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56 ムクドリ - les étourneaux -
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ソニアはこの日を万感の思いで迎えた。
(あんなに旦那さまを嫌っていたイオネさまが、旦那さまと並んで国王陛下に拝謁するなんて…)
名目は「ルドヴァン公爵の重要な事業に多大な貢献をしたユルクス大学の教授」ということになっているが、アルヴィーゼ・コルネールがこの重要な場に女性を伴うことの意味は、その場にいる誰もが理解するだろう。
自分の仕事にも満足だ。
イオネは仰々しい装いや派手な化粧が無くても輝くほどに美しい。ソニアはそれを十分に引き立てるための作業をし、イオネの滑らかな白い肌に映えるようなドレスを着付けるだけでよかった。
これこそスーストラクシオンの美学だ。
「ああ、お美しい…」
ソニアは王城の大広間の扉の向こうへ進んでいくイオネの後ろ姿をうっとりと見送り、ドミニクに語りかけた。
「ご覧いただけました?仕立屋と相談してドレスの肩から上腕の方まで広く切れ込みを入れて、内側に花模様のレースをあしらったんです。イオネさまは肌がおきれいだから本当に白の繊細なレースがよく映えて…はあ…素敵…。美しい御髪を邪魔しないようにドレスの刺繍も下の方に大きく配置したんですよ。まるで花の女神が春を連れて歩くみたいに。見て、なんてきれいなの…。わたしのミューズ…」
最後の方はもはや独り言だ。ソニアはすっかりイオネに心酔しているから、この先もそばに仕えられることが嬉しくて仕方ないのだ。
ドミニクは主人のアルヴィーゼの後ろ姿から視線をそっとイオネの方へ移し、胡桃色の髪が春風に乗って軽やかに靡くのを見た。
「確かに今日はいっそうお美しいけど、俺はあんまり見るとアルヴィーゼさまに怒られるから…」
「それもそうですね。わたしは女に生まれて本当に良かったです」
ソニアは上機嫌にくすくすと笑った。
「ああ…。婚礼のお衣装もわたしにお任せいただけるでしょうか…」
「気が早いな」
ドミニクは苦笑を漏らした。が、存外その日は近いかもしれない。
美しく磨かれた大理石の床を踏んだイオネは、人の多さや煌びやかさよりも、建造物としての王城の美麗さに目を見張った。柱に施された繊細で微細な装飾、壁の淡い色味と黄金の装飾の組み合わせの絶妙さ、肖像画や神話の絵画の筆致の軽やかさに至るまで、ユルクスの元首宮殿や大学に見られる荘厳さとは全く趣きが異なっている。
アルヴィーゼの腕に手を添えて進むにつれ、王城の宴に相応しい高貴な人々の視線が大雨のように降り注いだ。想定していた通りだ。ところがイオネはそんな視線よりも城内の装飾や調度品に夢中だった。
「ねえ。あの奥の柱、形はエメネケア様式だけど彫刻はラローシュ時代の特徴ね。後の時代に何かの記念で彫られたものでしょう。狼が獅子に追われているから、三百年前のルースの戦いの戦勝記念かしら」
と柱に近づいてしげしげと眺めたと思ったら、大広間の壁に施された神話のレリーフにアルヴィーゼを誘い、
「これ、見てみたかったの。月神と太陽神の子が二人で抱いている赤ちゃんの脚に小さな痣が彫られているのよ、ほら、ここ。これを作った彫刻家の娘が生まれつき痣を持っていて、それを欠点ではなく誇りに思えるようにっていう親心でこれを作ったと言われているわ。もう一つの説では、神の子が長じて人と交わり古代帝国の祖となる事を暗示しているそうよ。人は神と違って完璧ではないことを示しているとか。わたしは前者の方が好き」
と言って声を弾ませた。中でもイオネを最も興奮させたのが、最奥部の壇上で主を待つ無人の玉座だ。黄金に輝く椅子の四本の脚は、獅子の脚の形をしている。
「あれを作った職人が当時の国王の暴政に腹を立てて、悪戯で玉座の後ろに尻尾をつけたと言われているの。長年歴史学者の間で当時の政治が暴政だったかどうかって議論の的になっているのだけど、尻尾の毛の部分に古代の文字で暴政の犠牲になった英雄たちの名が彫られていると聞いたことがあるわ。でも本当のことは玉座の後ろを見ることのできる人じゃないとわからないから、未だに真相を知る学者はいないの。あなた、知ってる?」
アルヴィーゼはとうとう可笑しくなって、笑い声を上げた。
「お前、ここへ遊びに来たのか?」
「だって、歴史と芸術と格式の全てが集まる場所よ。こんなに面白いところはないわ」
「俺も見たことはないが、玉座の後ろはいつか見られるかもしれないぞ」
「どうやって?」
イオネはスミレ色の目をきらきらと輝かせた。
「王族と同列の扱いを受ける家門なら、生まれたばかりの嫡子を連れて特別に玉座の近くへ上がり国王の拝謁を賜る。国王が一族の子を抱いて祝福を授ける習わしだ。機会があるとすればそれだな」
この言葉の意図を理解したイオネはじわじわと顔を赤くして、添えた手でアルヴィーゼの腕をばしっと叩いた。
「自惚れ屋ね」
「そんなことはない」
ふ、とアルヴィーゼの唇が優しく弧を描き、イオネの目前に迫った。イオネはこの公の場で口付けをされるのかと身構えたが、アルヴィーゼは肌に唇が触れる直前で身体を離し、ちょっと不満げに小さく舌を打った後で、後方から近づいてきた仰々しい出立ちのほっそりした若い紳士に貴公子らしい微笑を向けて挨拶を交わした。
「エラデール伯。久しいな」
「ええ。お久しぶりです、ルドヴァン公。でもあちこちであなたの話を聞くから、あまり久しい気がしませんね。お連れの美しい方も、お会いできて光栄です。従弟のエラデール伯エミール・ビゼです」
エミールの胃もたれしそうなほどキラキラとした笑顔に、イオネはほんの僅かばかりの微笑で応じた。
「ユルクス大学のアリアーヌ・クレテ教授です、閣下」
この時エミールは一瞬だけ「おや」というように眉を開いた。何か見当が外れたような時に見せる顔だ。
「お父上と最近お会いになりましたか」
「いや。親父は相変わらず方々遊び回っているから、先月の帰郷の時も顔を合わせていない。なぜだ」
イオネは怪訝そうに眉を寄せたアルヴィーゼの顔を見上げながら、ふとあることを思い出した。アルヴィーゼの寝室に闖入してきたマルクも確か、アルヴィーゼの父親からめでたい話を聞いたなどと言っていた気がする。
そして同じく父親の話題を出したエミールの目が憚るようにこちらを見たことに、イオネは気付いていた。
「遠慮は無用です。内密な話があるなら外すわ」
「必要ない」
アルヴィーゼはイオネが離そうとした手を握って自分の腕に戻し、エミールに視線で続けるよう促した。が、二人がその先を聞くことはできなかった。
ちょうど大広間の奥の扉が開かれ、その場の全員が身を低くして王国で最も高貴な人物を迎えなければならなかったからだ。
エマンシュナ国王レオニードは、千年の昔からこの国を総べ導いてきた王家の長たるに相応しい姿をしていた。
ダークブロンドの豊かな髪に王冠が輝き、長い貂のマントがその権威を表すように棚引いている。
これまで君主というものを持ったことのないイオネでも、ぴりりと肌を刺すような畏れが身の内に湧き、心臓が縮まるような思いがした。出で立ちだけではなく、レオニード・アストルという男の肉体から蒸気のように湧き出でるエネルギーが空気を伝い、人々をそうさせるのだ。
イオネは外国からの客人として王族の集う中央部を避けようとしたが、アルヴィーゼが許さなかった。
(無遠慮で無知な外国人だと思われるじゃない)
イオネが唇の動きだけでアルヴィーゼを責めると、アルヴィーゼはニヤリと唇を吊り上げ、
「いいから、ここにいろ」
と低く言った。
まだ少年と呼べる年頃の王太子を筆頭として王家であるアストル一族の拝謁が終わった後、次に進み出たのがルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールだった。
(王族と同列というのは誇張ではないのね)
少し離れた場所から見ると、アルヴィーゼもまた国王と同じような空気を纏っている。容貌、表情、所作、声、その存在の全てが傲然とし、それでいて小憎らしいほどに典雅だ。
イオネが見たところ、レオニード王は王族よりもアルヴィーゼに対して特別な敬意を払っているようだった。伯父と甥のような気安さの中に、同盟国の君主に対するような丁重さが滲んでいる。
アルヴィーゼは型通りの口上を述べ、レオニード王と手短に二言ほど世間話を交わした後、
「国王陛下にご紹介申し上げたい才媛がいます」
と、後方に控えるイオネの方へ視線を向けた。
エマンシュナ貴族諸侯の視線が一斉にイオネへ集中し、イオネは居心地の悪さに笑顔も作らず国王に向かって恭しく身を低くした。
「許そう、ルドヴァン公爵」
明朗な声でレオニード王が言うと、イオネはアルヴィーゼの隣に進み出た。
こういう場は苦手だ。が、そういう態度を微かにでも出せば侮られる。それこそイオネの最も我慢ならないものだ。
「アリアーヌ・クレテ教授です。国王陛下に謹んで拝謁を賜ります」
イオネは美しいマルス語を発し、凛と胸を張った。先ほどよりも近くで見た国王の顔は、思ったよりも柔和だ。他愛もない挨拶なのに、いくつか言葉を交わしただけで、この人物の器量がわかる。正に国家元首たるに相応しい人物だと思った。
最後に、レオニード王はイオネにこんなことを言った。
「アリアーヌ・クレテ教授。そなたが強大な竜を倒すとしたら、どうやるか聞かせてくれ」
諸侯の間でにわかにざわめきが起きた。この問答は、レオニード王が一族や議会に新たな重要人物を加える度に行うもので、客人に問うものではない。それをこの場にいる諸侯たちは承知している。唯一、共和国の教授であるイオネを除いて。――
「船職人の子であればまずは南の鉱山を目指すでしょうが――」
と、イオネは古代帝国時代の故事を引用した。教養ある王国の貴族であればその喜劇的な面白みを理解してくすりと笑える類のものだ。
「わたしは言語学者ですから、言葉を使います」
「しかし竜に人の言葉が分かるかな」
レオニード王が鷹揚に髭を撫でた。ちょっと面白がっているふうでもある。
「恐れながら、陛下。わたしが竜の言葉を理解するのです。生き物であれば仲間と意思疎通するための言語が必ずあるものです。鳥の鳴き声や鯨の歌のように。竜を観察し、様々な刺激を与えて反応を見、交流を図り、検証を繰り返すことで彼らの言語を理解できるようになります。更に正しい意思の疎通が可能になれば、信頼を得られます」
「倒すべき竜と信頼関係を築くのか?」
「ええ。そうすれば、‘倒れろ’と言うだけで腹を地面につけるでしょうから」
レオニード王は弾けるように笑い出した。これほど多くの者が集まる場で国王が声を上げて笑う姿は、かなり珍しい。伯父と甥ほど親密な関係にあるアルヴィーゼでさえ驚いたほどだ。
「なるほど。言葉に留まらず、学問こそが学者たるそなたの武器ということだな」
「その通りです、陛下。ですが学者でなくても、誰もが武器として得ることができるのが、学問の妙なるところです」
レオニード王は満足げに深く頷き、アルヴィーゼとイオネに笑いかけた。
「心から歓迎しよう、アリアーヌ・クレテ教授」
国王のこの言葉の真意を、アルヴィーゼだけは分かっていた。
(レオニード伯父はイオネを一族に加えたがっている)
口元を意識して引き締めていないと緩んでしまいそうだ。エマンシュナにおけるイオネを囲い込む作業は、国王のこの一言でほぼ完了したと言っていい。
この後も、アルヴィーゼはイオネをそばから離さなかった。
横からしゃしゃり出てきたマルクとエミールのダンスの誘いに、あからさまに不機嫌になったアルヴィーゼを黙殺してイオネが応じた他は、アルヴィーゼがイオネを独占し、隙あらば興味本位で近付いてあらを探し、或いは阿って取り入ろうとする不愉快なムクドリの群れから引き離した。
「お化粧室まではついてこないで」
この過保護ぶりに辟易したイオネは、とうとうアルヴィーゼを拒んだ。
「ではソニアを呼べ」
「子供じゃないのよ」
つい最近まで一人で生活していたというのに、一人では何もできないかのように扱われるのはあまりに不当だと思ったのだ。イオネはアルヴィーゼの行動の理由を根底からは理解していない。
ぷりぷりと大広間を後にしたイオネを、アルヴィーゼが放っておくはずはなかった。が、すぐにマルクに捕まった。
「見てたぞぉ。用足すぐらいゆっくりさせてやれよな」
「お前には配慮というものがないのか」
「なんだよ、お前もだろ?俺たち気が合うな、親友」
「チッ」
アルヴィーゼは心底煩わしげに舌を打ち、頬の腫れを勲章のように見せつけているマルクを黙殺して大広間の大きなアーチの扉をくぐった。
(もっと強く殴っておけば良かった)
「なあ、それより朝言いそびれたことがあるんだよ。お前の親父さんのことだ」
アルヴィーゼは眉を寄せた。従弟のエミールも何か言いかけていたが、まだその先を聞いていない。
同じ頃、細部まで美しく磨かれた化粧室の清潔さと排水設備の見事さに感心しながらその場を後にしたイオネは、前方からぞろぞろと連れ立ってやって来た五人の令嬢に鉢合わせた。
「ごきげんよう、教授」
豊かな金色の巻き毛を目が痛くなるほどの宝石が輝く髪飾りで飾った令嬢が殊更ニッコリと笑みを作った。年の頃は自分よりもやや下に見える。自ら声を掛けてお辞儀もしないこの態度は、一介の大学教授であるイオネに身を低くしろと言っているのだろう。が、イオネはこの王国の人間でもなければ、この令嬢の臣下でもない。
「ごきげんよう」
イオネはにこりともせずに顎を上げ、その場を去ろうとした。
が、令嬢の侍女なのかただの取り巻きなのか、金髪の令嬢よりも装飾の少ないドレスを纏った別の令嬢がイオネの前に進み出て、行く手を阻んだ。
(この感じ、懐かしいわ)
精一杯牙を剥く令嬢たちには悪いが、イオネはちょっとおかしくなってしまった。
むすめ時代を思い出す。ユルクスの社交界で目立っていたクレテ家の四姉妹もよく標的にされていたが、彼女たちの連帯は常に完璧だった。しかし今は、弁の立つクロリスも、冷笑が恐ろしいニッサも、無邪気さで相手に致命傷を負わせるリディアもいない。
「教授のわたしを引き止めるということは、何かの講釈を期待しているの?船職人の故事のことかしら」
「いいえ、教授。わたくしが知りたいのは、どうして婚約者のわたくしを差し置いて、あなたがルドヴァン公爵閣下の隣にいるのかということです」
(なんですって?)
イオネは無表情のまま、目の色を暗くした。
(あんなに旦那さまを嫌っていたイオネさまが、旦那さまと並んで国王陛下に拝謁するなんて…)
名目は「ルドヴァン公爵の重要な事業に多大な貢献をしたユルクス大学の教授」ということになっているが、アルヴィーゼ・コルネールがこの重要な場に女性を伴うことの意味は、その場にいる誰もが理解するだろう。
自分の仕事にも満足だ。
イオネは仰々しい装いや派手な化粧が無くても輝くほどに美しい。ソニアはそれを十分に引き立てるための作業をし、イオネの滑らかな白い肌に映えるようなドレスを着付けるだけでよかった。
これこそスーストラクシオンの美学だ。
「ああ、お美しい…」
ソニアは王城の大広間の扉の向こうへ進んでいくイオネの後ろ姿をうっとりと見送り、ドミニクに語りかけた。
「ご覧いただけました?仕立屋と相談してドレスの肩から上腕の方まで広く切れ込みを入れて、内側に花模様のレースをあしらったんです。イオネさまは肌がおきれいだから本当に白の繊細なレースがよく映えて…はあ…素敵…。美しい御髪を邪魔しないようにドレスの刺繍も下の方に大きく配置したんですよ。まるで花の女神が春を連れて歩くみたいに。見て、なんてきれいなの…。わたしのミューズ…」
最後の方はもはや独り言だ。ソニアはすっかりイオネに心酔しているから、この先もそばに仕えられることが嬉しくて仕方ないのだ。
ドミニクは主人のアルヴィーゼの後ろ姿から視線をそっとイオネの方へ移し、胡桃色の髪が春風に乗って軽やかに靡くのを見た。
「確かに今日はいっそうお美しいけど、俺はあんまり見るとアルヴィーゼさまに怒られるから…」
「それもそうですね。わたしは女に生まれて本当に良かったです」
ソニアは上機嫌にくすくすと笑った。
「ああ…。婚礼のお衣装もわたしにお任せいただけるでしょうか…」
「気が早いな」
ドミニクは苦笑を漏らした。が、存外その日は近いかもしれない。
美しく磨かれた大理石の床を踏んだイオネは、人の多さや煌びやかさよりも、建造物としての王城の美麗さに目を見張った。柱に施された繊細で微細な装飾、壁の淡い色味と黄金の装飾の組み合わせの絶妙さ、肖像画や神話の絵画の筆致の軽やかさに至るまで、ユルクスの元首宮殿や大学に見られる荘厳さとは全く趣きが異なっている。
アルヴィーゼの腕に手を添えて進むにつれ、王城の宴に相応しい高貴な人々の視線が大雨のように降り注いだ。想定していた通りだ。ところがイオネはそんな視線よりも城内の装飾や調度品に夢中だった。
「ねえ。あの奥の柱、形はエメネケア様式だけど彫刻はラローシュ時代の特徴ね。後の時代に何かの記念で彫られたものでしょう。狼が獅子に追われているから、三百年前のルースの戦いの戦勝記念かしら」
と柱に近づいてしげしげと眺めたと思ったら、大広間の壁に施された神話のレリーフにアルヴィーゼを誘い、
「これ、見てみたかったの。月神と太陽神の子が二人で抱いている赤ちゃんの脚に小さな痣が彫られているのよ、ほら、ここ。これを作った彫刻家の娘が生まれつき痣を持っていて、それを欠点ではなく誇りに思えるようにっていう親心でこれを作ったと言われているわ。もう一つの説では、神の子が長じて人と交わり古代帝国の祖となる事を暗示しているそうよ。人は神と違って完璧ではないことを示しているとか。わたしは前者の方が好き」
と言って声を弾ませた。中でもイオネを最も興奮させたのが、最奥部の壇上で主を待つ無人の玉座だ。黄金に輝く椅子の四本の脚は、獅子の脚の形をしている。
「あれを作った職人が当時の国王の暴政に腹を立てて、悪戯で玉座の後ろに尻尾をつけたと言われているの。長年歴史学者の間で当時の政治が暴政だったかどうかって議論の的になっているのだけど、尻尾の毛の部分に古代の文字で暴政の犠牲になった英雄たちの名が彫られていると聞いたことがあるわ。でも本当のことは玉座の後ろを見ることのできる人じゃないとわからないから、未だに真相を知る学者はいないの。あなた、知ってる?」
アルヴィーゼはとうとう可笑しくなって、笑い声を上げた。
「お前、ここへ遊びに来たのか?」
「だって、歴史と芸術と格式の全てが集まる場所よ。こんなに面白いところはないわ」
「俺も見たことはないが、玉座の後ろはいつか見られるかもしれないぞ」
「どうやって?」
イオネはスミレ色の目をきらきらと輝かせた。
「王族と同列の扱いを受ける家門なら、生まれたばかりの嫡子を連れて特別に玉座の近くへ上がり国王の拝謁を賜る。国王が一族の子を抱いて祝福を授ける習わしだ。機会があるとすればそれだな」
この言葉の意図を理解したイオネはじわじわと顔を赤くして、添えた手でアルヴィーゼの腕をばしっと叩いた。
「自惚れ屋ね」
「そんなことはない」
ふ、とアルヴィーゼの唇が優しく弧を描き、イオネの目前に迫った。イオネはこの公の場で口付けをされるのかと身構えたが、アルヴィーゼは肌に唇が触れる直前で身体を離し、ちょっと不満げに小さく舌を打った後で、後方から近づいてきた仰々しい出立ちのほっそりした若い紳士に貴公子らしい微笑を向けて挨拶を交わした。
「エラデール伯。久しいな」
「ええ。お久しぶりです、ルドヴァン公。でもあちこちであなたの話を聞くから、あまり久しい気がしませんね。お連れの美しい方も、お会いできて光栄です。従弟のエラデール伯エミール・ビゼです」
エミールの胃もたれしそうなほどキラキラとした笑顔に、イオネはほんの僅かばかりの微笑で応じた。
「ユルクス大学のアリアーヌ・クレテ教授です、閣下」
この時エミールは一瞬だけ「おや」というように眉を開いた。何か見当が外れたような時に見せる顔だ。
「お父上と最近お会いになりましたか」
「いや。親父は相変わらず方々遊び回っているから、先月の帰郷の時も顔を合わせていない。なぜだ」
イオネは怪訝そうに眉を寄せたアルヴィーゼの顔を見上げながら、ふとあることを思い出した。アルヴィーゼの寝室に闖入してきたマルクも確か、アルヴィーゼの父親からめでたい話を聞いたなどと言っていた気がする。
そして同じく父親の話題を出したエミールの目が憚るようにこちらを見たことに、イオネは気付いていた。
「遠慮は無用です。内密な話があるなら外すわ」
「必要ない」
アルヴィーゼはイオネが離そうとした手を握って自分の腕に戻し、エミールに視線で続けるよう促した。が、二人がその先を聞くことはできなかった。
ちょうど大広間の奥の扉が開かれ、その場の全員が身を低くして王国で最も高貴な人物を迎えなければならなかったからだ。
エマンシュナ国王レオニードは、千年の昔からこの国を総べ導いてきた王家の長たるに相応しい姿をしていた。
ダークブロンドの豊かな髪に王冠が輝き、長い貂のマントがその権威を表すように棚引いている。
これまで君主というものを持ったことのないイオネでも、ぴりりと肌を刺すような畏れが身の内に湧き、心臓が縮まるような思いがした。出で立ちだけではなく、レオニード・アストルという男の肉体から蒸気のように湧き出でるエネルギーが空気を伝い、人々をそうさせるのだ。
イオネは外国からの客人として王族の集う中央部を避けようとしたが、アルヴィーゼが許さなかった。
(無遠慮で無知な外国人だと思われるじゃない)
イオネが唇の動きだけでアルヴィーゼを責めると、アルヴィーゼはニヤリと唇を吊り上げ、
「いいから、ここにいろ」
と低く言った。
まだ少年と呼べる年頃の王太子を筆頭として王家であるアストル一族の拝謁が終わった後、次に進み出たのがルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールだった。
(王族と同列というのは誇張ではないのね)
少し離れた場所から見ると、アルヴィーゼもまた国王と同じような空気を纏っている。容貌、表情、所作、声、その存在の全てが傲然とし、それでいて小憎らしいほどに典雅だ。
イオネが見たところ、レオニード王は王族よりもアルヴィーゼに対して特別な敬意を払っているようだった。伯父と甥のような気安さの中に、同盟国の君主に対するような丁重さが滲んでいる。
アルヴィーゼは型通りの口上を述べ、レオニード王と手短に二言ほど世間話を交わした後、
「国王陛下にご紹介申し上げたい才媛がいます」
と、後方に控えるイオネの方へ視線を向けた。
エマンシュナ貴族諸侯の視線が一斉にイオネへ集中し、イオネは居心地の悪さに笑顔も作らず国王に向かって恭しく身を低くした。
「許そう、ルドヴァン公爵」
明朗な声でレオニード王が言うと、イオネはアルヴィーゼの隣に進み出た。
こういう場は苦手だ。が、そういう態度を微かにでも出せば侮られる。それこそイオネの最も我慢ならないものだ。
「アリアーヌ・クレテ教授です。国王陛下に謹んで拝謁を賜ります」
イオネは美しいマルス語を発し、凛と胸を張った。先ほどよりも近くで見た国王の顔は、思ったよりも柔和だ。他愛もない挨拶なのに、いくつか言葉を交わしただけで、この人物の器量がわかる。正に国家元首たるに相応しい人物だと思った。
最後に、レオニード王はイオネにこんなことを言った。
「アリアーヌ・クレテ教授。そなたが強大な竜を倒すとしたら、どうやるか聞かせてくれ」
諸侯の間でにわかにざわめきが起きた。この問答は、レオニード王が一族や議会に新たな重要人物を加える度に行うもので、客人に問うものではない。それをこの場にいる諸侯たちは承知している。唯一、共和国の教授であるイオネを除いて。――
「船職人の子であればまずは南の鉱山を目指すでしょうが――」
と、イオネは古代帝国時代の故事を引用した。教養ある王国の貴族であればその喜劇的な面白みを理解してくすりと笑える類のものだ。
「わたしは言語学者ですから、言葉を使います」
「しかし竜に人の言葉が分かるかな」
レオニード王が鷹揚に髭を撫でた。ちょっと面白がっているふうでもある。
「恐れながら、陛下。わたしが竜の言葉を理解するのです。生き物であれば仲間と意思疎通するための言語が必ずあるものです。鳥の鳴き声や鯨の歌のように。竜を観察し、様々な刺激を与えて反応を見、交流を図り、検証を繰り返すことで彼らの言語を理解できるようになります。更に正しい意思の疎通が可能になれば、信頼を得られます」
「倒すべき竜と信頼関係を築くのか?」
「ええ。そうすれば、‘倒れろ’と言うだけで腹を地面につけるでしょうから」
レオニード王は弾けるように笑い出した。これほど多くの者が集まる場で国王が声を上げて笑う姿は、かなり珍しい。伯父と甥ほど親密な関係にあるアルヴィーゼでさえ驚いたほどだ。
「なるほど。言葉に留まらず、学問こそが学者たるそなたの武器ということだな」
「その通りです、陛下。ですが学者でなくても、誰もが武器として得ることができるのが、学問の妙なるところです」
レオニード王は満足げに深く頷き、アルヴィーゼとイオネに笑いかけた。
「心から歓迎しよう、アリアーヌ・クレテ教授」
国王のこの言葉の真意を、アルヴィーゼだけは分かっていた。
(レオニード伯父はイオネを一族に加えたがっている)
口元を意識して引き締めていないと緩んでしまいそうだ。エマンシュナにおけるイオネを囲い込む作業は、国王のこの一言でほぼ完了したと言っていい。
この後も、アルヴィーゼはイオネをそばから離さなかった。
横からしゃしゃり出てきたマルクとエミールのダンスの誘いに、あからさまに不機嫌になったアルヴィーゼを黙殺してイオネが応じた他は、アルヴィーゼがイオネを独占し、隙あらば興味本位で近付いてあらを探し、或いは阿って取り入ろうとする不愉快なムクドリの群れから引き離した。
「お化粧室まではついてこないで」
この過保護ぶりに辟易したイオネは、とうとうアルヴィーゼを拒んだ。
「ではソニアを呼べ」
「子供じゃないのよ」
つい最近まで一人で生活していたというのに、一人では何もできないかのように扱われるのはあまりに不当だと思ったのだ。イオネはアルヴィーゼの行動の理由を根底からは理解していない。
ぷりぷりと大広間を後にしたイオネを、アルヴィーゼが放っておくはずはなかった。が、すぐにマルクに捕まった。
「見てたぞぉ。用足すぐらいゆっくりさせてやれよな」
「お前には配慮というものがないのか」
「なんだよ、お前もだろ?俺たち気が合うな、親友」
「チッ」
アルヴィーゼは心底煩わしげに舌を打ち、頬の腫れを勲章のように見せつけているマルクを黙殺して大広間の大きなアーチの扉をくぐった。
(もっと強く殴っておけば良かった)
「なあ、それより朝言いそびれたことがあるんだよ。お前の親父さんのことだ」
アルヴィーゼは眉を寄せた。従弟のエミールも何か言いかけていたが、まだその先を聞いていない。
同じ頃、細部まで美しく磨かれた化粧室の清潔さと排水設備の見事さに感心しながらその場を後にしたイオネは、前方からぞろぞろと連れ立ってやって来た五人の令嬢に鉢合わせた。
「ごきげんよう、教授」
豊かな金色の巻き毛を目が痛くなるほどの宝石が輝く髪飾りで飾った令嬢が殊更ニッコリと笑みを作った。年の頃は自分よりもやや下に見える。自ら声を掛けてお辞儀もしないこの態度は、一介の大学教授であるイオネに身を低くしろと言っているのだろう。が、イオネはこの王国の人間でもなければ、この令嬢の臣下でもない。
「ごきげんよう」
イオネはにこりともせずに顎を上げ、その場を去ろうとした。
が、令嬢の侍女なのかただの取り巻きなのか、金髪の令嬢よりも装飾の少ないドレスを纏った別の令嬢がイオネの前に進み出て、行く手を阻んだ。
(この感じ、懐かしいわ)
精一杯牙を剥く令嬢たちには悪いが、イオネはちょっとおかしくなってしまった。
むすめ時代を思い出す。ユルクスの社交界で目立っていたクレテ家の四姉妹もよく標的にされていたが、彼女たちの連帯は常に完璧だった。しかし今は、弁の立つクロリスも、冷笑が恐ろしいニッサも、無邪気さで相手に致命傷を負わせるリディアもいない。
「教授のわたしを引き止めるということは、何かの講釈を期待しているの?船職人の故事のことかしら」
「いいえ、教授。わたくしが知りたいのは、どうして婚約者のわたくしを差し置いて、あなたがルドヴァン公爵閣下の隣にいるのかということです」
(なんですって?)
イオネは無表情のまま、目の色を暗くした。
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