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夜鶴編
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寒さが少しは和らぎ始めた春のこと。
汚れた空からの大雨が降り注ぐ。
ここは西暦2056年のA区B区という地区に分裂した近未来の日本。経済的に衰退し、分裂した世界。
B区。
ヨールン・アンド・トーマス会社内。
会議室へ向かう途中で、可愛い女子群に捕まった。
「夜鶴さん。また、一つお願いね……」
「夜鶴さん。三つお願いね」
「ああ……解った」
私は軽く手を振り頷いた。
入社2年目にして、23歳で年収1憶8千万円。
まずまずは首切りラインを些かでも越えていることに、私はホッとしていた。
午後の会議では、二言三言発言してから、そうそうに黙りこくって、みんなの自発的な意見に耳を傾けたり、首を向けたりしていた。
なんでも会社の一大プロジェクトに部長からの勧めで、すぐに首を縦に振らざるをえなかった。
ここ、B区の会社に慣れたのは去年の12月頃。
おやじもサラリーマンだった。
高級住宅街の云話事ベットタウンに大きな居住区を構える怪物で、でも、とりわけ堅苦しいところはなく。いつもへらへらと笑っている優しさを蓄えた童顔だった。
今では他の大企業でも活躍しているB区収益監査役員だった。
監査役員とは、首切りラインギリギリの困っている社員の給料を誤魔化したり、やむなく不正をしてしまった人に助っ人を呼び集める。ということをするおやじとは正反対で、首切りラインに満たなかった。不正がバレた。あるいは、どうしようもないことに悪さした人。そういう人たちをA区に埋葬するという仕事だ。
毎年の自己申告書を書く際には、1憶8千万強と書いて、それでやっと首切りラインをクリアできるのだから。たまったものではない。後で、厳しい収益監査役員による監査があるのだが、それは私自身はかなり楽なものだった。
うちの社長も役員報酬が足りない場合は、部下の給料に手を出すことでなんとか生き延びていた。
B区では金を儲けないと生きていけない。
それも膨大な。
首切りラインに満たないと、すぐにA区に財産がなくなるほどの違約金をむしり取られ、埋葬される。生き埋めだ。B区には二度と戻って来れない。
何故かというと、終身雇用契約というものがあるからだ。
私はオフィスの女子群には、人気があった。
いつもは、一番の悩み(経済的な)や仕事上のことの相談所のようなものだった。
問題を解決できない場合は、おやじの協力を得られるのだから解決できない方がおかしい。
18時の会議を終えて、パソコンを閉じ、会社から帰宅する準備をしている時だった。
「あの……夜鶴さん。またお願いします」
困っている人を無下に出来ない性格はおやじ譲りなのだろう。
そんなおやじにはいつも感謝している。
おやじはいつもへらへらとしていて、不倫相手が飛び抜けて豊富だった。少しでも、暴露するとお袋に「不倫してんじゃねえ!」と自慢の艶やかな黒髪のカツラをむしり取られる身だった。
頭が良く。
常時、約10年間の株の情報を全て頭に入れている。
金儲けは、ゆうに年収50憶だ。
そんなおやじが好きだった。
でも、私はおやじのDNAを引き継ぐことはできなかった。
いつも一途に突っ走っていた。女子群には可愛い人が多いが、あまり興味が向かない。が、取り分け山口さんには好意を寄せていた。
困ったことを引き受ける私に、一番の厄介事を押し付けてはいつもニコニコとしている。
笑顔を振り撒いては、「ごめんね」というし。
その仕草がとても可愛かった。
凄く美人だし。
デートをした時もある。
70年前のクラシック・カーで、高速道路を走行する。鉛色の汚れた空から雨が降っていた。私の会社はB区の北西部にある。自宅のある云話事ベットタウンまで、車で一時間。高速を使っても渋滞があるので、やはり一時間はかかる。
入社したてだった頃は、よく挨拶を忘れていた。
御咎めはなし。
利益だけの追及に特化した会社だった。
私が会社に慣れ挨拶ができるようになると、社員もいつもニコニコとするようになった。これも親の七光りなのだろうか?
「おはよう~ご・ざ・い・ますーー。皆さま……云話事町TVの時間です。この放送は良い子からお年寄りまで幅広く人気を集めておりますので、お見逃しなく~。いやはや、有難いことですね。いつも選りすぐりの最新ニュースをお届けしますよ。チャンネルはそのまま! トイレ中であろうとも! 入浴中でも! 例え意識を失っていようとも! 絶対観てくださいね! それでは、今日のお天気です!」
美人のアナウンサーが工場付近で雨の中、一人でピンクのマイク片手に傘をさしてハイテンションで話していた。後ろには云話事湾の広大な波が押しては引いてとしていた。
B区の云話事シーサイドリバーで中継していた。
水色の外壁の工場は船舶部品を製造しているのだろう。
自宅のソファからビール片手にテレビを観ていた。
云話事町TVはここ一年間だけB区に特別に放送されているのだ。だいぶ視聴率が暴落している。大不人気番組だった。
主に最新ニュースと天気予報と占い。
最新ニュースと占いと天気予報は全て的外れだった。
少なからずいる視聴者は、天気予報と占いの逆をして過ごすのが日課となった。
私もその一人だった。
云話事町TVは、美人のアナウンサーの外見だけが際立っていたようで、なんとか一年間も長続きをしていた。理由は、多分そこだけにあったのだろう。まったく、どこにしがみ付いたのか謎だが。
「ヤッホー! 公君! 元気!? 明日から大雨だろうね!」
親父が20LDKには似合わない。しょぼくれた背広を着て、玄関に現れた。カツラの手入れを丹念に櫛でしてからコートハンガーへ上着を掛け。靴を脱いでキッチンへと向かう。
お袋も仕事をしていて、もうすぐに帰って来る時間だ。
テレビでは美人のアナウンサーがピンクのマイクを握りしめ、明日から絶対に一時的には晴れますよと豪語(賭けを)していた。
夕食はおやじの買ってきたA区東北産ホタテ弁当だった。
お袋は帰ってきたらシャワールームへ直行。
私はソフャで寝そべってテレビを観ながら片手に缶ビール。
いつものことだった。
朝の8時に起床。
おやじとお袋は、もう出勤していた。
朝食のオレンジジュースと卵を冷蔵庫から取出し、フライパンでスクランブルエッグを作り、テレビをつけた。
「皆さま。おはようございます~。云話事町TVです……よ」
美人のアナウンサーの声を聞きながら、新聞を広げた。
今は云話事シーサイドリバーが連日の大雨によって、氾濫しそうな気配だと載っていた。
「ここ最近の異常気象による大雨で、外れっぱなしの天気予報……。皆さんすみません。後で気象予報士を席ごと変えますので、チャンネルはそのまま。今日も云話事シーサイドリバーの……。私の後ろにある大藤栄研船舶会社の工場は……見えますかね……。五日前からあらゆる分野で不正疑惑が巷で浮上していました。巨大企業ですし。なので、庶民的な社長に突撃インタビュー……。と、いきたいところですね。でも、無理か……。それでは、天気予報です。……あ! 社長が今、工場から車で出てきました」
私はすぐにテレビの方を向いた。
しかし、テレビには美人のアナウンサーが必死に追いかけるのにも関わらず。黒い車が去った後だった……。
会社のオフィスで、缶コーヒーを飲んでいた。
目の前のパソコンでは、株やら顧客リストやらが映っていた。
この会社はヨールン・アンド・トーマス会社という名で、外資系企業だった。入社二年目で、まだわからないところが多いが、おやじの頭光り……いや七光りで、情報には困らない。
缶コーヒーを屑籠へ捨てると、早速山口さんのところへと行った。
いつもの二三問題やミスを片付けてあげるためだ。
問題が多くなるのも当たり前。
みんな膨大な収益を得るため困っているのだ。
社内には、鉛色の空からの弱い陽光が射し、デスクに向かう山口さんの顔もどこか陰りが見えている。
「どうしたんだい。俺なら解決できるはずなんだろ」
「ううん。そうじゃないのよ。夜鶴さんに頼んでもいいのかな? って、いつも頼んでおいてなんだけど。なんだか今になって悪いような気がして……」
山口さんは、幾つかのクリスタルが垂れ下がる髪飾りを振りながら、黒の長髪を掻き分けた。この仕草は、山口さんが困ったときにしかしなかった。難題かなどと頭の片隅で考えた。
すっきりとした均整の取れた目鼻立ちの顔を覗いて、私はこう言った。
「大丈夫さ。おやじのことは知っているんだろ。監査役員って」
山口さんはデスクのパソコンを開いて私に向けた。
「そう……よね。今、B区で噂になっている大藤栄研船舶会社のことなのだけど」
私はPCのディスプレイに映った画像を見た。
どうやら、大藤は監査役員には絶対に言えないことをしているようだ。
「私の父なの。その会社の社長って……」
何の因果だろう?
画像は、どこかの船の内部だった。そこで複数の作業員とスーツ姿の男たちが黒のアタッシュケースから札束を確認していた。
笑顔で握手をした後。アタッシュケースを手渡すのも見えた。恐らく違法な取引でもしていたのだろう。
「ただ単に、お金に困っているんだろう」
「そうよね。きっと……。大方、部下の給料に手を出しても足りなかった……。そんな感じよね」
山口さんは、悲しそうな顔を一瞬だけした。そして、私の胸に涙を飲み込んでいるような顔を擦り付けた。
私は首を振って、
「きっと、麻薬とかじゃなくて、何らかの資源さ。今の日本は輸入大国ではないから。貴重な資源は密売に頼るしかない。よし、そうと決まればおやじに報告するよ」
私は密かにズボンのホルスターのコルト・ガバメントを握っていた。
午後の18時の会議を終え。山口さんと久しぶりに私のクラシックカーに乗ってもらった。山口さんの香水の匂いを嗅ぎながら、心地よい気分で今後のことを考えた。
「バカね。私の父親は……監査役員にバレると困ることを幾つもしているわ」
「そうと決まったわけじゃないよ……今はね」
私は高速に乗ることをせず。
自然に云話事シーサイドリバーの方角へと車を走らせていた。
「君の父親に会ってみようよ。まさか、殺されるなんてことはないんだし」
山口さんは俯いた。
「そうね……隠すことの協力しかできないわ。A区に父が送られたら、二度と会えないし。きっと、生きていけない環境よ。あそこは……」
父親想いなのだろうか。けれど、親父に頼んで全力で国を誤魔化せば、一時しのぎにはなる。後で数年間の月日をかければ不正をしなくてもいい健全な会社の出来上がりだ。しかし、もし麻薬なら。それ相応の罰は受けてもらうことになるのだろう。
雨風が強くなってきた。
月の明かりもない。街灯だけの正門の近くに車を停めた。
「あ、ねえ。もし、犯罪なら……公さんの父親には言わないことにしない」
私は即座に首を振った。
コルト・ガバメントに弾丸を装填し車を降りようとした。
けれど、山口さんは終始。車から降りなかった。
「それでは、今日はB区南東部スーパーホーン野球場です。有田さん。どうぞ」
場面が変わって、有田と呼ばれた美人のアナウンサーが映った。
健やかな日差しが射す背景には、広大な野球場を背に50代の太ったおじさんが5人。列をなして立っていた。
「はい。今日はここスーパーホーン野球スタジアムの新しい人気商品。この「スーパー・ホーン・ウエスト」のご紹介をします。すでに、あの強打者の永田 翔太さんが愛用したいと言っておりますです。はい。いやー、ファンたちには涎ものですねー」
美人のアナウンサーが後ろの五人に顔を向けると、五人のおじさんたちは、頷いた後、腹部を一斉に軽量化された帯状のスーパー・ホーン・ウエストで過剰な刺激を与えられる。
「凄い。腹部が引き締まる感じだ!」
一番太ったおじさんからは、大絶賛の声が響き渡った。
「ええ、それもそのはず。この新商品「スーパー・ホーン・ウエスト」はダイエット商品になります。過剰な刺激を腹部と腰に与えることで、運動不足やダイエット効果。後……」
その時、美人のアナウンサーの後ろの五人の肛門から大きな炸裂音が鳴りだした。
「そうです! お腹が緩くなる! 便通に良いとのこと! はい! B区南東部野球場からでした」
悲惨になった野球場の芝生は、後でモザイク処理されるのだろう。
――――
小一時間後。
私の家のリビングで、山口さんは父親と難しい顔をしていた。
「あのーねー。何をやっているのかわからないんなら……。何もできないっスよ」
ロッキングチェアに正座している親父は、私の顔に力なく首を向けた。
「ええ。でも、調べるところから隠したいの」
山口さんも私も難しい問題に頭を抱えていた。
「調べること自体、確かに隠したいのはわかるけどさ。ことが麻薬とか危いことだったら、それはそれで、然るべきことをしないといけないんだよ。いくらぼくが国の監査役員って、かっこいい職だからって……悪いことを隠すのには限界があるって知ってほしいな。でも、監査役員の監査が差し迫っているんだね。慌てない慌てない」
親父は私に向かって、「彼女?」とジェスチャーをした。
私は赤面して俯いた。
「ええ。その時のこと……やっぱり、考えておかないと……いけないわね」
山口さんは、どうやら覚悟したのだろう。
「夜鶴さん。父に直接電話してみるわ」
「あ。それはやめたほうがいいよ。電話では真実語らない時あるから……。直接会って話したら」
親父は経験上……異性関係の経験上の真理を話した。
「ええ……。それじゃあ。夜鶴さんも夜鶴さんのお父さんも来て下さい。これから父と直接話してみます」
「ああ」
私は銃を握る。
「いーよー。どうせ暇だし」
私たちは、また大藤栄研に来た。
今度は親父も連れて。
夜遅くまで大藤栄研は明かりが点いていた。監査はもうすぐなのだろう。家計に火のついた家が不正に手を出すことは、よく知られている。ここB区では当たり前だった。それが、この海外で数々の子会社を持つ巨大企業で起きているのだろう。だけど、今は全てが憶測の域だった。
「行こう」
私は車から降りた。
今度は山口さんも降り。大藤栄研の受付まで自分の足で歩いている。親父は自慢の鬘の手入れをしていた。
受付は、広々としていて、清涼感があった。
落ち着いた受付嬢の一人が親父を見て驚いた。
「友ちゃん。もう監査なの? うちって、立派なのは外見だけだけど、私たち真面目に仕事してるし」
親父は親しみの顔をして、
「ああ。直接に君の父親と話さなくてもいいみたいだね。確か里香さんだったよね。再び会えて嬉しいよ。もう半年だったね。あの時は、確か云話事シーサイドホテルでの夕食で会ったんだね」
親父が似合わないハイバリトンで話していた。
「でも、ここの噂を聞きたいんだよ。里香さん」
「ええ。あの時、あなたの髪に一目惚れして」
「不正の臭いがするんだけど」
「そう。噂だけど。象牙の密輸ですって」
「象牙かー。たまにあるよね。ぼくも隠せそうもないかなって、思った時がいっぱいある。あれって、お金になるからいいけど、捕まってしまうことがあるんだ。なんたって、絶滅危惧種でしょ。象って」
親父がハイバリトンと地の声を混ざり合わす。
「ええ、それで、うちの社長。かなり神経質に隠しているんだけど、今じゃ何故か社内で噂が充満しているわ」
「うっそー、バレバレ」
まるで、親父と受付嬢の世間話をしているかのような。口説いているかのような雰囲気の中。
山口さんは俯いて、話を聞いていた。
象牙は今の時代は、絶滅の危機に瀕していて、かなり高価だった。シリアスにいうと、発覚すると懲役30年だ。
山口さんは、駆け足で受付から離れ、エレベーターへと向かった。
私もそれに続いた。
親父はまだ受付嬢と話していた。
17階に社長室があった。
豪奢な机とは、決して言えない机に座って、書類仕事をしていた大藤社長は、私たちの訪問を煙たがっていた。
秘書がこちらに来た。
「雪さん。今は社長は忙しいのですが」
山口さんの下の名は雪だ。
「父と話したいのですが」
すたすたと大藤栄研の社長で山口さんの父親の前に来ると気を引き締めた。
「何をしているのか。私にはわからない。けど、してはいけないことなら。すぐにやめて」
社長は首を振った。
「もう、ほとんどバレているんだ。巷でも国にも。今は監査を乗り越えるための資金準備さ。監査が終われば、私は辞める」
「A区に行くの」
「ああ。雪には悪いが。もう会えないんだ」
山口さんは、首を振り。
「あんなに頑張ったのにね。この会社。一代で築いたって誇って、偉そうにしていたのにね。私も誇りだった。けど、お金よね。いっくら頑張っても、最後にはお金が勝つ」
社長は首を振った。
「みんな。頑張った。今でも……。確かに最後は金だが。もう一つの最後は人間なんだ。A区に行くのは私だけさ」
私は山口さんが本当に愛らしく思えた。
けれども、何も言えない。
彼女にはボーイフレンドが五本の指では足りないほどいるのだ。
「ありがとう。夜鶴さん」
「ああ。君の父親は立派だったよ」
山口さんは私にキスをした。
「もう。監査なの?」
山口さんがオフィスで驚いていた。
「ああ。今年はいつもより早いみたいだよ」
「そう……。また、お願いね」
私は頷いた。
いつの間にか、監査が命の掛かっている深刻なものから、日常的な会話へと変わり、でてきてはすぐに引っ込むものへとなった。浮き沈みをするともいえる。単なる日常的な問題だ。
清涼感溢れるオフィスでの甘い日常に、突如、不穏な空気が流れた。
「夜鶴さん。俺もお願い」
社内で一番の金持ちの浅田だ。
確か年収3憶円。
それと、私の同期だ。
山口さんの一人目のボーイフレンドだった。
私は聞かなかったことにして、柱に向かってニッコリと笑った。私にもやきもちがあるんだ。仕方がない。
「あ、浅田さん。昨日のランチでの会話って、いつのこと?」
「今日だけど。どこか二人っきりで話そう」
私はすぐさまオフィスから離れ、通路の自動販売機に向かった。
ヨールン・アンド・トーマス会社内で、一番落ち着くスペースとなっていた。缶コーヒーを買って、一息入れると、むかむかとしていたやきもちや、対抗心なども落ち着いてきたようだ。
窓の外は相変わらずに、汚れた空からの粉雪が降っていた。
何か事件でもと、それも私が関われる。そして、山口さんを独り占めできる事件。あれば、きっとたくさんのボーイフレンドを遠ざけて、山口さんとの距離はこれ以上ないほど近づいて……。
けれど、そんな時は永久にこなかった。
クラシックカーで高速に乗り、久しぶりに一人で高級レストランに入った。ここは云話事レインボーブリッジが見えるので、取り分け気に入っていた。
普段も、山口さんと一緒か、何故か一人で来てしまう場所だった。
「ご注文は?」
「トリュフを刻んだカニのピザサラダとウミガメのスープを」
ほとんど、やけ食いだが、注文を取りに来たウエイターは、どこか気が付いているかのようだった。こちらに優しく微笑むと、すぐに「当店のサービスです」とコーヒーを運んできた。
注文してから、しばらく経つと料理が運ばれる。
味はかなり良かったはずが、何故か気に入らなかった。
そうそうに、雪の降る外へと出て、凍てついた空気を吸う。少しは落ち着いたのだろうか。お気に入りの車へと向かうと、後は何をしようかなと考えた。
B区ではあまり金を使う者はいない。
監査の時に、少しでも足りないと命に関わるからだ。
私のやきもちは命掛けなのだろう。
そう思うと、私はクラシックカーにキーを差しスーパー・ホーン野球場へ向かった。三車線の道路を少し早いスピードで走っていた。
対向車が瞬く間に通り過ぎている。
野球場ではナイターがあるし、チケットを買って、終わりまで観戦をしたら、それから……。高級なバーで朝まで飲んで……。
気分が悪くなって、道路の片側に車を停めた。
イライラしている頭で車を降りると縁石に座る。上を見上げると雪は止んでいたが、縁石は雪を被って冷たさがズボンを襲っていた。
ズボンが湿り出して、頭の中が空っぽになった。
「あの、気分が悪いんですか?」
黒の長髪で目元にチャーミングなホクロのある女性が、背の高い外国人のような男といた。周りにはボディガードが数名。
辺りを見回すと、ここはB区の中央部で一番位が高い人物がよく通る場所だった。
「うん。ちょっとね。飲み過ぎてしまって」
「風邪を引くんじゃないかな?」
背の高い男が言った。
感情がないように思える目をしているが、黒髪の女性に度々向ける目は、何故か人間味があるように思えた。
「矢多辺さん。この人を家まで送ってあげましょう。風邪を引いてしまいます」
黒髪の女性は見ると、かなり美しい容姿だった。
「きみ」
一人のボディガードに矢多辺といわれた男がいった。
「アンジェかマルカを呼んでくれ。この人を家まで……」
私はその男が言い終わる前に、頭を下げて車に乗った。
空には、白い月が照り、云話事町のB区を包んでいた。
汚れた空からの大雨が降り注ぐ。
ここは西暦2056年のA区B区という地区に分裂した近未来の日本。経済的に衰退し、分裂した世界。
B区。
ヨールン・アンド・トーマス会社内。
会議室へ向かう途中で、可愛い女子群に捕まった。
「夜鶴さん。また、一つお願いね……」
「夜鶴さん。三つお願いね」
「ああ……解った」
私は軽く手を振り頷いた。
入社2年目にして、23歳で年収1憶8千万円。
まずまずは首切りラインを些かでも越えていることに、私はホッとしていた。
午後の会議では、二言三言発言してから、そうそうに黙りこくって、みんなの自発的な意見に耳を傾けたり、首を向けたりしていた。
なんでも会社の一大プロジェクトに部長からの勧めで、すぐに首を縦に振らざるをえなかった。
ここ、B区の会社に慣れたのは去年の12月頃。
おやじもサラリーマンだった。
高級住宅街の云話事ベットタウンに大きな居住区を構える怪物で、でも、とりわけ堅苦しいところはなく。いつもへらへらと笑っている優しさを蓄えた童顔だった。
今では他の大企業でも活躍しているB区収益監査役員だった。
監査役員とは、首切りラインギリギリの困っている社員の給料を誤魔化したり、やむなく不正をしてしまった人に助っ人を呼び集める。ということをするおやじとは正反対で、首切りラインに満たなかった。不正がバレた。あるいは、どうしようもないことに悪さした人。そういう人たちをA区に埋葬するという仕事だ。
毎年の自己申告書を書く際には、1憶8千万強と書いて、それでやっと首切りラインをクリアできるのだから。たまったものではない。後で、厳しい収益監査役員による監査があるのだが、それは私自身はかなり楽なものだった。
うちの社長も役員報酬が足りない場合は、部下の給料に手を出すことでなんとか生き延びていた。
B区では金を儲けないと生きていけない。
それも膨大な。
首切りラインに満たないと、すぐにA区に財産がなくなるほどの違約金をむしり取られ、埋葬される。生き埋めだ。B区には二度と戻って来れない。
何故かというと、終身雇用契約というものがあるからだ。
私はオフィスの女子群には、人気があった。
いつもは、一番の悩み(経済的な)や仕事上のことの相談所のようなものだった。
問題を解決できない場合は、おやじの協力を得られるのだから解決できない方がおかしい。
18時の会議を終えて、パソコンを閉じ、会社から帰宅する準備をしている時だった。
「あの……夜鶴さん。またお願いします」
困っている人を無下に出来ない性格はおやじ譲りなのだろう。
そんなおやじにはいつも感謝している。
おやじはいつもへらへらとしていて、不倫相手が飛び抜けて豊富だった。少しでも、暴露するとお袋に「不倫してんじゃねえ!」と自慢の艶やかな黒髪のカツラをむしり取られる身だった。
頭が良く。
常時、約10年間の株の情報を全て頭に入れている。
金儲けは、ゆうに年収50憶だ。
そんなおやじが好きだった。
でも、私はおやじのDNAを引き継ぐことはできなかった。
いつも一途に突っ走っていた。女子群には可愛い人が多いが、あまり興味が向かない。が、取り分け山口さんには好意を寄せていた。
困ったことを引き受ける私に、一番の厄介事を押し付けてはいつもニコニコとしている。
笑顔を振り撒いては、「ごめんね」というし。
その仕草がとても可愛かった。
凄く美人だし。
デートをした時もある。
70年前のクラシック・カーで、高速道路を走行する。鉛色の汚れた空から雨が降っていた。私の会社はB区の北西部にある。自宅のある云話事ベットタウンまで、車で一時間。高速を使っても渋滞があるので、やはり一時間はかかる。
入社したてだった頃は、よく挨拶を忘れていた。
御咎めはなし。
利益だけの追及に特化した会社だった。
私が会社に慣れ挨拶ができるようになると、社員もいつもニコニコとするようになった。これも親の七光りなのだろうか?
「おはよう~ご・ざ・い・ますーー。皆さま……云話事町TVの時間です。この放送は良い子からお年寄りまで幅広く人気を集めておりますので、お見逃しなく~。いやはや、有難いことですね。いつも選りすぐりの最新ニュースをお届けしますよ。チャンネルはそのまま! トイレ中であろうとも! 入浴中でも! 例え意識を失っていようとも! 絶対観てくださいね! それでは、今日のお天気です!」
美人のアナウンサーが工場付近で雨の中、一人でピンクのマイク片手に傘をさしてハイテンションで話していた。後ろには云話事湾の広大な波が押しては引いてとしていた。
B区の云話事シーサイドリバーで中継していた。
水色の外壁の工場は船舶部品を製造しているのだろう。
自宅のソファからビール片手にテレビを観ていた。
云話事町TVはここ一年間だけB区に特別に放送されているのだ。だいぶ視聴率が暴落している。大不人気番組だった。
主に最新ニュースと天気予報と占い。
最新ニュースと占いと天気予報は全て的外れだった。
少なからずいる視聴者は、天気予報と占いの逆をして過ごすのが日課となった。
私もその一人だった。
云話事町TVは、美人のアナウンサーの外見だけが際立っていたようで、なんとか一年間も長続きをしていた。理由は、多分そこだけにあったのだろう。まったく、どこにしがみ付いたのか謎だが。
「ヤッホー! 公君! 元気!? 明日から大雨だろうね!」
親父が20LDKには似合わない。しょぼくれた背広を着て、玄関に現れた。カツラの手入れを丹念に櫛でしてからコートハンガーへ上着を掛け。靴を脱いでキッチンへと向かう。
お袋も仕事をしていて、もうすぐに帰って来る時間だ。
テレビでは美人のアナウンサーがピンクのマイクを握りしめ、明日から絶対に一時的には晴れますよと豪語(賭けを)していた。
夕食はおやじの買ってきたA区東北産ホタテ弁当だった。
お袋は帰ってきたらシャワールームへ直行。
私はソフャで寝そべってテレビを観ながら片手に缶ビール。
いつものことだった。
朝の8時に起床。
おやじとお袋は、もう出勤していた。
朝食のオレンジジュースと卵を冷蔵庫から取出し、フライパンでスクランブルエッグを作り、テレビをつけた。
「皆さま。おはようございます~。云話事町TVです……よ」
美人のアナウンサーの声を聞きながら、新聞を広げた。
今は云話事シーサイドリバーが連日の大雨によって、氾濫しそうな気配だと載っていた。
「ここ最近の異常気象による大雨で、外れっぱなしの天気予報……。皆さんすみません。後で気象予報士を席ごと変えますので、チャンネルはそのまま。今日も云話事シーサイドリバーの……。私の後ろにある大藤栄研船舶会社の工場は……見えますかね……。五日前からあらゆる分野で不正疑惑が巷で浮上していました。巨大企業ですし。なので、庶民的な社長に突撃インタビュー……。と、いきたいところですね。でも、無理か……。それでは、天気予報です。……あ! 社長が今、工場から車で出てきました」
私はすぐにテレビの方を向いた。
しかし、テレビには美人のアナウンサーが必死に追いかけるのにも関わらず。黒い車が去った後だった……。
会社のオフィスで、缶コーヒーを飲んでいた。
目の前のパソコンでは、株やら顧客リストやらが映っていた。
この会社はヨールン・アンド・トーマス会社という名で、外資系企業だった。入社二年目で、まだわからないところが多いが、おやじの頭光り……いや七光りで、情報には困らない。
缶コーヒーを屑籠へ捨てると、早速山口さんのところへと行った。
いつもの二三問題やミスを片付けてあげるためだ。
問題が多くなるのも当たり前。
みんな膨大な収益を得るため困っているのだ。
社内には、鉛色の空からの弱い陽光が射し、デスクに向かう山口さんの顔もどこか陰りが見えている。
「どうしたんだい。俺なら解決できるはずなんだろ」
「ううん。そうじゃないのよ。夜鶴さんに頼んでもいいのかな? って、いつも頼んでおいてなんだけど。なんだか今になって悪いような気がして……」
山口さんは、幾つかのクリスタルが垂れ下がる髪飾りを振りながら、黒の長髪を掻き分けた。この仕草は、山口さんが困ったときにしかしなかった。難題かなどと頭の片隅で考えた。
すっきりとした均整の取れた目鼻立ちの顔を覗いて、私はこう言った。
「大丈夫さ。おやじのことは知っているんだろ。監査役員って」
山口さんはデスクのパソコンを開いて私に向けた。
「そう……よね。今、B区で噂になっている大藤栄研船舶会社のことなのだけど」
私はPCのディスプレイに映った画像を見た。
どうやら、大藤は監査役員には絶対に言えないことをしているようだ。
「私の父なの。その会社の社長って……」
何の因果だろう?
画像は、どこかの船の内部だった。そこで複数の作業員とスーツ姿の男たちが黒のアタッシュケースから札束を確認していた。
笑顔で握手をした後。アタッシュケースを手渡すのも見えた。恐らく違法な取引でもしていたのだろう。
「ただ単に、お金に困っているんだろう」
「そうよね。きっと……。大方、部下の給料に手を出しても足りなかった……。そんな感じよね」
山口さんは、悲しそうな顔を一瞬だけした。そして、私の胸に涙を飲み込んでいるような顔を擦り付けた。
私は首を振って、
「きっと、麻薬とかじゃなくて、何らかの資源さ。今の日本は輸入大国ではないから。貴重な資源は密売に頼るしかない。よし、そうと決まればおやじに報告するよ」
私は密かにズボンのホルスターのコルト・ガバメントを握っていた。
午後の18時の会議を終え。山口さんと久しぶりに私のクラシックカーに乗ってもらった。山口さんの香水の匂いを嗅ぎながら、心地よい気分で今後のことを考えた。
「バカね。私の父親は……監査役員にバレると困ることを幾つもしているわ」
「そうと決まったわけじゃないよ……今はね」
私は高速に乗ることをせず。
自然に云話事シーサイドリバーの方角へと車を走らせていた。
「君の父親に会ってみようよ。まさか、殺されるなんてことはないんだし」
山口さんは俯いた。
「そうね……隠すことの協力しかできないわ。A区に父が送られたら、二度と会えないし。きっと、生きていけない環境よ。あそこは……」
父親想いなのだろうか。けれど、親父に頼んで全力で国を誤魔化せば、一時しのぎにはなる。後で数年間の月日をかければ不正をしなくてもいい健全な会社の出来上がりだ。しかし、もし麻薬なら。それ相応の罰は受けてもらうことになるのだろう。
雨風が強くなってきた。
月の明かりもない。街灯だけの正門の近くに車を停めた。
「あ、ねえ。もし、犯罪なら……公さんの父親には言わないことにしない」
私は即座に首を振った。
コルト・ガバメントに弾丸を装填し車を降りようとした。
けれど、山口さんは終始。車から降りなかった。
「それでは、今日はB区南東部スーパーホーン野球場です。有田さん。どうぞ」
場面が変わって、有田と呼ばれた美人のアナウンサーが映った。
健やかな日差しが射す背景には、広大な野球場を背に50代の太ったおじさんが5人。列をなして立っていた。
「はい。今日はここスーパーホーン野球スタジアムの新しい人気商品。この「スーパー・ホーン・ウエスト」のご紹介をします。すでに、あの強打者の永田 翔太さんが愛用したいと言っておりますです。はい。いやー、ファンたちには涎ものですねー」
美人のアナウンサーが後ろの五人に顔を向けると、五人のおじさんたちは、頷いた後、腹部を一斉に軽量化された帯状のスーパー・ホーン・ウエストで過剰な刺激を与えられる。
「凄い。腹部が引き締まる感じだ!」
一番太ったおじさんからは、大絶賛の声が響き渡った。
「ええ、それもそのはず。この新商品「スーパー・ホーン・ウエスト」はダイエット商品になります。過剰な刺激を腹部と腰に与えることで、運動不足やダイエット効果。後……」
その時、美人のアナウンサーの後ろの五人の肛門から大きな炸裂音が鳴りだした。
「そうです! お腹が緩くなる! 便通に良いとのこと! はい! B区南東部野球場からでした」
悲惨になった野球場の芝生は、後でモザイク処理されるのだろう。
――――
小一時間後。
私の家のリビングで、山口さんは父親と難しい顔をしていた。
「あのーねー。何をやっているのかわからないんなら……。何もできないっスよ」
ロッキングチェアに正座している親父は、私の顔に力なく首を向けた。
「ええ。でも、調べるところから隠したいの」
山口さんも私も難しい問題に頭を抱えていた。
「調べること自体、確かに隠したいのはわかるけどさ。ことが麻薬とか危いことだったら、それはそれで、然るべきことをしないといけないんだよ。いくらぼくが国の監査役員って、かっこいい職だからって……悪いことを隠すのには限界があるって知ってほしいな。でも、監査役員の監査が差し迫っているんだね。慌てない慌てない」
親父は私に向かって、「彼女?」とジェスチャーをした。
私は赤面して俯いた。
「ええ。その時のこと……やっぱり、考えておかないと……いけないわね」
山口さんは、どうやら覚悟したのだろう。
「夜鶴さん。父に直接電話してみるわ」
「あ。それはやめたほうがいいよ。電話では真実語らない時あるから……。直接会って話したら」
親父は経験上……異性関係の経験上の真理を話した。
「ええ……。それじゃあ。夜鶴さんも夜鶴さんのお父さんも来て下さい。これから父と直接話してみます」
「ああ」
私は銃を握る。
「いーよー。どうせ暇だし」
私たちは、また大藤栄研に来た。
今度は親父も連れて。
夜遅くまで大藤栄研は明かりが点いていた。監査はもうすぐなのだろう。家計に火のついた家が不正に手を出すことは、よく知られている。ここB区では当たり前だった。それが、この海外で数々の子会社を持つ巨大企業で起きているのだろう。だけど、今は全てが憶測の域だった。
「行こう」
私は車から降りた。
今度は山口さんも降り。大藤栄研の受付まで自分の足で歩いている。親父は自慢の鬘の手入れをしていた。
受付は、広々としていて、清涼感があった。
落ち着いた受付嬢の一人が親父を見て驚いた。
「友ちゃん。もう監査なの? うちって、立派なのは外見だけだけど、私たち真面目に仕事してるし」
親父は親しみの顔をして、
「ああ。直接に君の父親と話さなくてもいいみたいだね。確か里香さんだったよね。再び会えて嬉しいよ。もう半年だったね。あの時は、確か云話事シーサイドホテルでの夕食で会ったんだね」
親父が似合わないハイバリトンで話していた。
「でも、ここの噂を聞きたいんだよ。里香さん」
「ええ。あの時、あなたの髪に一目惚れして」
「不正の臭いがするんだけど」
「そう。噂だけど。象牙の密輸ですって」
「象牙かー。たまにあるよね。ぼくも隠せそうもないかなって、思った時がいっぱいある。あれって、お金になるからいいけど、捕まってしまうことがあるんだ。なんたって、絶滅危惧種でしょ。象って」
親父がハイバリトンと地の声を混ざり合わす。
「ええ、それで、うちの社長。かなり神経質に隠しているんだけど、今じゃ何故か社内で噂が充満しているわ」
「うっそー、バレバレ」
まるで、親父と受付嬢の世間話をしているかのような。口説いているかのような雰囲気の中。
山口さんは俯いて、話を聞いていた。
象牙は今の時代は、絶滅の危機に瀕していて、かなり高価だった。シリアスにいうと、発覚すると懲役30年だ。
山口さんは、駆け足で受付から離れ、エレベーターへと向かった。
私もそれに続いた。
親父はまだ受付嬢と話していた。
17階に社長室があった。
豪奢な机とは、決して言えない机に座って、書類仕事をしていた大藤社長は、私たちの訪問を煙たがっていた。
秘書がこちらに来た。
「雪さん。今は社長は忙しいのですが」
山口さんの下の名は雪だ。
「父と話したいのですが」
すたすたと大藤栄研の社長で山口さんの父親の前に来ると気を引き締めた。
「何をしているのか。私にはわからない。けど、してはいけないことなら。すぐにやめて」
社長は首を振った。
「もう、ほとんどバレているんだ。巷でも国にも。今は監査を乗り越えるための資金準備さ。監査が終われば、私は辞める」
「A区に行くの」
「ああ。雪には悪いが。もう会えないんだ」
山口さんは、首を振り。
「あんなに頑張ったのにね。この会社。一代で築いたって誇って、偉そうにしていたのにね。私も誇りだった。けど、お金よね。いっくら頑張っても、最後にはお金が勝つ」
社長は首を振った。
「みんな。頑張った。今でも……。確かに最後は金だが。もう一つの最後は人間なんだ。A区に行くのは私だけさ」
私は山口さんが本当に愛らしく思えた。
けれども、何も言えない。
彼女にはボーイフレンドが五本の指では足りないほどいるのだ。
「ありがとう。夜鶴さん」
「ああ。君の父親は立派だったよ」
山口さんは私にキスをした。
「もう。監査なの?」
山口さんがオフィスで驚いていた。
「ああ。今年はいつもより早いみたいだよ」
「そう……。また、お願いね」
私は頷いた。
いつの間にか、監査が命の掛かっている深刻なものから、日常的な会話へと変わり、でてきてはすぐに引っ込むものへとなった。浮き沈みをするともいえる。単なる日常的な問題だ。
清涼感溢れるオフィスでの甘い日常に、突如、不穏な空気が流れた。
「夜鶴さん。俺もお願い」
社内で一番の金持ちの浅田だ。
確か年収3憶円。
それと、私の同期だ。
山口さんの一人目のボーイフレンドだった。
私は聞かなかったことにして、柱に向かってニッコリと笑った。私にもやきもちがあるんだ。仕方がない。
「あ、浅田さん。昨日のランチでの会話って、いつのこと?」
「今日だけど。どこか二人っきりで話そう」
私はすぐさまオフィスから離れ、通路の自動販売機に向かった。
ヨールン・アンド・トーマス会社内で、一番落ち着くスペースとなっていた。缶コーヒーを買って、一息入れると、むかむかとしていたやきもちや、対抗心なども落ち着いてきたようだ。
窓の外は相変わらずに、汚れた空からの粉雪が降っていた。
何か事件でもと、それも私が関われる。そして、山口さんを独り占めできる事件。あれば、きっとたくさんのボーイフレンドを遠ざけて、山口さんとの距離はこれ以上ないほど近づいて……。
けれど、そんな時は永久にこなかった。
クラシックカーで高速に乗り、久しぶりに一人で高級レストランに入った。ここは云話事レインボーブリッジが見えるので、取り分け気に入っていた。
普段も、山口さんと一緒か、何故か一人で来てしまう場所だった。
「ご注文は?」
「トリュフを刻んだカニのピザサラダとウミガメのスープを」
ほとんど、やけ食いだが、注文を取りに来たウエイターは、どこか気が付いているかのようだった。こちらに優しく微笑むと、すぐに「当店のサービスです」とコーヒーを運んできた。
注文してから、しばらく経つと料理が運ばれる。
味はかなり良かったはずが、何故か気に入らなかった。
そうそうに、雪の降る外へと出て、凍てついた空気を吸う。少しは落ち着いたのだろうか。お気に入りの車へと向かうと、後は何をしようかなと考えた。
B区ではあまり金を使う者はいない。
監査の時に、少しでも足りないと命に関わるからだ。
私のやきもちは命掛けなのだろう。
そう思うと、私はクラシックカーにキーを差しスーパー・ホーン野球場へ向かった。三車線の道路を少し早いスピードで走っていた。
対向車が瞬く間に通り過ぎている。
野球場ではナイターがあるし、チケットを買って、終わりまで観戦をしたら、それから……。高級なバーで朝まで飲んで……。
気分が悪くなって、道路の片側に車を停めた。
イライラしている頭で車を降りると縁石に座る。上を見上げると雪は止んでいたが、縁石は雪を被って冷たさがズボンを襲っていた。
ズボンが湿り出して、頭の中が空っぽになった。
「あの、気分が悪いんですか?」
黒の長髪で目元にチャーミングなホクロのある女性が、背の高い外国人のような男といた。周りにはボディガードが数名。
辺りを見回すと、ここはB区の中央部で一番位が高い人物がよく通る場所だった。
「うん。ちょっとね。飲み過ぎてしまって」
「風邪を引くんじゃないかな?」
背の高い男が言った。
感情がないように思える目をしているが、黒髪の女性に度々向ける目は、何故か人間味があるように思えた。
「矢多辺さん。この人を家まで送ってあげましょう。風邪を引いてしまいます」
黒髪の女性は見ると、かなり美しい容姿だった。
「きみ」
一人のボディガードに矢多辺といわれた男がいった。
「アンジェかマルカを呼んでくれ。この人を家まで……」
私はその男が言い終わる前に、頭を下げて車に乗った。
空には、白い月が照り、云話事町のB区を包んでいた。
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