五十一歳、森の中で家族を作る ~異世界で始める職人ライフ~

よっしぃ

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第277話:二人の姫君、そして聖域の日常

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 アキオたちが、北の侯爵領へと旅立ってから、十日以上が過ぎた。聖域は、筆頭夫人であるアヤネの、母性に満ちた、しかし的確な采配のもと、驚くほど穏やかな日常を刻んでいた。
 だが、その平穏な日常の中で、二人の高貴な少女だけが、その居場所を見つけられずに、持て余した時間を過ごしていた。亡国の皇女、リリアーナ・レグルス・ガルニア。そして、北の侯爵家の令嬢、シャルロッテ・フォン・スタンフィールド。

 その日の朝。二人の対照的な一日は、それぞれの寝室で始まっていた。
 シャルロッテは、天蓋付きのベッドから気だるげに身を起こすと、ため息をついた。侍女がいない生活。毎朝、自分の手で髪を結い、簡素な、しかし清潔な町の服に着替える。食事は、大食堂で、他の住民たちと一緒。最初は物珍しさもあったが、今では、その全てが、彼女のプライドを静かに、しかし確実に削っていくようだった。
(お父様は、いつまで、わたくしをこのような場所に…? 皇女様のお世話役と言っても、あの方は、ほとんど口も聞いてくださらないし…)

 一方、リリアーナの朝は、早い。彼女は、夜明けと共に目を覚ますと、まず、自室に持ち込んだ書物——この町で貸し出された、農業や建築に関する、実践的な技術書——に、一時間ほど目を通す。その後、彼女は、誰に言われるでもなく、中央館の廊下や、共有スペースの簡単な掃除を済ませるのが日課となっていた。それは、彼女なりの、この聖域への、ささやかな借りの返済であり、そして、何もせずにただ庇護されるだけの、無力な自分への、抵抗でもあった。
(…合理的だ。この町の全ては、驚くほどに合理的で、無駄がない。だが、その根底にある、アキオという男への、絶対的な信頼。それだけが、どうしても理解できない…)

 そんな二人の元へ、その日の朝食の後、アヤネが、穏やかな笑顔でやってきた。
「リリアーナ様、シャルロッテ様。少し、よろしいでしょうか。お二人に、お願いしたい『お仕事』があるのですけれど」
「…仕事?」リリアーナが、訝しげに眉をひそめる。
「まあ、わたくしたちに、ですか?」シャルロッテは、少しだけ、期待に目を輝かせた。
 アヤネは、二人に、大きな洗濯籠を一つずつ手渡した。中には、町の子供たちが汚した、泥だらけの服が、山のように入っている。
「今日は、お洗濯をお願いしたいのです。あちらの洗い場で、井戸から水を汲んで、洗濯板で、一枚一枚、綺麗にしてさしあげてくださいな」

 町の共同洗い場。シャルロッテは、その光景を前に、呆然と立ち尽くしていた。
「こ、これを…わたくしたちが、手で…? 洗濯というのは、侍女たちが、自動で動く魔道具で…」
「…文句を言っている暇があるなら、手を動かせ。日は、すぐに暮れるぞ」
 リリアーナは、シャルロッテを尻目に、手本を見せる町の女性のやり方を、一度見ただけで完璧に記憶すると、無言で、そして驚くほど手際よく、洗濯を始めた。
 シャルロッテも、不満を漏らしながらも、しぶしぶと、その冷たい水に手を入れる。だが、慣れない作業は、思うようには進まない。ゴシゴシと力を入れすぎて、服の生地を傷めてしまったり、石鹸で手を滑らせて、水浸しになったり。
「もう! なぜ、上手くできないのです…!」
 かんしゃくを起こしかけた、その時だった。
「…力を入れすぎだ。汚れは、力で落とすのではない。石鹸を、繊維の奥に、染み込ませるように、揉み込むんだ。こうやって」
 リリアーナが、シャルロッテの手を取り、その動きを、手ずから教えていた。その手つきは、ぶっきらぼうではあったが、不思議と、温かかった。

 その日の午後。二人が、干し終えた洗濯物を取り込んでいると、一人の小さな男の子が、駆け寄ってきた。町の子供の一人、リクだ。
「リリアーナお姉ちゃん! シャルお姉ちゃん! これ、あげる!」
 リクが差し出したのは、少しだけいびつな形をした、森で摘んできたのであろう、二つの木の実だった。
「まあ、ありがとう。可愛らしい実ですわね」
 シャルロッテが、笑顔で受け取ろうとした、その瞬間。リリアーナが、鋭い声でそれを制した。
「待て、シャルロッテ! …リク、その実は、どこで?」
「えっとね、森の、キラキラ光る木の、近くに落ちてたんだ!」
 リリアーナは、その実を、リクの手からそっと取り上げると、その匂いを嗅ぎ、そして、自らの知識と照らし合わせた。逃亡生活の中で、彼女は、生きるために、毒草や、危険な植物についての知識を、必死に学んでいたのだ。
「…これは、『夢見の実』だ。食べれば、強い幻覚を見て、錯乱する。子供が口にすれば、命に関わるぞ」
「え…!?」
 シャルロッテは、顔面蒼白になる。リリアーナは、リクの頭を優しく撫でた。
「リク、よく聞いて。君が、わたくしたちのために、これを持ってきてくれた気持ちは、とても嬉しい。ありがとう。だが、森のものを、大人に聞かずに口にしては、絶対に、いけない。分かったな?」
「…うん。ごめんなさい…」
 リリアーナは、その場にいた町の大人に事情を話し、リクを母親の元へと帰すと、深く、ため息をついた。

 その夜。二人は、中央館のバルコニーで、並んで、満天の星空を見上げていた。
「…ありがとうございました、リリアーナ様。もし、貴女がいらっしゃらなければ、わたくしは…」
「礼には及ばん。この町では、誰もが、互いを助け合うのが、当然のことらしいからな」
 リリアーナの口調は、相変わらず、冷たい。だが、その横顔は、昼間よりも、少しだけ、穏やかに見えた。
「…不思議な場所だ。ここは。身分も、過去も、関係ない。ただ、今、ここで、どう生きるかだけが、問われる。…あのアキオという男は、一体、何者なのだ…?」
 リリアーナが、ぽつりと呟く。それは、彼女が、初めて、他人に漏らした、本心からの疑問だった。
 シャルロッテは、その問いに、すぐには答えられなかった。だが、彼女もまた、感じ始めていた。この聖域の、そして、アキオという男の、底知れない、温かさと、そして、厳しさを。

 遠く離れた場所から、アヤネが、そんな二人の様子を、微笑ましく見守っていた。
(あなた。貴方の蒔いた種が、ここでも、新しい芽を出し始めていますわ)
 対照的な二人の姫君。彼女たちの間に生まれた、小さな、しかし確かな絆の芽。それは、アキオ不在の聖域で、静かに、そして力強く、育ち始めていた。
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