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第200話:才媛の挑戦と、故郷の味
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キナからアキオの涙の告白を聞いた中央館の談話室は、重い沈黙に包まれていた。シルヴィア、アウロラ、アヤネ、そして凛。彼女たちは、アキオが抱えていた、あまりにも深く、そしてこの世界では満たしようのない孤独の正体を知り、それぞれが胸を痛めていた。
「…わたくしたちが作っていた『醤油(しょうゆ)』や『味噌(みそ)』では、あの方の魂を癒やすことはできなかったのですね…」
アヤネが、夫が漏らした言葉を、か細い声で繰り返す。
「だんな、本当に辛そうだった…。ただ、腹が減ってるってだけじゃねえ。魂が、ずっと飢えてたんだ…」
キナが悔しそうに言うと、皆、黙って頷いた。この聖域で、どんな贅沢も、どんな愛情も、彼の根源的な望郷の念を埋めることはできなかったのだ。どうすれば、彼を救えるのか。誰もが答えを見つけられずにいた、その時だった。
「――皆様。アキオ様が仰っていた『本当の味』…わたくし、あるいは、その鍵となる記録に、心当たりがあるやもしれません」
沈黙を破ったのは、凛だった。彼女のその言葉に、妻たちは一斉に顔を上げた。
凛は、静かに、しかし確信を込めて続けた。「わたくしが王都の最高学府の古文書館におりました折、この地に遥か昔に存在したという『異邦の民』の食文化に関する、極めて難解な記述を読んだことがあります。そこには、大豆を原料とした、黒く塩辛い液体調味料『醤(ひしお)』や、豆をすり潰して発酵・熟成させた『豆醤(ずしょう)』の記録がございました。その製法には、わたくしたちがこれまで知らなかった、特殊な『菌』を用いて発酵を促すという、決定的な工程が記されていたのです」
「菌…ですって?」シルヴィアが目を見開く。
「はい。おそらく、アキオ様の故郷の味の秘密は、そこにあります」凛の言葉に、アウロラも深く頷いた。「うむ…わらわがアキオの心から読み取った『味の記憶』と、凛の言う古文書の技術を合わせれば…今度こそ、本当の味を再現できるやもしれぬ!」
アキオを、その魂の飢餓から救う。その一つの目標のもと、妻たちと、一人の才媛の心が、固く一つになった。そして、アキオには極秘で、【本物の日本食再現プロジェクト】が、この日、静かに始動した。
その日から、町の片隅で、壮大な挑戦が始まった。
プロジェクトリーダーとなった凛の指揮のもと、まず、醤油や味噌を醸造するための「醸造蔵」の建設が、ドルガン親方とドワーフたちによって開始された。温度と湿度を一定に保つための、アキオの現代知識(凛が聞き取り、図面に起こした)と、ドワーフの伝統的な建築技術が融合した、特別な蔵だ。
蔵の建設と並行して、アヤネと【希望の会】の未亡人たちは、収穫された大量の大豆を蒸したり、潰したりという、地道な加工作業を担った。シルヴィアとアウロラは、凛の古文書の知識と、アウロラが読み取ったアキオの記憶の断片を元に、清浄な環境で安全に発酵を進めるための、特殊な菌(町のキノコや酵母などから採取・培養した、麹菌に似たもの)の選定と管理を行った。
プロジェクトは困難を極めた。何度も配合に失敗し、腐敗させてしまうこともあった。だが、彼女たちは決して諦めなかった。アキオの、あの涙に濡れた顔を思い出すたびに、新たな力が湧いてくるのだった。
そして、季節が夏から秋へと移り変わる頃。プロジェクトが始動してから、数ヶ月が経っていた。
醸造蔵の木桶の蓋が、凛の震える手によって、ついに開けられた。中には、黒く、そして芳醇な香りを放つ液体――醤油に近い風味を持つ【醤(ひしお)】と、赤みがかった茶色で、豊かな風味を持つペースト――味噌に近い風味を持つ【豆醤(ずしょう)】が、確かに完成していた。さらに、別の工房では、真っ白な【豆腐】も、見事に固まっていた。
「…やりましたわ…! 皆様…!」
凛のその声に、女性たちは、皆、涙を流して抱き合った。
その夜、何も知らないアキオは、妻たちに「今夜は、皆でわたくしたちの作った新しい料理をいただきましょう」と、中央館の食卓へ誘われた。
彼の前に、一つの簡素な食膳が置かれる。
そこには、湯気の立つ、炊き立ての白い飯。そして、小さな椀の中には、白く四角い豆腐と、ワカメに似た水草が浮かぶ、聖域のそれとは明らかに違う、深く、そして懐かしい香りの汁物があった。
「…これは…」
アキオは、その光景に、一瞬、時が止まったかのように固まった。あり得ない。だが、この香り、この見た目は、紛れもなく…。
彼は、震える手で椀を手に取り、その汁物を、ゆっくりと一口すする。
―――口の中に広がる、塩気と、大豆の豊かな風味。そして、鼻腔を抜けていく、あの忘れようはずもなかった、故郷の香り。
これは、完璧だった。母が作ってくれた、あの味そのものだ。
紛れもなく、彼が魂の底から焦がていた、故郷の、あの温かい【味噌汁(みそしる)】の味だった。
「……あ…」
アキオの瞳から、大粒の涙が、後から後から、とめどなく溢れ出した。食膳を置いたまま、彼は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
それは、もう寂しさの涙ではなかった。
この世界に来て、これ以上ないほどの幸福の中で、それでも決して埋まることのなかった最後の心の隙間が、愛する家族の、懸命な努力と、計り知れない愛情によって、今、完全に満たされた。感謝と、歓喜の涙だった。
シルヴィア、アウロラ、アヤネ、キナ、そして凛は、そんな彼の姿を、同じように涙を流しながら、ただただ優しく、そして愛おしく、見守っていた。
アキオの心の影が、完全に晴れた瞬間だった。
「…わたくしたちが作っていた『醤油(しょうゆ)』や『味噌(みそ)』では、あの方の魂を癒やすことはできなかったのですね…」
アヤネが、夫が漏らした言葉を、か細い声で繰り返す。
「だんな、本当に辛そうだった…。ただ、腹が減ってるってだけじゃねえ。魂が、ずっと飢えてたんだ…」
キナが悔しそうに言うと、皆、黙って頷いた。この聖域で、どんな贅沢も、どんな愛情も、彼の根源的な望郷の念を埋めることはできなかったのだ。どうすれば、彼を救えるのか。誰もが答えを見つけられずにいた、その時だった。
「――皆様。アキオ様が仰っていた『本当の味』…わたくし、あるいは、その鍵となる記録に、心当たりがあるやもしれません」
沈黙を破ったのは、凛だった。彼女のその言葉に、妻たちは一斉に顔を上げた。
凛は、静かに、しかし確信を込めて続けた。「わたくしが王都の最高学府の古文書館におりました折、この地に遥か昔に存在したという『異邦の民』の食文化に関する、極めて難解な記述を読んだことがあります。そこには、大豆を原料とした、黒く塩辛い液体調味料『醤(ひしお)』や、豆をすり潰して発酵・熟成させた『豆醤(ずしょう)』の記録がございました。その製法には、わたくしたちがこれまで知らなかった、特殊な『菌』を用いて発酵を促すという、決定的な工程が記されていたのです」
「菌…ですって?」シルヴィアが目を見開く。
「はい。おそらく、アキオ様の故郷の味の秘密は、そこにあります」凛の言葉に、アウロラも深く頷いた。「うむ…わらわがアキオの心から読み取った『味の記憶』と、凛の言う古文書の技術を合わせれば…今度こそ、本当の味を再現できるやもしれぬ!」
アキオを、その魂の飢餓から救う。その一つの目標のもと、妻たちと、一人の才媛の心が、固く一つになった。そして、アキオには極秘で、【本物の日本食再現プロジェクト】が、この日、静かに始動した。
その日から、町の片隅で、壮大な挑戦が始まった。
プロジェクトリーダーとなった凛の指揮のもと、まず、醤油や味噌を醸造するための「醸造蔵」の建設が、ドルガン親方とドワーフたちによって開始された。温度と湿度を一定に保つための、アキオの現代知識(凛が聞き取り、図面に起こした)と、ドワーフの伝統的な建築技術が融合した、特別な蔵だ。
蔵の建設と並行して、アヤネと【希望の会】の未亡人たちは、収穫された大量の大豆を蒸したり、潰したりという、地道な加工作業を担った。シルヴィアとアウロラは、凛の古文書の知識と、アウロラが読み取ったアキオの記憶の断片を元に、清浄な環境で安全に発酵を進めるための、特殊な菌(町のキノコや酵母などから採取・培養した、麹菌に似たもの)の選定と管理を行った。
プロジェクトは困難を極めた。何度も配合に失敗し、腐敗させてしまうこともあった。だが、彼女たちは決して諦めなかった。アキオの、あの涙に濡れた顔を思い出すたびに、新たな力が湧いてくるのだった。
そして、季節が夏から秋へと移り変わる頃。プロジェクトが始動してから、数ヶ月が経っていた。
醸造蔵の木桶の蓋が、凛の震える手によって、ついに開けられた。中には、黒く、そして芳醇な香りを放つ液体――醤油に近い風味を持つ【醤(ひしお)】と、赤みがかった茶色で、豊かな風味を持つペースト――味噌に近い風味を持つ【豆醤(ずしょう)】が、確かに完成していた。さらに、別の工房では、真っ白な【豆腐】も、見事に固まっていた。
「…やりましたわ…! 皆様…!」
凛のその声に、女性たちは、皆、涙を流して抱き合った。
その夜、何も知らないアキオは、妻たちに「今夜は、皆でわたくしたちの作った新しい料理をいただきましょう」と、中央館の食卓へ誘われた。
彼の前に、一つの簡素な食膳が置かれる。
そこには、湯気の立つ、炊き立ての白い飯。そして、小さな椀の中には、白く四角い豆腐と、ワカメに似た水草が浮かぶ、聖域のそれとは明らかに違う、深く、そして懐かしい香りの汁物があった。
「…これは…」
アキオは、その光景に、一瞬、時が止まったかのように固まった。あり得ない。だが、この香り、この見た目は、紛れもなく…。
彼は、震える手で椀を手に取り、その汁物を、ゆっくりと一口すする。
―――口の中に広がる、塩気と、大豆の豊かな風味。そして、鼻腔を抜けていく、あの忘れようはずもなかった、故郷の香り。
これは、完璧だった。母が作ってくれた、あの味そのものだ。
紛れもなく、彼が魂の底から焦がていた、故郷の、あの温かい【味噌汁(みそしる)】の味だった。
「……あ…」
アキオの瞳から、大粒の涙が、後から後から、とめどなく溢れ出した。食膳を置いたまま、彼は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
それは、もう寂しさの涙ではなかった。
この世界に来て、これ以上ないほどの幸福の中で、それでも決して埋まることのなかった最後の心の隙間が、愛する家族の、懸命な努力と、計り知れない愛情によって、今、完全に満たされた。感謝と、歓喜の涙だった。
シルヴィア、アウロラ、アヤネ、キナ、そして凛は、そんな彼の姿を、同じように涙を流しながら、ただただ優しく、そして愛おしく、見守っていた。
アキオの心の影が、完全に晴れた瞬間だった。
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