白衣の女神と試験管

芦都朱音

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初めましては試験管とともに②

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 外に出ると春の風が心地よく、春乃は両手をぐっと伸ばし深呼吸をした。丘全体が学校の敷地ということもあり、木が多く茂り、みずみずしい空気が肺を満たしていく。
一気に緊張が解れた気がして辺りを見る。学校の奥に向かう緩やかな上り坂と、正門へと向かう比較的急な下り坂。春乃は何気なしに奥へと向かう上り坂に足を向けた。別段、担任の『散歩』という言葉が残っていたわけではないが、春の陽気は春乃の散歩を後押ししてくれるほどに気持ちが良かった。
緩やかな坂道をのんびりと歩いていく。すれ違う人はほとんどがスーツ姿で、ホームルームが終わった他学科の学生だろう。正門の方へと向かっている。
ふと、電車の走る音に紛れて小さい子供元気な声が聞こえてきた。辺りを見渡すと少し先に開けた道があり、線路をまたぐように大きな橋が架かっていた。橋の向こう側は、確か理系の学部棟がある方向だ。春乃は子供たちの声のする方へ吸い寄せられるように歩き始めた。橋を渡るとそこには幼稚園があった。春乃の通う大学は幼稚部から大学まである一貫校で、敷地である丘の中には幼稚部、小学部、中学部、高等部と全部の学年が収まっている。元気な声の主たちは、どうやら幼稚部の園児のようだった。お迎えに来ている母親と手をつなぎ、元気いっぱいにおしゃべりをしている。幼稚部からは裏門が近く、春乃もそろそろ帰ろうかと思っていたその時、目の端で池にしゃがみ込む白い人影を見かけた。

近づいてみると、池は比較的浅く、白い人影は白衣を着た黒髪の女性だと判断がついた。池の水を手で束ねた数本の試験管で掬い取っている。
春乃は興味本位で近づいていくが、白衣の女性は全く気付く気配がない。とうとう、女性のすぐ隣まで来きてからやっと声を掛けた。
「何をしてるんですか?」
女性は試験管に入った池の水を確認しながら、春乃のことも見ずに答えた。
「試験管に池の水を入れているの」
凛としていてかつ控えめな音量の声だった。
しかし、見ればわかる回答が返ってきてしまい、どうしようか考えてしまった春乃に対し、女性は試験管を見つめたまま続けていった。
「ちょっとシリコセンを五つ取ってくれるかしら?」
春乃が立っている位置から女性を挟んだ反対側には、円柱状のカゴが二つ置いてあり、片方にはすでに池の水が汲まれ淡いピンクの栓をしてある試験管が立てかけられていた。もう一方のカゴには空の試験管と栓がバラバラに入っている。春乃は女性が言った『シリコセン』とは淡いピンクの栓のことだろうと思い、五つ手に取ると差し出されていた女性の手に載せた。
「ありがとう」
簡潔に、しかし感謝の気持ちが十分に伝わる返事が返ってきた。
手際よく試験管に栓をしてカゴに収めていく女性の後姿を見ながら、春乃は次の質問を口にした。
「この池の水は何に使うんですか?」
新しく空の試験管を手にしながら、女性は「学生実験」とだけ答えた後、春乃の方を初めて見た。
「あら?スーツ?あ、入学式今日だっけ?」
振り向いた女性は肌が透き通るように白く雪のようで、それでいて唇は磨いた林檎のように赤かった。ワンレングスの長くストレートな黒い髪の毛が、肌の白さをさらに引き立てているように感じる。目ははっきりとした二重で、少し目じりが上がっている。一目で育ちの良さを感じてしまうような顔立ちをしていた。
「…あ、はい」
春乃は女性に見とれてしまい、自分に話しかけられていることに気が付くまで少々時間がかかってしまった。そして返事をした後も春乃は女性の顔を隅々まで見るように目が離せずにいた。
「じゃあ、新一年生君だね。入学おめでとう。いずれ君たちもこの池の水で実験することになるよ」
女性は凛とした声で優しく言いながら、視線を作業に戻した。自然と春乃の視線も作業をする手元に移る。そして、『実験』という聞きなれない言葉が出てきたことに気が付いた。
「あ、僕理系じゃないので…」
春乃が少し申し訳なさそうに言うと、女性は意外そうな顔をして振り向いた。
「あら、そうなの?てっきりこっちの方まで来ているものだから、農学部の学生かと思ったわ」
「いえ、先生に散歩でもしながら帰りなさいと言われたので…」
他に理由も思いつかなかったので、春乃は少し恥ずかしそうに正直に答えた。
「真面目なのね」
女性はふふっと笑った。目元や口元が上品な曲線を描き、女性の印象を変える。春乃は思わず胸がドキリとした。
「そういう訳ではないんですが…」
頭を掻きながら胸の高鳴りを抑えようと目線を外すが、効果はなかった。
「ふーん。じゃあ、君は何学部?」
「えーっと、経済学部です」
女性はすっと経済学部棟のある方を見やった。
「あら、随分と遠くまでお散歩に来ちゃったのね」
「あはは…」
確かに春の陽気につられて随分と歩いてきてしまった気がした。光輝はうまくやったんだろうか。そんなことがちらりと頭を過ったが、明日顔を会わせれば聞かなくても話してくるだろう。
春乃が光輝へのささやかな心配を捨てたとき、女性は「よし」と言って立ち上がり春乃と向かい合った。女性にしては背が高く、春乃はいたって平均的な身長なので、頭半分ほどの差しかなかった。
「お散歩ついでにちょっと手伝ってくれない?さすがにこの量の試験管重いのよね」
女性はカゴを見下ろして一つため息をついた。カゴにはぎっしりと試験管が詰まっており、そのどれもが池の水を蓄えている。いかにも重そうで、白衣の捲った袖から見えている女性の白くて細い腕では到底持ちきれないだろう。
「いいですよ」
春乃は自然と笑顔で引き受けた。頼られたのが嬉しかったのか、それともこの女性との時間がまだ続くことへの喜びなのかは本人にもわからなかった。
「ありがとう。すぐ近くが農学部棟だから、そこまで運んでもらえるかしら」
女性はてきぱきと試験管を半分に分けてカゴに入れ直すと、片方を春乃に両手で手渡した。
「そっちも持ちましょうか?」
見ると女性は担当した分のカゴを両手で抱えるように持っている。春乃は片手で持つことができる重さだったので、もう一方の手が空いてしまっているくらいだ。しかし、女性は春乃の申し出に首を振った。
「大丈夫、このくらいなら持てるわ。ありがとう」
農学部棟までは近いとはいえ、道の両側は木が生い茂る急な上り坂になっていた。今にも「坂道急じゃね?」と光輝の声が聞こえてきそうだったが、女性は平然と歩いていく。これが経験値の差かと春乃は思った。カシャンカシャンと音を立てるカゴを持ち、曲がりくねった急な坂道を上り切ったところで道が開けると、そこには古めかしい農学部棟が建っていた。
女性はふふっと笑いながら「古いでしょ?」と尋ねてきたので、春乃は思わず顔に出てしまっていたのかと少し反省した。一階のロビーに着くと女性は階段横でカゴを下に置いたので、春乃もそれに従い慎重にカゴを下ろす。
「ありがとう、重たかったでしょ」
「いえ大丈夫です」
さすがに持っていた手は赤くなっていたので、それなりには重たかったのだが、ほぼ同じ量の重さを持ってきている女性の前で弱音は吐けない。
「あとは学生に取りに来てもらうから」
そう言うと女性は白衣のポケットからスマホを取り出した。学生を呼び出すのだろう。そこではたと気付いたかのように女性は顔を上げた。
「そういえば聞いてなかったわね。君、名前は?」
「櫻木春乃です」
名前を聞かれるといつも少し恥ずかしい気持ちになる春乃は、頬を掻きながら答えた。
両親の付けてくれた自分の名前が恥ずかしいと思ったことはないのだが、何となく女の子っぽい名前なので照れ臭くなるのだ。
「春乃君?可愛らしい名前ね」
やはり言われてしまった。
「私は白石雪子しらいしゆきこ。平凡な名前でしょう?」
「いえ、そんなことないです!綺麗な名前だと思います!」
雪子は「ふふ、ありがとう」と笑った。勢いあまって前のめりになっていたのかもしれない。白石雪子。春乃はピッタリな名前だと思った。ピッタリすぎて忘れることもないだろう。
「帰り道はわかるかしら?結構奥まで来ちゃったけど…」
雪子は棟の出入り口へと歩きだしていた。春乃も続いて歩きだす。
「大丈夫だと思います。ありがとうございます」
「そう。こちらこそありがとう。じゃあ、気を付けて帰ってね」
「はい、失礼します」
「ふふ、またね、春乃君」
春乃はペコリと頭を下げると、雪子は軽く手を振って見送ってくれた。
手を振り返そうかと手を上げかけて思いとどまり、もう一度頭を下げてから農学部を背にして歩き始めた。
雪子は『またね』と言ってくれたが、こんな広い敷地内で、しかも経済学部と農学部という物理的にも真反対に位置する者同士が、もう一度会うことなどあるのだろうか。少しもったいない気がしたが、春乃には名前が聞けただけでも十分な戦果だった。しかも、それも相手から振ってくれなければ一生知ることはなかったかもしれない。
我ながら情けないなと思いつつ見上げた空は、夕暮れ時のきれいなオレンジ色に変わり始めていた。
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