降る雨は空の向こうに

主道 学

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幸運と不幸

42話

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「智子―!! 智子―!!」
 隆は掛けられている縄を気にせずに、カスケーダの開け放たれたドアに向かって叫んでいた。フロントガラス越しに助手席の智子の胸に、一本の長い矢が突き刺さり、盛大に出血をしていた。血はフロントガラスにまで付着している。
 駆けて来た抜刀した数人の侍が、早くもカスケーダを取り囲んだ。
 侍たちによって、正志と瑠璃は縄を掛けられずにすぐに取り押さえられた。
 地面に押し付けられる真っ青な顔の正志はそれでも、助手席の智子の方を見つめていた。
 水柱から現れた江戸時代のような服装の人々が、智子の胸に刺さった矢を丁寧に抜いて、智子を車から降ろした。不思議なことに、目を閉じていた智子は目を開けた。
「智子さん。生き返ったの?」
 地面に押し付けられているが、あまり気にしていないかのような。気の抜けた顔の瑠璃は傍にいる正志に聞いた。

「い……いや…………」

 正志は唇を噛んだ。
「俺のせいだ。俺のせいで、智子さんが死んでしまった……」
 智子は何ともないという顔で起き上がった。
「あなた……。多分、私は死んでしまったわ」
 侍たちは回りで抜刀しているが、武士の情けか何も言わず事の成り行きを見守る。
 両腕を縛る縄を解かれた隆は、傷ついた腕も気にせずに智子を抱きしめた。
「智子―! 智子―! 智子…………」
 隆はそう妻の名を呼び。精一杯泣いていた。
 四人は再び雨の大将軍の間へと連れて行かれた。


 青くなるほど唇を噛んでいる正志と気の抜けている瑠璃、そして智子と隆は縄で拘束されずに生気のない数人の侍が同行していた。
 隆は泣きながら智子の肩を抱いて歩いている。
 歩きにくそうな智子は俯いていたが、パッと顔を上げると隆の顔を見つめた。
「ねえ、あなた。里見ちゃんが生まれたときのこと……覚えている?」
「ああ……」
 隆は嗚咽を漏らしながら返答していると、
 智子はにっこりして、
「生まれたときに、この子は看護婦や学校の優しい教師とかに就かせてあげたいと……あなたは言ったのよね」
「ああ……」
「そうね……今でも……私はそう思っているわ…………」
 智子は少しだけ間を置き、パッと顔を上げた。
「私が何とか雨の大将軍を説得するから、あなたと里見ちゃんは元の世界で元気に暮らして……ね。そして、きっと里見ちゃんを看護婦さんか優しい学校の教師や、優しい職をさしてあげて……。私からのお願いです……」
 隆はもうだいぶ前から流れ続ける涙を流しながら、ゆっくりと頷いた。
 再び雨の大将軍に謁見すると、雨の大将軍は何やら考え事をしていた。
 雨の大将軍はしばらく、平伏している隆たちの前で何も言わなかった。その瞳には険しさと難しさが宿っていた。

 隆は俯いて泣いていた。
 正志は終始無言でいた。いつもの誠心誠意の達者な口調もこの時は、何も口からでてこなかった。
 瑠璃は今でも気の抜けた表情になっていた。
 智子だけは、明るい顔をして口を開いた
「雨の大将軍……。私がここに残りますから……娘の里見ちゃんと父親の隆を元の世界で暮らさせてください。私からの最後のお願いです」
 雨の大将軍は考えるが重そうに口を開いた。
「お前は不幸を気にしていないのか?自分自身はこの天の園で生きていかなければならないのだぞ。それも何百年と……」
「ええ。ですから、私はこの天の園を自転車で一周しようかと思います」
 智子は明るく快活に言った。
 雨の大将軍は驚いた。

「お前は何故、明るいんだ? そんな顔で……不幸に対してそんなにも明るい人間は見たこともないぞ。この天の園で暮らすことを受け入れているようだが、下界へは何百年と戻れぬのだぞ。確かに輪廻転生というシステムはある。私が統括をしていることだ。そして、下界とここ天の園では何百年と時差がある。しかし、輪廻転生はおいそれとはできないことなのだ。ここで新しい男と手を組んで天の園の土を練り、その土を下界に落とし、その土の子供が未来の意味を得なければ、お前は下界へと降りることはできないのだぞ……。子供は未来への栄養だ……。その子供が未来への意味を持つのに、つまり、未来に対して意味を得なければ……。未来という樹は成り立たないのだ」
 智子は快活に笑った。
「そんなの。夫の無事と里見ちゃんの無事を見守りながらでも、簡単に出来ることでしょ。そんなに長い時でもないし。私は気にしません。ここ天の園は最初は怖かったの……。何がなんだか解らないし、とても広大で不思議なところだし、でも、自分が死んだなら何も怖くはなくなったわ」
 雨の大将軍はびっくりして、大声をだした。
「お前は不幸を気にしないのか!?」
「ええ。私はやっと、夫と同じく里見ちゃんのために出来ることをしようとしているから……。雨の大将軍……里見ちゃんと夫と正志さん。それと、瑠璃さんを元の世界へと戻してください」
 雨の大将軍は頭を抱えたが、ゆっくりと首を縦に振った。
 それから、侍たちにこの両親の娘を連れて来いと命じた。
 しばらくすると、謁見の間の扉が小さく開き、今か今かと気を揉んでいた隆と智子のところへと、里見が走って来た。

「お父さん! お母さん!」

 里見は泣きながら、屈んだ隆と智子に抱きついた。
「里見……。里見…………」
 隆はただ里見に抱きついて泣いている……。
「里見ちゃん……。里見ちゃん…………」
 智子はただ里見に抱きついて泣いている……。


 三人の泣き声は、謁見の間にしばらくこだましていた……。
 
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