このままシルヴァン・フラヴァリの話を続けていたらすぐにでも屋敷を飛び出してイオネを攫ってしまいそうだ。
「ええ。まんまと囮をつけ回してますよ。送迎の馬車には不審者は現れていません」
これこそ、イオネが屋敷を出ることを容認した上、毎日送迎の馬車を付けている最大の理由だ。
毎朝公爵邸からイオネに扮した囮が大学へ向かい、帰りは同じく囮が大学から歩いて屋敷へ帰ってくる。一方イオネは、毎朝フラヴァリ邸から馬車に乗り、帰りは大学の敷地内から馬車に乗っている。すべて追跡者の目をごまかすためだ。毎日ソニアを馬車に乗せているのも、彼女が一緒にいればイオネが拒まないだろうという確信があったからだった。
(そもそもカスピオのバカ息子がイオネを付け狙うような真似さえしなければ、ここに縛り付けておけたものを)
アルヴィーゼの激しい苛立ちの根源は、そこにある。
明らかにイオネの感情がこちらへ傾き始めた状況で、他の男の領域に踏み入らせることなど絶対に許さないのに、身の安全を脅かされている状況ではそうせざるを得なかった。イオネに何も気取られることなく囮を使うには、身体中から血が流れそうなほど気に入らなくても、この機に乗じる他なかったのだ。
「まあまあ、イライラするなって」
マルクが蒸留酒のなみなみと入ったグラスを片手に、アルヴィーゼの隣にドカッと腰掛けた。この日は軍服ではなく、上流階級の平服姿だ。
今はソファの座面が沈むだけでも神経に障る。アルヴィーゼは眉間の皺を深くして無遠慮な旧友を睨め付け、コーヒーの入ったカップに口を付けた。
「教授は安全だ。それに、教授をつけ回してるやつらも特定できた」
「複数いるのか」
「三人だ。同じ順番で日替わりに違う男が尾行してる。これだけ毎日見張ってるってことは、教授の日常を徹底的に調べて隙を伺ってるんじゃないか?拉致する気なのかもな。あれだけ美人じゃ危ないやつに目を付けられてもおかしくない」
マルクは意味ありげにアルヴィーゼを横目で見た。アルヴィーゼは、マルクが今まで見たこともない恐ろしい形相で報告の書類に目を通している。
「怖い顔するなよ。色男が台無しだぞ」
アルヴィーゼは今にも人を殺しそうな顔でマルクを睨め付け、黙殺した。マルクは口元がニヤリとしそうになるのを堪えながら、蒸留酒のグラスに口を付けた。
(こいつは、自分がいちばん危険だって気付いてるのかね)
ジャシント・カスピオも、厄介な男を敵に回したものだ。
「いちばん尋問に弱そうな者を取り押さえろ」
アルヴィーゼ・コルネールの怖いところだ。追跡者の動向を探るための追跡者がそこまで相手を観察しているということを前提に話をしている。
マルクは、今度は笑みを隠さなかった。この傲慢で抜け目のない男の意図を外すことなく任務を遂行している自分がなんとなく誇らしくなったのだ。
「いちばん若くて経験値の浅いやつがいる」
「ではその男を取り押さえろ。決して逃すな」
「いいぜ、親友」
マルクは白い歯を見せた。常ならば個人的な頼み事にナヴァレの戦力を割くことは御法度だが、王国政府もルドヴァン公爵の意向とあっては無碍にはできないだろう。
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