壊れるぐらい愛して

ふしきの

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 朝、登が研究室に来てみると、秋元の首に鈴木が綺麗なヘッドロックをしていた。
「ぎぶぎぶっ」ていう声がかすれて聞こえないのか、頭に血が上りすぎているのかヘッドロックをかましたまま二人そろっては部屋の中でふらふら移動している。
「何をやっているんですか!」
「だって、学のやつが…」うえーん、と言う皆実の大泣きに登がびっくりした。「共同研究のためにアフリカに行くっていうんだもん」
 少し緩んだようで、学はギブアップの手でバンバンテーブルを叩いた。
「死ぬから、落ちるって!本当に!」
「行かないって言うまで絞める~!」
 と言う皆実を、懸命に登は手を外そうとした。
「止めてあげて!本当に!!!」
 叫び声をあげる登。
 ドアが開いてのほほーんとした顔の柴田教授が出勤してきた。
「聞いたよぉ。よかったねー、秋元君、アジア圏では一人だったんだって。激戦の選考を潜り抜けたのは今までの地味な努力を認められた君の成果のたまものだよ!まあ、紫外線に気をつけてがんばんなさいな」
 そう言って教授はどっこいしょっと腰をおろした。
 泣く泣く皆実は学から手をほどいた。
「本当に死ぬかと思った」
 学の声が潰れていた。
「サバンナ暮らしは、やぶ蚊と、ハエに気をつけないとね。後、ぼやっとしてたら国立公園とはいえ密輸団もいるからね。知り合いのクレー射撃場教えておいてあげようか?何事も勉強!」
「どのくらい行かれるんです?」
 登は学に聞くと、
「それがよく分からないんだよね!」と言った。「期間は三カ月契約の動物学、植物学、地質学者の研究グループの一つなんだけど、何せ向こう標準はアバウトだから」
 皆実から朝のお茶を受け取ると、柴田教授は一息ついた。
「大陸的思考ってやつだからねぇ。何につけ、やれる準備をやって万全の対策をしておかないといけないよぉ」
 学はドンと置かれた自分用のマグカップの礼をちょこんと皆実にしながら、
「そーなんですねー。だから準備がどれほどいるかなんてわからないでいるんで」
「まー、あせらずのんびりってのが研究の第一歩だよ」
 柴田教授は朝のお茶をのんびりとすすっていた。
 皆実だけが取り残されたように給湯室に引きこもって、わんわん泣いていた。
「まあ、まあ、あの子五月蠅いから、そこらへんの喫茶店でモーニングでも食べて糖質あげておいでよ」
 そう言ってお札を一枚出すと学は頭を下げて、給湯室でわめいている皆実を連れて出ていった。
「あの子たちは、研究者として喧嘩ばかりしてたけど、案外仲良かったんだよね」
「寂しくなりますか?」
「暫くは落ち着かないだろうけれど、新しい風が又吹いてきたら変わるだろうし。その時になったらふたまわりも大人になった秋元君も帰ってくると思うんだろうけどねぇ。…学者は部屋にばかり籠って脳を使うのもいれば、土に手をつけてそれを感じるのもいるってものだ。何につけても変化のない脳なしで海外渡航を許可させるほど私も老衰してはいないよ」
「そうですか」
 登はそう答えた。
「後で帰ってきたら盛大に冷やかしてやろうじゃないか」
 と、老人独特の乾いた笑いをした。
「小学生ですか!」
「お、君も言うようになったねぇ。関心関心」

 仕事帰り、登は一人で電車に乗って自分の帰る場所があるということをなんとなく幸せに思った。毎日、眠そうな顔で弁当を作ってくれる人がいる。
 それを愛おしいと思って、前の日の散々な恥ずかしい思いをされて声の出ない重たい体を起こすと、温かい湯気の香りが寝室にまでしてくる。
「馬鹿だなぁ」と登は呟いてみた。
 平凡な毎日とはこういうものなのだろうかと。
 登は夕暮れの街を見つめていた。降りる駅はもう次だ。
 そして、背中に何か冷たいものが当たるのを感じた。そこがだんだん鋭い痛みを感じ、重くなっていくのを感じた「帰らないと…家で啓吾が待っている」そう思っても車内は悲鳴と、自分の気が遠のいているのが分かった。手先が震え寒いと感じるまもなく、膝が崩れた。

 平凡な幸せが欲しいだけなのに…。

 どうしてなのだろうか。

 登の意識が薄闇に覆われた。
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