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白い光の中に、「待機」と「同意」の文字が並んでいた。男の指が端末の縁を強く掴み、掴んだ骨が浮く。浮いた瞬間に女の視線が勝手にそこへ寄りそうになり、寄りそうになった指先が熱を持つ。熱が上がる前に女は目を閉じ、男の手の甲に触れている面を少しだけ広げて、吐ける呼吸を一つ落とした。
男は画面を見たまま、息を吸わない。吸わないまま喉だけが動き、乾いた音が小さく出る。出た音で女の喉も乾き、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
「これ、何。」
男の声は低い。短い。語尾が落ちる。女は答えを長く作れない。長く作ると乾く。乾くと浅くなる。浅い息が速さを呼ぶ。女は言葉を探す代わりに、男の手の甲に触れたまま一拍待ち、指先の位置を数ミリだけ直して、触れている面を整えた。
男が画面をもう一度押す。指の動きが乱れる。乱れた指が「同意」の欄をなぞり、なぞったあとで止まる。止まった指先が震えて、震えを抑えるみたいに端末を握り直す。
「医者が、君に。なんで。」
男はそこで息を吐いた。吐いた息が短い。短い息は怖さの形だと、女はもう知っている。知っているからこそ胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、男の手の甲に触れたまま、短く言った。
「説明。」
「何の。」
男の語尾が少しだけ尖る。尖った語尾が女の胸の内側を跳ねさせ、跳ねを押し返すために女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらってから、また男の手へ戻した。
「あなたの。」
女が言った瞬間、男の息が止まる。止まった息のまま男の目が女へ向き、向きかけて女の喉へ落ち、すぐ外れる。外れた視線が急いでいて、女は自分の手首が熱を持つのを感じた。熱は危ない。危ないと分かっているのに、熱は勝手に立つ。
男が低い声で言う。
「俺の話なら、俺に来る。」
女は首を小さく振った。否定は短くしないと崩れる。
「あなたは、今、張る。張ると壊れる。」
言い切った瞬間、女は言い方が鋭すぎたと気づく。気づくと喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男はその押し返しを見ないふりをして、端末の画面をもう一度女に向ける。
「待機って何。誰が待つ。何に同意する。」
質問が三つ。三つは多い。多いと女の呼吸が浅くなる。浅くなるのを止めるために女は男の手の甲に触れたまま一拍待ち、短く区切って落とした。
「先生が。準備。順番。」
男の眉がわずかに動く。動いた眉の下で、息が短くなる。短い息のまま男が言う。
「順番って、何の順番。」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった瞬間に喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして短く吸ってしまい、胸の奥が熱くなる。熱くなると「対策」が立つ。「対策」の影に、言ってはいけない単語が伸びる。女は影を見ないふりをして、男の手の甲を包み直す。包み直した手の形で、指先の熱を閉じ込める。
男の指が女の指を掴む。掴む強さが一瞬だけ強い。強いのにすぐ弱くなる。弱くなった指先が震える。
「君、俺のこと、勝手に……」
言い切れない。言い切れないところで男の呼吸が詰まり、詰まった呼吸が怖さの形で部屋に残る。女はその形を見てしまって、言葉を作る代わりに、男の手の甲に触れている面を広げ、遅い触れ方で一拍待った。待った一拍のあと、男の吐く息が短く落ちる。短く落ちた息を追いかけるみたいに、女は短く言った。
「勝手じゃない。」
男が笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「じゃあ何。君が同意するって、君の身体の話だろ。」
その一文が刺さって、女の胸の内側が一段跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の置き場を探しながら、女は男の手の甲を握り返さない。握り返すと、守るが、縛るになる。縛るになるのが怖い。だから女は触れるだけにする。触れるだけで、男の肩が少し落ちるのが分かってしまい、その“効き方”がまた女を苦しめる。
男が端末を布団の外へ放り投げようとして止めた。止めた指が宙で一拍残り、残った一拍が女の胸を跳ねさせる。男は端末を握ったまま、低い声で言う。
「言って。」
女は首を小さく振る。振る動きが遅れて息が詰まる。詰まりを押し返しながら、女は短く言う。
「今は、言うなって。」
「誰が。」
「先生が。」
男の呼吸が短くなる。短い呼吸が続くと、男の肩が上がる。肩が上がると、昨夜みたいに眠れなくなる。女はそれが怖くて、男の手の甲に触れたまま、指の腹を少しだけ動かして面を広げ、吐ける呼吸を作ろうとする。
男がそれを拒むみたいに、女の手を一度だけ強く握って、すぐ離した。離した指先が震えている。
「俺は、怖いんだよ。」
男の声が小さい。小さいのに重い。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く返した。
「分かってる。」
「分かってるなら、隠さないで。」
隠す、という言葉が女の喉を締める。締まると息が浅くなる。浅くなると、あの影が輪郭を持つ。女は輪郭が怖くて、目を閉じたまま言った。
「隠してない。守ってる。」
男が一拍黙る。その沈黙の間、女は吐ける呼吸を探して、鼻で短く吸って短く吐いた。男が低い声で言う。
「誰を。」
女の指先が震えそうになり、震えを隠すために布団の端を押して硬さを返してもらう。返ってきた硬さで喉の手前の息を押し返し、女は短く落とした。
「あなたを。」
言った瞬間に口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、男の手の甲に触れたまま、触れている面だけを広げて一拍待った。待った一拍のあと、男の吐く息が少しだけ長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女はもう一つだけ、言葉を短く切った。
「だから、今夜は——」
言い終える前に、男の唇が女の唇へ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね上がり、喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。男の目が開いている。焦点が揺れている。揺れているのに、女の喉を見ないふりをして、低い声で言う。
「今夜じゃなくていい。明日でもいい。でも、俺の人生の話を、俺抜きで動かすな。」
女は返事をすぐに出せなかった。出すと乾く。乾くと浅くなる。浅くなると、言ってはいけない単語が口の手前まで上がる。女はそれを飲み込み、男の手の甲に触れたまま頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男はその詰まりを追わず、ただ女の手の甲を一度だけ押して、置いた位置を動かさずに待った。
待つ、という言葉がさっきから部屋に残っている。待機、同意、順番、待つ。全部が同じ方向を向いていて、女は目を閉じたまま、その方向にだけ命令した。
――今は、恋でいろ。今は、壊すな。
夜明けの手前で、女は一度だけ目を開けた。暗い天井は昨夜と同じなのに、空気の重さだけが違う。重いのは、言わなかった言葉がそこに残っているからだと分かる。分かると胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、鼻から短く吸いかけて、女は唇を閉じて押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、隣から男の吐く息が落ちる。短い。短いのに、止まりかけない。止まりかけない短さは、張っている時の形だと女はもう知っている。
女は手を伸ばさなかった。伸ばせば、昨夜の文字の白さが蘇る。蘇れば、影が輪郭を持つ。輪郭を持った瞬間に、恋が別物へすり替わる気がして、女は布団の端を指で押して硬さを返してもらい、硬さで自分を固定した。固定すると呼吸が一つだけ落ちる。落ちた呼吸のあと、男が動いた。寝返りではない。肩が少しだけ上がり、指先が布団の上で迷うみたいに動いて止まる。止まった指が、女の手の甲を探す位置にある。
男は目を開けていた。焦点が合っていない。合っていないのに女の喉を見ないふりをして、低い声で短く言った。
「……行く。」
女は「どこ」と聞かなかった。聞けば乾く。乾けば浅くなる。浅い息が速さを呼び、速さが影を呼ぶ。女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男はその詰まりを追わず、布団から起き上がり、上着を取る動きだけが一拍忙しい。忙しさが見えると女の胸が跳ねる。女は跳ねを押し返すために、台所へ行くふりをして立ち上がり、蛇口をひねり、水の音を一定にした。
水の音が一定だと、言葉を短く落とせる。女はコップを一つだけ出し、男へ渡した。二つ並べると揃えたくなる。揃えたくなると指先が熱を持つ。熱を持つと影が伸びる。今日はそれが怖い。男はコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりで、ゆっくりな動きに引っ張られて女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのが分かってしまい、女は悔しくて流しの金属の反射へ目を固定した。
男がコップを置き、靴下を履く。履く動作が丁寧すぎる。丁寧すぎると張りが隠れて見えない。見えないから怖い。怖いから、女は言葉を短く作って落とした。
「一緒に行く。」
男の手が止まった。止まった一拍が長い。長い一拍の間に女の胸が跳ねそうになり、女はエプロンの紐の硬さを指で押して返してもらい、呼吸の置き場を確保した。
「……来るの?」
男の声が少しだけ尖る。尖りは怒りではなく、怖さの裏返しだと女は思う。思うと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返しながら、言葉を増やさずに頷いた。男はそれ以上言わず、ただ女の手の甲に指先を置く。手首ではない。圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少しだけ長くなる。
玄関までの支度は静かだった。男は靴を揃え、揃え終わった指先が縁に一拍残る。女はそれを見ないふりをして鍵を掛け、掛け終わった鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直して指先の熱を散らした。散らし切れない熱は、歩幅を一定にすることで押し込む。押し込んだまま二人で歩くと、男は半歩前に出ない。車道側へ寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。作り方が正確すぎて、女の胸が勝手に跳ねる。女は跳ねを押し返し、鼻で短く吸って短く吐いた。
病院の裏口の近くで、女医が待っていた。白衣ではない。上着の袖口だけ整っていて、抱えているファイルの角が揃っている。揃っている角に女の指が吸われそうになり、女は指を握り、痛みで戻した。女医の視線が女の喉へ一瞬落ち、すぐ男へ移り、移った視線が乱れない。
「来たのね。」
女医の声は落ち着いている。男は返事を短くした。「来た。」その短さの裏に張りがある。女医はそれを拾わないふりをして、歩く方向だけを顎で示した。「話す時間は短く。張らない。」男が頷き、頷きが小さい。小さい頷きは「頑張ってる」の形で、女は喉が狭くなるのを感じた。
診察室ではなく、小さな面談室だった。机の上には紙が二枚だけ置かれている。端が揃い、ペンの位置が机の縁とぴたりと合う。ぴたりが目立つ。目立つと女の指が動きたくなる。女は動かさず、膝の上で親指の腹を押して硬さの代わりを作った。
女医が男へ向けて言う。
「昨日の“準備”は、候補の登録と検査の同意。つまり、順番に並ぶ準備。今すぐ手術ではない。今すぐ何かが奪われる話でもない。」
男の喉が一度だけ動く。乾いた音が小さく出る。女の喉も同じように乾き、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
男が低い声で言う。
「で、なんで彼女に送った。」
女医は一拍だけ沈黙し、その一拍が短いのに重い。重い沈黙を、女医は机の端を揃える動作で逃がさず、真正面から言葉を落とした。
「あなたが張るから。あなたが張ると、話が一度で終わらない。終わらないと、あなたが消耗する。だから周辺の支えを作った。……勝手だったのは認める。」
認める、の一言が短い。短いから逃げない。男の肩が少しだけ上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲へ触れた。触れる面だけを少し広げ、握らない。押さえない。触れて一拍待つ。待った一拍のあと、男の吐く息がほんの少し長くなる。
女医はその変化を見ないふりをして続けた。
「ただし、あなたの人生をあなた抜きで動かす気はない。順番の話はあなたにする。あなたが受け止められるサイズで、必要な回数に分けて。」
男は「分けて」と繰り返し、笑いかけて笑いが出ないまま終わる。
「俺、分けられるほど余裕があるように見える?」
女医は答えを感情で返さない。返さない代わりに、短く、具体的に言う。
「見えない。だから分ける。」
言い切り方が硬い。硬い言い切りは医者の責任の形で、女はその硬さが少しだけ羨ましい。羨ましいと腹の奥が熱くなる。熱が立つと影が伸びる。女は影を止めるために、男の手の甲に触れた面を増やしすぎないように注意し、触れる圧を変えずに保った。
男が視線を女へ向けかけて、喉へ落ちそうになって止めた。止めた目線が机の紙へ逃げる。紙には「待機」と「同意」の文字がある。女はそれを見ない。見れば昨夜の白さが戻る。戻れば輪郭が出来る。
男が低い声で言った。
「彼女は、何の“同意”をした。」
女医が答える。
「してない。あなたに関する情報を聞いただけ。あなたが“準備”の意味を誤解しやすいと思ったから、先に言葉の形だけ渡した。」
言葉の形だけ、という表現がひどく危ない。形は、いつか中身になる。女はそれを知っている。知っているからこそ、女は声を出さずにただ一度だけ息を吐き、吐けた息が床に落ちるまで、指先を動かさなかった。
面談は短く終わった。次の検査の日程と、帰宅後の注意だけが淡々と確認され、女医は最後に男へだけ言う。
「“怖い”は言っていい。張るのは、言わずに耐えることじゃない。」
男の頷きが小さい。女はその小ささを見て、胸が跳ねる。跳ねを押し返しながら、病院を出た。
外の空気は冷たい。冷たい空気は喉を刺し、吸い直しを呼ぶ。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は一歩も先に出ない。横に並んだまま、歩幅を女に合わせる。合わせられると女の呼吸が一度だけ深く入る。深く入ったことが悔しくて、女は歩道の継ぎ目を数えた。
角を曲がって病院が見えなくなったところで、男が止まる。止まると、言葉が来る。女はそれを待つのが怖いのに、逃げない。逃げたら、昨夜の「動かすな」が嘘になる。
男が低い声で言った。
「俺、君が俺のこと好きって言ったの、嬉しかった。」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く息を吐いた。
「……うん。」
男は続ける。
「でも、好きって言った舌で、俺の未来を一人で背負うな。」
背負うな、の言い方が責めではなく、願いの形になっている。願いは逃げ場がない。女はそれを受け止めるために、男の手の甲へ触れた。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱を上げないために女は言葉を短く切る。
「背負ってない。……背負いかけてた。」
言った瞬間に乾く。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男の指が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
男が言った。
「俺のこと、俺と一緒に考えて。」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男はその詰まりを追わず、手の甲に触れている指先を離さない。離さないのに、手首へ寄せない。寄せないことが、今の約束だと分かる。分かると胸が跳ねる。女は跳ねを押し返しながら、胸の中で命令を少しだけ更新した。
――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
――そして、次は、一人で決めるな。
病院の角を曲がってから、男は無理に会話を作らなかった。歩幅を女に揃え、車道側に寄り、風を弱めるだけで「一緒」を成立させる。女は歩道の継ぎ目を数えながら、それに合わせて呼吸を押し返した。押し返すたびに胸の内側が跳ねる。跳ねるのに、男の指先が手の甲に触れている間だけ跳ねが一瞬遅れる。遅れたことが悔しくて、女は指先の面を広げすぎないように気をつけ、触れているだけを守った。
部屋に戻ると、男は靴を揃え、揃え終わった指先が縁に一拍残る。女はそれを見ないふりをして鍵を掛け、鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直して指先の熱を散らした。台所で女が水の音を一定にすると、男が「今日の話」と言いかけて止める。止めた一拍が長く、女の喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で息を押し返しながら、先に短く言った。
「一緒に考える。約束した」
男は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは「頑張ってる」の形で、女は胸が跳ねそうになり、鍋の取っ手を握り直して硬さで戻した。男は椅子に座らず、壁際に立ったまま、女の手元を見てすぐ外す。外す癖が、今日はいっそう急いでいる。女はその急ぎ方で、男がまだ張っているのを知る。知ると心配が湧き、心配は欲へ滑る入口になるから、女は心配を言葉にしない。代わりに器を二つ並べ、距離を揃え、揃えた距離を見ないふりをして皿を置いた。
「俺さ」
男が言って止まる。止まった沈黙で女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、男の方へ顔を向けずに「言って」と短く返した。男は喉を一度だけ動かし、乾いた音を小さく出してから言った。
「君は、何を怖がってる」
質問が直球で、女の腹の奥が熱を持つ。熱が立つと喉が狭くなる。女は目線を皿の縁に固定し、固定したまま息を短く落とした。落とせた息のあと、女は言葉を長くしないように切る。
「私の心臓」
男の呼吸が一拍止まり、止まったあと短く吐く。短い吐き方が張りの形で、女は反射で男の手の甲へ触れた。手首ではない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少しだけ長くなる。長くなるのが分かってしまい、女は悔しくて指先の面を増やさないようにして、触れているだけにする。
「努力でどうにかなる範囲は、どうにかした」
女の声は硬い。硬い声は自分でも分かる。分かると喉が乾く。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。
「フォームも、筋も、呼吸も。練習すれば形にはなる。でも……上限だけは、動かない」
男が「上限」と小さく繰り返す。女は頷かない。頷くと息が詰まる。女は代わりに指先でテーブルの角を押し、硬さを返してもらってから続けた。
「私は、優秀じゃない。努力で見える形を作ってるだけ。心臓は、見える形の外にいる」
言い終えた瞬間に、女は自分が「言い訳」を言っているみたいに聞こえるのが嫌で、嫌さが熱になる。熱が立つと、あの影が伸びる。女は影を止めるために皿を一枚だけ手に取り、水で濡らし、濡れた感触で指先を固定した。
男が近づいた。近づく速度は一定で、一定だから逃げる理由がない。男は女の手首に触れかけて止め、言葉を思い出すみたいに手の甲へ指先を置いた。置き方が遅い。遅い触れ方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男が低い声で言う。
「君が“怖い”って言えるの、初めて聞いた」
女は言葉を返さない。返すと乾く。乾いた喉が吸い直しを呼ぶ。女は返事の代わりに、男の手の甲へ触れている指先の位置を数ミリだけ直し、触れているだけを守った。男はその動きを追わず、追わないまま続ける。
「俺も、親の言葉で走ってきた。結果が出ると楽で、出ないと怖い。……でも君は、結果が出ても怖いんだな」
女はその理解が刺さって、胸の内側が跳ねる。跳ねを押し返すために女は顎を引き、短く言った。
「出ても怖い。出た分だけ、次が来る」
男が一拍黙り、その沈黙の間だけ、男の指先が女の手の甲から離れない。離れないのに、手首へ寄せない。寄せないことが、今日の約束の形だと女は分かる。分かると胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く吐いた。
男が言った。
「一緒に考えるって、こういうことだよな。君の怖さも、俺の怖さも、俺たちの中に置く」
女はその言い方が好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。熱は危ない。女は熱を押し込めるために、男の手の甲に触れている面を広げず、指先の圧だけを一定に保った。
同じ夜、病院の奥で女医は端末の画面を開き、条件の欄を一つずつ確認していた。適合、待機、同意。表示の下に小さく並ぶ「実施不可」を視界の端で見ないふりをして、女医は机の角を揃え、ペンの位置を縁にぴたりと合わせ、開始を押す。波形が走り、崩れ、戻る。戻り切らない場所に赤が付く。女医は眉を動かさず、赤の箇所だけを拡大し、同じ工程をもう一度だけ繰り返した。救いになるなら、の言葉を口にしないまま、救いの形だけを反復する指先が、今夜も止まらなかった。
夕飯の皿を重ね終えたあとも、女は蛇口の音をすぐ止めなかった。水の落ち方が一定だと、言葉にしない感情が少しだけ丸くなる。丸くなるぶん、胸の内側の速さが耳に刺さらずに済む。男は壁際に立ったまま、視線を女の手元へ落としてすぐ外し、外した視線の行き場を探すみたいに天井へ逃がした。逃がし方が、今日はいっそう慎重で、女はその慎重さが「約束」の形だと分かってしまう。手首へ寄せない。依存の形を増やさない。増やさないまま、二人で考える。
男が喉を一度だけ鳴らし、乾いた音を小さく出してから言った。
「……見せて」
女は振り返らずに、「何を」と聞かなかった。聞けば喉が乾く。乾けば息が浅くなる。浅い息は速さを呼び、速さが影を呼ぶ。女は代わりに水を止め、手を拭き、手を拭く端を揃えないように指を止め、男へ体だけ向けた。
男は言葉を増やさず、手を差し出した。手首じゃない。手の甲が上を向く差し出し方だった。女はその形に一瞬だけ胸が跳ね、跳ねを押し返すために顎を引き、男の手の甲に指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少しだけ長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は指先の面を広げすぎないように止め、呼吸を短く一つだけ落とした。
男は目を閉じ、閉じたまま言った。
「君の“上限”ってさ。数字じゃなくて、触ると分かる?」
女は「分かる」と返せなかった。返せば乾く。女は男の手の甲に指先を置いたまま、もう片方の手で自分の胸の真ん中を軽く押した。押す圧は弱い。弱いのに、押した場所の下で速いものが暴れているのが自分で分かる。分かった瞬間、女の喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。
男が目を開けた。視線が女の胸元へ落ちかけて、落ちないように逸れる。逸れた目線が女の指先へ戻り、戻った目線が一拍だけ止まる。
「……聴かせて」
女は一瞬だけ迷った。迷うと熱が立つ。熱が立つと影が伸びる。女は影を止めるために、動作を遅くしない。遅くすると依存の形になる。女は上着の襟元を少しだけ引き、男の手を取って、自分の胸の上に置いた。置く位置は中央より少し左。肋骨の上。押さえない。触れるだけ。男の指先が触れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がった。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、女は唇を閉じて押し返した。
男の指が、女の速さに一拍遅れて揺れる。揺れたのは驚きの形だった。男の眉がわずかに動き、吐く息が一度だけ短くなる。短くなった息が戻らないように、男はすぐ目を閉じた。閉じたまま、指先の圧を変えない。圧を変えないまま、低い声で短く言った。
「……すげえ、速い」
女は「だから」と返したくなって、返したら乾くのを知っていて、飲み込んだ。飲み込んだまま、鼻で短く吸って短く吐いた。吐けた息が落ちる前に、男の指が女の胸から離れそうになって止まる。止めた一拍が、女の胸をさらに跳ねさせた。
男が言った。
「走ってるとき、これで……」
女は頷きかけて止めた。止めると首の筋が固まり、喉が狭くなる。女は頷きの代わりに、短く言葉を落とした。
「上がる。上がり方が、綺麗じゃない」
男の指が女の胸から離れ、今度は女の手の甲に戻った。戻るのが早い。早い戻り方は「見てはいけない」みたいに慎重で、女はその慎重さが好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。熱が立つと影が伸びる。女は影を止めるために、指先を握って開いて、硬さの代わりを作り、吐ける呼吸を一つだけ落とした。
男が低い声で言った。
「君、これで今まで勝ってきたのか」
勝ってきた、という言い方が、女の胸を刺した。刺された瞬間、胸の内側の速さが一段上がる。女はそれを押し返すためにテーブルの角を押し、硬さを返してもらった。
「勝ってない。勝ってるふりをしてるだけ」
言い切った声が硬くて、女は自分で腹が立つ。腹が立つと熱が立つ。熱が立つと「対策」という単語が立ち上がる。立ち上がった単語の影が伸びる前に、男の指が女の手の甲を一度だけ押した。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
男が言った。
「俺の遅さ、欲しい?」
女の胸が跳ね上がった。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息が頬の内側を熱くする。熱が上がる前に、女は言葉を短く切るしかなかった。
「……欲しい」
言った瞬間に口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、男の手の甲に触れている指先の面を広げすぎないように止め、吐ける呼吸を探した。探した呼吸が一つ落ちたところで、男の息が一度だけ止まる。止まったあと、短く吐く。短い吐き方が、驚きと痛みの混ざった形だった。
男はすぐ怒らなかった。怒りの言葉を作らないまま、ただ視線を外し、外した視線をまた戻し、戻した視線を女の手元に置いてから言った。
「……俺を、好きだから?」
女は頷きかけて止めた。止めると喉が狭くなる。女は頷きの代わりに、短く言葉を落とす。
「好き。……それと同じ場所で、欲しい」
同じ場所、という言い方が自分でも汚いと思ってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が立つ前に、男の指が女の手の甲を一度だけ撫でた。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。
男が低い声で言った。
「俺も、君の心臓、欲しいかもしれない」
女の胸が跳ねた。跳ねたのは驚きだった。驚きが先に来ると、感情の形が崩れないまま立つ。女は目を開け、男の顔を見た。男は目を逸らさない。逸らさないまま、喉を一度だけ動かし、乾いた音を小さく出す。
「俺、ずっと諦めてた。短いなら短いでいいって。終わりが見えると楽になるって、そう思ってた」
女の喉が狭くなる。狭くなった喉で、女は息を押し返すしかない。男は続けた。
「でも君が“好き”って言った。好きって言われた途端、俺は終わりを理由に出来なくなった。……延びたら延びたで、俺、困る」
困る、が刺さる。刺さるのに、女はそれが「生きたい」と同じことだと分かってしまう。分かってしまうと胸が熱くなる。女は熱を上げないために、男の手の甲に触れた面を広げず、触れている圧だけを一定に保った。
男が言った。
「だからさ。君が俺の遅さを欲しいって言ったの、責められない。でも、君が俺の未来を一人で背負うなって、言ったよな」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男は女の詰まりを追わない。追わないまま、短く言った。
「俺も、一人で決めない。君の身体の話を、俺の都合で決めない」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、男の唇が女の唇へ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は男の手の甲に触れた指先を動かさない。動かしたら、欲が先に動く気がした。
男が低い声で言った。
「一緒に、検査受けよう。君の心臓の話も。俺の心臓の話も。医者の前で、二人で」
女は「うん」とだけ返した。短い返事でも乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになるのを、女は布団の端の硬さを指で押して止めた。止めたあと、男の手の甲に触れたまま、もう一つだけ言葉を落とす。
「約束。奪わない」
男の指が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
その夜の終わり際、病院の奥で女医は端末の画面を開き、予定表の欄に新しい文字が増えたのを見た。二つの名前。検査。適合。待機。女医の指先が一拍だけ止まり、机の縁をなぞり、なぞった指が元に戻る。戻った指が、開始ではなく、確認の欄を押す。確認の欄を押したあと、女医はペンの位置を縁にぴたりと合わせ、紙の角を揃え直した。揃え直した角の上で、指先がまた一拍止まる。
女医は表情を変えない。変えないまま、息を一度だけ吐き、吐いた息が机の上に落ちる前に、次の手順を開いた。救いになるなら、と口にしないまま。救いの形が、誰にとっての救いなのか分からなくなるのを知りながら。
翌朝、女は起きた瞬間に胸の内側が速いのを感じた。速さはいつもある。いつもあるのに、今日は「約束」を背負っているせいで速さが重い。重いと喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は唇を閉じて押し返し、布団の端を指で押して硬さを返してもらい、吐ける呼吸を一つだけ落とした。
隣では男がまだ眠っていた。眠っている顔は昨日より少しだけ柔らかい。柔らかいのに、肩の線はまだ硬い。硬い肩を見ると女の胸が跳ね、跳ねた自分を押し返すために女は目線を天井へ固定した。固定している間に、男の呼吸が一度だけ短く切れ、切れたところで男のまぶたが動いた。
男が目を開けた。視線が女の顔へ向かう前に女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さが「約束」の形だと分かってしまう。分かってしまうと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返すために顎を引き、短く言った。
「起きた?」
男は「うん」と返し、布団の中で手を探す。探す手が手首へ寄りそうになって止まる。止まる一拍が長い。長い一拍の間、女の胸が跳ねそうになり、女は布団の端を押して硬さで戻した。
男は手の甲を上にして差し出す。昨日の約束通りの形。女は息を短く落とし、男の手の甲に指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が上がる前に女は指先の面を広げすぎないように止め、視線を布団の皺へ固定した。
男が低い声で言った。
「……怖い?」
女は「怖い」と言い切れなかった。言い切ると乾く。乾くと浅くなる。浅い息が影を呼ぶ。女は短く切る。
「怖い。……でも、約束があるから」
男が一拍だけ黙り、黙ったあとで言った。
「俺も。約束があるから、少しだけ呼吸できる」
呼吸できる、が刺さる。刺さるのに嬉しい。嬉しいと熱が立つ。熱は危ない。女は熱を押し込めるために、男の手の甲に触れた指先の圧を一定に保ち、呼吸を短く一つだけ落とした。
午前、病院へ向かう道は静かだった。男は半歩前に出ない。車道側に寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムで息を押し返した。病院の正面玄関ではなく、検査棟の入口へ向かう。白い壁と消毒の匂いが混ざる。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
受付で名前を言う。二人分。女の口の中が乾く。乾きが来ると吸い直しが出る。女は水を一口含み、飲み込む喉の動きを遅くして乾きの勢いを落とした。男はそれを見ないふりをして待ち、待つ間の呼吸は乱れない。乱れないのに、肩は硬い。硬い肩を見て、女の胸がまた跳ねる。
呼ばれて検査室へ入ると、女医がいた。白衣。袖口が整い、ファイルの角が揃っている。女の指が角へ吸われそうになり、女は指を握り、痛みで戻した。女医の視線が女の喉へ一瞬落ち、すぐ男へ移る。移った視線が乱れない。
女医が短く言う。
「今日は、二人。順番に。張らない」
男が頷く。頷きが小さい。女が頷く。頷きが遅れて息が詰まる。女は顎を引いて押し返した。女医はその詰まりを追わず、淡々と手順を説明する。採血、心電図、負荷検査、画像。言葉が並ぶたびに女の喉が乾く。乾きが来る前に女は水を口に含み、飲み込む喉の動きを遅くして落ち着かせる。
先に男が採血室へ入った。女は待合で座り、膝の上で親指の腹を押し、硬さの代わりを作った。待っている間、男の足音が遠くで止まり、止まり方が正確で、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返すために女は息を短く落とし、落とせた息のあとで目を閉じた。
やがて男が戻る。顔色は変わらない。姿勢も崩れていない。なのに、上着の袖口を直す指が一拍忙しい。女はそれを見て喉が狭くなり、唇を閉じて押し返した。男が小さく言う。
「次、君」
女は立ち上がり、検査室へ入る。ベッドに横になり、胸に電極が貼られる。貼られる冷たさで胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。モニターに波形が出る。女は見ない。見れば合わせようとする。合わせようとすると呼吸が崩れる。女は天井だけを見る。
女医が言う。
「呼吸、鼻。短く。止めない」
女は言われた通りに鼻で短く吸い、短く吐く。吐けたような気がしても、次の瞬間に跳ねが来る。跳ねが来ると喉が狭くなる。女は押し返す。押し返し続ける。
負荷検査の段階で、女の胸の内側が先に跳ねる。跳ねる速さが一定にならず、息が置き去りになる。女は喉を固め、吸い直しを抑え、足の回転だけを一定にする。一定にしようとした瞬間、胸の奥が狭くなる。狭くなると息が浅くなる。浅くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを押し返し、押し返すほど胸が熱くなる。熱くなるほど、遅い鼓動の価値が頭の中で増えていく。増えていくのが怖くて、女は視線を天井へ固定した。
終わった後、女は椅子に座り、汗を拭こうとして手が震える。震えを隠すためにタオルの端を握り、硬さの代わりを作った。男が隣に座らず、半歩離れた位置で立つ。立つ位置が正確で、女の胸が跳ねる。男は女の手首へ触れない。触れないまま、手の甲を上にして差し出す。女はそれを見て、胸の奥が少しだけ落ちる。落ちた呼吸の隙間で、女は男の手の甲に指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。
女医が奥から戻り、ファイルを開く。紙の角が揃い、ペンの位置が机の縁とぴたりと合う。女の指が吸われそうになり、女は指を握って痛みで戻した。
女医が言う。
「二人とも、データは揃った。適合の話は今日しない。今日しないのが“張らない”」
男が「今日しない」と繰り返し、息を短く吐く。短い吐き方が張りの形で、女は反射で男の手の甲に触れている面を少し広げ、吐ける呼吸を作る。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が上がる前に女は触れる面を増やさず、圧を一定に保った。
女医は最後に言う。
「今日は帰って、食べて、寝る。二人で。ここまでが今日の治療」
治療、という言葉が恋と混ざる。混ざると危ない。女は混ざりを押し返すために目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。男の指が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
病院を出た帰り道、男が言った。
「“適合”ってさ……俺、聞きたくないのに聞きたい」
女は短く答えた。
「私も」
短い言葉の中に、欲と恋が同じ場所で鳴っている。鳴っているのを自覚した瞬間、女は自分が怖くなる。怖くなると息が浅くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
男が続ける。
「俺、君に言ったよな。俺の未来を一人で背負うなって」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まる。詰まりを押し返すために顎を引く。
「うん」
男が言った。
「だから、もし“適合”って言われても、俺が言う。君じゃない。俺が、俺の口で」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く言った。
「約束」
男の唇が女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は歩道の継ぎ目を数え、数えながら胸の中で命令する。
――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
――そして、適合の言葉が来たら、二人で聞け。
家に着くまで、二人とも口数は増えなかった。増やせば乾く。乾けば浅くなる。浅くなれば、あの二文字が勝手に輪郭を持つ。だから男は歩幅を揃え、女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムの中でだけ呼吸を押し返した。手の甲に触れる指先だけが、約束の形を保っている。触れるだけ。握らない。押さえない。手首へ寄せない。
玄関に入ると男が靴を揃え、揃え終えた指先が縁に一拍だけ残る。女はそれを見ないふりをして鍵を掛け、鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直して指先の熱を散らした。散らし切れない熱は台所へ持っていく。水を注ぐ角度を一定にして音を一定にし、その一定に呼吸の置き場を借りる。
「食べる?」
女が短く聞くと、男は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは「頑張ってる」の形で、女の胸が跳ねそうになる。女は跳ねを押し返すために鍋の取っ手を握り、硬さで自分を戻した。
料理は簡単なものにした。切って、温めて、皿へ乗せるだけ。時間が短い作業は短い言葉で繋がり、余計な沈黙を作らずに済む。男は手伝おうとせず、邪魔にならない位置で立ち、女の手元を見てすぐ外し、外した視線の先で呼吸を整えようとした。整えようとするほど短くなる吐息があって、女はそれを見ないふりをしながら、皿の縁を揃えたくなる指を止めた。
食卓につくと、男が箸を持つ手を一度だけ止めた。止めた一拍が長い。長い一拍が来ると「言葉」が来る。女は喉が狭くなるのを感じ、唇を閉じて押し返した。
男が低い声で言った。
「今日さ、君が倒れそうになったとき」
女は「倒れそうになってない」と言い返したくなる。言い返せば乾く。乾けば浅くなる。浅さが速さを呼ぶ。女は言い返さず、ただ箸先を皿に置いて、置いた先の硬さで自分を固定した。
「俺、触りたかった」
男が続ける。「手首」と言わない。言わないまま、言葉だけで距離を示す。
「胸を押さえるとかじゃなくて、こう……手を握って、止めたかった」
女の胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じて押し返し、短く言った。
「止めなくていい」
男が少しだけ笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「止めたくなる。止めたくなるのが、怖い」
女はその「怖い」の置き方が、今日の女医の言葉と同じだと気づく。怖いは言っていい。張るのは言わずに耐えることじゃない。女はそのルールを一緒に守りたいと思ってしまう。思った瞬間、熱が立つ。熱は危ない。女は熱を上げないために、箸を置き直し、位置を揃えないようにわざと少しずらした。
「触っていい」
女は言葉を短く落とした。短くしないと喉が乾く。
「でも、手の甲。約束」
男が頷いた。頷きが小さい。小さいのに、吐く息が少しだけ長くなる。
食べ終わると、男は片付けを手伝うと言った。女は断らなかった。断ると壁になる。壁になると男が張る。男が張ると夜が長くなる。女は「じゃあ、皿だけ」と短く言い、男は皿を運ぶ手つきだけ妙に丁寧になった。丁寧すぎて、女は胸が跳ね、跳ねを押し返すために蛇口をひねって音を一定にし、呼吸の置き場を作った。
片付けが終わって灯りを落とす前、男がぽつりと言う。
「俺、今日、君の心臓を触っただろ」
女は頷きかけて止めた。止めると首の筋が固まり、喉が狭くなる。女は頷かずに短く言う。
「触った」
男は言葉を選ぶみたいに一拍置いた。
「速いのに、強い。……怖かった」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、短く返した。
「私も、あなたのを触ると怖い」
「遅いから?」
女は首を小さく振った。
「遅いのに、戻る場所があるから」
その一言で、男の吐く息が一度だけ短くなる。短い息は、欲と怖さが同じ場所にある時の形だ。女はそれを見て、約束の範囲で手を伸ばした。手首ではない。男の手の甲。触れるだけ。触れて一拍待つ。
男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女は指先の面を広げすぎないように止め、目を閉じて短く息を落とした。
「ねえ」
男が低い声で言う。
「もし“適合”って言われたら、俺、言うって約束したよな」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。
「うん」
男は続ける。
「でも俺、言うのが怖い。言った瞬間、君の顔が変わる気がする」
女は「変わる」と否定しなかった。否定は嘘になる。女は短く切った。
「変わる。欲が出る」
言った瞬間に口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男の指が女の手の甲を一度だけ押す。圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
男が言った。
「欲が出てもいい。出た欲を、二人で止めよう」
止めよう、の言い方が「制御」ではなく「一緒に持つ」に近いのが、女は好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。女は熱を押し込めるために、男の手の甲に触れた指先を動かさず、圧だけ一定に保った。
布団に入ると、男は手首へ寄せない。寄せないまま、手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しくて、女は歩道の継ぎ目の代わりに布団の縫い目を数え、数えたリズムで呼吸を押し返した。
しばらくして、男が小さく言った。
「キス、していい?」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く言う。
「短く」
男の唇が女の唇へ触れる。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息の置き場を探している間に、男の指が女の手の甲を一度だけ撫でる。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて、女は一度だけ吐けた。
その夜の終わり際、女の端末が一度だけ震えた。女は取らなかった。取れば光が出る。光が出れば顔が見える。顔が見えれば喉が乾く。男も「見せて」と言わなかった。言えば張る。張れば壊れる。二人は、震えが止まるまで、手の甲の触れ方だけを守った。
翌朝、女が起きたとき端末には通知が残っていた。送信者は女医。文は短い。
「結果説明、前倒しできる。今日の夕方。二人で来て」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男はまだ寝ている。寝ているのに、眉の間がほんの少し硬い。女はその硬さを見て、起こさずに済ませたくなる。起こさずに済ませるのは、守るふりをした逃げだと分かる。分かると胸が跳ねる。
女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらってから、男の手の甲をそっと探した。手首じゃない。指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱を上げないために、女は声を低くして短く言った。
「起きて。夕方、病院。二人」
男のまぶたが動き、視線が女の顔へ向かう前に女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さに救われる。
男が低い声で言った。
「……来たか」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。
「来た」
男は一拍だけ黙り、そのあと、手の甲を上にして差し出した。約束の形。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。
その長くなった息の隙間に、女は胸の中で命令する。
――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
――そして今日は、逃げるな。
夕方までの時間が、妙に長かった。
女は午前に一度だけ外へ出たが、走らなかった。走れば壁にぶつかる。壁にぶつかれば、彼の遅さの価値が勝手に増える。増えた価値は「対策」に変わる。対策は、昨日の白い文字に繋がる。だから女は、走る代わりに部屋を整えた。端を揃えたくなる指を止め、止める代わりに皿を一枚ずつ拭き、布の感触で指先を固定した。固定できた瞬間だけ呼吸が落ちる。落ちると自分が悔しくなる。悔しいのに、その悔しさが今日の夕方へ背中を押してくる。
男は普段どおりに振る舞おうとしていた。上着を直す。靴を揃える。言葉を短くする。短くするほど、言葉の外に残るものが増える。その増えた分を、男は自分の中へ押し込む。押し込むと呼吸が短くなる。短い呼吸は張りの形で、女はそれを見ないふりをした。見れば手を伸ばしたくなる。手を伸ばすと手首へ行きたくなる。手首へ行けば依存の形が増える。増えれば、今日の夕方で壊れる。
だから二人は、手の甲だけで一日を繋いだ。
夕方、病院へ向かう道で、男は一度だけ足を止めた。止めたのは横断歩道の手前。信号は赤。止まる理由は外側にあるのに、止まった一拍の長さが内側の事情を漏らす。
女はその一拍を数えない。数えたら怖さが形になる。女は代わりに男の手の甲へ指先を置き、触れて一拍待つ。触れているだけ。握らない。押さえない。触れている面を広げすぎない。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は視線を地面へ落とし、短く息を吐いた。
検査棟の入口は、昼よりも静かだった。静かだと足音が目立つ。目立つと心拍が跳ねる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、受付で名前を言った。二人分。女の口の中が乾く。乾きは吸い直しを呼ぶ。女は水を一口含み、飲み込む喉の動きを遅くして、乾きの勢いだけ落とした。
呼ばれて入ったのは、昨日と同じ小さな面談室だった。机の上にはファイルが一冊。ペンが一本。位置が机の縁にぴたりと合う。女の指が吸われそうになり、女は膝の上で親指の腹を押し、硬さの代わりを作った。
女医は白衣だった。袖口が整い、ファイルの角が揃っている。視線は落ち着いていて、二人の喉を追わない。追わないまま、短く言う。
「今日は結果。結論を先に言う。二人は……適合する」
男の呼吸が止まる。止まったあと、短く吐く。短い吐き方が、驚きと恐怖の混ざった形だと女は分かってしまう。分かってしまった瞬間、女の胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、机の角ではなく自分の指の腹を押して硬さを返してもらった。
女医は続ける。淡々としているのに、言葉の選び方が慎重だ。
「“すぐに”ではない。今日、何かを決めさせない。ここから先は、順番と手続きと、あなた達の同意の積み重ね」
男が低い声で言う。
「適合って……どういう意味の適合」
女医は紙をめくらず、言葉だけで答えた。
「免疫学的な適合。血液型、交差試験、抗体。拒絶のリスクが低い組み合わせ。つまり、移植が“成立しやすい”」
成立しやすい、という言い方が残酷に刺さる。成立しやすいなら、成立させたくなる人間がいる。女は自分がその側だと知っている。知っているから、喉が狭くなる。女は押し返す。押し返しながら、男の手の甲へ指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は触れている面を広げず、圧だけ一定に保った。
女医は男に視線を置いたまま、次の言葉を落とす。
「あなたの心臓は、平常時の効率が高い。反応の幅も大きい。運動の世界で言うなら、確かに“良い”。ただ、構造の弱さがある。あなたの寿命に関わる弱さ」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。
女医は今度は女へ視線を移す。
「あなたの心臓は、努力に応える。耐久はある。ただ、上がり方に癖がある。上限の手前で乱れて、呼吸が追いつかなくなる。その癖は、根性やフォームでは消えない」
女はその言葉を聞いて、悔しさが腹の奥で熱に変わるのを感じた。努力でどうにかなる範囲だけは、どうにかしてきた。どうにかならない範囲だけが、こうして医者の口から“癖”と呼ばれて確定する。その確定が痛い。痛いのに、その確定が彼の遅さに道を作る。道を作るのがもっと痛い。
男が言う。声が低い。短い。
「……だから、交換?」
女はその単語に反射で息が止まりそうになり、唇を閉じて押し返した。女医は目を逸らさない。逸らさないまま、短く言う。
「“交換”という言い方はしない。現実の手続きは“提供”と“受け取り”になる。あなた達が想像しているのが何であっても、ここから先は倫理と法律と安全の話を通る」
女医は一拍置き、その一拍で二人が張らないかを見て、張りの兆しが出る前に言葉を続けた。
「それでも、あなた達が一番気にしているのは、手続きじゃないはず。……心がどう壊れるか、でしょう」
女の胸の内側が跳ねる。跳ねたのは“見透かされた”驚きだった。女医は淡々と続ける。
「あなたが彼の心臓を受け取れば、反応の幅は手に入る。けれど、反応の幅が大きい心臓は、感情の振れにも敏感。ストレスで上がりやすく、上がり方も派手になる。今まで“押し通してきた”あなたが、押し通せなくなる可能性がある。穏やかになる、怖がりになる、死が急に現実になる……そういう変化が起きても不思議ではない」
女は言葉を飲み込む。飲み込むと乾く。乾く前に、鼻で短く息を落とした。
女医は男へ視線を戻す。
「あなたが彼女の心臓を受け取れば、寿命の問題は改善し得る。でも、あなたが今まで“終わり”を理由にしてきたなら、その理由が剥がれる。延びた人生は、祝福じゃなく負担になる。失敗続きの人生が、唐突に続く。言い訳が消える。苦しいでしょう」
男の肩が少し上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲へ触れ、触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女は触れる面を増やさずに止めた。
女医が最後に言う。
「だから、今日は“適合”まで。適合は事実。決めるのはこれから。決める前に、二人とも心理評価を入れる。家族要因も、依存の形も、全部見る。私は、あなた達が壊れない形しか選ばせない」
「選ばせない」という言い方は強いのに、守りの形だった。女はその強さが少しだけ羨ましい。羨ましいと熱が立つ。熱は危ない。女は膝の上で親指の腹を押し、硬さで戻した。
面談はそれで終わった。次回の枠が取られ、説明資料が封筒に入れられ、封筒の角が揃えられた。女の指が動きたくなって止まる。止めた指先が熱を持つ。女はその熱を、男の手の甲に触れる圧を一定に保つことで押し込んだ。
病院を出ると、外気が冷たかった。冷たい空気は喉を刺す。吸い直しを呼ぶ。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は一歩も先に出ない。横に並び、歩幅を揃える。揃えられると、女の呼吸が一拍だけ深く入る。深く入ったことが悔しくて、女は歩道の継ぎ目を数えた。
しばらく歩いて、信号のない角を曲がったところで、男が止まった。止まると、言葉が来る。女は逃げない。逃げたら約束が壊れる。
男が低い声で言った。
「適合、だってさ」
女は短く息を吐いた。吐いた息が白くなる。白い息を見ると、あの白い文字が頭に被さる。女は目線を逸らし、短く言った。
「聞いた」
男の喉が一度だけ動き、乾いた音が小さく出る。
「君、欲しいって言ったよな。俺の遅さ」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く答えた。
「言った」
男が言う。
「じゃあ、今、言う。……俺は、嫌だ」
女の胸の内側が跳ね上がる。跳ね上がった瞬間に喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は男の手の甲へ指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が“反論”の形を作る前に、女は言葉を短く切った。
「分かる」
男が少しだけ笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「分かるのに、欲しいんだろ」
女は否定しなかった。否定すれば嘘になる。女は短く言う。
「欲しい。……でも、奪わない」
男の目が一度だけ揺れる。揺れた目が女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さに救われる。
男が言った。
「奪わない、って言うな。奪うとか奪わないとか、そういう言葉にした瞬間、俺は君を怖がる」
女の喉が狭くなる。狭くなった喉で言葉を増やすと崩れる。女は短く区切った。
「じゃあ……一緒に止める」
男の肩が少し落ちる。吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱は危ない。女は指先の面を広げず、圧だけを一定に保って、短く息を吐いた。
男が言う。
「俺、今まで“終わり”を理由にしてた。今日、医者に言われて、全部バレた。……延びたら困るって本当だ」
女はその本当を、抱きしめたくなる。抱きしめると欲になる。欲になるのが怖いから、女は抱きしめない。代わりに男の手の甲に触れるだけにして、言葉を短く落とす。
「困っていい。……困るのを、一緒にやる」
男が一拍黙り、その沈黙の中で、女の胸の速さが耳に近づく。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。押し返した息の置き場を探している間に、男が低い声で言った。
「俺、君のこと好きだよ」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の隙間で、女は短く返す。
「私も」
男が続ける。
「だから、君が欲しいって言ったの、責めない。……でも、俺の心臓を目標にするな。君の人生の敵を、俺にするな」
女の腹の奥が熱くなる。熱は悔しさの形だった。悔しいのに、言い返せない。言い返すと、努力の癖が出る。努力の癖は、勝つための言葉を出す。勝つための言葉は恋を壊す。女は勝たない。勝たないために、短く言う。
「敵にしない。……好きな人にする」
男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥がまた熱を持つ。熱が上がりきる前に、男の唇が女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね、鼻で短く吸いかけて止めた。
男が低い声で言う。
「今日から、苦しいな」
女は短く答えた。
「うん。……でも、今日から、二人」
二人という言葉の中に、救いと地獄が一緒に入っている。女はそれを知ったまま、男の手の甲に触れた指先を離さない。離さないのに、手首へ寄せない。寄せないことが、今夜の約束だった。
病院の奥で、その頃女医は端末の画面を見ていた。適合。待機。二人の名前。女医の指先が一拍だけ止まり、机の縁をなぞる。なぞった指が元へ戻り、次の手順を開く。救いになるなら、と口にしないまま、救いの形だけを進める。その形が、誰の何を壊すかを知りながら。
「俺は嫌だ」と言ったあとの男の声は、怒りじゃなくて、祈りに近かった。祈りに近い言葉は、言った本人の中身を空にする。空になった分だけ肩が落ちる。肩が落ちたのに、呼吸は短いままだった。短い呼吸は張りの形で、女はその形を壊さないように、男の手の甲に触れた指先の圧だけを一定に保った。触れている面は広げない。握らない。押さえない。手首へ寄せない。約束の形で、欲の形を止める。
「一緒に止める」と女が言うと、男は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは「分かった」より「耐える」の方に寄る。女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、男が息を吐く。短い。短いのに、さっきより少しだけ落ちる。落ちたぶんだけ、二人の間に「歩ける距離」が戻る。
帰り道、女は歩道の継ぎ目を数えた。男は半歩前に出ない。車道側に寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。幅を作る動作が正確すぎて、女はそれを「優しさ」と認めたくなくなる。認めた瞬間、胸の奥が熱を持つ。熱は危ない。危ないと分かっているのに、女は認めてしまいそうになる。だから数える。数えて、数の中に感情を押し込む。
部屋に戻ると、静けさが先に来た。静けさは速さを大きくする。女は蛇口をひねり、水の音を一定にして、一定の音に呼吸の置き場を借りた。男は上着を掛ける。掛ける指先が一拍忙しい。忙しさが見えると、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返すために女はコップを一つだけ出し、距離を揃えないまま水を注いだ。揃えないのに、指が揃えたがる。揃えたがる指を止めるだけで、今日は疲れる。
男がコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。ゆっくりな喉の動きに引っ張られて、女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのが分かってしまい、女は悔しくて流しの金属の反射へ目を固定した。固定したまま、男が言う。
「適合って言われた瞬間、俺、君の顔が変わるのが怖かった」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、押し返してから短く言った。
「変わった。……欲が出た」
言ってしまった瞬間、口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになるのを、女はエプロンの紐の硬さを指で押して止めた。男は「欲」という単語を嫌がるように眉を寄せかけて、寄せる前にやめた。やめたのは、約束の形だった。嫌だと言う代わりに、男は言葉を選ぶ。
「欲が出ても、俺が君を怖がる言葉にしないで。……俺は、君を好きでいたい」
好きでいたい、は、逃げ道がない。女の胸の内側が跳ね上がり、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く息を吐いた。
「私も。……だから、言う。今日から、怖いのは私だけじゃない」
男が一拍だけ黙る。その沈黙の間に、男の手が女の手首へ行きそうになって止まる。止まって、手の甲を上にして差し出す。女はその形に救われ、指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は触れている面を増やさず、圧だけ一定に保った。
そのまま夕飯を作ろうとして、女は包丁を握った瞬間に手が僅かに震えた。震えは疲労の形でもあるし、怖さの形でもある。どっちにしても、今は危ない。女は包丁を置いた。置いた音が硬くて、女の胸が跳ねる。跳ねたのを押し返す前に、男が低い声で言った。
「今日は、作らなくていい。買おう」
買おう、の提案が「休め」じゃなく「一緒に逃げ道を作る」になっているのが、女は好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。女は熱を押し込めるために、短く言った。
「うん。……ありがとう」
男は「どういたしまして」を言わなかった。言葉を増やすと乾くのを知っているみたいに、ただ女の手の甲を一度だけ押して、位置を動かさずに待った。待たれると女の呼吸が一つ落ちる。落ちるのが悔しくて、女は目線を床へ落とし、床の目地を数えた。
コンビニの袋を開ける音がして、箸が触れる音がして、テレビをつけない静けさが続いた。静けさの中で、男がふいに言う。
「俺、今日“嫌だ”って言っただろ。……嫌なのは、君のことじゃない」
女は返事をすぐに作れなかった。作ると乾く。乾くと浅くなる。浅くなると、さっき止めたはずの影が伸びる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから短く言った。
「分かってる」
「分かってるのに、苦しい顔してた」
女は笑えなかった。笑うと呼吸が乱れる。乱れると速さが出る。速さが出ると影が伸びる。女は笑わずに言った。
「苦しい。……努力で勝てる場所じゃないから」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「勝つ」という単語を拾い、拾ったまま落とす。
「勝たなくていい。勝ったら、俺が負けるみたいになる」
女の胸が跳ねる。跳ねたのは驚きだった。男は続けた。
「君が俺の心臓を目標にした瞬間、俺は“敵”になる。君が敵と戦ってる顔になる。……それ、俺、耐えられない」
女の腹の奥が熱を持つ。熱は悔しさと、愛しさが混ざった形だった。女はそれを言葉にすると壊れるのを知っている。だから短く言う。
「敵にしない。……今日、医者の前で言った。好きな人にするって」
男の吐く息が少し長くなる。長くなった息が落ちる前に、男の唇が女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は男の手の甲に指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しいのに、今夜はその悔しさを武器にしない。
夜、布団に入ると、男は手首へ寄せなかった。寄せないまま、手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が長くなる。女の呼吸が一つ落ちる。落ちた瞬間、女の中で「これならいける」が立ち上がりそうになって、立ち上がりかけたそれが一番危ないと分かる。いける、は、対策へ繋がる。対策は、白い文字へ繋がる。女は目を閉じ、布団の縫い目を数えて、その立ち上がりを数の中へ押し込んだ。
そのとき男が小さく言った。
「もし俺が、弱くなるなら」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く返す。
「弱くなるって、何」
男は一拍置いてから言った。
「死ぬのが怖くなった俺。走れない俺。……終わりを理由に出来ない俺」
女はその言葉に、自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。熱は、守りたさに似ている。守りたさは欲の入口になる。女は入口に立たないために、男の手の甲に触れたまま、言葉を短く切った。
「弱くなっても、好き。……でも、救うために奪わない」
男の指が女の手の甲を一度だけ押す。圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。男が低い声で言う。
「奪うって言葉、やめよう」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。男はその詰まりを追わず、ただ言う。
「俺が怖いって言ったら、君も怖いって言って。……隠さないで」
女は短く答えた。
「うん」
その「うん」の中に、今日の夜が全部入っていた。恋と欲と、約束と、白い文字の残像。入っているのに、口にしない。口にした瞬間に、二人の関係が医療の言葉に侵食される気がする。女はそれが嫌で、手の甲の触れ方だけを守った。
同じ夜、病院の奥で女医はファイルを閉じていた。適合の結果は事実。けれど彼の心臓のデータの端に、小さな赤が増えている。増えた赤を見た女医の指先が一拍だけ止まり、机の縁をなぞる。なぞった指が元へ戻り、予定表の欄を開く。「心理評価」の枠を、もう一つ前へ寄せる。寄せた瞬間、女医は表情を変えないまま息を一度だけ吐き、吐いた息が机に落ちる前に、次の確認を始めた。次の渇望を生む引きは、彼らの知らないところで、もう動いている。
朝、女は目を開けた瞬間に「適合」という単語が頭の中で点滅しているのを感じて、反射で目を閉じた。閉じても点滅は消えない。消えない点滅は呼吸を浅くする。浅くなると胸の内側が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、布団の端を指で押し、硬さを返してもらって吐ける呼吸を一つだけ落とした。
隣の男はまだ眠っている。眠っているのに眉間がほんの少し硬い。硬い眉間を見ると女の胸が跳ねそうになり、女は視線を天井へ固定した。固定している間に、男のまぶたが動く。視線が女の顔へ向かう前に女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さを「約束の形」だと受け取ってしまう。受け取ってしまうと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返して、短く言った。
「通知、来てる。心理評価、前倒し」
男は「来たか」とだけ言い、布団の中で手を探す。手首へ寄せそうになって止まり、手の甲を上にして差し出す。女はそこへ指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は指先の面を広げすぎないように止め、鼻で短く吸って短く吐いた。
「今日、別々に呼ばれるって」
女が言うと、男の吐く息が一度だけ短くなる。短い息は「張り」だ。女は反射で触れている圧を一定にし、触れる面を増やさずに一拍待つ。男の息が少し長く落ちたところで、男が言った。
「君、俺の代わりに喋らないで」
女は頷きかけて止めた。止めると喉が狭くなる。女は短く切った。
「喋らない。私のことだけ喋る」
男が小さく「うん」と返し、返した声が掠れている。掠れは乾きの形だ。乾きが見えると、女は水を出したくなる。水を出す動きは「整える」に繋がる。整えると安心する。安心は危ない。安心が「これならいける」を呼ぶからだ。女はそれを知っていて、だから水の音を一定にする代わりに、ただコップを一つだけ出し、距離を揃えないまま置いた。男がそれを見て、言葉を増やさずに飲む。飲み込む喉の動きがゆっくりで、女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのが悔しくて、女は流しの金属の反射へ目を固定した。
病院へ向かう道、男は半歩前に出ない。車道側に寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムで息を押し返す。病院の入口の自動ドアが開く音が乾いていて、女の喉が一瞬だけ狭くなる。狭くなった喉で吸い直しが出そうになるのを、女は唇を閉じて止めた。男が「手」と言わず、手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。その一拍が、今日の入口を越えるための橋になる。
待合で呼び出しを待っている間、女医が現れた。白衣。袖口が整い、ファイルの角が揃っている。女の指が角へ吸われそうになって止まる。止めたぶん指先が熱を持つ。女は膝の上で親指の腹を押し、硬さで戻した。女医の視線は二人の喉を追わない。追わないまま、短く言った。
「今日は別々。順番に。言葉を急がない」
男が頷く。頷きが小さい。女が頷く。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。女医はそれを追わない。追わないまま男へ向けてだけ言う。
「あなたは、終わりを理由にしてきた。今日は、その理由を“守り”として使ってきたのか、“逃げ”として使ってきたのか、そこを見ます」
男の肩が少し上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲に指先を置き、触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は触れる面を増やさずに止めた。
男が呼ばれ、面談室へ消える。ドアが閉まる音が小さく、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返すために女は椅子の座面を指で押し、硬さを返してもらって呼吸を落とした。落とした呼吸のあと、女は自分の手首に指を当てた。速い。揃わない。揃わない速さが「努力でどうにかならない」場所をずっと指差している。指差されると腹が立つ。腹が立つと熱が立つ。熱は危ない。女は手を離し、代わりに床の模様を数えた。
次に呼ばれたのは女だった。面談室は小さく、机と椅子、そして記録用の端末がある。女医ではない心理士が座っていて、声は柔らかいのに、質問の角度が鋭い。「あなたは、努力で乗り越えてきたことが多い?」女は頷きかけて止め、短く答えた。「多い。…でも上限だけは動かない」心理士が「上限があるとき、あなたは何をしますか」と聞く。女は一瞬、答えが自動で出そうになった。もっとやる、だ。もっとやる、は女の骨に刻まれている。刻まれている返事を出すと、また同じ道へ戻る。戻る道の先にあるのは、昨日の白い文字だ。女は喉の手前で息を押し返し、言葉を短く切った。
「上限を、敵にする」
言った瞬間に、胸の内側が跳ねる。敵にする、という言い方がまさに男の言った“敵”だからだ。心理士が静かに「敵にすると、何が起きますか」と聞く。女は笑えない。笑うと呼吸が乱れる。女は目線を机の角へ落とし、角へ吸われそうになる指を膝の上で握り、短く答えた。
「勝つための言葉が出る。…好きな人も、敵にしそうになる」
心理士はそこで「誰を」と聞かなかった。聞けば女が逃げるのを知っているみたいに、次の質問へ行く。「あなたは、恋愛で“負け”をどう感じますか」女は喉が狭くなる。恋愛に勝ち負けを持ち込むのが、いちばん汚いと思っているのに、やってしまう側だと自分が分かっている。女は唇を閉じ、押し返してから短く言う。
「負けるのは怖い。…でも勝つのはもっと怖い。勝ったら、相手が壊れる気がする」
心理士が「壊れる、とは」と聞く。女はここで、ようやく“心臓”を言葉にするしかない。言葉にすると乾く。乾くと浅くなる。女は息を短く落としてから言った。
「私は、相手の“落ち着き”に触れると楽になる。楽になると、欲が出る。欲が出ると、止めるのが難しくなる」
“止める”という単語を使えたことが、女の中で少しだけ救いになる。奪う、という言葉を使わずに済んだからだ。心理士は頷き、淡々と次の項目へ進める。「あなたの競技人生は誰の影響で始まりましたか」女は答えたくない。答えたくないのに、答えないと今日の面談が意味を持たない。女は喉の手前で息を押し返し、短く言った。
「親」
その一文字で胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、膝の上の親指の腹を押して硬さを返してもらい、なんとか次の言葉を落とす。
「誉められると走れた。怒られると、もっと走った。…どっちも、走る理由になった」
面談が終わる頃には、女の指先が冷たくなっていた。冷たいと胸の内側が跳ねる。跳ねるのを押し返しながら待合へ戻ると、男が先に出てきていた。顔色は変わらない。姿勢も崩れていない。なのに袖口を直す指が一拍忙しい。女はその忙しさを見て喉が狭くなる。狭くなった喉で言葉を増やせない。女は男の手の甲へ指先を置いた。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女は触れる面を増やさずに止めた。
男が低い声で言った。
「俺、逃げだった」
女は「逃げるな」と言わなかった。言えば勝つための言葉になる。女は短く言った。
「言えたの、逃げじゃない」
男の吐く息が少し長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しいのに、その悔しさを今日の武器にしない。女は言葉を短く落とす。
「帰ろう」
帰り際、女医が二人を呼び止めた。廊下の端で、声だけを落とす。「次は“二人”で話す。あなた達の言葉の癖を揃える。勝ち負けの単語は捨てる。止めるのは、相手じゃなく“衝動”」女はその言い方に、少しだけ救われる。男は「うん」と短く返し、女も頷く。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。女医はそれを追わず、最後にだけ付け足した。
「それと、今日言った“嫌だ”は良い。嫌だは生きたいの裏返し。裏返しを、二人で表に戻していこう」
病院を出た外気が冷たく、女の喉を刺す。刺されると吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は手首へ寄せず、手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなった息の隙間で、女は胸の中の命令を少しだけ言い換えた。
――今は、恋でいろ。
――止めるのは、相手じゃない。衝動だ。
次の面談は“二人で”だった。廊下の灯りは白く、白いほど言葉が乾く。女は唇を閉じ、喉の手前で息を押し返しながら歩幅を一定にする。男は半歩前に出ない。車道側に寄る癖は病院の中でも出て、壁際を避ける位置取りで女の肩に当たる空気を弱める。女はその正確さを優しさと呼びたくなくて、床の模様を数えた。数えるリズムの中だけ、胸の内側の速さが耳に刺さらない。
小さな面談室の机には、封筒が一つだけ置かれていた。角が揃っている。揃っている角に指が吸われそうになり、女は膝の上で親指の腹を押して硬さを返してもらう。女医は白衣で入ってきた。袖口が整い、視線が二人の喉を追わない。追わないまま、結論を伸ばさない声で言う。「今日やるのは、決断じゃない。運用の確認。あなた達の“約束”を医療の手順に落とす」。男の肩が少し上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲へ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息がほんの少し長くなり、女はその変化を“効いている”と認めたくなくて目線を机の縁へ落とした。
女医は封筒を開けず、言葉だけを先に置く。「彼の心臓は今すぐ止まらない。でも“ストレスで壊れやすい”のは事実。あなたの心臓は今すぐ折れない。でも“上限で乱れやすい”のも事実。適合は事実。だからこそ、あなた達の衝動が最短距離を探す」。女は喉が狭くなる。最短距離という言葉は、努力の癖と同じ方向を向いている。女医はそこで一拍置き、二人の呼吸が張る前に続けた。「ここからは“ストップの手順”を先に決める。止めるのは相手じゃなく衝動。そのための合図を作る」。男が低い声で聞く。「合図って、何」。女医は淡々と答えた。「言葉。動作。連絡先。あなた達は“手の甲”で止めている。良い。でもそれが効かない時が来る。その時、言葉が要る」。
封筒が開かれ、紙が一枚だけ出た。見出しは短い。「危険時のルール」。女は読まない。読めば揃えたくなる。揃えたくなると熱が立つ。熱が立つと衝動が伸びる。女医の指が要点だけを叩く。「一、どちらかが“早い呼吸”になったら、その場で“止める”と言う。二、手の甲に触れて一拍待つ。三、それでも戻らなければ“外へ出る”。四、外でも戻らなければ私に連絡。五、決して“手首”に行かない」。男が一瞬だけ目を伏せ、喉が乾いた音を小さく出す。女医はそこを追わない。「あなた達は今、触れ方に“救い”を作っている。救いは必要。でも救いに依存の形を与えると、恋が医療に吸われる。恋を守るための医療を、医療のための恋にしない」。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。恋を守る、という言葉は甘いのに冷たい。冷たいから正しい。
面談の終わり際、女医は男へだけ追加を落とした。「あなたにはもう一つ。症状が出た時、“我慢して帰らない”。あなたは終わりを理由にできる癖がある。今日はそれを逃げに使わない」。男の肩が少し上がる。女は反射で手の甲に触れ、触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。女医は女へ視線を移す。「あなたにはもう一つ。努力でどうにかなる話に変換しない。“勝てる形”に落とすと、衝動が正当化される」。女は短く頷く。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。女医は頷きの遅れを見ないふりをして、封筒を閉じ、角を揃えて言った。「今日は帰って、この紙を部屋に置く。読まなくていい。置いてあるという事実が、衝動のブレーキになる」。
帰り道、病院の自動ドアの外で風が刺した。刺す冷気に喉が狭くなり、女は吸い直しを抑えようとして短く吸いかけて止める。男が止まった。止まった瞬間、女は“言葉”が来るのを知る。男は手首へ寄せず、手の甲を上にして差し出した。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。その長くなった隙間で、男が低い声で言った。「俺さ、今日“我慢して帰るな”って言われて、腹立った」。女は短く息を吐いた。「腹立っていい」。男は続ける。「腹立つってことは、生きたいってことだよな」。女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返し、短く言う。「そう」。男が笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。「怖いな」。女は“奪う”を使わない。代わりに短く言う。「怖い、って言っていい」。男の肩が少し落ちる。吐く息が少し長くなる。女はその変化を“勝ち”にしない。ただ、今日の一歩として持って帰る。
ここまで。今日は「結論」じゃない。運用を入れただけ。次は、このルールが日常で一回だけ試される回に入る。
部屋に戻ると、男は言われた通りに封筒を机の上へ置こうとして止まった。置くと角を揃えたくなる。揃えたくなると女の指が吸われる。吸われると女は熱を持つ。熱は衝動へ繋がる。男はその連鎖を、もう一度だけ頭の中でなぞってから、机じゃなく冷蔵庫の扉に封筒を当てた。磁石を探し、見つけたのは旅行土産のどうでもいい丸い磁石で、それを封筒の角に押し当てる。押し当てる圧は弱いのに位置が妙に正確で、女はその“正確さ”が今の二人の呼吸の型みたいに見えてしまって、喉が狭くなる。狭くなった喉で吸い直しが出そうになり、女は唇を閉じて押し返した。
「読まなくていい、って言われた」
男が低い声で言う。女は頷きかけて止めた。頷くと息が詰まる。女は短く返す。
「うん。置くだけ」
封筒が冷蔵庫に貼られた見た目は、生活感が強すぎて笑えそうになるのに笑えない。神棚でもお札でもない。ただの紙。なのに、紙が“止め方”になっている。女はそれが悔しくて、悔しいのに安心もしてしまいそうで、安心が一番危ないと知っていて、台所の蛇口をひねって音を一定にした。一定の音に呼吸を寄せて、寄せすぎないように押し返す。
男が台所の入口で立ち止まり、視線を封筒へ向けかけて、向けるのをやめた。やめた動きが慎重で、女はその慎重さに救われる。救われると腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は水を止め、手を拭き、タオルの端を揃えないようにわざと少しだけずらした。
「腹減った」
男が言う。短い。乾かない。女はその短さを真似る。
「うん。簡単にする」
“簡単にする”が、今日の正解になるのが少しだけ悲しい。努力を積む癖がある女にとって、簡単にするは負けに聞こえる。勝ち負けを捨てると決めたばかりなのに、頭が勝手に戻る。戻る前に、女は包丁を取らずに済むものを選び、皿を二枚出して、距離を揃えないまま置いた。揃えないだけで指先が落ち着かない。落ち着かないのが悔しくて、女は目線を皿の縁から外し、床の目地へ落とした。
食べている間、男はほとんど喋らなかった。喋らないのに、女の呼吸が浅くなりそうな瞬間だけ、男の指が宙で一拍止まる。その止まり方が、言葉を飲み込む形だと女は分かってしまう。分かってしまうと、女は何か言いたくなる。言うと乾く。乾くと浅くなる。女は言わずに、ただ噛む回数を一定にした。
食べ終わって片付けに入ったとき、女の手が一度だけ震えた。皿を持ち上げた瞬間、指先が冷たくなる。冷たいと胸の内側が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は唇を閉じて押し返したが、押し返しきれずに鼻で短く吸いかけて止める。止めた息が胸の奥で暴れ、暴れたぶん鼓動が速くなる。速くなるのが自分で分かってしまい、分かった瞬間に“遅い心臓”の価値が頭の中で勝手に増え始める。
増える。
増えると、最短距離を探す。
最短距離は、紙の向こう側へ繋がる。
女は皿を置いた。置いた音が硬い。硬い音は自分の中の危険信号みたいで、喉がさらに狭くなる。
男が気づいた。気づき方が早いのに、手首へ行かない。行かないまま、低い声で、決めた言葉を落とした。
「止める」
その一言で女の胸が跳ねる。跳ねた反動で呼吸が浅くなり、浅い呼吸がさらに速さを呼ぶ。女は唇を閉じて押し返し、返事を短くする。
「……止める」
男はすぐ手の甲を上にして差し出した。女はその手の甲に指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。待つ一拍が長い。長いと逆に怖さが増える。増える前に男が次の手順へ進めた。
「外、出る」
女は頷きかけて止める。頷くと息が詰まる。女は短く言う。
「うん」
二人は玄関を開けて廊下へ出た。外気が冷たく、冷たいほど喉が刺される。刺されると吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返して、鼻で短く吸って短く吐いた。短く吐いたはずなのに、胸の奥の速さはまだ止まらない。止まらない速さに意識が吸われ、吸われた意識がまた最短距離を探しそうになって、女は廊下の床の継ぎ目を数えた。数えるリズムに呼吸を押し込む。押し込むと胸が苦しい。苦しいと怖い。怖いと、言葉が欲しくなる。
男が低い声で言った。短く。
「怖い?」
女は言い切る。言い切るのが今日のルールだ。
「怖い」
男も短く言う。
「俺も」
二人の“怖い”が並んだだけで、胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れたのが悔しいのに、悔しさが今は助けになる。女は悔しさを握りしめる代わりに、男の手の甲に触れている指先の圧を一定に保った。圧を変えると縛りになる。縛りは依存になる。依存は恋を壊す。
男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は目を閉じて、短く吐いた。吐いた息が冷えて白くなり、その白さが病院の紙の白さに重なりそうになって、女は目を開けて床を見る。床の継ぎ目を数える。数える。数える。
男が言う。
「戻ってきた?」
女は自分の胸の内側へ意識を向ける。速さはまだある。まだあるが、さっきみたいに“突き抜け”ではない。息が置き去りになっていない。女は短く答えた。
「少し」
男が頷く。頷きが小さい。小さい頷きは“続ける”の合図だ。男は言葉を増やさない。増やさず、手の甲を上にしたまま待つ。待たれると女の呼吸が一つ落ちる。落ちた瞬間、女の中で“これならいける”が立ち上がりそうになって、立ち上がりかけたその瞬間が一番危ないと分かって、女はすぐ言葉で釘を刺す。自分に。
「今のは、衝動」
男が短く返す。
「うん。衝動」
二人で同じ単語を置くと、衝動が“外側のもの”になって、胸の内側の速さがもう一段だけ落ちる。落ちたことで、女は初めて自分の指先の冷たさに気づいた。冷たい指先が、今の自分を支えているみたいで、女はその感覚が少しだけ怖くて、でも手放したくなくて、結局、男の手の甲に触れたまま一拍だけ待った。
部屋へ戻ると、冷蔵庫の封筒が目に入る。見るだけで胸が跳ねかける。跳ねかけたのを押し返し、女は視線を外した。男も封筒を見ない。見ないまま、玄関で靴を揃え、揃え終えた指先が縁に一拍残る。残った一拍が妙に静かで、女は“さっきの手順が使えた”という事実だけを胸の中へ置いた。
男が低い声で言う。
「……電話、する?」
女医に、という意味だ。手順の四。女は喉の手前で息を押し返し、短く答えた。
「しない。戻った。……でも、記録する」
男の目が一瞬だけ動く。動いた目が女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さに救われる。
「記録、って」
女は冷蔵庫へ行き、封筒の横にメモ用紙を一枚だけ貼った。揃えない。角度をわざと少し斜めにする。斜めに貼るだけで指先が落ち着く。女は短く書く。「皿の音→呼吸浅い→止める→外→戻る」。それだけ。勝ち負けも、正しさも書かない。衝動だけ書く。
男がそのメモを見て、低い声で言った。
「……俺ら、今日、ちゃんと止めたな」
女は“ちゃんと”を勝ちに変換しそうになって、変換する前に短く返した。
「止めた。……一回」
“一回”が大事だ。一回で終わらないから。終わらないことを知った上で、一回を積む。その積み方だけが、今は恋を守る。
男が手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しい。悔しいのに、その悔しさが今日のブレーキになる。
女は胸の中で命令する。今日の分だけ、少しだけ具体的に。
――止める。外へ出る。衝動を相手にしない。
――そして、今夜は、手首へ行かない。
朝、冷蔵庫の扉に貼られた封筒の横で、昨日のメモが斜めに揺れていた。紙の端が少し反っていて、その反りが視界の端で動くたび、女の喉の奥が乾く。乾くと吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、メモの端だけ指で押さえた。押さえる圧を強くしない。強くすると揃えたくなる。揃えたくなると速さが立つ。
背後で男の足音が止まる。止まった一拍が長い。長いと胸の内側が跳ねやすくなる。女はメモから目を外し、床の目地へ視線を落とした。落としたまま、男の手の甲が上を向いて差し出される。女はそこへ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなり、女の胸の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間、女は反射で指先の面を広げそうになって止めた。
男が低い声で言った。
「紙、見てるだけで、上がるな」
女は短く返した。
「上がる」
男の指が宙で一拍止まり、止まったまま言葉を選ぶ。
「……今日、外に出る?」
女は頷きかけて止めた。頷くと息が詰まる。女は短く言った。
「近所だけ。短く」
外へ出るだけで空気が刺さる。刺されると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返して歩幅を一定にする。男は半歩前に出ない。車道側へ寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。幅の作り方が正確で、女の胸の内側が跳ねそうになり、女は歩道の継ぎ目を数えた。数えるリズムの中でだけ、胸の内側の速さが耳に刺さらない。
角を曲がったところで、男の端末が鳴った。音が短い。短い音は短い言葉を呼ぶ。男は画面を見て止まり、止まった一拍が長い。女の喉が乾き、吸い直しが出そうになって、女は唇を閉じた。
男は出なかった。出ないまま、端末の画面を伏せる。伏せた指の骨が浮き、手の甲の筋が固くなる。固くなったまま、男が一歩だけ歩こうとして止まる。止まった足が、地面に置き直される。置き直される動作が硬い。
女は見ないふりをしようとして、出来なかった。出来ない瞬間、胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返し、短く息を吐いた。
男が低い声で言った。
「止める」
女は返事を短く落とした。
「止める」
男は手の甲を上にして差し出す。女は指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持ちそうになって止める。熱が立つ前に、男が次の手順へ進めた。
「外」
外はもう外だが、二人の中で“外”は場所じゃなく動作だった。男は道の端へ寄り、壁に背をつけず、しゃがまない。しゃがむと戻れなくなる形になる。男は膝に手を置き、指先の力を抜こうとして抜けない。抜けないまま、吐く息が短くなる。短くなると肩が上がる。肩が上がると喉が乾く。乾くと、女の喉も乾く。
女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、男の手の甲に触れている圧を一定に保った。圧を変えると縛りになる。縛りになると、戻るより先に別のものへ引っ張られる。
男の息が一度だけ止まり、止まったあと短く吐く。短い吐き方がさっきより鋭い。鋭い吐き方が続くと、女の胸の内側が跳ねる。女は跳ねを押し返し、床の継ぎ目を数えた。数えながら、短く言った。
「今、上がってる」
男は頷きかけて止め、声だけ落とした。
「上がってる」
同じ単語を置くと、胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた隙間で、男が喉を鳴らす。乾いた音が小さく出る。男は端末を握り直し、画面を見ないまま言った。
「……帰る、は違うよな」
女は短く返した。
「違う」
男の指が端末の側面を一度だけ押し、押した指が震える。震えを止めるみたいに、男は手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息は少し長くなるが、戻り切らない。戻り切らない長さが続くと、次の手順が来る。
男が低い声で言った。
「電話、する」
女は「私が」と言わなかった。言えば代わりになる。代わりになると、男の口が止まる。止まった口は張りになる。女は短く「うん」とだけ落とし、男が端末を耳に当てるのを待った。
呼び出し音が二回で切れ、女医の声が出る。女医は名乗りを短くし、男は説明を短くした。
「息、短い。胸、詰まる。今、外。戻り切らない」
女医の声は間を伸ばさない。
「我慢しない。来る。今から。歩ける?」
男は一拍置き、置いた一拍で息を押し返してから答える。
「歩ける。遅いけど」
「遅くていい。水、少し。冷やさない。走らない」
通話が切れる。切れた瞬間、男の指先が端末を握り直し、骨が浮く。浮いた骨が少しずつ沈む。沈むのに、息の短さはまだ残っている。女は男の手の甲に触れたまま、触れている圧だけを一定に保った。
男が低い声で言う。
「今、俺の口で言えた」
女は頷かない。頷くと息が詰まる。女は短く返した。
「言えた」
病院までの道は、歩幅をさらに揃えた。男は半歩前に出ない。女も半歩前に出ない。並ぶだけで、二人の足音が一つの長さになる。長さが揃うと呼吸が一拍だけ落ちる。落ちたのが分かってしまい、女は歩道の継ぎ目を数えた。数えるリズムで、胸の内側の速さを押し返す。
検査棟の入口で女医が待っていた。白衣。袖口が整い、視線が男の喉へ落ちてすぐ外れる。外れ方が早い。女医は男の肩の位置だけを見る。肩が上がっている。上がり方が戻り切っていない。
女医が短く言った。
「こっち」
案内されたのは小さな処置室だった。ベッドに座らされ、胸に小さな装置が貼られる。貼られる冷たさで男の肩が一度だけ跳ね、跳ねた反動で息が短くなる。女医は「止めない」とだけ言い、男は唇を閉じて押し返す。女はベッドの横で立ち、男の手首へ行かない。行かないまま、男の手の甲が上を向いたところに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるが、まだ戻り切らない。
装置の画面に波形が出る。女は見ない。見ると合わせようとする。合わせようとすると速さが立つ。女は壁の一点だけを見る。男は画面を見ずに、女医の声だけ聞いた。
女医が言う。
「出た。短い乱れ。ストレス反応。……あなた、帰ってたら、もっと長引いた」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「うん」とだけ返した。短い返事の後、女医が紙を一枚だけ出し、机の上に置く。角が揃っている。女は目を逸らし、床の目地へ視線を落とした。
女医は言葉を増やさない。
「今日から、これ。二十四時間。記録。症状が出た時間、何をしてたか、メモ。あなた達の斜めのメモでいい」
男が一拍黙り、黙ったまま吐く息が少し長くなる。長くなった隙間で、男が低い声で言った。
「……俺、我慢して帰らなかった」
女医は頷きも褒め言葉も置かない。置かないまま、短く言う。
「次も、それ」
処置が終わって廊下へ出ると、男の歩幅が少しだけ小さくなった。小さくなった歩幅に女が合わせる。合わせると、女の胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間に、女は指先の面を広げそうになって止めた。止めたまま、男の手の甲に触れている圧を一定にする。
男が低い声で言った。
「俺、今、胸が落ちた」
女は短く息を吐き、短く返す。
「落ちたなら、歩ける」
男の唇が、女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、鼻で短く吸いかけて止める。止めた息のまま、女は歩道の継ぎ目を数え始めた。
冷蔵庫に貼られた封筒の隣に、今夜はもう一つ増える。二十四時間の装置と、短いメモ。増えるものが増えるほど、最短距離も増える。増える最短距離を、二人は今日も手の甲だけで止めていく。
帰り道の空気は冷たかったのに、男の胸の落ち方はさっきより確かだった。確かでも、歩幅は小さいまま。小さい歩幅が“守り”の形で、女はそこに合わせる。合わせると胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間に、女の指先が勝手に面を広げそうになって止める。止める。今日の合図はもう身体に入っている。触れるだけ。握らない。押さえない。手首へ行かない。
部屋に戻ると、冷蔵庫の封筒が真っ先に目に入った。隣の斜めメモも残っている。紙が増えるのは、最短距離が増えるのと同じだ。女は視線を外し、玄関で靴を揃えようとした指を止め、止めた指先の熱を床の硬さに押し付けて戻した。男は上着を掛ける。その動作が丁寧すぎる。丁寧すぎると張りが隠れる。隠れると怖い。怖いと、女は水の音を一定にしたくなる。一定は安心になる。安心は危ない。女は蛇口をひねらず、代わりに机の上へメモ帳を一冊だけ置いた。揃えない。角度を少しだけ斜めにする。斜めは、衝動に勝ち負けを与えないための工夫だった。
男は胸に貼られた装置を、服の上から一度だけ押さえる。押さえる圧は弱いのに、位置が正確で、女はその正確さに胸が跳ねかけた。跳ねかけたのを押し返して、女は短く言った。
「記録、いつ書く」
男は一拍置いて、置いた一拍で息を押し返してから答えた。
「今。忘れる前」
男が“今”と言ったのが嬉しい。今までの男なら“あとで”に逃げていた。嬉しいと腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は嬉しさを表情にしないまま、メモ帳の一ページ目を開く。男はペンを取って、字を整えようとして止める。止めたのは、整えると安心になってしまうからだと女は分かってしまう。分かってしまうと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返し、床の目地へ目線を落とした。
男が短く書く。「昼過ぎ 電話 息短い 外 来院」。書いたあと、ペン先が紙の上で一拍止まる。止まった一拍が長い。長いと、言葉が来る。
男が低い声で言った。
「これ、俺の弱さの証拠みたいだな」
女は“弱い”を否定しない。否定すると勝ち負けになる。女は短く切る。
「証拠でいい。次、早い」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「早い」と繰り返し、繰り返したあとで手の甲を上にして差し出した。女はそこへ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱を上げないために、女は指先の圧を一定にして、短く息を吐いた。
夕飯はまた“簡単”にした。簡単にするたび、女の中で「負け」が頭を出す。頭を出した瞬間に“勝ちたい”が続く。勝ちたいは衝動の口実になる。女は口実を作らない。包丁を使わず、火も短く、皿の距離は揃えない。揃えない生活が、こんなに疲れるとは思っていなかった。疲れると心拍は上がる。上がると、また彼の遅さの価値が増える。増える価値を止めるために、女は噛む回数を一定にした。
食べ終えて片付けに入ったとき、装置が小さく震えた。震えは通知の形だった。音は鳴らない。鳴らないのに、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、男の顔を見ないふりをした。男も装置を見ないふりをする。見ないふりは、張りを呼ぶ。張りが呼ばれる前に、男が低い声で落とした。
「止める」
女は返す。
「止める」
ここで“外”に行くほどではない。女はそう判断したくなる。判断したくなるのが危ない。女は判断を自分だけでしない。代わりに、メモ帳を開いて、装置の震えの時間を見て、短く書く。「夜 片付け 装置振動」。それだけ書いた瞬間、衝動が“外側”へ逃げて、女の胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れたのが悔しいのに、その悔しさが今日のブレーキになる。
男が低い声で言う。
「今の、何だ」
女は答えを長くしない。
「反応。…でも、止めた」
男は「止めた」を繰り返し、手の甲を上にして差し出したまま待つ。待たれると女の呼吸が一つ落ちる。落ちた瞬間に“これならいける”が立ち上がりそうになって、立ち上がりかけたその瞬間が一番危ないと分かって、女は自分に釘を刺すみたいに言った。
「いける、は言わない」
男が短く返した。
「うん。言わない」
夜、布団に入ると、装置の存在が肌の上に残る。残る存在は現実だ。現実は甘さを削る。削られると逆に、甘さが欲しくなる。欲しくなるのが怖い。怖いのに、男は手首へ寄せず、手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が長くなる。女の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間、装置がまた小さく震えた。震えは静か。静かな震えが、逆に残酷だった。
男が低い声で言った。
「……キス、今はやめる?」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く言う。
「短くなら、いい」
男の唇が女の唇へ触れる。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、装置がもう一度だけ震えた。震えたことが分かった瞬間、女の中の衝動が“証拠”を得たみたいに立ち上がりそうになって、女はすぐ言葉で止めた。
「衝動」
男が短く返す。
「衝動」
二人で同じ単語を置くと、震えが“恋の証拠”になりそうなのを、ただの反応に戻せる。戻せた瞬間、女は息を一つだけ吐けた。吐けた息が落ちる前に、男が低い声で続ける。
「俺さ、さっきの震え……嬉しいって思った」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。男が急いで言葉を追加しない。追加しないのが、今日の優しさだ。女は押し返した息の隙間で、短く返した。
「嬉しい、は危ない」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「分かってる。…でも俺、終わりを理由にしてたくせに、今は“続きたい”って思った。だから怖い」
女は“怖い”を受け取る。勝ち負けにしない。救うために動かない。代わりに、手の甲に触れた圧を一定にして、言葉を短く落とした。
「怖い、って言っていい」
男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は目を閉じて、布団の縫い目を数え、数えるリズムで衝動を押し込んだ。
眠りに落ちる直前、男が小さく言った。
「明日、また震えたら……俺、ちゃんと書く」
女は短く返す。
「うん。…一回ずつ」
その“一回ずつ”が、今の二人の終盤の速度だった。進むけど、畳まない。詰めるけど、壊さない。冷蔵庫の封筒は、今夜もただそこに貼られている。読まなくていい紙が、読まずにいる二人を止めている。
朝、冷蔵庫の封筒は昨日と同じ位置に貼られていて、隣の斜めメモだけが増えていた。増えたメモの文字が、生活の中で勝手に呼吸の角度を決めようとしてくる。女は目線を外し、外した目線を床の目地へ落とした。落としただけで胸の内側が跳ねかけ、跳ねかけたのを唇を閉じて押し返す。押し返した息が喉に残る。残ると乾く。乾くと吸い直しが出る。女はそれを出さないように、指の腹で冷蔵庫の取っ手を一回だけ押し、硬さで自分を戻した。
隣で男が、胸の装置を服の上から一度だけ押さえた。押さえた圧は弱いのに位置が正確で、女はその正確さに胸が跳ねかける。跳ねかけた瞬間に“原因”を探したくなる。原因を探すと最短距離が立ち上がる。立ち上がった最短距離は、紙の向こう側へ繋がる。女は顎を引き、短く言った。
「今、鳴った?」
男は首を小さく振った。振る動きが遅れて息が詰まりかけ、男は自分で押し返してから答える。
「鳴ってない。でも、なんか…来そう」
“来そう”の言い方が、昨日までの男より正確で、女は腹の奥が熱を持ちそうになる。熱は危ない。女は熱を上げずに、男の手首ではなく手の甲へ指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなり、女の中の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間、女は面を広げそうになって止め、圧だけ一定にした。
そのまま朝の支度をして、二人はいつもの“短い生活”を積む。食器は揃えない。音は一定にしない。安心を作らない。安心が危ないからだ。危ないのに、安心は欲しくなる。欲しくなること自体が衝動の入口で、女は入口に立たないように、噛む回数を一定にした。
午前の終わり際、男の装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、部屋の空気が一段だけ硬くなる。硬くなると女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、言葉だけは短く落とす。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
男は手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。昨日までならそれで落ちるはずの呼吸が、今日は落ち切らない。落ち切らないと、女の中の癖が顔を出す。もっと正しく、もっと速く、もっと効率的に。つまり“勝ち”に行く。女はその癖を止めるために、口の中で一度だけ奥歯を噛み、短く言った。
「外」
男は頷きかけて止め、声で返す。
「外」
廊下へ出る。冷たい空気が喉を刺す。刺されると吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返し、床の継ぎ目を数える。数える。数える。男の吐く息は少し長くなるが、戻り切らない。戻り切らないまま、装置がもう一度震えた。震えが二回目になると、女の頭が勝手に“パターン”を作ろうとする。パターン化は対策になる。対策は最短距離になる。女は“対策”に行かないために、今できることだけを短くやる。
「電話」
男が先に言った。言った声が掠れているのに、言ったこと自体が今日の進歩で、女はそれを勝ちにしない。勝ちにすると、次の衝動の口実になる。女は短く「うん」とだけ落とした。
女医は二回で出た。男が説明を短くする。「朝から二回。外に出ても戻り切らない」。女医の声は間を伸ばさない。「来られる?」「歩ける」「遅くていい。走らない。触れ合いは、今は手の甲まで」。通話が切れたあと、男が息を吐く。短い。短いのに、さっきより少しだけ落ちる。落ちた隙間で男が低い声で言う。
「俺、今、怖いって言う前に電話できた」
女は頷かず、短く返した。
「できた」
病院では、女医が処置室に通した。波形を見て、短く言う。「回数が増えてる。悪化とは限らない。慣れが崩れた可能性もある。でも放置はしない」。放置しない、の言い方が医者の責任の形で、女はその硬さが少しだけ羨ましい。
女医は封筒とは別の紙を一枚だけ出した。角が揃っている。女は見ない。見れば揃えたくなる。女医は紙を読ませずに、内容だけを口で置く。
「追加ルール。今日から二十四時間、“触れない”。手の甲も禁止」
男の息が止まる。止まったあと短く吐く。短い吐き方が張りの形で、女は反射で手を伸ばしそうになって止めた。止めた瞬間、女の中で嫌なことが確定する。二人のブレーキは触れることだった。触れないは、ブレーキを外すに近い。外した状態で衝動と向き合うのは、危ない。危ないのに、女医は続ける。
「目的は二つ。ひとつ、触れ合いがどれだけ反応のトリガーになってるかを見る。もうひとつ、あなた達が“触れない止め方”を作れるかを見る。触れ合いを悪者にしない。でも、触れ合い一本で支えると、依存に変わる」
男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。
「俺ら、触れないと止まれない」
女医は言い切る。
「だから今、練習する」
女はそこまで黙っていた。黙っていると、頭が“最短距離”を探し始める。探し始めた瞬間に、勝ち癖が「じゃあ手術だ」と囁く。女はそれが怖くて、言葉を短く割って出す。
「触れないと、怖い」
女医は女を見て、追い詰めない声で短く返した。
「怖い、でいい。怖いのまま、手順を増やす」
増やす。増やすという単語が、女の中の努力癖と同じ方向を向いている。向いているのに、今日は“勝つために増やす”じゃない。“壊さないために増やす”だ。女はその違いを胸の中で一度だけ確かめ、顎を引いて息を押し返した。
帰り道、二人は並んで歩いたが、手は繋がない。繋がないだけで、歩幅が揃いにくい。揃いにくいと呼吸が浅くなる。浅くなると胸が跳ねる。女は歩道の継ぎ目を数え、男は目線を前に固定した。固定した目線の先で、男の喉が何度か動く。言いたい言葉があるのに、乾くのを怖がっている動きだった。
部屋に着いて、冷蔵庫の封筒が目に入る。今日から、触れない。紙は止め方の事実になる。事実があると、女の中の衝動が最短距離を探しやすくなる。女はそれを止めるために、机に新しいメモを置いた。斜めに置く。「触れない=ブレーキ練習」。それだけ。勝ち負けは書かない。
男が低い声で言う。
「今日、どうやって止める」
女は“手の甲”と言えない。言えば触れたくなる。触れたくなると衝動が立つ。女は短く答えた。
「言葉」
男が「言葉」を繰り返す。「止める、外、電話」。女は頷きかけて止め、声で返す。
「あと、合図を一個増やす」
「何」
女は一拍だけ迷った。迷うと熱が立つ。熱が立つと最短距離が立つ。女は迷いを短く切って落とす。
「白紙」
男が眉を少し動かす。
「白紙?」
女は頷かずに言う。
「衝動が勝ち負けを探し始めたら、“白紙”。その場で全部白紙にする。正しさも、効率も、最短距離も。今は白紙」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「それ、俺に効きそうだな」
女はその“効く”を勝ちにしない。短く返す。
「効かなくても、白紙」
夜、布団に入っても手は触れない。触れないだけで、二人の間の空気が薄くなる。薄いのに重い。重いから、余計に欲が立つ。欲が立つ瞬間に、女は胸の中で言葉を準備する。準備は勝ち癖の得意技だ。得意技を、今日は壊さないために使う。
装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、声だけ落とした。
「白紙」
男が一拍遅れて、同じ言葉を置く。
「白紙」
触れないまま、同じ言葉を置けた。置けた事実だけが、今夜の一歩だった。女はその一歩を、勝ちにせず、ただ積む。一回ずつ。数十回で。確実に詰める。
朝、女は目を開けた瞬間に「触れない」の文字が先に浮かび、浮いた瞬間に喉が乾いた。乾くと吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、布団の縫い目を数えた。数えるリズムの中で、胸の内側の速さが耳に刺さらない形を探す。隣の男は起きていた。起きているのに動かない。動かないのに、手が探すみたいに布団の上を一度だけ滑って止まる。止まった場所は、女の手の甲に届く距離だった。
届く距離が、いまは一番怖い。
男は手を引っ込める代わりに、手のひらを上にして握り込み、指先の力を抜こうとして抜けないまま、低い声で言った。
「白紙」
女は返事を短く落とした。
「白紙」
同じ言葉が並ぶと、届く距離が“ただの距離”に戻る。戻った隙間で女は息を一つだけ吐けた。吐けた息が落ちる前に、男が視線を女の喉へ落としかけて、落とさないように逸らす。逸らす動きが慎重で、女はその慎重さに救われそうになる。救われるのは危ない。救われると欲が立つ。女は床の目地へ目を落とし、短く言った。
「起きる。近づかない」
男も短く返す。
「うん。近づかない」
台所では、コップを二つ出した。距離を揃えない。揃えると安心になる。安心は危ない。女はわざと片方を少し遠くに置き、遠い方が男の手元に来るようにした。男はそれを見て笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「俺、今、“優しい距離”って言いそうになった」
女はすぐ言葉で止める。
「白紙」
男が「白紙」と繰り返し、喉が一度だけ動いて乾いた音が小さく出る。女はその乾きを見ないふりをして、水を注ぐ角度だけ一定にした。音を一定にしすぎない。一定は安心になる。安心は危ない。今日の生活は、全部が微妙だ。
午前の途中、装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉だけを先に落とした。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
ここで手の甲が使えない。使えないから、男は一歩下がった。下がる動作が“外”の代わりになる。女も一歩下がる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。刺されると吸い直しが出る。女は押し返しながら、床の継ぎ目を数えた。数える。数える。数える。男の吐く息が短くなり、短くなった息が続くと肩が上がる。上がる肩を見ると、女は触れたくなる。触れたくなるのが衝動だ。
女が短く言う。
「白紙」
男が一拍遅れて同じ言葉を置く。
「白紙」
言葉が合うと、肩が少し落ちる。落ちた分だけ男の吐く息が一拍だけ長くなる。完全には戻らない。戻らないのに、手を伸ばしてはいけない。女はその代わりにメモ帳を開き、ペンを持って、字を整えようとして止めた。整えると安心になる。安心は危ない。女は斜めのまま書く。「午前 震え 距離二歩 白紙」。それだけで、衝動が“外側”へ逃げる。逃げた隙間で女は息を一つだけ吐けた。
男が低い声で言う。
「触れないの、きついな」
女は“きつい”を否定しない。否定すると勝ち負けになる。短く返す。
「きつい。……でも、今だけ」
男が「今だけ」を繰り返し、喉がまた一度だけ乾いた音を出す。その乾きが、終わりを理由にしてきた人間の乾きだと女は思ってしまう。思ってしまうと胸が熱を持つ。熱は危ない。女は釘を刺すみたいに言った。
「白紙。理由、作らない」
男が小さく頷き、頷きが遅れて息が詰まりかけて、自分で押し返す。押し返してから言う。
「うん。理由にしない。……ただ、好きでいる」
好き、が来ると女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、距離を保ったまま、言葉を短く落とす。
「私も。……距離あっても、いなくならない」
男がその一言で目を伏せ、伏せた目がすぐ戻り、戻った目が女の喉へ落ちかけて止まる。止める動きが慎重で、女はその慎重さに救われそうになって、救われる前に自分で息を吐いた。
午後、女医から一度だけ連絡が来た。「震えの回数と、状況だけ報告」。男が自分の口で短く送る。「午前に一回。距離二歩と白紙で戻る」。送信のあと、男の肩が少しだけ落ちる。落ちた肩を見ると女の胸が跳ね、女は反射で一歩下がって、床の継ぎ目を数えた。数えることで、触れたい気持ちを“動作”に変える。今日の新しい止め方だ。
夜、布団に入る前に、男が低い声で言った。
「明日、触っていいって言われたら……俺、嬉しいって思う」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く返した。
「嬉しい、は危ない。……でも、嬉しい」
男が一拍黙ってから、息を吐く。少し長い。長い息の後、男が言う。
「じゃあ、嬉しいって言ったら白紙にする?」
女は首を小さく振った。
「白紙にしない。……嬉しいを、衝動にしないだけ」
男が小さく「うん」と返す。その返事が、今日いちばん恋っぽかった。触れないのに、同じ方向に立っている感じがする。感じた瞬間に女の中の速さが立ち上がりそうになって、女は自分で短く言った。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
触れないまま、言葉だけで止まれた。止まれた事実だけを、冷蔵庫の封筒の横に積む。今日も一回ずつ。畳まない。けれど、確実に終盤へ向けて、詰めていく。
朝が明るくなるにつれて、「触れない」のルールが“我慢”じゃなく“設計”として部屋に馴染んでいくのが、女は少しだけ腹立たしかった。馴染むのは、慣れるのは、勝手に進む。勝手に進むものは、努力の手触りがない。努力の手触りがないと、女の中の癖が空振りして、空振りした手が次の的を探す。次の的が“最短距離”に触れそうになって、女は冷蔵庫の扉を一度だけ押し、硬さで戻した。
男は黙っていた。黙っているのに、喉が何度か動く。言いたい言葉があるときの喉だ。言いたい言葉があるほど、胸の装置が気になる。気になるほど、触れたくなる。触れたくなるのが衝動だと分かっているから、男は視線を封筒に向けない。向けないまま、低い声で言った。
「今日、何時までだっけ」
女は答えを短く切る。
「夕方。…二十四時間」
男が「夕方」と繰り返し、そこで息を少しだけ長く吐く。長い吐息が出ると、女の胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間に、女は“手の甲”へ行きたくなる。行きたくなるのを、女は言葉で止めた。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
言葉が合っただけで、距離が“ただの距離”に戻る。戻った隙間で女は息を一つ吐ける。吐けたことが悔しいのに、悔しさを武器にしない。悔しさは、今日のブレーキにする。
午前は静かに過ぎた。静かに過ぎるほど、細部が目につく。男の指先が装置を避ける角度、女が皿を揃えないように置いたズレ、冷蔵庫の封筒の端の反り。どれも“止めるための生活”で、止めるための生活が生活になっていくのが、逆に怖い。怖いのに、言葉にすると乾く。乾くと浅くなる。浅くなると速さが立つ。女は言わず、ただ噛む回数を一定にした。
昼前、装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、空気が一段硬くなる。硬くなると女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、言葉だけ先に落とした。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
二人は同時に一歩下がる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。刺されると吸い直しが出る。女は押し返しながら、床の継ぎ目を数えた。数える。数える。数える。男の吐く息が短くなり、短い吐き方が続くと肩が上がる。上がる肩を見ると、女は“助ける動作”を探してしまう。助ける動作は、触れることだった。触れられない。触れられないと分かった瞬間、女の中の癖が別の解決を探す。
解決=最短距離。
その入口に足が掛かりかけて、女は言葉で床を抜いた。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
“白紙”が揃うと、男の肩が一段落ちる。落ちた肩に引っ張られて吐息が少し長くなる。完全には戻らないが、完全を目標にすると勝ち癖が起きる。女は完全を目標にしない。代わりにメモ帳を開き、斜めに書いた。「昼前 震え 距離一歩 白紙」。書くことで衝動が外へ逃げ、逃げた隙間で女の呼吸が一つ落ちる。落ちたのが悔しい。悔しいのに、悔しさが今日も助けになる。
男が低い声で言った。
「俺、今…触れなくても、戻れた」
女は“戻れた”を勝ちにしない。短く答える。
「戻った。…一回」
男が一拍だけ黙り、黙ったまま目線を前へ固定する。固定した目線の先で、男の喉が動く。言いたい言葉が出かけて止まる。止まった言葉が、次に出るときは強くなる。強い言葉は危ない。女は先に、短く言った。
「言っていい。短く」
男が低い声で落とす。
「手、欲しい」
女の胸の内側が跳ね上がる。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。押し返した息の隙間に、女は短く返した。
「私も」
二人の“欲しい”が並ぶと、衝動が立つ。立つのに、触れない。触れないまま立った衝動を、どう扱うかが今日の練習だった。女は自分に釘を刺すように言う。
「衝動。…でも、今は触れない」
男が「うん」と返し、その返事が少し掠れている。掠れは乾きの形だ。乾きが見えると、水を出したくなる。水の音を一定にしたくなる。一定は安心になる。安心は危ない。女は水を出さず、ただコップを机の上へ置いた。距離は揃えない。揃えないまま、男の方へ少しだけ押し出す。押し出す動作が“触れない優しさ”になって、女はその言葉を付けそうになって止めた。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
夕方が近づくにつれて、男の装置が存在感を増した。存在感が増すほど、二人の会話が“テスト”みたいになる。テストは勝ち負けを呼ぶ。勝ち負けは衝動の口実になる。女はテストにしないために、わざとどうでもいい話題を一つだけ落とした。
「夕方、病院行く前に…飯、どうする」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「そこに逃げるの、助かる」
助かる、が恋っぽく聞こえて、女の胸が跳ねる。女は跳ねを押し返して、短く返す。
「逃げじゃない。…生活」
男が「生活」を繰り返し、吐息が少し長くなる。長い吐息が出ると、女の中の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間に“触れたい”が湧く。女は視線を床へ落とし、落としたまま言った。
「終わったら、どうなるか…医者が決める」
男が低い声で言う。
「俺は、決めていい?」
女は“いい”と即答したら、男が安心してしまうのが怖かった。安心は危ない。安心が“いける”を呼ぶ。女は短く切る。
「決めていい。…でも、嬉しいって言ったら、衝動扱い」
男が小さく息を吐く。少し長い。
「嬉しい」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く返す。
「衝動」
男も短く返す。
「衝動」
言葉が合っただけで、今夜までの距離が保てる。女はそれを“上手くいった”にしない。上手くいったは勝ちの匂いがする。勝ちは次の口実になる。女はただ、時計を見る。夕方の針が近づく。
病院へ向かう直前、男が玄関で靴を揃えかけて止めた。揃えると安心になる。安心は危ない。男は揃えないまま、低い声で言った。
「今日、触れないで過ごしたの…俺、きつかった。でも、良かった」
女は“良かった”を勝ちにしない。短く返す。
「良かった、は結果じゃない。…事実」
男が頷き、頷きが遅れて息が詰まりかけて、自分で押し返す。押し返したあと、男が言う。
「終わったら、まず何したい」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、言葉を短く切った。
「手。…でも、手の甲から」
男の唇が笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「俺も。…手の甲から」
その同意が、恋の形だった。触れていないのに、同じ順番を選べる。女はその事実を胸の中へ置き、置いたまま、冷蔵庫の封筒を一度だけ見た。見ただけで胸の内側が跳ねかける。跳ねかけたのを押し返し、女は玄関の外へ出る。
二十四時間の終わりは、今日の終わりじゃない。
ただ、“触れない”という一本足の椅子から降りて、次の足を増やすだけ。
増やし方を間違えなければ、終盤へ向かって詰めていける。
病院へ向かう道は、いつもより短く感じた。短いのに、触れない二十四時間の終わりが目の前にぶら下がっているせいで、歩幅の揃え方がぎこちなくなる。男は半歩前に出ないまま、でも手が勝手に女の手の甲の位置を探しそうになって、探しそうになった瞬間に指を握り込んで止めた。女はその握り込みを見て喉が乾き、乾きを押し返すために歩道の継ぎ目を数えた。数えるたびに胸の内側が跳ねかけるのに、跳ねかけたところで“触れない”が先に来て、先に来たルールが逆に衝動を煽る。
検査棟の入口で自動ドアが開く。消毒の匂いが刺さる。刺さると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、短く言った。
「白紙」
男も同じ言葉を置く。
「白紙」
二人で同じ単語を置くと、入る足が揃う。揃った足取りのまま受付を済ませ、呼ばれて小さな面談室へ入ると、女医が先に座っていた。白衣の袖口が整い、ファイルの角が揃っている。女は角を見ない。見れば揃えたくなる。揃えたくなると勝ち癖が起きる。女は膝の上で親指の腹を押し、硬さで戻した。
女医は挨拶を伸ばさずに言う。
「二十四時間、完走した?」
男が一拍置き、その一拍で息を押し返してから答える。
「した。触れてない」
女医は頷かない。褒めもしない。事実だけを並べる声で続けた。
「記録、見た。震えは二回。触れない状態でも出た。つまり、触れ合いはトリガーになり得るけど、原因の全部ではない。あなた達の“期待”と“警戒”が、同じ場所で心拍を揺らしてる」
女の胸が跳ねる。“期待”は恋の言葉なのに、ここでは症状の言葉だ。女は喉が狭くなるのを押し返して、短く言う。
「触れない方が、怖かった」
女医は視線を女の喉へ落とさず、淡々と言った。
「当たり前。触れ合いがブレーキになってたから。ブレーキが一本足だと、一本折れた瞬間に転ぶ。だから足を増やす。今日は“触れる”を戻す。ただし、戻し方を決める」
男の息が一度だけ止まり、止まったあと短く吐く。短い吐き方に女の胸が跳ねかけ、女は唇を閉じて押し返した。女医は紙を一枚だけ机に置く。角が揃っている。女は見ない。女医は読ませずに口で置く。
「接触プロトコル。触れていいのは三つの場面だけ。①挨拶、②不安定時の“止める”の直後、③就寝前。触れる場所は手の甲のみ。時間は“三呼吸”。三呼吸が終わったら離す。離して、言葉で“今ここ”を確認する。キスは禁止。抱き締めは禁止。理由は簡単。今は衝動と恋が同じ速度で走るから」
男が低い声で聞く。
「三呼吸って……短い」
女医は即答した。
「短くていい。短いのに戻れる、を体に覚えさせる。長い接触は、安心を作る。安心は“いける”を作る。“いける”はあなた達にとって最短距離の入口になる」
女の腹の奥が熱を持つ。“いける”が自分の癖だと、医者に言われる形で確定するのが悔しい。悔しいのに、悔しさが今日のブレーキになる。女医は男へ視線を移す。
「あなたの方は、波形の乱れが“増える方向”に寄ってる。悪化と断言はしない。でも放置はしない。追加検査を組む。今日はその前に、あなた達の生活の止め方が機能している事実を確保する」
男が一拍黙ってから言う。
「俺、我慢して帰らないのは出来た」
女医は頷かないまま言う。
「次もそれ。あなたが“嫌だ”と言えるのは良い。嫌だは生きたいの裏返し。ただし、嫌だを“何もしない理由”にしない」
女医の言葉が終わって、部屋の空気が一拍だけ静かになる。静かになると、二人とも同じことを思う。触れていい。手の甲だけ。三呼吸だけ。短いのに、今日の世界の中心みたいに重い。男が言葉を探し、探したまま止まる。止まった言葉が乾きに変わりそうで、女は先に短く言った。
「今、ここで、やる?」
女医が淡々と言う。
「やる。練習。私の前で」
男が手首へ行かないように、手を膝の上で握り込んでから、ゆっくり手の甲を上にして差し出した。女はそこへ指先を置きかけて止める。止めた瞬間、胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、決めた手順を言葉にする。
「止める。……三呼吸」
男が低い声で繰り返す。
「三呼吸」
女は男の手の甲へ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れた瞬間に胸の内側が跳ね上がり、女は鼻で短く吸いかけて止める。止めた息を落とす場所を探して、探して、女は呼吸を数える。ひとつ。男の吐く息が少し長くなる。ふたつ。女の速さが一拍遅れる。遅れたのが悔しくて面を広げそうになり、広げずに圧だけを一定にする。みっつ。女は指先を離す。離した瞬間、喉が乾く。乾きを押し返して、言葉を置く。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
女医はそこで初めて、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「それ。短いのに戻れる、を積む。今日からまた記録。衝動が勝ち負けを探し始めたら“白紙”。白紙は続けていい。ただし、白紙を合図に触れるのは禁止。白紙は距離を取る合図にする」
帰り道、病院の外気が刺さっても、二人はさっきの三呼吸を体の中でなぞれるようになっていた。玄関を出てすぐ、男が立ち止まる。止まった一拍が長い。長いと衝動が顔を出す。男は言葉を短く落とした。
「……もう一回、挨拶」
女は頷かずに答えた。
「三呼吸」
男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ。ふたつ。みっつ。離す。離したあと、二人は同時に言う。
「今、ここ」
短い。足りない。足りないのに、足りないまま止まれるのが、今日の一歩だった。
部屋へ戻る道で、女は自分の胸の内側が「三呼吸」を勝ち負けに変換しようとしているのを感じて、腹の奥がむっと熱くなった。短い接触で戻れた、は本来ただの事実なのに、事実が増えると女の癖はすぐ「効率化」に走る。効率化は最短距離を呼ぶ。最短距離の先には、紙の向こう側がある。女は歩道の継ぎ目を数え、数えるたびに喉の手前で息を押し返した。男は半歩前に出ない。出ないまま、手の甲を探しそうになる指を握り込み、握り込みが強くなりすぎないようにほどく。そのほどき方が妙に丁寧で、女はそれを“恋”と呼びたくなって、呼びたくなった瞬間に「白紙」を喉の奥で転がした。
玄関の前で男が立ち止まる。止まった一拍が長い。長いと衝動が立つ。衝動が立つと女は触れたくなる。触れたくなるのを先に言葉へ逃がして、女は短く言った。
「挨拶、する?」
男が低い声で返す。
「三呼吸」
男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女は指先を離す。離した瞬間に喉が乾く。乾きを押し返して、二人は同時に置いた。
「今、ここ」
短いのに、玄関の鍵より先に“帰宅”が成立した気がした。成立した、と思った瞬間が危ない。女はその気配を自分で潰すように、靴を揃えかけた指を止め、止めた指先の熱を床へ押し付けた。
冷蔵庫の封筒はまだ貼られている。隣の斜めメモも増えている。今日からさらに「接触プロトコル」の紙が増える。紙が増えると、最短距離も増える。女は紙を“読む”誘惑を避けるために、封筒の前を通る動線を少し変え、代わりに机の端へ小さなカードを二枚置いた。カードには太い字で「白紙」「今、ここ」。角度は揃えない。揃えたら安心になる。安心は危ない。
男がそのカードを見て、小さく笑いかけて笑いが出ないまま言った。
「これ、修行道具みたいだな」
女は“正しい”に寄せない。短く返す。
「道具。…勝ち負けにしない道具」
男が「勝ち負け」を繰り返し、喉が一度だけ乾いた音を出す。乾きの音が出ると、女は水の音を一定にしたくなる。一定は安心になる。安心は危ない。女は蛇口をひねらず、代わりにコップを机に置いた。距離は揃えない。揃えないまま男へ押し出す。押し出した動作が“触れない優しさ”に見えて、女はまた「白紙」を胸の中で言う。
夕飯は簡単にした。簡単にした瞬間、女の中の癖が「負け」を探す。探した瞬間に「勝てる形」が立ち上がる。立ち上がる前に女は噛む回数を一定にして、衝動を“動作”に変えた。男は食べながら、胸の装置を避ける角度で呼吸をしている。避ける角度が自然になりすぎて怖い。怖いのに、怖さを言葉にすると乾く。乾くと浅くなる。女は言わずに、箸先の置き方をわざと乱して視線を皿の縁から外した。
片付けの前、男が低い声で言う。
「就寝前、三呼吸、だよな」
女は頷かない。頷くと息が詰まる。短く返す。
「うん。…でも、今は挨拶の枠はもう使った」
男が一拍黙り、黙ったまま吐く息が少し長くなる。長い吐息が出ると女の速さが一拍遅れ、遅れた瞬間に女は触れたくなる。触れたくなるのを、女は先に言葉へ落とした。
「白紙」
男もすぐ置く。
「白紙」
二人の“白紙”が揃うと、就寝前までの時間が“ただの時間”に戻る。戻った隙間で、男が低い声で言った。
「俺さ、今日……三呼吸で離されたの、良かった。でも、離された瞬間、怖かった」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから短く返す。
「私も。…離すの、怖い」
男の目が一瞬だけ揺れ、揺れた目が女の喉へ落ちかけて止まる。止める動きが慎重で、女はその慎重さに救われそうになって、救われる前に息を短く吐いた。
夜、布団に入る。就寝前の枠。男が手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女が離す。離した瞬間、女の指先が“もう一呼吸”を求めて勝手に戻りそうになって、女は戻しそうになった指を握り込み、握り込みの強さを床の硬さへ逃がす。逃がした瞬間、男が低い声で言った。
「今、ここ」
女も置く。
「今、ここ」
短い接触のあと、短い言葉。これが今日の設計。設計を守れたのに、女の胸の奥には悔しさが残る。悔しい。悔しいと勝ちたくなる。勝ちたくなると最短距離が立つ。女はその連鎖を止めるために、カードの「白紙」を指で一度だけ押した。押す圧は弱い。弱いのに、指先の熱が少しだけ落ちた。
その直後、男の装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、二人の空気が一段硬くなる。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉だけ先に落とした。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
ここで触れない。触れるのは“止める直後だけ”の枠に入っているのに、今触れたら「安心」を作る。安心は“いける”を作る。“いける”は最短距離の入口になる。女は触れないまま、距離を一歩下げた。男も一歩下げる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は押し返しながら、床の継ぎ目を数えた。数える。数える。数える。
男の吐く息が短くなる。短い吐息が続き、肩が上がりかける。上がりかけた肩を見て、女の中の衝動が「触れろ」と叫ぶ。叫びを聞いた瞬間、女はカードを見た。カードの字は太い。「白紙」。女は声だけ落とした。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
言葉が揃うと、男の肩が一段落ちる。落ちた隙間で、女はメモ帳を開き、斜めに書く。「就寝前 接触三呼吸→震え→距離一歩→白紙」。書いた瞬間、衝動が“外側”へ逃げ、女の呼吸が一つだけ吐けた。吐けたのが悔しい。悔しいのに、その悔しさが今日のブレーキになる。
男が低い声で言った。
「さっき、触れたくなった?」
女は嘘をつかない。短く答える。
「なった。…でも、触れたら安心になる。安心は危ない」
男が一拍黙ってから、少し長く息を吐いた。
「安心が危ない、って恋愛で言う言葉じゃないな」
女はそこで、ほんの少しだけ笑いそうになって止めた。笑うと呼吸が乱れる。乱れると速さが立つ。女は短く返す。
「だから、悲愛」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「それ、言い得てる」
装置の震えが落ち着き、二人の呼吸も戻る。戻ったところで、男の端末が一度だけ震えた。通知。女医からだ。男が画面を開き、短く読む。
「明日朝一、追加検査。今日の就寝前の震え、記録に出てる」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男が低い声で言った。
「増えてるな」
女は勝ち負けにしない。短く返す。
「増えてる。…だから、放置しない」
男が一拍黙り、黙ったまま、手の甲を上にして差し出しそうになって止める。止めたまま、低い声で言った。
「明日、怖いって言う前に行く」
女は頷かず、短く答えた。
「行く。…今は寝る。今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
短い言葉で夜を閉じる。触れられるのに触れない。触れられないのに言葉で止める。矛盾だらけの生活が、終盤へ向かうための“足”になっていく。足を増やせば、最短距離は遠ざかる。遠ざかった分だけ、二人は長く苦しめる。それが悲愛の残酷さで、同時に恋の延命でもある。
翌朝、男は目覚ましが鳴る前に起きていた。起きているのに動きが遅い。遅いのは落ち着きじゃなく、慎重さの方だった。胸の装置がまだ貼られていて、貼られている事実が「寝ている間の震え」を確定させる。確定が怖い。怖いのに、怖いと言う前に行くと昨夜言った。男はその言葉だけを握り込み、握り込んだ指が手の甲を探しそうになるのを、布団の端の硬さへ押し付けて止めた。
女は起き上がりながら、喉の手前で息を押し返した。押し返しが昨日より一拍だけ浅い。浅いと胸の内側が跳ねる。跳ねると「最短距離」が立つ。立つ前に、女は机のカードを見た。太い字の「今、ここ」。女は声を落とす。
「今、ここ」
男も同じ言葉を置く。
「今、ここ」
言葉が揃うと、朝の支度が“ただの支度”になる。女はコップを二つ出し、距離を揃えない。揃えないまま、水を注ぐ角度だけ一定にする。一定にしすぎない。安心を作らない。男は飲み込む喉の動きをゆっくりにして、ゆっくりのまま短く言う。
「怖いって言う前に行く」
女は頷かない。頷くと息が詰まる。短く返す。
「行く。…挨拶、三呼吸」
病院の入口で、二人は立ち止まった。消毒の匂いが刺さる。刺されると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、男の手の甲へ指先を置く。ひとつ。男の吐く息が少し長くなる。ふたつ。女の速さが一拍遅れる。みっつ。女が離す。離した瞬間に喉が乾く。乾きを押し返して、二人は同時に言う。
「今、ここ」
受付を済ませ、検査棟の待合で呼ばれるのを待つ間、男の胸の装置は外されなかった。外されないのは「まだ測っている」という意味だ。意味があるほど、男の喉が動く。言葉が出かけて止まる。止まるたび、女は“止める”を言いそうになって、その衝動を床の目地を数える動作へ変えた。数える。数える。数える。触れて止めるのは、今は必要な時だけ。必要を勝手に増やすと依存になる。
呼ばれて検査室へ入ると、女医がいた。白衣。袖口が整い、視線が男の喉へ落ちてすぐ外れる。外れ方が早い。女医は男の肩と呼吸だけを見る。肩が少し上がっている。吐く息が短い。女医は挨拶を伸ばさずに言った。
「追加検査。順番に。今日は“刺激”を避ける。焦らせない」
男が「うん」と短く返し、返したあとで喉が乾いた音を小さく出す。女医はそれを追わない。追わないまま、まず装置のデータを確認し、短く説明する。
「夜の震えは、記録に出てる。回数が増えてる。種類も増えてる。今のところ“危険”と断言はしない。でも、放置はしない」
放置しない、の言葉が机に落ちる。落ちた言葉が重い。女の胸が跳ねかけ、女は唇を閉じて押し返した。男は「嫌だ」と言わない。言えば逃げになるのを知っているから、代わりに短く聞く。
「何する」
女医は淡々と言う。
「心エコーの追加。採血。負荷はやらない。あと画像。心筋の状態を見る。原因が“ストレスだけ”に見えないから」
原因がストレスだけに見えない、は、世界が狭くなる言葉だった。男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男はその乾きのまま、短く言った。
「怖い」
女医は頷かない。褒めもしない。短く返す。
「怖いでいい。怖いままやる」
検査が始まると、男は言われた通りに“焦らない”を守ろうとする。守ろうとするほど呼吸が短くなる。短くなると肩が上がる。肩が上がると、女は触れたくなる。触れたくなるのが衝動だ。女は衝動を口にしない代わりに、手の甲の三呼吸を思い出して、指先の感覚を自分の中だけで再生した。再生した感覚は“触れずに止める”の練習になる。
心エコーの最中、男の体は動かないのに、波形が一度だけ乱れた。乱れたのは短い。短いのに、機械の音が一段だけ変わる。変わった瞬間、女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、声だけ落とした。
「白紙」
男が聞こえるくらいの小ささで返す。
「白紙」
言葉が揃うと、乱れが“今の出来事”に戻る。戻らないと、乱れが“未来”になる。未来になると最短距離が立つ。女は未来にしない。白紙にして、今の検査へ戻す。
検査が終わり、面談室へ戻る。女医はモニターの画面を一度だけ見てから、二人を見る。見る視線が、医者の視線だった。感情じゃなく運用の視線。女はその運用が少しだけ羨ましくて、羨ましいと腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は親指の腹を押し、硬さで戻した。
女医が言う。
「短い乱れが出た。昨日までの“生活の止め方”は効いている。でも、それと別に、心臓そのものの負担が増えている可能性がある。今日の画像で、そこを詰める」
男が低い声で言った。
「詰めるって…悪い方に?」
女医は言葉を濁さない。ただ、決めつけもしない。
「悪いと決めない。良いと決めない。事実を詰める。あなた達は、決めたがる癖がある。決めたがると最短距離が立つ。今日は最短距離にしない。検査で事実を出す」
女の喉が狭くなる。最短距離を止めるために、女は短く言った。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
次の画像検査の前、男は待合の椅子に座った。座っているのに肩が硬い。硬い肩を見ると女の胸が跳ね、女は触れたい衝動が立つ。立つ衝動を“必要”に変換しない。女は口を開き、短く聞いた。
「挨拶、もう使った。…止めるが必要?」
男は一拍置いて、自分で息を押し返してから答える。
「今は…必要じゃない。…ただ、怖い」
女は短く返す。
「怖い、でいい」
言っていい、ではない。女は“許可”にしない。二人の事実にする。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は目線を床の目地へ落とし、数え始めた。
画像検査の呼び出しが来て、男が立つ。立った瞬間、男の足元が一拍だけぐらついた。ぐらつきは小さい。小さいのに、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返す前に、男が自分で言う。
「止める」
女は返す。
「止める」
女医が近づく。近づき方が速いのに、触れない。触れないまま男の前へ立ち、短く指示する。
「座る。水、少し。冷やさない。呼吸、鼻。止めない」
男が座り、唇を閉じて押し返す。女は手を伸ばさない。伸ばすと安心を作る。安心は危ない。女は代わりに、男の視界に入る位置にカードを置く。太い字の「今、ここ」。男の目がカードに一瞬だけ留まり、留まった隙間で吐く息が少し長くなる。
女医が言う。
「今日の検査はここまでを一続きにする。あなたの体は、緊張から回復するのに時間がいる。時間がいることを“弱さ”にしない。運用にする」
運用にする、は、女に刺さる言葉だった。女の中の努力癖が「勝てる形」に変換しそうになって、変換する前に女は自分で言った。
「白紙」
男が一拍遅れて置く。
「白紙」
白紙にしたから、今は“検査を受ける”だけになる。検査の結論は、まだ出ない。出さないのが正しい。出した瞬間に最短距離が走るからだ。
帰り際、女医が最後にだけ低い声で言った。二人に聞こえるように、でも余計な人には聞こえないように。
「私は準備はしている。でも、準備を“決行”にしない。あなた達が壊れない形しか取らない。だから、今日の事実を持って帰って。…今日の事実は、“我慢しなかった”と“止められた”」
男が小さく「うん」と返し、返した声が掠れている。女はその掠れを“終わり”に繋げない。繋げたくなる衝動を、カードの文字で押し返す。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
帰り道の空気は冷たかったのに、二人の足取りは昨日より揃っていた。触れていないのに揃う。揃うのに、安心しない。安心が危ないから。終盤へ進むために、今日も一回ずつ、確実に詰めていく。
帰り道、男は「歩ける」と言った通りに歩いた。歩けているのに、肩が落ち切らない。落ち切らない肩は、息の短さを隠すために固まっている形で、女はそれを“根性”と呼びたくなくて、歩道の継ぎ目を数えた。数えるリズムに呼吸を押し込む。押し込むと胸が苦しい。苦しいと、最短距離が頭を出す。頭を出した瞬間に、女はカードの文字を思い出す。
――今、ここ。白紙。
部屋に着く直前、男が玄関前で止まった。止まった一拍が長い。長いと衝動が立つ。衝動が立つと触れたくなる。触れたくなるのを、女は言葉に変えた。
「挨拶」
男が低い声で返す。
「三呼吸」
男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ。男の吐く息が少し長くなる。ふたつ。女の速さが一拍遅れる。みっつ。女は離す。離した瞬間に喉が乾く。乾きを押し返して、二人で置く。
「今、ここ」
鍵を開けて中へ入ると、冷蔵庫の封筒と斜めメモが視界に刺さった。刺さると胸の内側が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、動線をずらして机へ向かった。机の上にカードが二枚。「白紙」「今、ここ」。角度は揃えない。揃えたら安心になる。安心は危ない。
男は上着を掛ける前に、胸の装置を服の上から一度だけ押さえた。押さえた圧は弱いのに位置が正確で、女の胸が跳ねかける。跳ねかけた瞬間に“原因”を探したくなる。探すと最短距離が立つ。女は床の硬さへ親指を押し付けて戻し、短く聞いた。
「痛い?」
男は首を小さく振る。振りが遅れて息が詰まりかけ、男は自分で押し返してから言う。
「痛くない。……怖いだけ」
女は“言っていい”にしない。事実として置く。
「怖い。……分かった」
それだけ言うと、男の吐く息が少し長くなる。長くなると女の速さが一拍遅れる。遅れると触れたくなる。触れたくなるのを、女は台所へ逃がした。蛇口をひねりたい衝動を抑え、代わりにコップを二つ出して距離を揃えないまま置く。揃えないだけで指先が落ち着かない。落ち着かないのが悔しくて、女は机の端を見た。
カードの「白紙」。
男が背後で低い声を落とす。
「俺、さっきの検査のとき、ちょっとだけ思った」
女は振り向かない。振り向くと喉が乾く。短く返す。
「何」
「もし、俺がここで倒れたら、君、勝ちに行くだろ」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。勝ちに行く、という言葉が痛い。痛いのに正しい。女は嘘をつかない。短く言う。
「行く。……癖」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。
「癖が怖い。俺は、君に救われたいのに、救われ方で君を壊しそうになる」
女はその言葉を抱きしめたくなる。抱きしめると衝動になる。衝動になるのが怖い。女は抱きしめない代わりに、言葉を短く切った。
「壊れない形で救う。……今は運用」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「運用って、恋人が言う言葉じゃない」
女はそこだけ、息を短く吐いた。吐いた息が落ちる前に装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに空気が硬くなる。硬くなると胸が跳ねる。跳ねを押し返す前に、男が先に言った。
「止める」
女も返す。
「止める」
触れるのは“止める直後”の枠に入っている。入っているのに、今触れたら“安心”が出る。安心は“いける”を作る。“いける”は最短距離の入口になる。女は触れないまま一歩下がり、男も一歩下がった。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら床の継ぎ目を数える。数える。数える。数える。
男の吐く息が短くなりかける。肩が上がりかける。上がりかけた瞬間、女の中の衝動が叫ぶ。触れろ。今なら許されてる。叫びを聞いた瞬間に女はカードを見る。太い字の「白紙」。声だけ落とす。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
言葉が揃うと、男の肩が一段落ちる。落ちた隙間で吐く息が少し長くなる。戻り切らない。戻り切らないのに、触らない。触るのは“戻ったあと”にする。順番を守るのが今日の運用だ。女はメモ帳を開き、斜めに書く。「帰宅直後 会話→震え→距離一歩→白紙」。書いた瞬間、衝動が外側へ逃げ、女は息を一つ吐けた。吐けたのが悔しい。悔しいのに、その悔しさがブレーキになる。
男が低い声で言う。
「……今、触っていい?」
女は“欲しい”を否定しない。否定すると勝ち負けになる。女は短く答える。
「戻ってから。……今、戻った?」
男は自分の胸へ意識を向け、喉を一度鳴らしてから言う。
「少し。まだ完全じゃない」
「じゃあ、触らない」
言い切った瞬間、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返し、同時に悔しさを噛み殺した。男はその悔しさを責めない。責める代わりに、低い声で言う。
「ありがとう」
ありがとうが恋っぽい。恋っぽい言葉は危ない。危ないのに、危ないと言わずに、女は短く返す。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
そのタイミングで、男の端末が震えた。女医から。男が画面を開き、短く読む。読んだ瞬間、喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は画面を伏せ、声を落とした。
「画像、所見が出た。……今日中に電話。二人で、って」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。押し返しながら、カードの文字を目でなぞる。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
白紙にしても、現実は消えない。消えない現実を、最短距離にしない。女はそれだけに集中し、短く言った。
「電話、待つ。……待つ間は生活」
男が「生活」を繰り返し、吐く息が少し長くなる。その長い吐息が、今の男にとって一番の“生きたい”だった。女は触れたい衝動を飲み込み、飲み込んだまま、就寝前の枠を思い出す。
今夜は、三呼吸。
そして、言葉。
所見の話は、電話で聞く。聞いた後に壊れないように、今は壊れない準備だけを積む。
電話は、夕飯を“生活”として片付け終えた頃に来た。男の端末が震え、震えた瞬間に部屋の空気が一段硬くなる。硬くなると女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してからカードを見る。「今、ここ」。声だけ落とす。
「今、ここ」
男も同じ言葉を置いた。
「今、ここ」
その二つが揃ってから、男は通話を取った。スピーカーにして机の上に置く。置くと揃えたくなる。揃えたくなる衝動を女は親指の腹で押して潰し、机の端の斜めメモへ視線を落とした。女医の声が出る。いつも通り、間を伸ばさない声だった。
「画像の所見が出た。二人とも今、息を落とせる? 短くでいい」
男が一拍置き、その一拍で息を押し返してから答える。
「落とせる。…今、ここ」
女も短く言った。
「今、ここ」
女医はそれで進める。言葉を飾らないまま、事実だけを置く。
「あなたの心臓に、負担の増え方がある。筋肉の一部が硬くなっている所見。炎症か、過去のダメージか、どちらにせよ“ストレス反応だけ”では説明しきれない。短い乱れが増えたのは、その上に緊張が乗っている可能性が高い」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「嫌だ」と言わない。逃げにしないために、代わりに短く聞いた。
「今、どうなる」
女医は即答しない。即答すると最短距離が走るからだ。だから手順で答える。
「明日、追加の血液検査。炎症の指標、免疫の指標。薬の調整。生活のプロトコルは続ける。倒れる前に止められている事実は大きい。けれど“放置して良くなる”所見ではない」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、勝ち癖が「じゃあ手術」と囁きかける入口を、カードの文字で塞いだ。「白紙」。声だけ落とす。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
女医は続ける。声が少しだけ低くなる。責任の音だった。
「選択肢の話もする。今すぐ決めさせない。でも“考えない”も許さない。あなたは今、時間の使い方が変わった。終わりを理由にできない状態で延びる時間は、苦しい。苦しいまま、選択肢を机に並べる」
男の吐く息が短くなる。短くなりかけた瞬間、男が先に言った。
「止める」
女が返す。
「止める」
ここで触れない。触れたら安心が立つ。安心は“いける”を作る。いけるは最短距離の入口になる。女は一歩だけ下がり、男も一歩下がった。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は喉の手前で押し返しながら床の継ぎ目を数え、数えたリズムで息を戻した。男の吐く息が少し長くなったところで、女医が話を戻す。
「選択肢は三つ。ひとつは、薬と監視を強めて様子を見る。ふたつめは、移植評価を正式に進める。現実的には待機が長い。みっつめは……あなた達が一番考えている方法。私は口にすると衝動が走るから、今は名前を言わない。ただ“実験的手段”として机に置く」
女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。危ないのに、熱が立つのが“欲しい”の正体だと分かってしまう。女は熱を押し込めるために、短く言った。
「名前を言わない、で助かる」
女医は淡々と返す。
「助かるならそうする。私はあなた達を煽らない。煽らない代わりに、準備だけはしている。倫理委員会、手技、シミュレーション。あなたが苦しんでいるのを知っているから、救いになるならと考えてしまう。その衝動を私も運用で止める」
男の喉がもう一度だけ動く。乾いた音が小さく出る。男は低い声で言った。
「先生も、衝動あるんだな」
女医は間を置かずに答えた。
「ある。だから勝手に進めない。あなた達が壊れる形ではやらない。明日、面談を取る。二人で来る。今日は、寝る前の三呼吸まで守って。震えが出たら、今まで通り。白紙。距離。必要なら電話。私の番号は今日も生きてる」
通話が切れたあと、部屋に静けさが落ちた。静けさは速さを大きくする。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は机の上の端末を見ない。見ないまま、低い声で言った。
「明日、面談」
女は短く返す。
「明日、面談。…今日は生活」
男が「生活」を繰り返し、吐く息が少し長くなる。長い吐息が出た瞬間、女の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間に触れたくなる。触れたい衝動が立つ。立った衝動を、女は言葉に変える。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
夜、就寝前の枠。男が手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先がもう一呼吸を欲しがって勝手に戻りそうになり、女は戻しそうになった指を握り込み、握り込んだ力を布団の縫い目へ逃がした。
男が低い声で言った。
「今、ここ」
女も置く。
「今、ここ」
言葉のあと、男が小さく言う。小さいのに、逃げじゃない言葉だった。
「俺、怖い。…でも、今日、決めない」
女は短く答える。勝たない。救わない。奪わない。今はただ、隣にいる。
「うん。決めない。…明日、事実を聞く」
冷蔵庫の封筒は、今日もただ貼られている。紙の向こう側は近くなったのに、二人は最短距離に走らないための足を増やした。増やした足が増えるほど、苦しみは長くなる。長くなるほど、恋は延命する。延命が救いか地獄かは、まだ決めない。明日、事実を聞いてからだ。
男は画面を見たまま、息を吸わない。吸わないまま喉だけが動き、乾いた音が小さく出る。出た音で女の喉も乾き、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
「これ、何。」
男の声は低い。短い。語尾が落ちる。女は答えを長く作れない。長く作ると乾く。乾くと浅くなる。浅い息が速さを呼ぶ。女は言葉を探す代わりに、男の手の甲に触れたまま一拍待ち、指先の位置を数ミリだけ直して、触れている面を整えた。
男が画面をもう一度押す。指の動きが乱れる。乱れた指が「同意」の欄をなぞり、なぞったあとで止まる。止まった指先が震えて、震えを抑えるみたいに端末を握り直す。
「医者が、君に。なんで。」
男はそこで息を吐いた。吐いた息が短い。短い息は怖さの形だと、女はもう知っている。知っているからこそ胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、男の手の甲に触れたまま、短く言った。
「説明。」
「何の。」
男の語尾が少しだけ尖る。尖った語尾が女の胸の内側を跳ねさせ、跳ねを押し返すために女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらってから、また男の手へ戻した。
「あなたの。」
女が言った瞬間、男の息が止まる。止まった息のまま男の目が女へ向き、向きかけて女の喉へ落ち、すぐ外れる。外れた視線が急いでいて、女は自分の手首が熱を持つのを感じた。熱は危ない。危ないと分かっているのに、熱は勝手に立つ。
男が低い声で言う。
「俺の話なら、俺に来る。」
女は首を小さく振った。否定は短くしないと崩れる。
「あなたは、今、張る。張ると壊れる。」
言い切った瞬間、女は言い方が鋭すぎたと気づく。気づくと喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男はその押し返しを見ないふりをして、端末の画面をもう一度女に向ける。
「待機って何。誰が待つ。何に同意する。」
質問が三つ。三つは多い。多いと女の呼吸が浅くなる。浅くなるのを止めるために女は男の手の甲に触れたまま一拍待ち、短く区切って落とした。
「先生が。準備。順番。」
男の眉がわずかに動く。動いた眉の下で、息が短くなる。短い息のまま男が言う。
「順番って、何の順番。」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった瞬間に喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして短く吸ってしまい、胸の奥が熱くなる。熱くなると「対策」が立つ。「対策」の影に、言ってはいけない単語が伸びる。女は影を見ないふりをして、男の手の甲を包み直す。包み直した手の形で、指先の熱を閉じ込める。
男の指が女の指を掴む。掴む強さが一瞬だけ強い。強いのにすぐ弱くなる。弱くなった指先が震える。
「君、俺のこと、勝手に……」
言い切れない。言い切れないところで男の呼吸が詰まり、詰まった呼吸が怖さの形で部屋に残る。女はその形を見てしまって、言葉を作る代わりに、男の手の甲に触れている面を広げ、遅い触れ方で一拍待った。待った一拍のあと、男の吐く息が短く落ちる。短く落ちた息を追いかけるみたいに、女は短く言った。
「勝手じゃない。」
男が笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「じゃあ何。君が同意するって、君の身体の話だろ。」
その一文が刺さって、女の胸の内側が一段跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の置き場を探しながら、女は男の手の甲を握り返さない。握り返すと、守るが、縛るになる。縛るになるのが怖い。だから女は触れるだけにする。触れるだけで、男の肩が少し落ちるのが分かってしまい、その“効き方”がまた女を苦しめる。
男が端末を布団の外へ放り投げようとして止めた。止めた指が宙で一拍残り、残った一拍が女の胸を跳ねさせる。男は端末を握ったまま、低い声で言う。
「言って。」
女は首を小さく振る。振る動きが遅れて息が詰まる。詰まりを押し返しながら、女は短く言う。
「今は、言うなって。」
「誰が。」
「先生が。」
男の呼吸が短くなる。短い呼吸が続くと、男の肩が上がる。肩が上がると、昨夜みたいに眠れなくなる。女はそれが怖くて、男の手の甲に触れたまま、指の腹を少しだけ動かして面を広げ、吐ける呼吸を作ろうとする。
男がそれを拒むみたいに、女の手を一度だけ強く握って、すぐ離した。離した指先が震えている。
「俺は、怖いんだよ。」
男の声が小さい。小さいのに重い。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く返した。
「分かってる。」
「分かってるなら、隠さないで。」
隠す、という言葉が女の喉を締める。締まると息が浅くなる。浅くなると、あの影が輪郭を持つ。女は輪郭が怖くて、目を閉じたまま言った。
「隠してない。守ってる。」
男が一拍黙る。その沈黙の間、女は吐ける呼吸を探して、鼻で短く吸って短く吐いた。男が低い声で言う。
「誰を。」
女の指先が震えそうになり、震えを隠すために布団の端を押して硬さを返してもらう。返ってきた硬さで喉の手前の息を押し返し、女は短く落とした。
「あなたを。」
言った瞬間に口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、男の手の甲に触れたまま、触れている面だけを広げて一拍待った。待った一拍のあと、男の吐く息が少しだけ長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女はもう一つだけ、言葉を短く切った。
「だから、今夜は——」
言い終える前に、男の唇が女の唇へ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね上がり、喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。男の目が開いている。焦点が揺れている。揺れているのに、女の喉を見ないふりをして、低い声で言う。
「今夜じゃなくていい。明日でもいい。でも、俺の人生の話を、俺抜きで動かすな。」
女は返事をすぐに出せなかった。出すと乾く。乾くと浅くなる。浅くなると、言ってはいけない単語が口の手前まで上がる。女はそれを飲み込み、男の手の甲に触れたまま頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男はその詰まりを追わず、ただ女の手の甲を一度だけ押して、置いた位置を動かさずに待った。
待つ、という言葉がさっきから部屋に残っている。待機、同意、順番、待つ。全部が同じ方向を向いていて、女は目を閉じたまま、その方向にだけ命令した。
――今は、恋でいろ。今は、壊すな。
夜明けの手前で、女は一度だけ目を開けた。暗い天井は昨夜と同じなのに、空気の重さだけが違う。重いのは、言わなかった言葉がそこに残っているからだと分かる。分かると胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、鼻から短く吸いかけて、女は唇を閉じて押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、隣から男の吐く息が落ちる。短い。短いのに、止まりかけない。止まりかけない短さは、張っている時の形だと女はもう知っている。
女は手を伸ばさなかった。伸ばせば、昨夜の文字の白さが蘇る。蘇れば、影が輪郭を持つ。輪郭を持った瞬間に、恋が別物へすり替わる気がして、女は布団の端を指で押して硬さを返してもらい、硬さで自分を固定した。固定すると呼吸が一つだけ落ちる。落ちた呼吸のあと、男が動いた。寝返りではない。肩が少しだけ上がり、指先が布団の上で迷うみたいに動いて止まる。止まった指が、女の手の甲を探す位置にある。
男は目を開けていた。焦点が合っていない。合っていないのに女の喉を見ないふりをして、低い声で短く言った。
「……行く。」
女は「どこ」と聞かなかった。聞けば乾く。乾けば浅くなる。浅い息が速さを呼び、速さが影を呼ぶ。女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男はその詰まりを追わず、布団から起き上がり、上着を取る動きだけが一拍忙しい。忙しさが見えると女の胸が跳ねる。女は跳ねを押し返すために、台所へ行くふりをして立ち上がり、蛇口をひねり、水の音を一定にした。
水の音が一定だと、言葉を短く落とせる。女はコップを一つだけ出し、男へ渡した。二つ並べると揃えたくなる。揃えたくなると指先が熱を持つ。熱を持つと影が伸びる。今日はそれが怖い。男はコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりで、ゆっくりな動きに引っ張られて女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのが分かってしまい、女は悔しくて流しの金属の反射へ目を固定した。
男がコップを置き、靴下を履く。履く動作が丁寧すぎる。丁寧すぎると張りが隠れて見えない。見えないから怖い。怖いから、女は言葉を短く作って落とした。
「一緒に行く。」
男の手が止まった。止まった一拍が長い。長い一拍の間に女の胸が跳ねそうになり、女はエプロンの紐の硬さを指で押して返してもらい、呼吸の置き場を確保した。
「……来るの?」
男の声が少しだけ尖る。尖りは怒りではなく、怖さの裏返しだと女は思う。思うと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返しながら、言葉を増やさずに頷いた。男はそれ以上言わず、ただ女の手の甲に指先を置く。手首ではない。圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少しだけ長くなる。
玄関までの支度は静かだった。男は靴を揃え、揃え終わった指先が縁に一拍残る。女はそれを見ないふりをして鍵を掛け、掛け終わった鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直して指先の熱を散らした。散らし切れない熱は、歩幅を一定にすることで押し込む。押し込んだまま二人で歩くと、男は半歩前に出ない。車道側へ寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。作り方が正確すぎて、女の胸が勝手に跳ねる。女は跳ねを押し返し、鼻で短く吸って短く吐いた。
病院の裏口の近くで、女医が待っていた。白衣ではない。上着の袖口だけ整っていて、抱えているファイルの角が揃っている。揃っている角に女の指が吸われそうになり、女は指を握り、痛みで戻した。女医の視線が女の喉へ一瞬落ち、すぐ男へ移り、移った視線が乱れない。
「来たのね。」
女医の声は落ち着いている。男は返事を短くした。「来た。」その短さの裏に張りがある。女医はそれを拾わないふりをして、歩く方向だけを顎で示した。「話す時間は短く。張らない。」男が頷き、頷きが小さい。小さい頷きは「頑張ってる」の形で、女は喉が狭くなるのを感じた。
診察室ではなく、小さな面談室だった。机の上には紙が二枚だけ置かれている。端が揃い、ペンの位置が机の縁とぴたりと合う。ぴたりが目立つ。目立つと女の指が動きたくなる。女は動かさず、膝の上で親指の腹を押して硬さの代わりを作った。
女医が男へ向けて言う。
「昨日の“準備”は、候補の登録と検査の同意。つまり、順番に並ぶ準備。今すぐ手術ではない。今すぐ何かが奪われる話でもない。」
男の喉が一度だけ動く。乾いた音が小さく出る。女の喉も同じように乾き、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
男が低い声で言う。
「で、なんで彼女に送った。」
女医は一拍だけ沈黙し、その一拍が短いのに重い。重い沈黙を、女医は机の端を揃える動作で逃がさず、真正面から言葉を落とした。
「あなたが張るから。あなたが張ると、話が一度で終わらない。終わらないと、あなたが消耗する。だから周辺の支えを作った。……勝手だったのは認める。」
認める、の一言が短い。短いから逃げない。男の肩が少しだけ上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲へ触れた。触れる面だけを少し広げ、握らない。押さえない。触れて一拍待つ。待った一拍のあと、男の吐く息がほんの少し長くなる。
女医はその変化を見ないふりをして続けた。
「ただし、あなたの人生をあなた抜きで動かす気はない。順番の話はあなたにする。あなたが受け止められるサイズで、必要な回数に分けて。」
男は「分けて」と繰り返し、笑いかけて笑いが出ないまま終わる。
「俺、分けられるほど余裕があるように見える?」
女医は答えを感情で返さない。返さない代わりに、短く、具体的に言う。
「見えない。だから分ける。」
言い切り方が硬い。硬い言い切りは医者の責任の形で、女はその硬さが少しだけ羨ましい。羨ましいと腹の奥が熱くなる。熱が立つと影が伸びる。女は影を止めるために、男の手の甲に触れた面を増やしすぎないように注意し、触れる圧を変えずに保った。
男が視線を女へ向けかけて、喉へ落ちそうになって止めた。止めた目線が机の紙へ逃げる。紙には「待機」と「同意」の文字がある。女はそれを見ない。見れば昨夜の白さが戻る。戻れば輪郭が出来る。
男が低い声で言った。
「彼女は、何の“同意”をした。」
女医が答える。
「してない。あなたに関する情報を聞いただけ。あなたが“準備”の意味を誤解しやすいと思ったから、先に言葉の形だけ渡した。」
言葉の形だけ、という表現がひどく危ない。形は、いつか中身になる。女はそれを知っている。知っているからこそ、女は声を出さずにただ一度だけ息を吐き、吐けた息が床に落ちるまで、指先を動かさなかった。
面談は短く終わった。次の検査の日程と、帰宅後の注意だけが淡々と確認され、女医は最後に男へだけ言う。
「“怖い”は言っていい。張るのは、言わずに耐えることじゃない。」
男の頷きが小さい。女はその小ささを見て、胸が跳ねる。跳ねを押し返しながら、病院を出た。
外の空気は冷たい。冷たい空気は喉を刺し、吸い直しを呼ぶ。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は一歩も先に出ない。横に並んだまま、歩幅を女に合わせる。合わせられると女の呼吸が一度だけ深く入る。深く入ったことが悔しくて、女は歩道の継ぎ目を数えた。
角を曲がって病院が見えなくなったところで、男が止まる。止まると、言葉が来る。女はそれを待つのが怖いのに、逃げない。逃げたら、昨夜の「動かすな」が嘘になる。
男が低い声で言った。
「俺、君が俺のこと好きって言ったの、嬉しかった。」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く息を吐いた。
「……うん。」
男は続ける。
「でも、好きって言った舌で、俺の未来を一人で背負うな。」
背負うな、の言い方が責めではなく、願いの形になっている。願いは逃げ場がない。女はそれを受け止めるために、男の手の甲へ触れた。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱を上げないために女は言葉を短く切る。
「背負ってない。……背負いかけてた。」
言った瞬間に乾く。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男の指が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
男が言った。
「俺のこと、俺と一緒に考えて。」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男はその詰まりを追わず、手の甲に触れている指先を離さない。離さないのに、手首へ寄せない。寄せないことが、今の約束だと分かる。分かると胸が跳ねる。女は跳ねを押し返しながら、胸の中で命令を少しだけ更新した。
――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
――そして、次は、一人で決めるな。
病院の角を曲がってから、男は無理に会話を作らなかった。歩幅を女に揃え、車道側に寄り、風を弱めるだけで「一緒」を成立させる。女は歩道の継ぎ目を数えながら、それに合わせて呼吸を押し返した。押し返すたびに胸の内側が跳ねる。跳ねるのに、男の指先が手の甲に触れている間だけ跳ねが一瞬遅れる。遅れたことが悔しくて、女は指先の面を広げすぎないように気をつけ、触れているだけを守った。
部屋に戻ると、男は靴を揃え、揃え終わった指先が縁に一拍残る。女はそれを見ないふりをして鍵を掛け、鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直して指先の熱を散らした。台所で女が水の音を一定にすると、男が「今日の話」と言いかけて止める。止めた一拍が長く、女の喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で息を押し返しながら、先に短く言った。
「一緒に考える。約束した」
男は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは「頑張ってる」の形で、女は胸が跳ねそうになり、鍋の取っ手を握り直して硬さで戻した。男は椅子に座らず、壁際に立ったまま、女の手元を見てすぐ外す。外す癖が、今日はいっそう急いでいる。女はその急ぎ方で、男がまだ張っているのを知る。知ると心配が湧き、心配は欲へ滑る入口になるから、女は心配を言葉にしない。代わりに器を二つ並べ、距離を揃え、揃えた距離を見ないふりをして皿を置いた。
「俺さ」
男が言って止まる。止まった沈黙で女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、男の方へ顔を向けずに「言って」と短く返した。男は喉を一度だけ動かし、乾いた音を小さく出してから言った。
「君は、何を怖がってる」
質問が直球で、女の腹の奥が熱を持つ。熱が立つと喉が狭くなる。女は目線を皿の縁に固定し、固定したまま息を短く落とした。落とせた息のあと、女は言葉を長くしないように切る。
「私の心臓」
男の呼吸が一拍止まり、止まったあと短く吐く。短い吐き方が張りの形で、女は反射で男の手の甲へ触れた。手首ではない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少しだけ長くなる。長くなるのが分かってしまい、女は悔しくて指先の面を増やさないようにして、触れているだけにする。
「努力でどうにかなる範囲は、どうにかした」
女の声は硬い。硬い声は自分でも分かる。分かると喉が乾く。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。
「フォームも、筋も、呼吸も。練習すれば形にはなる。でも……上限だけは、動かない」
男が「上限」と小さく繰り返す。女は頷かない。頷くと息が詰まる。女は代わりに指先でテーブルの角を押し、硬さを返してもらってから続けた。
「私は、優秀じゃない。努力で見える形を作ってるだけ。心臓は、見える形の外にいる」
言い終えた瞬間に、女は自分が「言い訳」を言っているみたいに聞こえるのが嫌で、嫌さが熱になる。熱が立つと、あの影が伸びる。女は影を止めるために皿を一枚だけ手に取り、水で濡らし、濡れた感触で指先を固定した。
男が近づいた。近づく速度は一定で、一定だから逃げる理由がない。男は女の手首に触れかけて止め、言葉を思い出すみたいに手の甲へ指先を置いた。置き方が遅い。遅い触れ方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男が低い声で言う。
「君が“怖い”って言えるの、初めて聞いた」
女は言葉を返さない。返すと乾く。乾いた喉が吸い直しを呼ぶ。女は返事の代わりに、男の手の甲へ触れている指先の位置を数ミリだけ直し、触れているだけを守った。男はその動きを追わず、追わないまま続ける。
「俺も、親の言葉で走ってきた。結果が出ると楽で、出ないと怖い。……でも君は、結果が出ても怖いんだな」
女はその理解が刺さって、胸の内側が跳ねる。跳ねを押し返すために女は顎を引き、短く言った。
「出ても怖い。出た分だけ、次が来る」
男が一拍黙り、その沈黙の間だけ、男の指先が女の手の甲から離れない。離れないのに、手首へ寄せない。寄せないことが、今日の約束の形だと女は分かる。分かると胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く吐いた。
男が言った。
「一緒に考えるって、こういうことだよな。君の怖さも、俺の怖さも、俺たちの中に置く」
女はその言い方が好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。熱は危ない。女は熱を押し込めるために、男の手の甲に触れている面を広げず、指先の圧だけを一定に保った。
同じ夜、病院の奥で女医は端末の画面を開き、条件の欄を一つずつ確認していた。適合、待機、同意。表示の下に小さく並ぶ「実施不可」を視界の端で見ないふりをして、女医は机の角を揃え、ペンの位置を縁にぴたりと合わせ、開始を押す。波形が走り、崩れ、戻る。戻り切らない場所に赤が付く。女医は眉を動かさず、赤の箇所だけを拡大し、同じ工程をもう一度だけ繰り返した。救いになるなら、の言葉を口にしないまま、救いの形だけを反復する指先が、今夜も止まらなかった。
夕飯の皿を重ね終えたあとも、女は蛇口の音をすぐ止めなかった。水の落ち方が一定だと、言葉にしない感情が少しだけ丸くなる。丸くなるぶん、胸の内側の速さが耳に刺さらずに済む。男は壁際に立ったまま、視線を女の手元へ落としてすぐ外し、外した視線の行き場を探すみたいに天井へ逃がした。逃がし方が、今日はいっそう慎重で、女はその慎重さが「約束」の形だと分かってしまう。手首へ寄せない。依存の形を増やさない。増やさないまま、二人で考える。
男が喉を一度だけ鳴らし、乾いた音を小さく出してから言った。
「……見せて」
女は振り返らずに、「何を」と聞かなかった。聞けば喉が乾く。乾けば息が浅くなる。浅い息は速さを呼び、速さが影を呼ぶ。女は代わりに水を止め、手を拭き、手を拭く端を揃えないように指を止め、男へ体だけ向けた。
男は言葉を増やさず、手を差し出した。手首じゃない。手の甲が上を向く差し出し方だった。女はその形に一瞬だけ胸が跳ね、跳ねを押し返すために顎を引き、男の手の甲に指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少しだけ長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は指先の面を広げすぎないように止め、呼吸を短く一つだけ落とした。
男は目を閉じ、閉じたまま言った。
「君の“上限”ってさ。数字じゃなくて、触ると分かる?」
女は「分かる」と返せなかった。返せば乾く。女は男の手の甲に指先を置いたまま、もう片方の手で自分の胸の真ん中を軽く押した。押す圧は弱い。弱いのに、押した場所の下で速いものが暴れているのが自分で分かる。分かった瞬間、女の喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。
男が目を開けた。視線が女の胸元へ落ちかけて、落ちないように逸れる。逸れた目線が女の指先へ戻り、戻った目線が一拍だけ止まる。
「……聴かせて」
女は一瞬だけ迷った。迷うと熱が立つ。熱が立つと影が伸びる。女は影を止めるために、動作を遅くしない。遅くすると依存の形になる。女は上着の襟元を少しだけ引き、男の手を取って、自分の胸の上に置いた。置く位置は中央より少し左。肋骨の上。押さえない。触れるだけ。男の指先が触れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がった。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、女は唇を閉じて押し返した。
男の指が、女の速さに一拍遅れて揺れる。揺れたのは驚きの形だった。男の眉がわずかに動き、吐く息が一度だけ短くなる。短くなった息が戻らないように、男はすぐ目を閉じた。閉じたまま、指先の圧を変えない。圧を変えないまま、低い声で短く言った。
「……すげえ、速い」
女は「だから」と返したくなって、返したら乾くのを知っていて、飲み込んだ。飲み込んだまま、鼻で短く吸って短く吐いた。吐けた息が落ちる前に、男の指が女の胸から離れそうになって止まる。止めた一拍が、女の胸をさらに跳ねさせた。
男が言った。
「走ってるとき、これで……」
女は頷きかけて止めた。止めると首の筋が固まり、喉が狭くなる。女は頷きの代わりに、短く言葉を落とした。
「上がる。上がり方が、綺麗じゃない」
男の指が女の胸から離れ、今度は女の手の甲に戻った。戻るのが早い。早い戻り方は「見てはいけない」みたいに慎重で、女はその慎重さが好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。熱が立つと影が伸びる。女は影を止めるために、指先を握って開いて、硬さの代わりを作り、吐ける呼吸を一つだけ落とした。
男が低い声で言った。
「君、これで今まで勝ってきたのか」
勝ってきた、という言い方が、女の胸を刺した。刺された瞬間、胸の内側の速さが一段上がる。女はそれを押し返すためにテーブルの角を押し、硬さを返してもらった。
「勝ってない。勝ってるふりをしてるだけ」
言い切った声が硬くて、女は自分で腹が立つ。腹が立つと熱が立つ。熱が立つと「対策」という単語が立ち上がる。立ち上がった単語の影が伸びる前に、男の指が女の手の甲を一度だけ押した。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
男が言った。
「俺の遅さ、欲しい?」
女の胸が跳ね上がった。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息が頬の内側を熱くする。熱が上がる前に、女は言葉を短く切るしかなかった。
「……欲しい」
言った瞬間に口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、男の手の甲に触れている指先の面を広げすぎないように止め、吐ける呼吸を探した。探した呼吸が一つ落ちたところで、男の息が一度だけ止まる。止まったあと、短く吐く。短い吐き方が、驚きと痛みの混ざった形だった。
男はすぐ怒らなかった。怒りの言葉を作らないまま、ただ視線を外し、外した視線をまた戻し、戻した視線を女の手元に置いてから言った。
「……俺を、好きだから?」
女は頷きかけて止めた。止めると喉が狭くなる。女は頷きの代わりに、短く言葉を落とす。
「好き。……それと同じ場所で、欲しい」
同じ場所、という言い方が自分でも汚いと思ってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が立つ前に、男の指が女の手の甲を一度だけ撫でた。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。
男が低い声で言った。
「俺も、君の心臓、欲しいかもしれない」
女の胸が跳ねた。跳ねたのは驚きだった。驚きが先に来ると、感情の形が崩れないまま立つ。女は目を開け、男の顔を見た。男は目を逸らさない。逸らさないまま、喉を一度だけ動かし、乾いた音を小さく出す。
「俺、ずっと諦めてた。短いなら短いでいいって。終わりが見えると楽になるって、そう思ってた」
女の喉が狭くなる。狭くなった喉で、女は息を押し返すしかない。男は続けた。
「でも君が“好き”って言った。好きって言われた途端、俺は終わりを理由に出来なくなった。……延びたら延びたで、俺、困る」
困る、が刺さる。刺さるのに、女はそれが「生きたい」と同じことだと分かってしまう。分かってしまうと胸が熱くなる。女は熱を上げないために、男の手の甲に触れた面を広げず、触れている圧だけを一定に保った。
男が言った。
「だからさ。君が俺の遅さを欲しいって言ったの、責められない。でも、君が俺の未来を一人で背負うなって、言ったよな」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。男は女の詰まりを追わない。追わないまま、短く言った。
「俺も、一人で決めない。君の身体の話を、俺の都合で決めない」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、男の唇が女の唇へ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は男の手の甲に触れた指先を動かさない。動かしたら、欲が先に動く気がした。
男が低い声で言った。
「一緒に、検査受けよう。君の心臓の話も。俺の心臓の話も。医者の前で、二人で」
女は「うん」とだけ返した。短い返事でも乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになるのを、女は布団の端の硬さを指で押して止めた。止めたあと、男の手の甲に触れたまま、もう一つだけ言葉を落とす。
「約束。奪わない」
男の指が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
その夜の終わり際、病院の奥で女医は端末の画面を開き、予定表の欄に新しい文字が増えたのを見た。二つの名前。検査。適合。待機。女医の指先が一拍だけ止まり、机の縁をなぞり、なぞった指が元に戻る。戻った指が、開始ではなく、確認の欄を押す。確認の欄を押したあと、女医はペンの位置を縁にぴたりと合わせ、紙の角を揃え直した。揃え直した角の上で、指先がまた一拍止まる。
女医は表情を変えない。変えないまま、息を一度だけ吐き、吐いた息が机の上に落ちる前に、次の手順を開いた。救いになるなら、と口にしないまま。救いの形が、誰にとっての救いなのか分からなくなるのを知りながら。
翌朝、女は起きた瞬間に胸の内側が速いのを感じた。速さはいつもある。いつもあるのに、今日は「約束」を背負っているせいで速さが重い。重いと喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は唇を閉じて押し返し、布団の端を指で押して硬さを返してもらい、吐ける呼吸を一つだけ落とした。
隣では男がまだ眠っていた。眠っている顔は昨日より少しだけ柔らかい。柔らかいのに、肩の線はまだ硬い。硬い肩を見ると女の胸が跳ね、跳ねた自分を押し返すために女は目線を天井へ固定した。固定している間に、男の呼吸が一度だけ短く切れ、切れたところで男のまぶたが動いた。
男が目を開けた。視線が女の顔へ向かう前に女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さが「約束」の形だと分かってしまう。分かってしまうと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返すために顎を引き、短く言った。
「起きた?」
男は「うん」と返し、布団の中で手を探す。探す手が手首へ寄りそうになって止まる。止まる一拍が長い。長い一拍の間、女の胸が跳ねそうになり、女は布団の端を押して硬さで戻した。
男は手の甲を上にして差し出す。昨日の約束通りの形。女は息を短く落とし、男の手の甲に指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が上がる前に女は指先の面を広げすぎないように止め、視線を布団の皺へ固定した。
男が低い声で言った。
「……怖い?」
女は「怖い」と言い切れなかった。言い切ると乾く。乾くと浅くなる。浅い息が影を呼ぶ。女は短く切る。
「怖い。……でも、約束があるから」
男が一拍だけ黙り、黙ったあとで言った。
「俺も。約束があるから、少しだけ呼吸できる」
呼吸できる、が刺さる。刺さるのに嬉しい。嬉しいと熱が立つ。熱は危ない。女は熱を押し込めるために、男の手の甲に触れた指先の圧を一定に保ち、呼吸を短く一つだけ落とした。
午前、病院へ向かう道は静かだった。男は半歩前に出ない。車道側に寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムで息を押し返した。病院の正面玄関ではなく、検査棟の入口へ向かう。白い壁と消毒の匂いが混ざる。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
受付で名前を言う。二人分。女の口の中が乾く。乾きが来ると吸い直しが出る。女は水を一口含み、飲み込む喉の動きを遅くして乾きの勢いを落とした。男はそれを見ないふりをして待ち、待つ間の呼吸は乱れない。乱れないのに、肩は硬い。硬い肩を見て、女の胸がまた跳ねる。
呼ばれて検査室へ入ると、女医がいた。白衣。袖口が整い、ファイルの角が揃っている。女の指が角へ吸われそうになり、女は指を握り、痛みで戻した。女医の視線が女の喉へ一瞬落ち、すぐ男へ移る。移った視線が乱れない。
女医が短く言う。
「今日は、二人。順番に。張らない」
男が頷く。頷きが小さい。女が頷く。頷きが遅れて息が詰まる。女は顎を引いて押し返した。女医はその詰まりを追わず、淡々と手順を説明する。採血、心電図、負荷検査、画像。言葉が並ぶたびに女の喉が乾く。乾きが来る前に女は水を口に含み、飲み込む喉の動きを遅くして落ち着かせる。
先に男が採血室へ入った。女は待合で座り、膝の上で親指の腹を押し、硬さの代わりを作った。待っている間、男の足音が遠くで止まり、止まり方が正確で、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返すために女は息を短く落とし、落とせた息のあとで目を閉じた。
やがて男が戻る。顔色は変わらない。姿勢も崩れていない。なのに、上着の袖口を直す指が一拍忙しい。女はそれを見て喉が狭くなり、唇を閉じて押し返した。男が小さく言う。
「次、君」
女は立ち上がり、検査室へ入る。ベッドに横になり、胸に電極が貼られる。貼られる冷たさで胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。モニターに波形が出る。女は見ない。見れば合わせようとする。合わせようとすると呼吸が崩れる。女は天井だけを見る。
女医が言う。
「呼吸、鼻。短く。止めない」
女は言われた通りに鼻で短く吸い、短く吐く。吐けたような気がしても、次の瞬間に跳ねが来る。跳ねが来ると喉が狭くなる。女は押し返す。押し返し続ける。
負荷検査の段階で、女の胸の内側が先に跳ねる。跳ねる速さが一定にならず、息が置き去りになる。女は喉を固め、吸い直しを抑え、足の回転だけを一定にする。一定にしようとした瞬間、胸の奥が狭くなる。狭くなると息が浅くなる。浅くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを押し返し、押し返すほど胸が熱くなる。熱くなるほど、遅い鼓動の価値が頭の中で増えていく。増えていくのが怖くて、女は視線を天井へ固定した。
終わった後、女は椅子に座り、汗を拭こうとして手が震える。震えを隠すためにタオルの端を握り、硬さの代わりを作った。男が隣に座らず、半歩離れた位置で立つ。立つ位置が正確で、女の胸が跳ねる。男は女の手首へ触れない。触れないまま、手の甲を上にして差し出す。女はそれを見て、胸の奥が少しだけ落ちる。落ちた呼吸の隙間で、女は男の手の甲に指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。
女医が奥から戻り、ファイルを開く。紙の角が揃い、ペンの位置が机の縁とぴたりと合う。女の指が吸われそうになり、女は指を握って痛みで戻した。
女医が言う。
「二人とも、データは揃った。適合の話は今日しない。今日しないのが“張らない”」
男が「今日しない」と繰り返し、息を短く吐く。短い吐き方が張りの形で、女は反射で男の手の甲に触れている面を少し広げ、吐ける呼吸を作る。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が上がる前に女は触れる面を増やさず、圧を一定に保った。
女医は最後に言う。
「今日は帰って、食べて、寝る。二人で。ここまでが今日の治療」
治療、という言葉が恋と混ざる。混ざると危ない。女は混ざりを押し返すために目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。男の指が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
病院を出た帰り道、男が言った。
「“適合”ってさ……俺、聞きたくないのに聞きたい」
女は短く答えた。
「私も」
短い言葉の中に、欲と恋が同じ場所で鳴っている。鳴っているのを自覚した瞬間、女は自分が怖くなる。怖くなると息が浅くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。
男が続ける。
「俺、君に言ったよな。俺の未来を一人で背負うなって」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まる。詰まりを押し返すために顎を引く。
「うん」
男が言った。
「だから、もし“適合”って言われても、俺が言う。君じゃない。俺が、俺の口で」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く言った。
「約束」
男の唇が女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は歩道の継ぎ目を数え、数えながら胸の中で命令する。
――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
――そして、適合の言葉が来たら、二人で聞け。
家に着くまで、二人とも口数は増えなかった。増やせば乾く。乾けば浅くなる。浅くなれば、あの二文字が勝手に輪郭を持つ。だから男は歩幅を揃え、女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムの中でだけ呼吸を押し返した。手の甲に触れる指先だけが、約束の形を保っている。触れるだけ。握らない。押さえない。手首へ寄せない。
玄関に入ると男が靴を揃え、揃え終えた指先が縁に一拍だけ残る。女はそれを見ないふりをして鍵を掛け、鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直して指先の熱を散らした。散らし切れない熱は台所へ持っていく。水を注ぐ角度を一定にして音を一定にし、その一定に呼吸の置き場を借りる。
「食べる?」
女が短く聞くと、男は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは「頑張ってる」の形で、女の胸が跳ねそうになる。女は跳ねを押し返すために鍋の取っ手を握り、硬さで自分を戻した。
料理は簡単なものにした。切って、温めて、皿へ乗せるだけ。時間が短い作業は短い言葉で繋がり、余計な沈黙を作らずに済む。男は手伝おうとせず、邪魔にならない位置で立ち、女の手元を見てすぐ外し、外した視線の先で呼吸を整えようとした。整えようとするほど短くなる吐息があって、女はそれを見ないふりをしながら、皿の縁を揃えたくなる指を止めた。
食卓につくと、男が箸を持つ手を一度だけ止めた。止めた一拍が長い。長い一拍が来ると「言葉」が来る。女は喉が狭くなるのを感じ、唇を閉じて押し返した。
男が低い声で言った。
「今日さ、君が倒れそうになったとき」
女は「倒れそうになってない」と言い返したくなる。言い返せば乾く。乾けば浅くなる。浅さが速さを呼ぶ。女は言い返さず、ただ箸先を皿に置いて、置いた先の硬さで自分を固定した。
「俺、触りたかった」
男が続ける。「手首」と言わない。言わないまま、言葉だけで距離を示す。
「胸を押さえるとかじゃなくて、こう……手を握って、止めたかった」
女の胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じて押し返し、短く言った。
「止めなくていい」
男が少しだけ笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「止めたくなる。止めたくなるのが、怖い」
女はその「怖い」の置き方が、今日の女医の言葉と同じだと気づく。怖いは言っていい。張るのは言わずに耐えることじゃない。女はそのルールを一緒に守りたいと思ってしまう。思った瞬間、熱が立つ。熱は危ない。女は熱を上げないために、箸を置き直し、位置を揃えないようにわざと少しずらした。
「触っていい」
女は言葉を短く落とした。短くしないと喉が乾く。
「でも、手の甲。約束」
男が頷いた。頷きが小さい。小さいのに、吐く息が少しだけ長くなる。
食べ終わると、男は片付けを手伝うと言った。女は断らなかった。断ると壁になる。壁になると男が張る。男が張ると夜が長くなる。女は「じゃあ、皿だけ」と短く言い、男は皿を運ぶ手つきだけ妙に丁寧になった。丁寧すぎて、女は胸が跳ね、跳ねを押し返すために蛇口をひねって音を一定にし、呼吸の置き場を作った。
片付けが終わって灯りを落とす前、男がぽつりと言う。
「俺、今日、君の心臓を触っただろ」
女は頷きかけて止めた。止めると首の筋が固まり、喉が狭くなる。女は頷かずに短く言う。
「触った」
男は言葉を選ぶみたいに一拍置いた。
「速いのに、強い。……怖かった」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、短く返した。
「私も、あなたのを触ると怖い」
「遅いから?」
女は首を小さく振った。
「遅いのに、戻る場所があるから」
その一言で、男の吐く息が一度だけ短くなる。短い息は、欲と怖さが同じ場所にある時の形だ。女はそれを見て、約束の範囲で手を伸ばした。手首ではない。男の手の甲。触れるだけ。触れて一拍待つ。
男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女は指先の面を広げすぎないように止め、目を閉じて短く息を落とした。
「ねえ」
男が低い声で言う。
「もし“適合”って言われたら、俺、言うって約束したよな」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。
「うん」
男は続ける。
「でも俺、言うのが怖い。言った瞬間、君の顔が変わる気がする」
女は「変わる」と否定しなかった。否定は嘘になる。女は短く切った。
「変わる。欲が出る」
言った瞬間に口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男の指が女の手の甲を一度だけ押す。圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。
男が言った。
「欲が出てもいい。出た欲を、二人で止めよう」
止めよう、の言い方が「制御」ではなく「一緒に持つ」に近いのが、女は好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。女は熱を押し込めるために、男の手の甲に触れた指先を動かさず、圧だけ一定に保った。
布団に入ると、男は手首へ寄せない。寄せないまま、手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しくて、女は歩道の継ぎ目の代わりに布団の縫い目を数え、数えたリズムで呼吸を押し返した。
しばらくして、男が小さく言った。
「キス、していい?」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く言う。
「短く」
男の唇が女の唇へ触れる。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息の置き場を探している間に、男の指が女の手の甲を一度だけ撫でる。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて、女は一度だけ吐けた。
その夜の終わり際、女の端末が一度だけ震えた。女は取らなかった。取れば光が出る。光が出れば顔が見える。顔が見えれば喉が乾く。男も「見せて」と言わなかった。言えば張る。張れば壊れる。二人は、震えが止まるまで、手の甲の触れ方だけを守った。
翌朝、女が起きたとき端末には通知が残っていた。送信者は女医。文は短い。
「結果説明、前倒しできる。今日の夕方。二人で来て」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男はまだ寝ている。寝ているのに、眉の間がほんの少し硬い。女はその硬さを見て、起こさずに済ませたくなる。起こさずに済ませるのは、守るふりをした逃げだと分かる。分かると胸が跳ねる。
女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらってから、男の手の甲をそっと探した。手首じゃない。指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱を上げないために、女は声を低くして短く言った。
「起きて。夕方、病院。二人」
男のまぶたが動き、視線が女の顔へ向かう前に女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さに救われる。
男が低い声で言った。
「……来たか」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。
「来た」
男は一拍だけ黙り、そのあと、手の甲を上にして差し出した。約束の形。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。
その長くなった息の隙間に、女は胸の中で命令する。
――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
――そして今日は、逃げるな。
夕方までの時間が、妙に長かった。
女は午前に一度だけ外へ出たが、走らなかった。走れば壁にぶつかる。壁にぶつかれば、彼の遅さの価値が勝手に増える。増えた価値は「対策」に変わる。対策は、昨日の白い文字に繋がる。だから女は、走る代わりに部屋を整えた。端を揃えたくなる指を止め、止める代わりに皿を一枚ずつ拭き、布の感触で指先を固定した。固定できた瞬間だけ呼吸が落ちる。落ちると自分が悔しくなる。悔しいのに、その悔しさが今日の夕方へ背中を押してくる。
男は普段どおりに振る舞おうとしていた。上着を直す。靴を揃える。言葉を短くする。短くするほど、言葉の外に残るものが増える。その増えた分を、男は自分の中へ押し込む。押し込むと呼吸が短くなる。短い呼吸は張りの形で、女はそれを見ないふりをした。見れば手を伸ばしたくなる。手を伸ばすと手首へ行きたくなる。手首へ行けば依存の形が増える。増えれば、今日の夕方で壊れる。
だから二人は、手の甲だけで一日を繋いだ。
夕方、病院へ向かう道で、男は一度だけ足を止めた。止めたのは横断歩道の手前。信号は赤。止まる理由は外側にあるのに、止まった一拍の長さが内側の事情を漏らす。
女はその一拍を数えない。数えたら怖さが形になる。女は代わりに男の手の甲へ指先を置き、触れて一拍待つ。触れているだけ。握らない。押さえない。触れている面を広げすぎない。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は視線を地面へ落とし、短く息を吐いた。
検査棟の入口は、昼よりも静かだった。静かだと足音が目立つ。目立つと心拍が跳ねる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、受付で名前を言った。二人分。女の口の中が乾く。乾きは吸い直しを呼ぶ。女は水を一口含み、飲み込む喉の動きを遅くして、乾きの勢いだけ落とした。
呼ばれて入ったのは、昨日と同じ小さな面談室だった。机の上にはファイルが一冊。ペンが一本。位置が机の縁にぴたりと合う。女の指が吸われそうになり、女は膝の上で親指の腹を押し、硬さの代わりを作った。
女医は白衣だった。袖口が整い、ファイルの角が揃っている。視線は落ち着いていて、二人の喉を追わない。追わないまま、短く言う。
「今日は結果。結論を先に言う。二人は……適合する」
男の呼吸が止まる。止まったあと、短く吐く。短い吐き方が、驚きと恐怖の混ざった形だと女は分かってしまう。分かってしまった瞬間、女の胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、机の角ではなく自分の指の腹を押して硬さを返してもらった。
女医は続ける。淡々としているのに、言葉の選び方が慎重だ。
「“すぐに”ではない。今日、何かを決めさせない。ここから先は、順番と手続きと、あなた達の同意の積み重ね」
男が低い声で言う。
「適合って……どういう意味の適合」
女医は紙をめくらず、言葉だけで答えた。
「免疫学的な適合。血液型、交差試験、抗体。拒絶のリスクが低い組み合わせ。つまり、移植が“成立しやすい”」
成立しやすい、という言い方が残酷に刺さる。成立しやすいなら、成立させたくなる人間がいる。女は自分がその側だと知っている。知っているから、喉が狭くなる。女は押し返す。押し返しながら、男の手の甲へ指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は触れている面を広げず、圧だけ一定に保った。
女医は男に視線を置いたまま、次の言葉を落とす。
「あなたの心臓は、平常時の効率が高い。反応の幅も大きい。運動の世界で言うなら、確かに“良い”。ただ、構造の弱さがある。あなたの寿命に関わる弱さ」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。
女医は今度は女へ視線を移す。
「あなたの心臓は、努力に応える。耐久はある。ただ、上がり方に癖がある。上限の手前で乱れて、呼吸が追いつかなくなる。その癖は、根性やフォームでは消えない」
女はその言葉を聞いて、悔しさが腹の奥で熱に変わるのを感じた。努力でどうにかなる範囲だけは、どうにかしてきた。どうにかならない範囲だけが、こうして医者の口から“癖”と呼ばれて確定する。その確定が痛い。痛いのに、その確定が彼の遅さに道を作る。道を作るのがもっと痛い。
男が言う。声が低い。短い。
「……だから、交換?」
女はその単語に反射で息が止まりそうになり、唇を閉じて押し返した。女医は目を逸らさない。逸らさないまま、短く言う。
「“交換”という言い方はしない。現実の手続きは“提供”と“受け取り”になる。あなた達が想像しているのが何であっても、ここから先は倫理と法律と安全の話を通る」
女医は一拍置き、その一拍で二人が張らないかを見て、張りの兆しが出る前に言葉を続けた。
「それでも、あなた達が一番気にしているのは、手続きじゃないはず。……心がどう壊れるか、でしょう」
女の胸の内側が跳ねる。跳ねたのは“見透かされた”驚きだった。女医は淡々と続ける。
「あなたが彼の心臓を受け取れば、反応の幅は手に入る。けれど、反応の幅が大きい心臓は、感情の振れにも敏感。ストレスで上がりやすく、上がり方も派手になる。今まで“押し通してきた”あなたが、押し通せなくなる可能性がある。穏やかになる、怖がりになる、死が急に現実になる……そういう変化が起きても不思議ではない」
女は言葉を飲み込む。飲み込むと乾く。乾く前に、鼻で短く息を落とした。
女医は男へ視線を戻す。
「あなたが彼女の心臓を受け取れば、寿命の問題は改善し得る。でも、あなたが今まで“終わり”を理由にしてきたなら、その理由が剥がれる。延びた人生は、祝福じゃなく負担になる。失敗続きの人生が、唐突に続く。言い訳が消える。苦しいでしょう」
男の肩が少し上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲へ触れ、触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女は触れる面を増やさずに止めた。
女医が最後に言う。
「だから、今日は“適合”まで。適合は事実。決めるのはこれから。決める前に、二人とも心理評価を入れる。家族要因も、依存の形も、全部見る。私は、あなた達が壊れない形しか選ばせない」
「選ばせない」という言い方は強いのに、守りの形だった。女はその強さが少しだけ羨ましい。羨ましいと熱が立つ。熱は危ない。女は膝の上で親指の腹を押し、硬さで戻した。
面談はそれで終わった。次回の枠が取られ、説明資料が封筒に入れられ、封筒の角が揃えられた。女の指が動きたくなって止まる。止めた指先が熱を持つ。女はその熱を、男の手の甲に触れる圧を一定に保つことで押し込んだ。
病院を出ると、外気が冷たかった。冷たい空気は喉を刺す。吸い直しを呼ぶ。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は一歩も先に出ない。横に並び、歩幅を揃える。揃えられると、女の呼吸が一拍だけ深く入る。深く入ったことが悔しくて、女は歩道の継ぎ目を数えた。
しばらく歩いて、信号のない角を曲がったところで、男が止まった。止まると、言葉が来る。女は逃げない。逃げたら約束が壊れる。
男が低い声で言った。
「適合、だってさ」
女は短く息を吐いた。吐いた息が白くなる。白い息を見ると、あの白い文字が頭に被さる。女は目線を逸らし、短く言った。
「聞いた」
男の喉が一度だけ動き、乾いた音が小さく出る。
「君、欲しいって言ったよな。俺の遅さ」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く答えた。
「言った」
男が言う。
「じゃあ、今、言う。……俺は、嫌だ」
女の胸の内側が跳ね上がる。跳ね上がった瞬間に喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は男の手の甲へ指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が“反論”の形を作る前に、女は言葉を短く切った。
「分かる」
男が少しだけ笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「分かるのに、欲しいんだろ」
女は否定しなかった。否定すれば嘘になる。女は短く言う。
「欲しい。……でも、奪わない」
男の目が一度だけ揺れる。揺れた目が女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さに救われる。
男が言った。
「奪わない、って言うな。奪うとか奪わないとか、そういう言葉にした瞬間、俺は君を怖がる」
女の喉が狭くなる。狭くなった喉で言葉を増やすと崩れる。女は短く区切った。
「じゃあ……一緒に止める」
男の肩が少し落ちる。吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱は危ない。女は指先の面を広げず、圧だけを一定に保って、短く息を吐いた。
男が言う。
「俺、今まで“終わり”を理由にしてた。今日、医者に言われて、全部バレた。……延びたら困るって本当だ」
女はその本当を、抱きしめたくなる。抱きしめると欲になる。欲になるのが怖いから、女は抱きしめない。代わりに男の手の甲に触れるだけにして、言葉を短く落とす。
「困っていい。……困るのを、一緒にやる」
男が一拍黙り、その沈黙の中で、女の胸の速さが耳に近づく。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。押し返した息の置き場を探している間に、男が低い声で言った。
「俺、君のこと好きだよ」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の隙間で、女は短く返す。
「私も」
男が続ける。
「だから、君が欲しいって言ったの、責めない。……でも、俺の心臓を目標にするな。君の人生の敵を、俺にするな」
女の腹の奥が熱くなる。熱は悔しさの形だった。悔しいのに、言い返せない。言い返すと、努力の癖が出る。努力の癖は、勝つための言葉を出す。勝つための言葉は恋を壊す。女は勝たない。勝たないために、短く言う。
「敵にしない。……好きな人にする」
男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥がまた熱を持つ。熱が上がりきる前に、男の唇が女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね、鼻で短く吸いかけて止めた。
男が低い声で言う。
「今日から、苦しいな」
女は短く答えた。
「うん。……でも、今日から、二人」
二人という言葉の中に、救いと地獄が一緒に入っている。女はそれを知ったまま、男の手の甲に触れた指先を離さない。離さないのに、手首へ寄せない。寄せないことが、今夜の約束だった。
病院の奥で、その頃女医は端末の画面を見ていた。適合。待機。二人の名前。女医の指先が一拍だけ止まり、机の縁をなぞる。なぞった指が元へ戻り、次の手順を開く。救いになるなら、と口にしないまま、救いの形だけを進める。その形が、誰の何を壊すかを知りながら。
「俺は嫌だ」と言ったあとの男の声は、怒りじゃなくて、祈りに近かった。祈りに近い言葉は、言った本人の中身を空にする。空になった分だけ肩が落ちる。肩が落ちたのに、呼吸は短いままだった。短い呼吸は張りの形で、女はその形を壊さないように、男の手の甲に触れた指先の圧だけを一定に保った。触れている面は広げない。握らない。押さえない。手首へ寄せない。約束の形で、欲の形を止める。
「一緒に止める」と女が言うと、男は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは「分かった」より「耐える」の方に寄る。女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、男が息を吐く。短い。短いのに、さっきより少しだけ落ちる。落ちたぶんだけ、二人の間に「歩ける距離」が戻る。
帰り道、女は歩道の継ぎ目を数えた。男は半歩前に出ない。車道側に寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。幅を作る動作が正確すぎて、女はそれを「優しさ」と認めたくなくなる。認めた瞬間、胸の奥が熱を持つ。熱は危ない。危ないと分かっているのに、女は認めてしまいそうになる。だから数える。数えて、数の中に感情を押し込む。
部屋に戻ると、静けさが先に来た。静けさは速さを大きくする。女は蛇口をひねり、水の音を一定にして、一定の音に呼吸の置き場を借りた。男は上着を掛ける。掛ける指先が一拍忙しい。忙しさが見えると、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返すために女はコップを一つだけ出し、距離を揃えないまま水を注いだ。揃えないのに、指が揃えたがる。揃えたがる指を止めるだけで、今日は疲れる。
男がコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。ゆっくりな喉の動きに引っ張られて、女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのが分かってしまい、女は悔しくて流しの金属の反射へ目を固定した。固定したまま、男が言う。
「適合って言われた瞬間、俺、君の顔が変わるのが怖かった」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、押し返してから短く言った。
「変わった。……欲が出た」
言ってしまった瞬間、口の中が乾く。乾いた喉で吸い直しが出そうになるのを、女はエプロンの紐の硬さを指で押して止めた。男は「欲」という単語を嫌がるように眉を寄せかけて、寄せる前にやめた。やめたのは、約束の形だった。嫌だと言う代わりに、男は言葉を選ぶ。
「欲が出ても、俺が君を怖がる言葉にしないで。……俺は、君を好きでいたい」
好きでいたい、は、逃げ道がない。女の胸の内側が跳ね上がり、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、短く息を吐いた。
「私も。……だから、言う。今日から、怖いのは私だけじゃない」
男が一拍だけ黙る。その沈黙の間に、男の手が女の手首へ行きそうになって止まる。止まって、手の甲を上にして差し出す。女はその形に救われ、指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は触れている面を増やさず、圧だけ一定に保った。
そのまま夕飯を作ろうとして、女は包丁を握った瞬間に手が僅かに震えた。震えは疲労の形でもあるし、怖さの形でもある。どっちにしても、今は危ない。女は包丁を置いた。置いた音が硬くて、女の胸が跳ねる。跳ねたのを押し返す前に、男が低い声で言った。
「今日は、作らなくていい。買おう」
買おう、の提案が「休め」じゃなく「一緒に逃げ道を作る」になっているのが、女は好きだと思ってしまう。好きだと思った瞬間、熱が立つ。女は熱を押し込めるために、短く言った。
「うん。……ありがとう」
男は「どういたしまして」を言わなかった。言葉を増やすと乾くのを知っているみたいに、ただ女の手の甲を一度だけ押して、位置を動かさずに待った。待たれると女の呼吸が一つ落ちる。落ちるのが悔しくて、女は目線を床へ落とし、床の目地を数えた。
コンビニの袋を開ける音がして、箸が触れる音がして、テレビをつけない静けさが続いた。静けさの中で、男がふいに言う。
「俺、今日“嫌だ”って言っただろ。……嫌なのは、君のことじゃない」
女は返事をすぐに作れなかった。作ると乾く。乾くと浅くなる。浅くなると、さっき止めたはずの影が伸びる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから短く言った。
「分かってる」
「分かってるのに、苦しい顔してた」
女は笑えなかった。笑うと呼吸が乱れる。乱れると速さが出る。速さが出ると影が伸びる。女は笑わずに言った。
「苦しい。……努力で勝てる場所じゃないから」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「勝つ」という単語を拾い、拾ったまま落とす。
「勝たなくていい。勝ったら、俺が負けるみたいになる」
女の胸が跳ねる。跳ねたのは驚きだった。男は続けた。
「君が俺の心臓を目標にした瞬間、俺は“敵”になる。君が敵と戦ってる顔になる。……それ、俺、耐えられない」
女の腹の奥が熱を持つ。熱は悔しさと、愛しさが混ざった形だった。女はそれを言葉にすると壊れるのを知っている。だから短く言う。
「敵にしない。……今日、医者の前で言った。好きな人にするって」
男の吐く息が少し長くなる。長くなった息が落ちる前に、男の唇が女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね、鼻で短く吸いかけて止めた。止めた息のまま、女は男の手の甲に指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しいのに、今夜はその悔しさを武器にしない。
夜、布団に入ると、男は手首へ寄せなかった。寄せないまま、手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が長くなる。女の呼吸が一つ落ちる。落ちた瞬間、女の中で「これならいける」が立ち上がりそうになって、立ち上がりかけたそれが一番危ないと分かる。いける、は、対策へ繋がる。対策は、白い文字へ繋がる。女は目を閉じ、布団の縫い目を数えて、その立ち上がりを数の中へ押し込んだ。
そのとき男が小さく言った。
「もし俺が、弱くなるなら」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く返す。
「弱くなるって、何」
男は一拍置いてから言った。
「死ぬのが怖くなった俺。走れない俺。……終わりを理由に出来ない俺」
女はその言葉に、自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。熱は、守りたさに似ている。守りたさは欲の入口になる。女は入口に立たないために、男の手の甲に触れたまま、言葉を短く切った。
「弱くなっても、好き。……でも、救うために奪わない」
男の指が女の手の甲を一度だけ押す。圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。男が低い声で言う。
「奪うって言葉、やめよう」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。男はその詰まりを追わず、ただ言う。
「俺が怖いって言ったら、君も怖いって言って。……隠さないで」
女は短く答えた。
「うん」
その「うん」の中に、今日の夜が全部入っていた。恋と欲と、約束と、白い文字の残像。入っているのに、口にしない。口にした瞬間に、二人の関係が医療の言葉に侵食される気がする。女はそれが嫌で、手の甲の触れ方だけを守った。
同じ夜、病院の奥で女医はファイルを閉じていた。適合の結果は事実。けれど彼の心臓のデータの端に、小さな赤が増えている。増えた赤を見た女医の指先が一拍だけ止まり、机の縁をなぞる。なぞった指が元へ戻り、予定表の欄を開く。「心理評価」の枠を、もう一つ前へ寄せる。寄せた瞬間、女医は表情を変えないまま息を一度だけ吐き、吐いた息が机に落ちる前に、次の確認を始めた。次の渇望を生む引きは、彼らの知らないところで、もう動いている。
朝、女は目を開けた瞬間に「適合」という単語が頭の中で点滅しているのを感じて、反射で目を閉じた。閉じても点滅は消えない。消えない点滅は呼吸を浅くする。浅くなると胸の内側が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、布団の端を指で押し、硬さを返してもらって吐ける呼吸を一つだけ落とした。
隣の男はまだ眠っている。眠っているのに眉間がほんの少し硬い。硬い眉間を見ると女の胸が跳ねそうになり、女は視線を天井へ固定した。固定している間に、男のまぶたが動く。視線が女の顔へ向かう前に女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さを「約束の形」だと受け取ってしまう。受け取ってしまうと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返して、短く言った。
「通知、来てる。心理評価、前倒し」
男は「来たか」とだけ言い、布団の中で手を探す。手首へ寄せそうになって止まり、手の甲を上にして差し出す。女はそこへ指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の肩が少し落ち、吐く息がほんの少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は指先の面を広げすぎないように止め、鼻で短く吸って短く吐いた。
「今日、別々に呼ばれるって」
女が言うと、男の吐く息が一度だけ短くなる。短い息は「張り」だ。女は反射で触れている圧を一定にし、触れる面を増やさずに一拍待つ。男の息が少し長く落ちたところで、男が言った。
「君、俺の代わりに喋らないで」
女は頷きかけて止めた。止めると喉が狭くなる。女は短く切った。
「喋らない。私のことだけ喋る」
男が小さく「うん」と返し、返した声が掠れている。掠れは乾きの形だ。乾きが見えると、女は水を出したくなる。水を出す動きは「整える」に繋がる。整えると安心する。安心は危ない。安心が「これならいける」を呼ぶからだ。女はそれを知っていて、だから水の音を一定にする代わりに、ただコップを一つだけ出し、距離を揃えないまま置いた。男がそれを見て、言葉を増やさずに飲む。飲み込む喉の動きがゆっくりで、女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのが悔しくて、女は流しの金属の反射へ目を固定した。
病院へ向かう道、男は半歩前に出ない。車道側に寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムで息を押し返す。病院の入口の自動ドアが開く音が乾いていて、女の喉が一瞬だけ狭くなる。狭くなった喉で吸い直しが出そうになるのを、女は唇を閉じて止めた。男が「手」と言わず、手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。その一拍が、今日の入口を越えるための橋になる。
待合で呼び出しを待っている間、女医が現れた。白衣。袖口が整い、ファイルの角が揃っている。女の指が角へ吸われそうになって止まる。止めたぶん指先が熱を持つ。女は膝の上で親指の腹を押し、硬さで戻した。女医の視線は二人の喉を追わない。追わないまま、短く言った。
「今日は別々。順番に。言葉を急がない」
男が頷く。頷きが小さい。女が頷く。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。女医はそれを追わない。追わないまま男へ向けてだけ言う。
「あなたは、終わりを理由にしてきた。今日は、その理由を“守り”として使ってきたのか、“逃げ”として使ってきたのか、そこを見ます」
男の肩が少し上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲に指先を置き、触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に女は触れる面を増やさずに止めた。
男が呼ばれ、面談室へ消える。ドアが閉まる音が小さく、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返すために女は椅子の座面を指で押し、硬さを返してもらって呼吸を落とした。落とした呼吸のあと、女は自分の手首に指を当てた。速い。揃わない。揃わない速さが「努力でどうにかならない」場所をずっと指差している。指差されると腹が立つ。腹が立つと熱が立つ。熱は危ない。女は手を離し、代わりに床の模様を数えた。
次に呼ばれたのは女だった。面談室は小さく、机と椅子、そして記録用の端末がある。女医ではない心理士が座っていて、声は柔らかいのに、質問の角度が鋭い。「あなたは、努力で乗り越えてきたことが多い?」女は頷きかけて止め、短く答えた。「多い。…でも上限だけは動かない」心理士が「上限があるとき、あなたは何をしますか」と聞く。女は一瞬、答えが自動で出そうになった。もっとやる、だ。もっとやる、は女の骨に刻まれている。刻まれている返事を出すと、また同じ道へ戻る。戻る道の先にあるのは、昨日の白い文字だ。女は喉の手前で息を押し返し、言葉を短く切った。
「上限を、敵にする」
言った瞬間に、胸の内側が跳ねる。敵にする、という言い方がまさに男の言った“敵”だからだ。心理士が静かに「敵にすると、何が起きますか」と聞く。女は笑えない。笑うと呼吸が乱れる。女は目線を机の角へ落とし、角へ吸われそうになる指を膝の上で握り、短く答えた。
「勝つための言葉が出る。…好きな人も、敵にしそうになる」
心理士はそこで「誰を」と聞かなかった。聞けば女が逃げるのを知っているみたいに、次の質問へ行く。「あなたは、恋愛で“負け”をどう感じますか」女は喉が狭くなる。恋愛に勝ち負けを持ち込むのが、いちばん汚いと思っているのに、やってしまう側だと自分が分かっている。女は唇を閉じ、押し返してから短く言う。
「負けるのは怖い。…でも勝つのはもっと怖い。勝ったら、相手が壊れる気がする」
心理士が「壊れる、とは」と聞く。女はここで、ようやく“心臓”を言葉にするしかない。言葉にすると乾く。乾くと浅くなる。女は息を短く落としてから言った。
「私は、相手の“落ち着き”に触れると楽になる。楽になると、欲が出る。欲が出ると、止めるのが難しくなる」
“止める”という単語を使えたことが、女の中で少しだけ救いになる。奪う、という言葉を使わずに済んだからだ。心理士は頷き、淡々と次の項目へ進める。「あなたの競技人生は誰の影響で始まりましたか」女は答えたくない。答えたくないのに、答えないと今日の面談が意味を持たない。女は喉の手前で息を押し返し、短く言った。
「親」
その一文字で胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、膝の上の親指の腹を押して硬さを返してもらい、なんとか次の言葉を落とす。
「誉められると走れた。怒られると、もっと走った。…どっちも、走る理由になった」
面談が終わる頃には、女の指先が冷たくなっていた。冷たいと胸の内側が跳ねる。跳ねるのを押し返しながら待合へ戻ると、男が先に出てきていた。顔色は変わらない。姿勢も崩れていない。なのに袖口を直す指が一拍忙しい。女はその忙しさを見て喉が狭くなる。狭くなった喉で言葉を増やせない。女は男の手の甲へ指先を置いた。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱が上がる前に、女は触れる面を増やさずに止めた。
男が低い声で言った。
「俺、逃げだった」
女は「逃げるな」と言わなかった。言えば勝つための言葉になる。女は短く言った。
「言えたの、逃げじゃない」
男の吐く息が少し長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しいのに、その悔しさを今日の武器にしない。女は言葉を短く落とす。
「帰ろう」
帰り際、女医が二人を呼び止めた。廊下の端で、声だけを落とす。「次は“二人”で話す。あなた達の言葉の癖を揃える。勝ち負けの単語は捨てる。止めるのは、相手じゃなく“衝動”」女はその言い方に、少しだけ救われる。男は「うん」と短く返し、女も頷く。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。女医はそれを追わず、最後にだけ付け足した。
「それと、今日言った“嫌だ”は良い。嫌だは生きたいの裏返し。裏返しを、二人で表に戻していこう」
病院を出た外気が冷たく、女の喉を刺す。刺されると吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は手首へ寄せず、手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなった息の隙間で、女は胸の中の命令を少しだけ言い換えた。
――今は、恋でいろ。
――止めるのは、相手じゃない。衝動だ。
次の面談は“二人で”だった。廊下の灯りは白く、白いほど言葉が乾く。女は唇を閉じ、喉の手前で息を押し返しながら歩幅を一定にする。男は半歩前に出ない。車道側に寄る癖は病院の中でも出て、壁際を避ける位置取りで女の肩に当たる空気を弱める。女はその正確さを優しさと呼びたくなくて、床の模様を数えた。数えるリズムの中だけ、胸の内側の速さが耳に刺さらない。
小さな面談室の机には、封筒が一つだけ置かれていた。角が揃っている。揃っている角に指が吸われそうになり、女は膝の上で親指の腹を押して硬さを返してもらう。女医は白衣で入ってきた。袖口が整い、視線が二人の喉を追わない。追わないまま、結論を伸ばさない声で言う。「今日やるのは、決断じゃない。運用の確認。あなた達の“約束”を医療の手順に落とす」。男の肩が少し上がり、吐く息が短くなる。女は反射で男の手の甲へ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息がほんの少し長くなり、女はその変化を“効いている”と認めたくなくて目線を机の縁へ落とした。
女医は封筒を開けず、言葉だけを先に置く。「彼の心臓は今すぐ止まらない。でも“ストレスで壊れやすい”のは事実。あなたの心臓は今すぐ折れない。でも“上限で乱れやすい”のも事実。適合は事実。だからこそ、あなた達の衝動が最短距離を探す」。女は喉が狭くなる。最短距離という言葉は、努力の癖と同じ方向を向いている。女医はそこで一拍置き、二人の呼吸が張る前に続けた。「ここからは“ストップの手順”を先に決める。止めるのは相手じゃなく衝動。そのための合図を作る」。男が低い声で聞く。「合図って、何」。女医は淡々と答えた。「言葉。動作。連絡先。あなた達は“手の甲”で止めている。良い。でもそれが効かない時が来る。その時、言葉が要る」。
封筒が開かれ、紙が一枚だけ出た。見出しは短い。「危険時のルール」。女は読まない。読めば揃えたくなる。揃えたくなると熱が立つ。熱が立つと衝動が伸びる。女医の指が要点だけを叩く。「一、どちらかが“早い呼吸”になったら、その場で“止める”と言う。二、手の甲に触れて一拍待つ。三、それでも戻らなければ“外へ出る”。四、外でも戻らなければ私に連絡。五、決して“手首”に行かない」。男が一瞬だけ目を伏せ、喉が乾いた音を小さく出す。女医はそこを追わない。「あなた達は今、触れ方に“救い”を作っている。救いは必要。でも救いに依存の形を与えると、恋が医療に吸われる。恋を守るための医療を、医療のための恋にしない」。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。恋を守る、という言葉は甘いのに冷たい。冷たいから正しい。
面談の終わり際、女医は男へだけ追加を落とした。「あなたにはもう一つ。症状が出た時、“我慢して帰らない”。あなたは終わりを理由にできる癖がある。今日はそれを逃げに使わない」。男の肩が少し上がる。女は反射で手の甲に触れ、触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。女医は女へ視線を移す。「あなたにはもう一つ。努力でどうにかなる話に変換しない。“勝てる形”に落とすと、衝動が正当化される」。女は短く頷く。頷きが遅れて息が詰まり、顎を引いて押し返す。女医は頷きの遅れを見ないふりをして、封筒を閉じ、角を揃えて言った。「今日は帰って、この紙を部屋に置く。読まなくていい。置いてあるという事実が、衝動のブレーキになる」。
帰り道、病院の自動ドアの外で風が刺した。刺す冷気に喉が狭くなり、女は吸い直しを抑えようとして短く吸いかけて止める。男が止まった。止まった瞬間、女は“言葉”が来るのを知る。男は手首へ寄せず、手の甲を上にして差し出した。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。その長くなった隙間で、男が低い声で言った。「俺さ、今日“我慢して帰るな”って言われて、腹立った」。女は短く息を吐いた。「腹立っていい」。男は続ける。「腹立つってことは、生きたいってことだよな」。女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返し、短く言う。「そう」。男が笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。「怖いな」。女は“奪う”を使わない。代わりに短く言う。「怖い、って言っていい」。男の肩が少し落ちる。吐く息が少し長くなる。女はその変化を“勝ち”にしない。ただ、今日の一歩として持って帰る。
ここまで。今日は「結論」じゃない。運用を入れただけ。次は、このルールが日常で一回だけ試される回に入る。
部屋に戻ると、男は言われた通りに封筒を机の上へ置こうとして止まった。置くと角を揃えたくなる。揃えたくなると女の指が吸われる。吸われると女は熱を持つ。熱は衝動へ繋がる。男はその連鎖を、もう一度だけ頭の中でなぞってから、机じゃなく冷蔵庫の扉に封筒を当てた。磁石を探し、見つけたのは旅行土産のどうでもいい丸い磁石で、それを封筒の角に押し当てる。押し当てる圧は弱いのに位置が妙に正確で、女はその“正確さ”が今の二人の呼吸の型みたいに見えてしまって、喉が狭くなる。狭くなった喉で吸い直しが出そうになり、女は唇を閉じて押し返した。
「読まなくていい、って言われた」
男が低い声で言う。女は頷きかけて止めた。頷くと息が詰まる。女は短く返す。
「うん。置くだけ」
封筒が冷蔵庫に貼られた見た目は、生活感が強すぎて笑えそうになるのに笑えない。神棚でもお札でもない。ただの紙。なのに、紙が“止め方”になっている。女はそれが悔しくて、悔しいのに安心もしてしまいそうで、安心が一番危ないと知っていて、台所の蛇口をひねって音を一定にした。一定の音に呼吸を寄せて、寄せすぎないように押し返す。
男が台所の入口で立ち止まり、視線を封筒へ向けかけて、向けるのをやめた。やめた動きが慎重で、女はその慎重さに救われる。救われると腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は水を止め、手を拭き、タオルの端を揃えないようにわざと少しだけずらした。
「腹減った」
男が言う。短い。乾かない。女はその短さを真似る。
「うん。簡単にする」
“簡単にする”が、今日の正解になるのが少しだけ悲しい。努力を積む癖がある女にとって、簡単にするは負けに聞こえる。勝ち負けを捨てると決めたばかりなのに、頭が勝手に戻る。戻る前に、女は包丁を取らずに済むものを選び、皿を二枚出して、距離を揃えないまま置いた。揃えないだけで指先が落ち着かない。落ち着かないのが悔しくて、女は目線を皿の縁から外し、床の目地へ落とした。
食べている間、男はほとんど喋らなかった。喋らないのに、女の呼吸が浅くなりそうな瞬間だけ、男の指が宙で一拍止まる。その止まり方が、言葉を飲み込む形だと女は分かってしまう。分かってしまうと、女は何か言いたくなる。言うと乾く。乾くと浅くなる。女は言わずに、ただ噛む回数を一定にした。
食べ終わって片付けに入ったとき、女の手が一度だけ震えた。皿を持ち上げた瞬間、指先が冷たくなる。冷たいと胸の内側が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は唇を閉じて押し返したが、押し返しきれずに鼻で短く吸いかけて止める。止めた息が胸の奥で暴れ、暴れたぶん鼓動が速くなる。速くなるのが自分で分かってしまい、分かった瞬間に“遅い心臓”の価値が頭の中で勝手に増え始める。
増える。
増えると、最短距離を探す。
最短距離は、紙の向こう側へ繋がる。
女は皿を置いた。置いた音が硬い。硬い音は自分の中の危険信号みたいで、喉がさらに狭くなる。
男が気づいた。気づき方が早いのに、手首へ行かない。行かないまま、低い声で、決めた言葉を落とした。
「止める」
その一言で女の胸が跳ねる。跳ねた反動で呼吸が浅くなり、浅い呼吸がさらに速さを呼ぶ。女は唇を閉じて押し返し、返事を短くする。
「……止める」
男はすぐ手の甲を上にして差し出した。女はその手の甲に指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。待つ一拍が長い。長いと逆に怖さが増える。増える前に男が次の手順へ進めた。
「外、出る」
女は頷きかけて止める。頷くと息が詰まる。女は短く言う。
「うん」
二人は玄関を開けて廊下へ出た。外気が冷たく、冷たいほど喉が刺される。刺されると吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返して、鼻で短く吸って短く吐いた。短く吐いたはずなのに、胸の奥の速さはまだ止まらない。止まらない速さに意識が吸われ、吸われた意識がまた最短距離を探しそうになって、女は廊下の床の継ぎ目を数えた。数えるリズムに呼吸を押し込む。押し込むと胸が苦しい。苦しいと怖い。怖いと、言葉が欲しくなる。
男が低い声で言った。短く。
「怖い?」
女は言い切る。言い切るのが今日のルールだ。
「怖い」
男も短く言う。
「俺も」
二人の“怖い”が並んだだけで、胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れたのが悔しいのに、悔しさが今は助けになる。女は悔しさを握りしめる代わりに、男の手の甲に触れている指先の圧を一定に保った。圧を変えると縛りになる。縛りは依存になる。依存は恋を壊す。
男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は目を閉じて、短く吐いた。吐いた息が冷えて白くなり、その白さが病院の紙の白さに重なりそうになって、女は目を開けて床を見る。床の継ぎ目を数える。数える。数える。
男が言う。
「戻ってきた?」
女は自分の胸の内側へ意識を向ける。速さはまだある。まだあるが、さっきみたいに“突き抜け”ではない。息が置き去りになっていない。女は短く答えた。
「少し」
男が頷く。頷きが小さい。小さい頷きは“続ける”の合図だ。男は言葉を増やさない。増やさず、手の甲を上にしたまま待つ。待たれると女の呼吸が一つ落ちる。落ちた瞬間、女の中で“これならいける”が立ち上がりそうになって、立ち上がりかけたその瞬間が一番危ないと分かって、女はすぐ言葉で釘を刺す。自分に。
「今のは、衝動」
男が短く返す。
「うん。衝動」
二人で同じ単語を置くと、衝動が“外側のもの”になって、胸の内側の速さがもう一段だけ落ちる。落ちたことで、女は初めて自分の指先の冷たさに気づいた。冷たい指先が、今の自分を支えているみたいで、女はその感覚が少しだけ怖くて、でも手放したくなくて、結局、男の手の甲に触れたまま一拍だけ待った。
部屋へ戻ると、冷蔵庫の封筒が目に入る。見るだけで胸が跳ねかける。跳ねかけたのを押し返し、女は視線を外した。男も封筒を見ない。見ないまま、玄関で靴を揃え、揃え終えた指先が縁に一拍残る。残った一拍が妙に静かで、女は“さっきの手順が使えた”という事実だけを胸の中へ置いた。
男が低い声で言う。
「……電話、する?」
女医に、という意味だ。手順の四。女は喉の手前で息を押し返し、短く答えた。
「しない。戻った。……でも、記録する」
男の目が一瞬だけ動く。動いた目が女の喉へ落ちかけて、落ちないように外れる。外れ方が慎重で、女はその慎重さに救われる。
「記録、って」
女は冷蔵庫へ行き、封筒の横にメモ用紙を一枚だけ貼った。揃えない。角度をわざと少し斜めにする。斜めに貼るだけで指先が落ち着く。女は短く書く。「皿の音→呼吸浅い→止める→外→戻る」。それだけ。勝ち負けも、正しさも書かない。衝動だけ書く。
男がそのメモを見て、低い声で言った。
「……俺ら、今日、ちゃんと止めたな」
女は“ちゃんと”を勝ちに変換しそうになって、変換する前に短く返した。
「止めた。……一回」
“一回”が大事だ。一回で終わらないから。終わらないことを知った上で、一回を積む。その積み方だけが、今は恋を守る。
男が手の甲を上にして差し出す。女がそこに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるほど、女の中の速さが少しだけ遅れる。遅れるのが悔しい。悔しいのに、その悔しさが今日のブレーキになる。
女は胸の中で命令する。今日の分だけ、少しだけ具体的に。
――止める。外へ出る。衝動を相手にしない。
――そして、今夜は、手首へ行かない。
朝、冷蔵庫の扉に貼られた封筒の横で、昨日のメモが斜めに揺れていた。紙の端が少し反っていて、その反りが視界の端で動くたび、女の喉の奥が乾く。乾くと吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、メモの端だけ指で押さえた。押さえる圧を強くしない。強くすると揃えたくなる。揃えたくなると速さが立つ。
背後で男の足音が止まる。止まった一拍が長い。長いと胸の内側が跳ねやすくなる。女はメモから目を外し、床の目地へ視線を落とした。落としたまま、男の手の甲が上を向いて差し出される。女はそこへ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなり、女の胸の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間、女は反射で指先の面を広げそうになって止めた。
男が低い声で言った。
「紙、見てるだけで、上がるな」
女は短く返した。
「上がる」
男の指が宙で一拍止まり、止まったまま言葉を選ぶ。
「……今日、外に出る?」
女は頷きかけて止めた。頷くと息が詰まる。女は短く言った。
「近所だけ。短く」
外へ出るだけで空気が刺さる。刺されると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返して歩幅を一定にする。男は半歩前に出ない。車道側へ寄り、風を弱め、段差の前で幅を作る。幅の作り方が正確で、女の胸の内側が跳ねそうになり、女は歩道の継ぎ目を数えた。数えるリズムの中でだけ、胸の内側の速さが耳に刺さらない。
角を曲がったところで、男の端末が鳴った。音が短い。短い音は短い言葉を呼ぶ。男は画面を見て止まり、止まった一拍が長い。女の喉が乾き、吸い直しが出そうになって、女は唇を閉じた。
男は出なかった。出ないまま、端末の画面を伏せる。伏せた指の骨が浮き、手の甲の筋が固くなる。固くなったまま、男が一歩だけ歩こうとして止まる。止まった足が、地面に置き直される。置き直される動作が硬い。
女は見ないふりをしようとして、出来なかった。出来ない瞬間、胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返し、短く息を吐いた。
男が低い声で言った。
「止める」
女は返事を短く落とした。
「止める」
男は手の甲を上にして差し出す。女は指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持ちそうになって止める。熱が立つ前に、男が次の手順へ進めた。
「外」
外はもう外だが、二人の中で“外”は場所じゃなく動作だった。男は道の端へ寄り、壁に背をつけず、しゃがまない。しゃがむと戻れなくなる形になる。男は膝に手を置き、指先の力を抜こうとして抜けない。抜けないまま、吐く息が短くなる。短くなると肩が上がる。肩が上がると喉が乾く。乾くと、女の喉も乾く。
女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、男の手の甲に触れている圧を一定に保った。圧を変えると縛りになる。縛りになると、戻るより先に別のものへ引っ張られる。
男の息が一度だけ止まり、止まったあと短く吐く。短い吐き方がさっきより鋭い。鋭い吐き方が続くと、女の胸の内側が跳ねる。女は跳ねを押し返し、床の継ぎ目を数えた。数えながら、短く言った。
「今、上がってる」
男は頷きかけて止め、声だけ落とした。
「上がってる」
同じ単語を置くと、胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた隙間で、男が喉を鳴らす。乾いた音が小さく出る。男は端末を握り直し、画面を見ないまま言った。
「……帰る、は違うよな」
女は短く返した。
「違う」
男の指が端末の側面を一度だけ押し、押した指が震える。震えを止めるみたいに、男は手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息は少し長くなるが、戻り切らない。戻り切らない長さが続くと、次の手順が来る。
男が低い声で言った。
「電話、する」
女は「私が」と言わなかった。言えば代わりになる。代わりになると、男の口が止まる。止まった口は張りになる。女は短く「うん」とだけ落とし、男が端末を耳に当てるのを待った。
呼び出し音が二回で切れ、女医の声が出る。女医は名乗りを短くし、男は説明を短くした。
「息、短い。胸、詰まる。今、外。戻り切らない」
女医の声は間を伸ばさない。
「我慢しない。来る。今から。歩ける?」
男は一拍置き、置いた一拍で息を押し返してから答える。
「歩ける。遅いけど」
「遅くていい。水、少し。冷やさない。走らない」
通話が切れる。切れた瞬間、男の指先が端末を握り直し、骨が浮く。浮いた骨が少しずつ沈む。沈むのに、息の短さはまだ残っている。女は男の手の甲に触れたまま、触れている圧だけを一定に保った。
男が低い声で言う。
「今、俺の口で言えた」
女は頷かない。頷くと息が詰まる。女は短く返した。
「言えた」
病院までの道は、歩幅をさらに揃えた。男は半歩前に出ない。女も半歩前に出ない。並ぶだけで、二人の足音が一つの長さになる。長さが揃うと呼吸が一拍だけ落ちる。落ちたのが分かってしまい、女は歩道の継ぎ目を数えた。数えるリズムで、胸の内側の速さを押し返す。
検査棟の入口で女医が待っていた。白衣。袖口が整い、視線が男の喉へ落ちてすぐ外れる。外れ方が早い。女医は男の肩の位置だけを見る。肩が上がっている。上がり方が戻り切っていない。
女医が短く言った。
「こっち」
案内されたのは小さな処置室だった。ベッドに座らされ、胸に小さな装置が貼られる。貼られる冷たさで男の肩が一度だけ跳ね、跳ねた反動で息が短くなる。女医は「止めない」とだけ言い、男は唇を閉じて押し返す。女はベッドの横で立ち、男の手首へ行かない。行かないまま、男の手の甲が上を向いたところに指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなるが、まだ戻り切らない。
装置の画面に波形が出る。女は見ない。見ると合わせようとする。合わせようとすると速さが立つ。女は壁の一点だけを見る。男は画面を見ずに、女医の声だけ聞いた。
女医が言う。
「出た。短い乱れ。ストレス反応。……あなた、帰ってたら、もっと長引いた」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「うん」とだけ返した。短い返事の後、女医が紙を一枚だけ出し、机の上に置く。角が揃っている。女は目を逸らし、床の目地へ視線を落とした。
女医は言葉を増やさない。
「今日から、これ。二十四時間。記録。症状が出た時間、何をしてたか、メモ。あなた達の斜めのメモでいい」
男が一拍黙り、黙ったまま吐く息が少し長くなる。長くなった隙間で、男が低い声で言った。
「……俺、我慢して帰らなかった」
女医は頷きも褒め言葉も置かない。置かないまま、短く言う。
「次も、それ」
処置が終わって廊下へ出ると、男の歩幅が少しだけ小さくなった。小さくなった歩幅に女が合わせる。合わせると、女の胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間に、女は指先の面を広げそうになって止めた。止めたまま、男の手の甲に触れている圧を一定にする。
男が低い声で言った。
「俺、今、胸が落ちた」
女は短く息を吐き、短く返す。
「落ちたなら、歩ける」
男の唇が、女の額へ一度だけ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、鼻で短く吸いかけて止める。止めた息のまま、女は歩道の継ぎ目を数え始めた。
冷蔵庫に貼られた封筒の隣に、今夜はもう一つ増える。二十四時間の装置と、短いメモ。増えるものが増えるほど、最短距離も増える。増える最短距離を、二人は今日も手の甲だけで止めていく。
帰り道の空気は冷たかったのに、男の胸の落ち方はさっきより確かだった。確かでも、歩幅は小さいまま。小さい歩幅が“守り”の形で、女はそこに合わせる。合わせると胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間に、女の指先が勝手に面を広げそうになって止める。止める。今日の合図はもう身体に入っている。触れるだけ。握らない。押さえない。手首へ行かない。
部屋に戻ると、冷蔵庫の封筒が真っ先に目に入った。隣の斜めメモも残っている。紙が増えるのは、最短距離が増えるのと同じだ。女は視線を外し、玄関で靴を揃えようとした指を止め、止めた指先の熱を床の硬さに押し付けて戻した。男は上着を掛ける。その動作が丁寧すぎる。丁寧すぎると張りが隠れる。隠れると怖い。怖いと、女は水の音を一定にしたくなる。一定は安心になる。安心は危ない。女は蛇口をひねらず、代わりに机の上へメモ帳を一冊だけ置いた。揃えない。角度を少しだけ斜めにする。斜めは、衝動に勝ち負けを与えないための工夫だった。
男は胸に貼られた装置を、服の上から一度だけ押さえる。押さえる圧は弱いのに、位置が正確で、女はその正確さに胸が跳ねかけた。跳ねかけたのを押し返して、女は短く言った。
「記録、いつ書く」
男は一拍置いて、置いた一拍で息を押し返してから答えた。
「今。忘れる前」
男が“今”と言ったのが嬉しい。今までの男なら“あとで”に逃げていた。嬉しいと腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は嬉しさを表情にしないまま、メモ帳の一ページ目を開く。男はペンを取って、字を整えようとして止める。止めたのは、整えると安心になってしまうからだと女は分かってしまう。分かってしまうと胸が跳ねる。女は跳ねを押し返し、床の目地へ目線を落とした。
男が短く書く。「昼過ぎ 電話 息短い 外 来院」。書いたあと、ペン先が紙の上で一拍止まる。止まった一拍が長い。長いと、言葉が来る。
男が低い声で言った。
「これ、俺の弱さの証拠みたいだな」
女は“弱い”を否定しない。否定すると勝ち負けになる。女は短く切る。
「証拠でいい。次、早い」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「早い」と繰り返し、繰り返したあとで手の甲を上にして差し出した。女はそこへ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱を上げないために、女は指先の圧を一定にして、短く息を吐いた。
夕飯はまた“簡単”にした。簡単にするたび、女の中で「負け」が頭を出す。頭を出した瞬間に“勝ちたい”が続く。勝ちたいは衝動の口実になる。女は口実を作らない。包丁を使わず、火も短く、皿の距離は揃えない。揃えない生活が、こんなに疲れるとは思っていなかった。疲れると心拍は上がる。上がると、また彼の遅さの価値が増える。増える価値を止めるために、女は噛む回数を一定にした。
食べ終えて片付けに入ったとき、装置が小さく震えた。震えは通知の形だった。音は鳴らない。鳴らないのに、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、男の顔を見ないふりをした。男も装置を見ないふりをする。見ないふりは、張りを呼ぶ。張りが呼ばれる前に、男が低い声で落とした。
「止める」
女は返す。
「止める」
ここで“外”に行くほどではない。女はそう判断したくなる。判断したくなるのが危ない。女は判断を自分だけでしない。代わりに、メモ帳を開いて、装置の震えの時間を見て、短く書く。「夜 片付け 装置振動」。それだけ書いた瞬間、衝動が“外側”へ逃げて、女の胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れたのが悔しいのに、その悔しさが今日のブレーキになる。
男が低い声で言う。
「今の、何だ」
女は答えを長くしない。
「反応。…でも、止めた」
男は「止めた」を繰り返し、手の甲を上にして差し出したまま待つ。待たれると女の呼吸が一つ落ちる。落ちた瞬間に“これならいける”が立ち上がりそうになって、立ち上がりかけたその瞬間が一番危ないと分かって、女は自分に釘を刺すみたいに言った。
「いける、は言わない」
男が短く返した。
「うん。言わない」
夜、布団に入ると、装置の存在が肌の上に残る。残る存在は現実だ。現実は甘さを削る。削られると逆に、甘さが欲しくなる。欲しくなるのが怖い。怖いのに、男は手首へ寄せず、手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。男の吐く息が長くなる。女の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間、装置がまた小さく震えた。震えは静か。静かな震えが、逆に残酷だった。
男が低い声で言った。
「……キス、今はやめる?」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く言う。
「短くなら、いい」
男の唇が女の唇へ触れる。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、装置がもう一度だけ震えた。震えたことが分かった瞬間、女の中の衝動が“証拠”を得たみたいに立ち上がりそうになって、女はすぐ言葉で止めた。
「衝動」
男が短く返す。
「衝動」
二人で同じ単語を置くと、震えが“恋の証拠”になりそうなのを、ただの反応に戻せる。戻せた瞬間、女は息を一つだけ吐けた。吐けた息が落ちる前に、男が低い声で続ける。
「俺さ、さっきの震え……嬉しいって思った」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。男が急いで言葉を追加しない。追加しないのが、今日の優しさだ。女は押し返した息の隙間で、短く返した。
「嬉しい、は危ない」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「分かってる。…でも俺、終わりを理由にしてたくせに、今は“続きたい”って思った。だから怖い」
女は“怖い”を受け取る。勝ち負けにしない。救うために動かない。代わりに、手の甲に触れた圧を一定にして、言葉を短く落とした。
「怖い、って言っていい」
男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は目を閉じて、布団の縫い目を数え、数えるリズムで衝動を押し込んだ。
眠りに落ちる直前、男が小さく言った。
「明日、また震えたら……俺、ちゃんと書く」
女は短く返す。
「うん。…一回ずつ」
その“一回ずつ”が、今の二人の終盤の速度だった。進むけど、畳まない。詰めるけど、壊さない。冷蔵庫の封筒は、今夜もただそこに貼られている。読まなくていい紙が、読まずにいる二人を止めている。
朝、冷蔵庫の封筒は昨日と同じ位置に貼られていて、隣の斜めメモだけが増えていた。増えたメモの文字が、生活の中で勝手に呼吸の角度を決めようとしてくる。女は目線を外し、外した目線を床の目地へ落とした。落としただけで胸の内側が跳ねかけ、跳ねかけたのを唇を閉じて押し返す。押し返した息が喉に残る。残ると乾く。乾くと吸い直しが出る。女はそれを出さないように、指の腹で冷蔵庫の取っ手を一回だけ押し、硬さで自分を戻した。
隣で男が、胸の装置を服の上から一度だけ押さえた。押さえた圧は弱いのに位置が正確で、女はその正確さに胸が跳ねかける。跳ねかけた瞬間に“原因”を探したくなる。原因を探すと最短距離が立ち上がる。立ち上がった最短距離は、紙の向こう側へ繋がる。女は顎を引き、短く言った。
「今、鳴った?」
男は首を小さく振った。振る動きが遅れて息が詰まりかけ、男は自分で押し返してから答える。
「鳴ってない。でも、なんか…来そう」
“来そう”の言い方が、昨日までの男より正確で、女は腹の奥が熱を持ちそうになる。熱は危ない。女は熱を上げずに、男の手首ではなく手の甲へ指先を置いた。触れるだけ。握らない。押さえない。触れて一拍待つ。男の吐く息が少し長くなり、女の中の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間、女は面を広げそうになって止め、圧だけ一定にした。
そのまま朝の支度をして、二人はいつもの“短い生活”を積む。食器は揃えない。音は一定にしない。安心を作らない。安心が危ないからだ。危ないのに、安心は欲しくなる。欲しくなること自体が衝動の入口で、女は入口に立たないように、噛む回数を一定にした。
午前の終わり際、男の装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、部屋の空気が一段だけ硬くなる。硬くなると女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、言葉だけは短く落とす。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
男は手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。触れて一拍待つ。昨日までならそれで落ちるはずの呼吸が、今日は落ち切らない。落ち切らないと、女の中の癖が顔を出す。もっと正しく、もっと速く、もっと効率的に。つまり“勝ち”に行く。女はその癖を止めるために、口の中で一度だけ奥歯を噛み、短く言った。
「外」
男は頷きかけて止め、声で返す。
「外」
廊下へ出る。冷たい空気が喉を刺す。刺されると吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返し、床の継ぎ目を数える。数える。数える。男の吐く息は少し長くなるが、戻り切らない。戻り切らないまま、装置がもう一度震えた。震えが二回目になると、女の頭が勝手に“パターン”を作ろうとする。パターン化は対策になる。対策は最短距離になる。女は“対策”に行かないために、今できることだけを短くやる。
「電話」
男が先に言った。言った声が掠れているのに、言ったこと自体が今日の進歩で、女はそれを勝ちにしない。勝ちにすると、次の衝動の口実になる。女は短く「うん」とだけ落とした。
女医は二回で出た。男が説明を短くする。「朝から二回。外に出ても戻り切らない」。女医の声は間を伸ばさない。「来られる?」「歩ける」「遅くていい。走らない。触れ合いは、今は手の甲まで」。通話が切れたあと、男が息を吐く。短い。短いのに、さっきより少しだけ落ちる。落ちた隙間で男が低い声で言う。
「俺、今、怖いって言う前に電話できた」
女は頷かず、短く返した。
「できた」
病院では、女医が処置室に通した。波形を見て、短く言う。「回数が増えてる。悪化とは限らない。慣れが崩れた可能性もある。でも放置はしない」。放置しない、の言い方が医者の責任の形で、女はその硬さが少しだけ羨ましい。
女医は封筒とは別の紙を一枚だけ出した。角が揃っている。女は見ない。見れば揃えたくなる。女医は紙を読ませずに、内容だけを口で置く。
「追加ルール。今日から二十四時間、“触れない”。手の甲も禁止」
男の息が止まる。止まったあと短く吐く。短い吐き方が張りの形で、女は反射で手を伸ばしそうになって止めた。止めた瞬間、女の中で嫌なことが確定する。二人のブレーキは触れることだった。触れないは、ブレーキを外すに近い。外した状態で衝動と向き合うのは、危ない。危ないのに、女医は続ける。
「目的は二つ。ひとつ、触れ合いがどれだけ反応のトリガーになってるかを見る。もうひとつ、あなた達が“触れない止め方”を作れるかを見る。触れ合いを悪者にしない。でも、触れ合い一本で支えると、依存に変わる」
男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。
「俺ら、触れないと止まれない」
女医は言い切る。
「だから今、練習する」
女はそこまで黙っていた。黙っていると、頭が“最短距離”を探し始める。探し始めた瞬間に、勝ち癖が「じゃあ手術だ」と囁く。女はそれが怖くて、言葉を短く割って出す。
「触れないと、怖い」
女医は女を見て、追い詰めない声で短く返した。
「怖い、でいい。怖いのまま、手順を増やす」
増やす。増やすという単語が、女の中の努力癖と同じ方向を向いている。向いているのに、今日は“勝つために増やす”じゃない。“壊さないために増やす”だ。女はその違いを胸の中で一度だけ確かめ、顎を引いて息を押し返した。
帰り道、二人は並んで歩いたが、手は繋がない。繋がないだけで、歩幅が揃いにくい。揃いにくいと呼吸が浅くなる。浅くなると胸が跳ねる。女は歩道の継ぎ目を数え、男は目線を前に固定した。固定した目線の先で、男の喉が何度か動く。言いたい言葉があるのに、乾くのを怖がっている動きだった。
部屋に着いて、冷蔵庫の封筒が目に入る。今日から、触れない。紙は止め方の事実になる。事実があると、女の中の衝動が最短距離を探しやすくなる。女はそれを止めるために、机に新しいメモを置いた。斜めに置く。「触れない=ブレーキ練習」。それだけ。勝ち負けは書かない。
男が低い声で言う。
「今日、どうやって止める」
女は“手の甲”と言えない。言えば触れたくなる。触れたくなると衝動が立つ。女は短く答えた。
「言葉」
男が「言葉」を繰り返す。「止める、外、電話」。女は頷きかけて止め、声で返す。
「あと、合図を一個増やす」
「何」
女は一拍だけ迷った。迷うと熱が立つ。熱が立つと最短距離が立つ。女は迷いを短く切って落とす。
「白紙」
男が眉を少し動かす。
「白紙?」
女は頷かずに言う。
「衝動が勝ち負けを探し始めたら、“白紙”。その場で全部白紙にする。正しさも、効率も、最短距離も。今は白紙」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「それ、俺に効きそうだな」
女はその“効く”を勝ちにしない。短く返す。
「効かなくても、白紙」
夜、布団に入っても手は触れない。触れないだけで、二人の間の空気が薄くなる。薄いのに重い。重いから、余計に欲が立つ。欲が立つ瞬間に、女は胸の中で言葉を準備する。準備は勝ち癖の得意技だ。得意技を、今日は壊さないために使う。
装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、声だけ落とした。
「白紙」
男が一拍遅れて、同じ言葉を置く。
「白紙」
触れないまま、同じ言葉を置けた。置けた事実だけが、今夜の一歩だった。女はその一歩を、勝ちにせず、ただ積む。一回ずつ。数十回で。確実に詰める。
朝、女は目を開けた瞬間に「触れない」の文字が先に浮かび、浮いた瞬間に喉が乾いた。乾くと吸い直しが出る。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、布団の縫い目を数えた。数えるリズムの中で、胸の内側の速さが耳に刺さらない形を探す。隣の男は起きていた。起きているのに動かない。動かないのに、手が探すみたいに布団の上を一度だけ滑って止まる。止まった場所は、女の手の甲に届く距離だった。
届く距離が、いまは一番怖い。
男は手を引っ込める代わりに、手のひらを上にして握り込み、指先の力を抜こうとして抜けないまま、低い声で言った。
「白紙」
女は返事を短く落とした。
「白紙」
同じ言葉が並ぶと、届く距離が“ただの距離”に戻る。戻った隙間で女は息を一つだけ吐けた。吐けた息が落ちる前に、男が視線を女の喉へ落としかけて、落とさないように逸らす。逸らす動きが慎重で、女はその慎重さに救われそうになる。救われるのは危ない。救われると欲が立つ。女は床の目地へ目を落とし、短く言った。
「起きる。近づかない」
男も短く返す。
「うん。近づかない」
台所では、コップを二つ出した。距離を揃えない。揃えると安心になる。安心は危ない。女はわざと片方を少し遠くに置き、遠い方が男の手元に来るようにした。男はそれを見て笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「俺、今、“優しい距離”って言いそうになった」
女はすぐ言葉で止める。
「白紙」
男が「白紙」と繰り返し、喉が一度だけ動いて乾いた音が小さく出る。女はその乾きを見ないふりをして、水を注ぐ角度だけ一定にした。音を一定にしすぎない。一定は安心になる。安心は危ない。今日の生活は、全部が微妙だ。
午前の途中、装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉だけを先に落とした。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
ここで手の甲が使えない。使えないから、男は一歩下がった。下がる動作が“外”の代わりになる。女も一歩下がる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。刺されると吸い直しが出る。女は押し返しながら、床の継ぎ目を数えた。数える。数える。数える。男の吐く息が短くなり、短くなった息が続くと肩が上がる。上がる肩を見ると、女は触れたくなる。触れたくなるのが衝動だ。
女が短く言う。
「白紙」
男が一拍遅れて同じ言葉を置く。
「白紙」
言葉が合うと、肩が少し落ちる。落ちた分だけ男の吐く息が一拍だけ長くなる。完全には戻らない。戻らないのに、手を伸ばしてはいけない。女はその代わりにメモ帳を開き、ペンを持って、字を整えようとして止めた。整えると安心になる。安心は危ない。女は斜めのまま書く。「午前 震え 距離二歩 白紙」。それだけで、衝動が“外側”へ逃げる。逃げた隙間で女は息を一つだけ吐けた。
男が低い声で言う。
「触れないの、きついな」
女は“きつい”を否定しない。否定すると勝ち負けになる。短く返す。
「きつい。……でも、今だけ」
男が「今だけ」を繰り返し、喉がまた一度だけ乾いた音を出す。その乾きが、終わりを理由にしてきた人間の乾きだと女は思ってしまう。思ってしまうと胸が熱を持つ。熱は危ない。女は釘を刺すみたいに言った。
「白紙。理由、作らない」
男が小さく頷き、頷きが遅れて息が詰まりかけて、自分で押し返す。押し返してから言う。
「うん。理由にしない。……ただ、好きでいる」
好き、が来ると女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、距離を保ったまま、言葉を短く落とす。
「私も。……距離あっても、いなくならない」
男がその一言で目を伏せ、伏せた目がすぐ戻り、戻った目が女の喉へ落ちかけて止まる。止める動きが慎重で、女はその慎重さに救われそうになって、救われる前に自分で息を吐いた。
午後、女医から一度だけ連絡が来た。「震えの回数と、状況だけ報告」。男が自分の口で短く送る。「午前に一回。距離二歩と白紙で戻る」。送信のあと、男の肩が少しだけ落ちる。落ちた肩を見ると女の胸が跳ね、女は反射で一歩下がって、床の継ぎ目を数えた。数えることで、触れたい気持ちを“動作”に変える。今日の新しい止め方だ。
夜、布団に入る前に、男が低い声で言った。
「明日、触っていいって言われたら……俺、嬉しいって思う」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く返した。
「嬉しい、は危ない。……でも、嬉しい」
男が一拍黙ってから、息を吐く。少し長い。長い息の後、男が言う。
「じゃあ、嬉しいって言ったら白紙にする?」
女は首を小さく振った。
「白紙にしない。……嬉しいを、衝動にしないだけ」
男が小さく「うん」と返す。その返事が、今日いちばん恋っぽかった。触れないのに、同じ方向に立っている感じがする。感じた瞬間に女の中の速さが立ち上がりそうになって、女は自分で短く言った。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
触れないまま、言葉だけで止まれた。止まれた事実だけを、冷蔵庫の封筒の横に積む。今日も一回ずつ。畳まない。けれど、確実に終盤へ向けて、詰めていく。
朝が明るくなるにつれて、「触れない」のルールが“我慢”じゃなく“設計”として部屋に馴染んでいくのが、女は少しだけ腹立たしかった。馴染むのは、慣れるのは、勝手に進む。勝手に進むものは、努力の手触りがない。努力の手触りがないと、女の中の癖が空振りして、空振りした手が次の的を探す。次の的が“最短距離”に触れそうになって、女は冷蔵庫の扉を一度だけ押し、硬さで戻した。
男は黙っていた。黙っているのに、喉が何度か動く。言いたい言葉があるときの喉だ。言いたい言葉があるほど、胸の装置が気になる。気になるほど、触れたくなる。触れたくなるのが衝動だと分かっているから、男は視線を封筒に向けない。向けないまま、低い声で言った。
「今日、何時までだっけ」
女は答えを短く切る。
「夕方。…二十四時間」
男が「夕方」と繰り返し、そこで息を少しだけ長く吐く。長い吐息が出ると、女の胸の内側の速さが一拍だけ遅れる。遅れた瞬間に、女は“手の甲”へ行きたくなる。行きたくなるのを、女は言葉で止めた。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
言葉が合っただけで、距離が“ただの距離”に戻る。戻った隙間で女は息を一つ吐ける。吐けたことが悔しいのに、悔しさを武器にしない。悔しさは、今日のブレーキにする。
午前は静かに過ぎた。静かに過ぎるほど、細部が目につく。男の指先が装置を避ける角度、女が皿を揃えないように置いたズレ、冷蔵庫の封筒の端の反り。どれも“止めるための生活”で、止めるための生活が生活になっていくのが、逆に怖い。怖いのに、言葉にすると乾く。乾くと浅くなる。浅くなると速さが立つ。女は言わず、ただ噛む回数を一定にした。
昼前、装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、空気が一段硬くなる。硬くなると女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら、言葉だけ先に落とした。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
二人は同時に一歩下がる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。刺されると吸い直しが出る。女は押し返しながら、床の継ぎ目を数えた。数える。数える。数える。男の吐く息が短くなり、短い吐き方が続くと肩が上がる。上がる肩を見ると、女は“助ける動作”を探してしまう。助ける動作は、触れることだった。触れられない。触れられないと分かった瞬間、女の中の癖が別の解決を探す。
解決=最短距離。
その入口に足が掛かりかけて、女は言葉で床を抜いた。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
“白紙”が揃うと、男の肩が一段落ちる。落ちた肩に引っ張られて吐息が少し長くなる。完全には戻らないが、完全を目標にすると勝ち癖が起きる。女は完全を目標にしない。代わりにメモ帳を開き、斜めに書いた。「昼前 震え 距離一歩 白紙」。書くことで衝動が外へ逃げ、逃げた隙間で女の呼吸が一つ落ちる。落ちたのが悔しい。悔しいのに、悔しさが今日も助けになる。
男が低い声で言った。
「俺、今…触れなくても、戻れた」
女は“戻れた”を勝ちにしない。短く答える。
「戻った。…一回」
男が一拍だけ黙り、黙ったまま目線を前へ固定する。固定した目線の先で、男の喉が動く。言いたい言葉が出かけて止まる。止まった言葉が、次に出るときは強くなる。強い言葉は危ない。女は先に、短く言った。
「言っていい。短く」
男が低い声で落とす。
「手、欲しい」
女の胸の内側が跳ね上がる。跳ね上がった反動で喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。押し返した息の隙間に、女は短く返した。
「私も」
二人の“欲しい”が並ぶと、衝動が立つ。立つのに、触れない。触れないまま立った衝動を、どう扱うかが今日の練習だった。女は自分に釘を刺すように言う。
「衝動。…でも、今は触れない」
男が「うん」と返し、その返事が少し掠れている。掠れは乾きの形だ。乾きが見えると、水を出したくなる。水の音を一定にしたくなる。一定は安心になる。安心は危ない。女は水を出さず、ただコップを机の上へ置いた。距離は揃えない。揃えないまま、男の方へ少しだけ押し出す。押し出す動作が“触れない優しさ”になって、女はその言葉を付けそうになって止めた。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
夕方が近づくにつれて、男の装置が存在感を増した。存在感が増すほど、二人の会話が“テスト”みたいになる。テストは勝ち負けを呼ぶ。勝ち負けは衝動の口実になる。女はテストにしないために、わざとどうでもいい話題を一つだけ落とした。
「夕方、病院行く前に…飯、どうする」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「そこに逃げるの、助かる」
助かる、が恋っぽく聞こえて、女の胸が跳ねる。女は跳ねを押し返して、短く返す。
「逃げじゃない。…生活」
男が「生活」を繰り返し、吐息が少し長くなる。長い吐息が出ると、女の中の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間に“触れたい”が湧く。女は視線を床へ落とし、落としたまま言った。
「終わったら、どうなるか…医者が決める」
男が低い声で言う。
「俺は、決めていい?」
女は“いい”と即答したら、男が安心してしまうのが怖かった。安心は危ない。安心が“いける”を呼ぶ。女は短く切る。
「決めていい。…でも、嬉しいって言ったら、衝動扱い」
男が小さく息を吐く。少し長い。
「嬉しい」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、短く返す。
「衝動」
男も短く返す。
「衝動」
言葉が合っただけで、今夜までの距離が保てる。女はそれを“上手くいった”にしない。上手くいったは勝ちの匂いがする。勝ちは次の口実になる。女はただ、時計を見る。夕方の針が近づく。
病院へ向かう直前、男が玄関で靴を揃えかけて止めた。揃えると安心になる。安心は危ない。男は揃えないまま、低い声で言った。
「今日、触れないで過ごしたの…俺、きつかった。でも、良かった」
女は“良かった”を勝ちにしない。短く返す。
「良かった、は結果じゃない。…事実」
男が頷き、頷きが遅れて息が詰まりかけて、自分で押し返す。押し返したあと、男が言う。
「終わったら、まず何したい」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返して、言葉を短く切った。
「手。…でも、手の甲から」
男の唇が笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「俺も。…手の甲から」
その同意が、恋の形だった。触れていないのに、同じ順番を選べる。女はその事実を胸の中へ置き、置いたまま、冷蔵庫の封筒を一度だけ見た。見ただけで胸の内側が跳ねかける。跳ねかけたのを押し返し、女は玄関の外へ出る。
二十四時間の終わりは、今日の終わりじゃない。
ただ、“触れない”という一本足の椅子から降りて、次の足を増やすだけ。
増やし方を間違えなければ、終盤へ向かって詰めていける。
病院へ向かう道は、いつもより短く感じた。短いのに、触れない二十四時間の終わりが目の前にぶら下がっているせいで、歩幅の揃え方がぎこちなくなる。男は半歩前に出ないまま、でも手が勝手に女の手の甲の位置を探しそうになって、探しそうになった瞬間に指を握り込んで止めた。女はその握り込みを見て喉が乾き、乾きを押し返すために歩道の継ぎ目を数えた。数えるたびに胸の内側が跳ねかけるのに、跳ねかけたところで“触れない”が先に来て、先に来たルールが逆に衝動を煽る。
検査棟の入口で自動ドアが開く。消毒の匂いが刺さる。刺さると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、短く言った。
「白紙」
男も同じ言葉を置く。
「白紙」
二人で同じ単語を置くと、入る足が揃う。揃った足取りのまま受付を済ませ、呼ばれて小さな面談室へ入ると、女医が先に座っていた。白衣の袖口が整い、ファイルの角が揃っている。女は角を見ない。見れば揃えたくなる。揃えたくなると勝ち癖が起きる。女は膝の上で親指の腹を押し、硬さで戻した。
女医は挨拶を伸ばさずに言う。
「二十四時間、完走した?」
男が一拍置き、その一拍で息を押し返してから答える。
「した。触れてない」
女医は頷かない。褒めもしない。事実だけを並べる声で続けた。
「記録、見た。震えは二回。触れない状態でも出た。つまり、触れ合いはトリガーになり得るけど、原因の全部ではない。あなた達の“期待”と“警戒”が、同じ場所で心拍を揺らしてる」
女の胸が跳ねる。“期待”は恋の言葉なのに、ここでは症状の言葉だ。女は喉が狭くなるのを押し返して、短く言う。
「触れない方が、怖かった」
女医は視線を女の喉へ落とさず、淡々と言った。
「当たり前。触れ合いがブレーキになってたから。ブレーキが一本足だと、一本折れた瞬間に転ぶ。だから足を増やす。今日は“触れる”を戻す。ただし、戻し方を決める」
男の息が一度だけ止まり、止まったあと短く吐く。短い吐き方に女の胸が跳ねかけ、女は唇を閉じて押し返した。女医は紙を一枚だけ机に置く。角が揃っている。女は見ない。女医は読ませずに口で置く。
「接触プロトコル。触れていいのは三つの場面だけ。①挨拶、②不安定時の“止める”の直後、③就寝前。触れる場所は手の甲のみ。時間は“三呼吸”。三呼吸が終わったら離す。離して、言葉で“今ここ”を確認する。キスは禁止。抱き締めは禁止。理由は簡単。今は衝動と恋が同じ速度で走るから」
男が低い声で聞く。
「三呼吸って……短い」
女医は即答した。
「短くていい。短いのに戻れる、を体に覚えさせる。長い接触は、安心を作る。安心は“いける”を作る。“いける”はあなた達にとって最短距離の入口になる」
女の腹の奥が熱を持つ。“いける”が自分の癖だと、医者に言われる形で確定するのが悔しい。悔しいのに、悔しさが今日のブレーキになる。女医は男へ視線を移す。
「あなたの方は、波形の乱れが“増える方向”に寄ってる。悪化と断言はしない。でも放置はしない。追加検査を組む。今日はその前に、あなた達の生活の止め方が機能している事実を確保する」
男が一拍黙ってから言う。
「俺、我慢して帰らないのは出来た」
女医は頷かないまま言う。
「次もそれ。あなたが“嫌だ”と言えるのは良い。嫌だは生きたいの裏返し。ただし、嫌だを“何もしない理由”にしない」
女医の言葉が終わって、部屋の空気が一拍だけ静かになる。静かになると、二人とも同じことを思う。触れていい。手の甲だけ。三呼吸だけ。短いのに、今日の世界の中心みたいに重い。男が言葉を探し、探したまま止まる。止まった言葉が乾きに変わりそうで、女は先に短く言った。
「今、ここで、やる?」
女医が淡々と言う。
「やる。練習。私の前で」
男が手首へ行かないように、手を膝の上で握り込んでから、ゆっくり手の甲を上にして差し出した。女はそこへ指先を置きかけて止める。止めた瞬間、胸の内側が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、決めた手順を言葉にする。
「止める。……三呼吸」
男が低い声で繰り返す。
「三呼吸」
女は男の手の甲へ指先を置く。触れるだけ。握らない。押さえない。触れた瞬間に胸の内側が跳ね上がり、女は鼻で短く吸いかけて止める。止めた息を落とす場所を探して、探して、女は呼吸を数える。ひとつ。男の吐く息が少し長くなる。ふたつ。女の速さが一拍遅れる。遅れたのが悔しくて面を広げそうになり、広げずに圧だけを一定にする。みっつ。女は指先を離す。離した瞬間、喉が乾く。乾きを押し返して、言葉を置く。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
女医はそこで初めて、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「それ。短いのに戻れる、を積む。今日からまた記録。衝動が勝ち負けを探し始めたら“白紙”。白紙は続けていい。ただし、白紙を合図に触れるのは禁止。白紙は距離を取る合図にする」
帰り道、病院の外気が刺さっても、二人はさっきの三呼吸を体の中でなぞれるようになっていた。玄関を出てすぐ、男が立ち止まる。止まった一拍が長い。長いと衝動が顔を出す。男は言葉を短く落とした。
「……もう一回、挨拶」
女は頷かずに答えた。
「三呼吸」
男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ。ふたつ。みっつ。離す。離したあと、二人は同時に言う。
「今、ここ」
短い。足りない。足りないのに、足りないまま止まれるのが、今日の一歩だった。
部屋へ戻る道で、女は自分の胸の内側が「三呼吸」を勝ち負けに変換しようとしているのを感じて、腹の奥がむっと熱くなった。短い接触で戻れた、は本来ただの事実なのに、事実が増えると女の癖はすぐ「効率化」に走る。効率化は最短距離を呼ぶ。最短距離の先には、紙の向こう側がある。女は歩道の継ぎ目を数え、数えるたびに喉の手前で息を押し返した。男は半歩前に出ない。出ないまま、手の甲を探しそうになる指を握り込み、握り込みが強くなりすぎないようにほどく。そのほどき方が妙に丁寧で、女はそれを“恋”と呼びたくなって、呼びたくなった瞬間に「白紙」を喉の奥で転がした。
玄関の前で男が立ち止まる。止まった一拍が長い。長いと衝動が立つ。衝動が立つと女は触れたくなる。触れたくなるのを先に言葉へ逃がして、女は短く言った。
「挨拶、する?」
男が低い声で返す。
「三呼吸」
男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女は指先を離す。離した瞬間に喉が乾く。乾きを押し返して、二人は同時に置いた。
「今、ここ」
短いのに、玄関の鍵より先に“帰宅”が成立した気がした。成立した、と思った瞬間が危ない。女はその気配を自分で潰すように、靴を揃えかけた指を止め、止めた指先の熱を床へ押し付けた。
冷蔵庫の封筒はまだ貼られている。隣の斜めメモも増えている。今日からさらに「接触プロトコル」の紙が増える。紙が増えると、最短距離も増える。女は紙を“読む”誘惑を避けるために、封筒の前を通る動線を少し変え、代わりに机の端へ小さなカードを二枚置いた。カードには太い字で「白紙」「今、ここ」。角度は揃えない。揃えたら安心になる。安心は危ない。
男がそのカードを見て、小さく笑いかけて笑いが出ないまま言った。
「これ、修行道具みたいだな」
女は“正しい”に寄せない。短く返す。
「道具。…勝ち負けにしない道具」
男が「勝ち負け」を繰り返し、喉が一度だけ乾いた音を出す。乾きの音が出ると、女は水の音を一定にしたくなる。一定は安心になる。安心は危ない。女は蛇口をひねらず、代わりにコップを机に置いた。距離は揃えない。揃えないまま男へ押し出す。押し出した動作が“触れない優しさ”に見えて、女はまた「白紙」を胸の中で言う。
夕飯は簡単にした。簡単にした瞬間、女の中の癖が「負け」を探す。探した瞬間に「勝てる形」が立ち上がる。立ち上がる前に女は噛む回数を一定にして、衝動を“動作”に変えた。男は食べながら、胸の装置を避ける角度で呼吸をしている。避ける角度が自然になりすぎて怖い。怖いのに、怖さを言葉にすると乾く。乾くと浅くなる。女は言わずに、箸先の置き方をわざと乱して視線を皿の縁から外した。
片付けの前、男が低い声で言う。
「就寝前、三呼吸、だよな」
女は頷かない。頷くと息が詰まる。短く返す。
「うん。…でも、今は挨拶の枠はもう使った」
男が一拍黙り、黙ったまま吐く息が少し長くなる。長い吐息が出ると女の速さが一拍遅れ、遅れた瞬間に女は触れたくなる。触れたくなるのを、女は先に言葉へ落とした。
「白紙」
男もすぐ置く。
「白紙」
二人の“白紙”が揃うと、就寝前までの時間が“ただの時間”に戻る。戻った隙間で、男が低い声で言った。
「俺さ、今日……三呼吸で離されたの、良かった。でも、離された瞬間、怖かった」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから短く返す。
「私も。…離すの、怖い」
男の目が一瞬だけ揺れ、揺れた目が女の喉へ落ちかけて止まる。止める動きが慎重で、女はその慎重さに救われそうになって、救われる前に息を短く吐いた。
夜、布団に入る。就寝前の枠。男が手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女が離す。離した瞬間、女の指先が“もう一呼吸”を求めて勝手に戻りそうになって、女は戻しそうになった指を握り込み、握り込みの強さを床の硬さへ逃がす。逃がした瞬間、男が低い声で言った。
「今、ここ」
女も置く。
「今、ここ」
短い接触のあと、短い言葉。これが今日の設計。設計を守れたのに、女の胸の奥には悔しさが残る。悔しい。悔しいと勝ちたくなる。勝ちたくなると最短距離が立つ。女はその連鎖を止めるために、カードの「白紙」を指で一度だけ押した。押す圧は弱い。弱いのに、指先の熱が少しだけ落ちた。
その直後、男の装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに、二人の空気が一段硬くなる。女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉だけ先に落とした。
「止める」
男がすぐ返す。
「止める」
ここで触れない。触れるのは“止める直後だけ”の枠に入っているのに、今触れたら「安心」を作る。安心は“いける”を作る。“いける”は最短距離の入口になる。女は触れないまま、距離を一歩下げた。男も一歩下げる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は押し返しながら、床の継ぎ目を数えた。数える。数える。数える。
男の吐く息が短くなる。短い吐息が続き、肩が上がりかける。上がりかけた肩を見て、女の中の衝動が「触れろ」と叫ぶ。叫びを聞いた瞬間、女はカードを見た。カードの字は太い。「白紙」。女は声だけ落とした。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
言葉が揃うと、男の肩が一段落ちる。落ちた隙間で、女はメモ帳を開き、斜めに書く。「就寝前 接触三呼吸→震え→距離一歩→白紙」。書いた瞬間、衝動が“外側”へ逃げ、女の呼吸が一つだけ吐けた。吐けたのが悔しい。悔しいのに、その悔しさが今日のブレーキになる。
男が低い声で言った。
「さっき、触れたくなった?」
女は嘘をつかない。短く答える。
「なった。…でも、触れたら安心になる。安心は危ない」
男が一拍黙ってから、少し長く息を吐いた。
「安心が危ない、って恋愛で言う言葉じゃないな」
女はそこで、ほんの少しだけ笑いそうになって止めた。笑うと呼吸が乱れる。乱れると速さが立つ。女は短く返す。
「だから、悲愛」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「それ、言い得てる」
装置の震えが落ち着き、二人の呼吸も戻る。戻ったところで、男の端末が一度だけ震えた。通知。女医からだ。男が画面を開き、短く読む。
「明日朝一、追加検査。今日の就寝前の震え、記録に出てる」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男が低い声で言った。
「増えてるな」
女は勝ち負けにしない。短く返す。
「増えてる。…だから、放置しない」
男が一拍黙り、黙ったまま、手の甲を上にして差し出しそうになって止める。止めたまま、低い声で言った。
「明日、怖いって言う前に行く」
女は頷かず、短く答えた。
「行く。…今は寝る。今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
短い言葉で夜を閉じる。触れられるのに触れない。触れられないのに言葉で止める。矛盾だらけの生活が、終盤へ向かうための“足”になっていく。足を増やせば、最短距離は遠ざかる。遠ざかった分だけ、二人は長く苦しめる。それが悲愛の残酷さで、同時に恋の延命でもある。
翌朝、男は目覚ましが鳴る前に起きていた。起きているのに動きが遅い。遅いのは落ち着きじゃなく、慎重さの方だった。胸の装置がまだ貼られていて、貼られている事実が「寝ている間の震え」を確定させる。確定が怖い。怖いのに、怖いと言う前に行くと昨夜言った。男はその言葉だけを握り込み、握り込んだ指が手の甲を探しそうになるのを、布団の端の硬さへ押し付けて止めた。
女は起き上がりながら、喉の手前で息を押し返した。押し返しが昨日より一拍だけ浅い。浅いと胸の内側が跳ねる。跳ねると「最短距離」が立つ。立つ前に、女は机のカードを見た。太い字の「今、ここ」。女は声を落とす。
「今、ここ」
男も同じ言葉を置く。
「今、ここ」
言葉が揃うと、朝の支度が“ただの支度”になる。女はコップを二つ出し、距離を揃えない。揃えないまま、水を注ぐ角度だけ一定にする。一定にしすぎない。安心を作らない。男は飲み込む喉の動きをゆっくりにして、ゆっくりのまま短く言う。
「怖いって言う前に行く」
女は頷かない。頷くと息が詰まる。短く返す。
「行く。…挨拶、三呼吸」
病院の入口で、二人は立ち止まった。消毒の匂いが刺さる。刺されると喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから、男の手の甲へ指先を置く。ひとつ。男の吐く息が少し長くなる。ふたつ。女の速さが一拍遅れる。みっつ。女が離す。離した瞬間に喉が乾く。乾きを押し返して、二人は同時に言う。
「今、ここ」
受付を済ませ、検査棟の待合で呼ばれるのを待つ間、男の胸の装置は外されなかった。外されないのは「まだ測っている」という意味だ。意味があるほど、男の喉が動く。言葉が出かけて止まる。止まるたび、女は“止める”を言いそうになって、その衝動を床の目地を数える動作へ変えた。数える。数える。数える。触れて止めるのは、今は必要な時だけ。必要を勝手に増やすと依存になる。
呼ばれて検査室へ入ると、女医がいた。白衣。袖口が整い、視線が男の喉へ落ちてすぐ外れる。外れ方が早い。女医は男の肩と呼吸だけを見る。肩が少し上がっている。吐く息が短い。女医は挨拶を伸ばさずに言った。
「追加検査。順番に。今日は“刺激”を避ける。焦らせない」
男が「うん」と短く返し、返したあとで喉が乾いた音を小さく出す。女医はそれを追わない。追わないまま、まず装置のデータを確認し、短く説明する。
「夜の震えは、記録に出てる。回数が増えてる。種類も増えてる。今のところ“危険”と断言はしない。でも、放置はしない」
放置しない、の言葉が机に落ちる。落ちた言葉が重い。女の胸が跳ねかけ、女は唇を閉じて押し返した。男は「嫌だ」と言わない。言えば逃げになるのを知っているから、代わりに短く聞く。
「何する」
女医は淡々と言う。
「心エコーの追加。採血。負荷はやらない。あと画像。心筋の状態を見る。原因が“ストレスだけ”に見えないから」
原因がストレスだけに見えない、は、世界が狭くなる言葉だった。男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男はその乾きのまま、短く言った。
「怖い」
女医は頷かない。褒めもしない。短く返す。
「怖いでいい。怖いままやる」
検査が始まると、男は言われた通りに“焦らない”を守ろうとする。守ろうとするほど呼吸が短くなる。短くなると肩が上がる。肩が上がると、女は触れたくなる。触れたくなるのが衝動だ。女は衝動を口にしない代わりに、手の甲の三呼吸を思い出して、指先の感覚を自分の中だけで再生した。再生した感覚は“触れずに止める”の練習になる。
心エコーの最中、男の体は動かないのに、波形が一度だけ乱れた。乱れたのは短い。短いのに、機械の音が一段だけ変わる。変わった瞬間、女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、声だけ落とした。
「白紙」
男が聞こえるくらいの小ささで返す。
「白紙」
言葉が揃うと、乱れが“今の出来事”に戻る。戻らないと、乱れが“未来”になる。未来になると最短距離が立つ。女は未来にしない。白紙にして、今の検査へ戻す。
検査が終わり、面談室へ戻る。女医はモニターの画面を一度だけ見てから、二人を見る。見る視線が、医者の視線だった。感情じゃなく運用の視線。女はその運用が少しだけ羨ましくて、羨ましいと腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は親指の腹を押し、硬さで戻した。
女医が言う。
「短い乱れが出た。昨日までの“生活の止め方”は効いている。でも、それと別に、心臓そのものの負担が増えている可能性がある。今日の画像で、そこを詰める」
男が低い声で言った。
「詰めるって…悪い方に?」
女医は言葉を濁さない。ただ、決めつけもしない。
「悪いと決めない。良いと決めない。事実を詰める。あなた達は、決めたがる癖がある。決めたがると最短距離が立つ。今日は最短距離にしない。検査で事実を出す」
女の喉が狭くなる。最短距離を止めるために、女は短く言った。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
次の画像検査の前、男は待合の椅子に座った。座っているのに肩が硬い。硬い肩を見ると女の胸が跳ね、女は触れたい衝動が立つ。立つ衝動を“必要”に変換しない。女は口を開き、短く聞いた。
「挨拶、もう使った。…止めるが必要?」
男は一拍置いて、自分で息を押し返してから答える。
「今は…必要じゃない。…ただ、怖い」
女は短く返す。
「怖い、でいい」
言っていい、ではない。女は“許可”にしない。二人の事実にする。男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。女は目線を床の目地へ落とし、数え始めた。
画像検査の呼び出しが来て、男が立つ。立った瞬間、男の足元が一拍だけぐらついた。ぐらつきは小さい。小さいのに、女の胸が跳ねる。跳ねを押し返す前に、男が自分で言う。
「止める」
女は返す。
「止める」
女医が近づく。近づき方が速いのに、触れない。触れないまま男の前へ立ち、短く指示する。
「座る。水、少し。冷やさない。呼吸、鼻。止めない」
男が座り、唇を閉じて押し返す。女は手を伸ばさない。伸ばすと安心を作る。安心は危ない。女は代わりに、男の視界に入る位置にカードを置く。太い字の「今、ここ」。男の目がカードに一瞬だけ留まり、留まった隙間で吐く息が少し長くなる。
女医が言う。
「今日の検査はここまでを一続きにする。あなたの体は、緊張から回復するのに時間がいる。時間がいることを“弱さ”にしない。運用にする」
運用にする、は、女に刺さる言葉だった。女の中の努力癖が「勝てる形」に変換しそうになって、変換する前に女は自分で言った。
「白紙」
男が一拍遅れて置く。
「白紙」
白紙にしたから、今は“検査を受ける”だけになる。検査の結論は、まだ出ない。出さないのが正しい。出した瞬間に最短距離が走るからだ。
帰り際、女医が最後にだけ低い声で言った。二人に聞こえるように、でも余計な人には聞こえないように。
「私は準備はしている。でも、準備を“決行”にしない。あなた達が壊れない形しか取らない。だから、今日の事実を持って帰って。…今日の事実は、“我慢しなかった”と“止められた”」
男が小さく「うん」と返し、返した声が掠れている。女はその掠れを“終わり”に繋げない。繋げたくなる衝動を、カードの文字で押し返す。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
帰り道の空気は冷たかったのに、二人の足取りは昨日より揃っていた。触れていないのに揃う。揃うのに、安心しない。安心が危ないから。終盤へ進むために、今日も一回ずつ、確実に詰めていく。
帰り道、男は「歩ける」と言った通りに歩いた。歩けているのに、肩が落ち切らない。落ち切らない肩は、息の短さを隠すために固まっている形で、女はそれを“根性”と呼びたくなくて、歩道の継ぎ目を数えた。数えるリズムに呼吸を押し込む。押し込むと胸が苦しい。苦しいと、最短距離が頭を出す。頭を出した瞬間に、女はカードの文字を思い出す。
――今、ここ。白紙。
部屋に着く直前、男が玄関前で止まった。止まった一拍が長い。長いと衝動が立つ。衝動が立つと触れたくなる。触れたくなるのを、女は言葉に変えた。
「挨拶」
男が低い声で返す。
「三呼吸」
男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ。男の吐く息が少し長くなる。ふたつ。女の速さが一拍遅れる。みっつ。女は離す。離した瞬間に喉が乾く。乾きを押し返して、二人で置く。
「今、ここ」
鍵を開けて中へ入ると、冷蔵庫の封筒と斜めメモが視界に刺さった。刺さると胸の内側が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、動線をずらして机へ向かった。机の上にカードが二枚。「白紙」「今、ここ」。角度は揃えない。揃えたら安心になる。安心は危ない。
男は上着を掛ける前に、胸の装置を服の上から一度だけ押さえた。押さえた圧は弱いのに位置が正確で、女の胸が跳ねかける。跳ねかけた瞬間に“原因”を探したくなる。探すと最短距離が立つ。女は床の硬さへ親指を押し付けて戻し、短く聞いた。
「痛い?」
男は首を小さく振る。振りが遅れて息が詰まりかけ、男は自分で押し返してから言う。
「痛くない。……怖いだけ」
女は“言っていい”にしない。事実として置く。
「怖い。……分かった」
それだけ言うと、男の吐く息が少し長くなる。長くなると女の速さが一拍遅れる。遅れると触れたくなる。触れたくなるのを、女は台所へ逃がした。蛇口をひねりたい衝動を抑え、代わりにコップを二つ出して距離を揃えないまま置く。揃えないだけで指先が落ち着かない。落ち着かないのが悔しくて、女は机の端を見た。
カードの「白紙」。
男が背後で低い声を落とす。
「俺、さっきの検査のとき、ちょっとだけ思った」
女は振り向かない。振り向くと喉が乾く。短く返す。
「何」
「もし、俺がここで倒れたら、君、勝ちに行くだろ」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。勝ちに行く、という言葉が痛い。痛いのに正しい。女は嘘をつかない。短く言う。
「行く。……癖」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。
「癖が怖い。俺は、君に救われたいのに、救われ方で君を壊しそうになる」
女はその言葉を抱きしめたくなる。抱きしめると衝動になる。衝動になるのが怖い。女は抱きしめない代わりに、言葉を短く切った。
「壊れない形で救う。……今は運用」
男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。
「運用って、恋人が言う言葉じゃない」
女はそこだけ、息を短く吐いた。吐いた息が落ちる前に装置が小さく震えた。音は鳴らない。鳴らないのに空気が硬くなる。硬くなると胸が跳ねる。跳ねを押し返す前に、男が先に言った。
「止める」
女も返す。
「止める」
触れるのは“止める直後”の枠に入っている。入っているのに、今触れたら“安心”が出る。安心は“いける”を作る。“いける”は最短距離の入口になる。女は触れないまま一歩下がり、男も一歩下がった。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら床の継ぎ目を数える。数える。数える。数える。
男の吐く息が短くなりかける。肩が上がりかける。上がりかけた瞬間、女の中の衝動が叫ぶ。触れろ。今なら許されてる。叫びを聞いた瞬間に女はカードを見る。太い字の「白紙」。声だけ落とす。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
言葉が揃うと、男の肩が一段落ちる。落ちた隙間で吐く息が少し長くなる。戻り切らない。戻り切らないのに、触らない。触るのは“戻ったあと”にする。順番を守るのが今日の運用だ。女はメモ帳を開き、斜めに書く。「帰宅直後 会話→震え→距離一歩→白紙」。書いた瞬間、衝動が外側へ逃げ、女は息を一つ吐けた。吐けたのが悔しい。悔しいのに、その悔しさがブレーキになる。
男が低い声で言う。
「……今、触っていい?」
女は“欲しい”を否定しない。否定すると勝ち負けになる。女は短く答える。
「戻ってから。……今、戻った?」
男は自分の胸へ意識を向け、喉を一度鳴らしてから言う。
「少し。まだ完全じゃない」
「じゃあ、触らない」
言い切った瞬間、女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は押し返し、同時に悔しさを噛み殺した。男はその悔しさを責めない。責める代わりに、低い声で言う。
「ありがとう」
ありがとうが恋っぽい。恋っぽい言葉は危ない。危ないのに、危ないと言わずに、女は短く返す。
「今、ここ」
男も置く。
「今、ここ」
そのタイミングで、男の端末が震えた。女医から。男が画面を開き、短く読む。読んだ瞬間、喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は画面を伏せ、声を落とした。
「画像、所見が出た。……今日中に電話。二人で、って」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返す。押し返しながら、カードの文字を目でなぞる。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
白紙にしても、現実は消えない。消えない現実を、最短距離にしない。女はそれだけに集中し、短く言った。
「電話、待つ。……待つ間は生活」
男が「生活」を繰り返し、吐く息が少し長くなる。その長い吐息が、今の男にとって一番の“生きたい”だった。女は触れたい衝動を飲み込み、飲み込んだまま、就寝前の枠を思い出す。
今夜は、三呼吸。
そして、言葉。
所見の話は、電話で聞く。聞いた後に壊れないように、今は壊れない準備だけを積む。
電話は、夕飯を“生活”として片付け終えた頃に来た。男の端末が震え、震えた瞬間に部屋の空気が一段硬くなる。硬くなると女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してからカードを見る。「今、ここ」。声だけ落とす。
「今、ここ」
男も同じ言葉を置いた。
「今、ここ」
その二つが揃ってから、男は通話を取った。スピーカーにして机の上に置く。置くと揃えたくなる。揃えたくなる衝動を女は親指の腹で押して潰し、机の端の斜めメモへ視線を落とした。女医の声が出る。いつも通り、間を伸ばさない声だった。
「画像の所見が出た。二人とも今、息を落とせる? 短くでいい」
男が一拍置き、その一拍で息を押し返してから答える。
「落とせる。…今、ここ」
女も短く言った。
「今、ここ」
女医はそれで進める。言葉を飾らないまま、事実だけを置く。
「あなたの心臓に、負担の増え方がある。筋肉の一部が硬くなっている所見。炎症か、過去のダメージか、どちらにせよ“ストレス反応だけ”では説明しきれない。短い乱れが増えたのは、その上に緊張が乗っている可能性が高い」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は「嫌だ」と言わない。逃げにしないために、代わりに短く聞いた。
「今、どうなる」
女医は即答しない。即答すると最短距離が走るからだ。だから手順で答える。
「明日、追加の血液検査。炎症の指標、免疫の指標。薬の調整。生活のプロトコルは続ける。倒れる前に止められている事実は大きい。けれど“放置して良くなる”所見ではない」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、勝ち癖が「じゃあ手術」と囁きかける入口を、カードの文字で塞いだ。「白紙」。声だけ落とす。
「白紙」
男も一拍遅れて置く。
「白紙」
女医は続ける。声が少しだけ低くなる。責任の音だった。
「選択肢の話もする。今すぐ決めさせない。でも“考えない”も許さない。あなたは今、時間の使い方が変わった。終わりを理由にできない状態で延びる時間は、苦しい。苦しいまま、選択肢を机に並べる」
男の吐く息が短くなる。短くなりかけた瞬間、男が先に言った。
「止める」
女が返す。
「止める」
ここで触れない。触れたら安心が立つ。安心は“いける”を作る。いけるは最短距離の入口になる。女は一歩だけ下がり、男も一歩下がった。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は喉の手前で押し返しながら床の継ぎ目を数え、数えたリズムで息を戻した。男の吐く息が少し長くなったところで、女医が話を戻す。
「選択肢は三つ。ひとつは、薬と監視を強めて様子を見る。ふたつめは、移植評価を正式に進める。現実的には待機が長い。みっつめは……あなた達が一番考えている方法。私は口にすると衝動が走るから、今は名前を言わない。ただ“実験的手段”として机に置く」
女の腹の奥が熱を持つ。熱は危ない。危ないのに、熱が立つのが“欲しい”の正体だと分かってしまう。女は熱を押し込めるために、短く言った。
「名前を言わない、で助かる」
女医は淡々と返す。
「助かるならそうする。私はあなた達を煽らない。煽らない代わりに、準備だけはしている。倫理委員会、手技、シミュレーション。あなたが苦しんでいるのを知っているから、救いになるならと考えてしまう。その衝動を私も運用で止める」
男の喉がもう一度だけ動く。乾いた音が小さく出る。男は低い声で言った。
「先生も、衝動あるんだな」
女医は間を置かずに答えた。
「ある。だから勝手に進めない。あなた達が壊れる形ではやらない。明日、面談を取る。二人で来る。今日は、寝る前の三呼吸まで守って。震えが出たら、今まで通り。白紙。距離。必要なら電話。私の番号は今日も生きてる」
通話が切れたあと、部屋に静けさが落ちた。静けさは速さを大きくする。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返した。男は机の上の端末を見ない。見ないまま、低い声で言った。
「明日、面談」
女は短く返す。
「明日、面談。…今日は生活」
男が「生活」を繰り返し、吐く息が少し長くなる。長い吐息が出た瞬間、女の速さが一拍遅れる。遅れた瞬間に触れたくなる。触れたい衝動が立つ。立った衝動を、女は言葉に変える。
「白紙」
男も置く。
「白紙」
夜、就寝前の枠。男が手の甲を上にして差し出す。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先がもう一呼吸を欲しがって勝手に戻りそうになり、女は戻しそうになった指を握り込み、握り込んだ力を布団の縫い目へ逃がした。
男が低い声で言った。
「今、ここ」
女も置く。
「今、ここ」
言葉のあと、男が小さく言う。小さいのに、逃げじゃない言葉だった。
「俺、怖い。…でも、今日、決めない」
女は短く答える。勝たない。救わない。奪わない。今はただ、隣にいる。
「うん。決めない。…明日、事実を聞く」
冷蔵庫の封筒は、今日もただ貼られている。紙の向こう側は近くなったのに、二人は最短距離に走らないための足を増やした。増やした足が増えるほど、苦しみは長くなる。長くなるほど、恋は延命する。延命が救いか地獄かは、まだ決めない。明日、事実を聞いてからだ。
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