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第一話
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17時50分。
わたしが家に帰る時間だ。
その日もいつもの通り、いつもの時間にわたしは帰宅した。
そして仕事用のスーツを脱いで部屋着に着替え、父親と弟のために夕食の支度をする。
もう10年以上、この生活を行っていた。
わたしの体にはこの生活のリズムが染みついている。
高校を卒業するころにわたしの母は病に倒れた。
それからずっとわたしはこの生活を行っている。
父は、母が長い闘病生活の末5年前に死んだ時、壊れてしまった。
記憶に混乱をきたし、わたしが誰なのか判らなくなっている。
わたしのことを母の名で呼んだり、誰か知らない昔の恋人の名で呼んだりした。
父は自分の追憶の中に生きている。
その中でわたしに色々な役割が当てられるらしい。
わたしは父の幻想に逆らわず、その時に応じて役割を変えた。
わたしは、父が壊れ会社をやめてから、家計を支え家事を全て引き受けている。
弟は、大学に通っているが、いつのまにか家によりつかなくなった。
週の半分は外泊している。
それでもわたしはいつも家族3人の食事を用意した。
わたしの父と弟の3人。
外から見れば、とうに形骸化した無意味な家族なのかもしれない。
しかし、わたしにとっては生活の全てであり、生きる理由だった。
母が病に倒れてから、幾度か恋のようなものも経験している。
一度離婚歴のある男性を紹介されたことも、あった。
結局わたしはその全てに背を向けている。
わたしは、女である前に家族の一部であると思っていた。
わたし自身が作り上げたわたしの世界であるわたしの家族。
わたしはその中から踏み出そうとは考えていない。
そしてその日もわたしは、いつものように食事の支度を始めていた。
わたしの家の近くには、小さなスーパーが3件ほどある。
そのどれかで買い物をして、家へ帰る。
献立は、買い物をしながら考えていた。
その日、わたしの日常は唐突に中断される。
それは、玄関のチャイムの音で始まった。
わたしは弟が帰ってきたのかと思い、何も考えずに玄関の引き戸を開けた。
そこに佇んでいたのは、白衣の女性である
既に日の暮れた屋外で、彼女が身につけている白いコートは輝くように浮かびあがって見えた。
鋭い意志を秘めたような黒い瞳が、わたしの目の前にある。
研ぎ澄まされた刃のように美しいその顔に、わたしは見覚えがあった。
それた遠い昔の記憶、夢のような日々の中で共に過ごした友人のひとり。
その古い友人は、わたしに語りかけた。
「ミナコ、だよね。わたしのこと判るかな」
「ええ。あなた、リリィね」
リリィは頷く。まりに遠い昔のことであるだけではなく、お互いに随分変わったものだと思う。でも、リリィが持つ凛とした鋼のように強靭な気配は、昔と変わらない。わたしはそう、思った。
「あなたに渡したいものがあるの。
カゲヤマ・アキオ、ってもちろん憶えているよね」
わたしは、その名前に軽いショックをうけた。
とっくに記憶から消し去ったはずの名前だ。
しかし、その名の響きはわたしの心に生々しい動きを呼び覚ました。
「アキオが録音した一枚のCDがあるの。
もしも、ミナコが必要ないというのなら、渡さずに帰るわ。
ミナコがそのCDを受け取るのなら、話しておくことがあるの」
わたしは、リリィを家にあげることにした。
わたしは古い友人を、夕餉の支度が途中である食卓の前に案内する。
わたしがリリィの前に腰をおろすと、リリィは封筒を束ねたものと一枚のCDを取り出した。
「まず、このCDがわたしのところへ来た経緯を、話しておくね」
リリィは、あまり感情を感じさせない淡々とした口調で話す。
彼女はまるで、夢の中からやってきたひとのようだった。
「知ってると思うけどわたしは、ヨーロッパを転々と放浪していたの。
そのとき、インディーズ系のレーベルで音楽活動をしたりしてた。
わたしのところにこのCDが来たのは、その音楽活動の関係。
これは、何か奇妙ないわくのあるCDとして、扱われていたの。
このCDはアキオが最後の演奏を自分で録音したCDなんだけど、演奏した本人以外に3人の人間が聞いている。
その3人ともが死んだの。
皆、衝動的な自殺で」
リリィは、わたしの目の色を読んだらしく、話を中断する。
「ねぇ、わたしは別にオカルトな話をするつもりはないのよ」
「ええ、判ってる」
わたしは、リリィを見据えた。
昔と変わらず内面に強い意志を感じさせる、美しいその顔を。
「アキオの最後の演奏と言ったわね。
では、アキオは」
「アキオ自身も、半月前に自殺したと聞いてるわ。
このCDは死の直前に録音されたもの。
ラベルを見て頂戴」
わたしは、そのCDを受け取りラベルを見た。
そこには、こう書かれている。
『冥界より愛を込めて。トオノ・ミナコへ』
わたしが家に帰る時間だ。
その日もいつもの通り、いつもの時間にわたしは帰宅した。
そして仕事用のスーツを脱いで部屋着に着替え、父親と弟のために夕食の支度をする。
もう10年以上、この生活を行っていた。
わたしの体にはこの生活のリズムが染みついている。
高校を卒業するころにわたしの母は病に倒れた。
それからずっとわたしはこの生活を行っている。
父は、母が長い闘病生活の末5年前に死んだ時、壊れてしまった。
記憶に混乱をきたし、わたしが誰なのか判らなくなっている。
わたしのことを母の名で呼んだり、誰か知らない昔の恋人の名で呼んだりした。
父は自分の追憶の中に生きている。
その中でわたしに色々な役割が当てられるらしい。
わたしは父の幻想に逆らわず、その時に応じて役割を変えた。
わたしは、父が壊れ会社をやめてから、家計を支え家事を全て引き受けている。
弟は、大学に通っているが、いつのまにか家によりつかなくなった。
週の半分は外泊している。
それでもわたしはいつも家族3人の食事を用意した。
わたしの父と弟の3人。
外から見れば、とうに形骸化した無意味な家族なのかもしれない。
しかし、わたしにとっては生活の全てであり、生きる理由だった。
母が病に倒れてから、幾度か恋のようなものも経験している。
一度離婚歴のある男性を紹介されたことも、あった。
結局わたしはその全てに背を向けている。
わたしは、女である前に家族の一部であると思っていた。
わたし自身が作り上げたわたしの世界であるわたしの家族。
わたしはその中から踏み出そうとは考えていない。
そしてその日もわたしは、いつものように食事の支度を始めていた。
わたしの家の近くには、小さなスーパーが3件ほどある。
そのどれかで買い物をして、家へ帰る。
献立は、買い物をしながら考えていた。
その日、わたしの日常は唐突に中断される。
それは、玄関のチャイムの音で始まった。
わたしは弟が帰ってきたのかと思い、何も考えずに玄関の引き戸を開けた。
そこに佇んでいたのは、白衣の女性である
既に日の暮れた屋外で、彼女が身につけている白いコートは輝くように浮かびあがって見えた。
鋭い意志を秘めたような黒い瞳が、わたしの目の前にある。
研ぎ澄まされた刃のように美しいその顔に、わたしは見覚えがあった。
それた遠い昔の記憶、夢のような日々の中で共に過ごした友人のひとり。
その古い友人は、わたしに語りかけた。
「ミナコ、だよね。わたしのこと判るかな」
「ええ。あなた、リリィね」
リリィは頷く。まりに遠い昔のことであるだけではなく、お互いに随分変わったものだと思う。でも、リリィが持つ凛とした鋼のように強靭な気配は、昔と変わらない。わたしはそう、思った。
「あなたに渡したいものがあるの。
カゲヤマ・アキオ、ってもちろん憶えているよね」
わたしは、その名前に軽いショックをうけた。
とっくに記憶から消し去ったはずの名前だ。
しかし、その名の響きはわたしの心に生々しい動きを呼び覚ました。
「アキオが録音した一枚のCDがあるの。
もしも、ミナコが必要ないというのなら、渡さずに帰るわ。
ミナコがそのCDを受け取るのなら、話しておくことがあるの」
わたしは、リリィを家にあげることにした。
わたしは古い友人を、夕餉の支度が途中である食卓の前に案内する。
わたしがリリィの前に腰をおろすと、リリィは封筒を束ねたものと一枚のCDを取り出した。
「まず、このCDがわたしのところへ来た経緯を、話しておくね」
リリィは、あまり感情を感じさせない淡々とした口調で話す。
彼女はまるで、夢の中からやってきたひとのようだった。
「知ってると思うけどわたしは、ヨーロッパを転々と放浪していたの。
そのとき、インディーズ系のレーベルで音楽活動をしたりしてた。
わたしのところにこのCDが来たのは、その音楽活動の関係。
これは、何か奇妙ないわくのあるCDとして、扱われていたの。
このCDはアキオが最後の演奏を自分で録音したCDなんだけど、演奏した本人以外に3人の人間が聞いている。
その3人ともが死んだの。
皆、衝動的な自殺で」
リリィは、わたしの目の色を読んだらしく、話を中断する。
「ねぇ、わたしは別にオカルトな話をするつもりはないのよ」
「ええ、判ってる」
わたしは、リリィを見据えた。
昔と変わらず内面に強い意志を感じさせる、美しいその顔を。
「アキオの最後の演奏と言ったわね。
では、アキオは」
「アキオ自身も、半月前に自殺したと聞いてるわ。
このCDは死の直前に録音されたもの。
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わたしは、そのCDを受け取りラベルを見た。
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