雲間の眼

中野ぼの

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3 毒の牙

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 空の眼とは一体何なのだろう。
 それが突如としてこの世に現れてからすぐのころ、僕は天体望遠鏡を持っている友達を含めた五・六人のメンバーで空の眼を山中まで観測しにいったことがある。たぶん、僕も世間も、一番空の眼で盛り上がっていたころだ。噂話でも、見間違いでも、フェイク映像でもない、本物の超常現象を目の当たりにしている事実に僕らは恐怖心以上に興奮を覚えていた。
 特急列車に乗って埼玉の田舎の方まで赴き、虫の音も静まり返った真夜中、僕はセッティングされた望遠鏡を覗き込んだ。すげえ、望遠レンズで見るとマジで目玉みてえだ、ほんとに神の眼なんじゃねえか、そんなふうに友達は興奮していたが、僕はレンズを覗き込んだまま小さくため息を吐いていた。
 なんだ。こんな拡大して見てみても、ただの目ン玉模様じゃないか。なにを見てるんだか知らないが、こんな日本とかいう小さな島国の小さな僕のことなんか見てるはずもないし、かみさまの眼だって言うんなら戦争が起きないようにアメリカとか中東とかそのへんを見てるんだろう。どのみち僕の人生にはどうせ関係ないや。
 レンズ越しの僕の視線。大気圏越しの空の眼の視線。距離も遮るものもありすぎて、交わることは決してない。遠い遠い、無関係の存在。空の眼は、やっぱり僕には、その程度でしかなかった。

『おはようです。ソファーで寝落ちしてました……。きのうは真夜中まですいません』
 翌朝、すずからのメッセージの着信音で僕は目を覚ました。もう午前十一時だった。マヤが出かける時に起こされたはずだったが、どうやら二度寝していたらしい。僕はベッドのヘッドボードで充電していたスマホを手探りで掴み、仰向けに寝転がってメッセージを開いた。
『おはよ。二度寝して、僕も今起きたよ~。昨日のことはぜんぜん! 少しでもすずちゃんの憂鬱な感じを紛らわすことができてたら幸いだよ。あ、もうマヤはバイト行ってるし、メッセは気にしないで送ってきていいからね!』
 返事を返してすぐに既読がつかなかったので、画面をスクロールして昨夜のやり取りを読み返してみる。昨日は帰宅したら既にマヤは鼾をかいて爆睡していたので、彼女に訝しがられずにすずとやり取りを続けることができた。
『ただいまー。すずちゃんはまだ電車かな? マヤは爆睡してるわ(笑)』
『おかえりなさい! 今電車降りたとこです。マヤさんお疲れですね……』
『おかげで変に怪しまれずにメッセできるから安心して(笑)』
『別にやましいことは何もないですけどね!笑 いま家着きましたー。琴美ちゃんと挨拶しました。うーん、ふつうにいい子っぽい。棚田氏と遊んでます』
『お、浮気か浮気かー?』
『笑 なんか二人で仲良くゲームしてます。わたしの下着部屋にぶらさがってるんだけどなあ……』
『なにっ、すずちゃんの下着だって!』
『そこ反応しないっ』
『ちなみに僕の部屋も僕のパンツ干しっぱなしになってるけど、どうする?』
『どうもしません笑 琴美ちゃん入れる前にわたしのモノ片しといてーって言ったのに、下着回収してくれなかった。ぷーー。わたしの下着外に干すなって棚田氏に言われてるからわざわざ中に干してるのにー』
『へー。下着外に干すなって言われてるんだ。すずちゃんも気にするの? ウチなんかマヤの下着もブラも国旗のようにベランダに干してるけど』
『わたしは別に気にしないんだけどなぁ。二階だし。でも外に干してると怒られる』
『ほーん、彼氏に大切に思われてる証拠だね』
『大切に思われてる彼女の家には今他の女の子いますけど!』
『おやおや、これは拗ねすず』
『拗ねてないもん。でもなんかしゅんとしてきました笑』
『どうしたの』
『共通の友達が泊まりにきたことはありましたけど、やっぱり知らない人だからなぁ』
『うーん、そうだねぇ』
『超別の部屋で寝たい! まあ今日は琴美ちゃんがわたしのベッドで寝るので……』
『わかるよー。仲間外れ感出て、さみしい気分になるよね』
『ですです……。もう歯磨きして寝よーっと。今後もこういうの増えたら笑う』
『笑っちゃだめだよそこは!』
『ああ! 大学のころの友達にもまったく同じこと言われてました』
『すずちゃんは他人に甘くて優しいのに、すぐ自分ばっかり我慢して律するから』
『褒められたと受け取っておこう。笑』
『うん、褒めた。けどたまには怒らないと。彼氏のこういう行動が増えて嫌な思いをして我慢してつらいのはすずちゃんだ』
『んーー、好きにすればいいです。今はまだ大丈夫だから怒らないっ』
『じゃあすずちゃんも好きにすればいい。おあいこおあいこ』
『好きにするっ! ぷんっ』
『やはりぷくぷくしているぞ。すず氏、もう三時過ぎたぞ』
 このメッセージを最後にすずからの既読がつかなくなり、ああ寝落ちしたかなと思い、僕も残留アルコールに後押しされてすぐ眠ってしまった。それにしても、飲みからの延長線上とはいえ、明け方近くまで途切れることなくメッセージがすずと続いたのは今までにないことだった。しかも仕事の話じゃなく、すずのプライベートの話。単純に楽しかった。すずはきっと彼氏や琴美ちゃんとはやや離れた場所で、壁を背にして僕とやり取りしている。僕はそれを想像する。僕だけがこの時のすずの気持ちを推し量り、慰め、ごまかし、元気づけることができている。きっとこの瞬間だけは、すずは彼氏よりも僕と話している方が楽しい。僕はそれを想像する。見たこともないすずの家の間取りとそこにいる三人の男女の位置関係をミニチュアのように頭で組み立てて、そこにとろとろと蜂蜜を流し込む。漂うほのかな芳香に口元が勝手にほころんだ。
 一人にやにや画面をスクロールしていると、スマホからぽーんと電子音が鳴った。すずからの返信だった。
『おそようですね~。ってわたしのせいか。ありがとです。ういさんと話してるの楽しいので、昨日は結構気まぎれました。笑』
 初っ端から嬉しい言葉が飛び込んできて、ますますにやけてしまう。
『なら良かった! もう琴美ちゃんも帰ったのかな?』
『彼氏と一緒に出勤していきました。笑 二人を見送ってわたしも二度寝……ういさんと一緒ですね。ふぁーお洗濯しなきゃ!』
『いい天気! 僕も洗濯しよっと。すずちゃんまた下着干すのかな?』
『すーぐえっちなことにつなげるっ。まったく!』
 返事を待っている間に暗くなってしまった画面に、寝ぐせぼさぼさで青ヒゲぼーぼーのにやけ面が反射していた。我ながら気持ち悪いなとさすがに思う。が、元来すずとはいつもこんな調子で、いつだって僕が彼女を笑わせるピエロである。昨夜終電を見送っていったあの空気の方が少し変だったわけで。
『でも昨日は色々お話できてほんと楽しかったです。実はういさんと二人きりってだいじょうぶかな、会話持つかな、気まずくならないかなってちょっと不安だったんですけど笑』
『えー、気まずいはずないでしょ!(笑)僕とすずちゃんの仲だぞ! うん、僕も楽しかった! 良かったらまた二人で飲もうね。近いうち!』
 最後の文章を打ち込む際に少しためらい、でも返信が変に遅れてためらってしまったことを感づかれるのも嫌なので、そのまま送った。
 次のすずの返事は遅かった。洗濯物を回し終え、干している時にベッドの上のスマホが光った。
『ういさんはいつがいいですか?』
 それだけだった。顔文字も、絵文字もない。でもどんな修飾された文章よりもふしぎとその一文はすずの肉声となって僕をかろやかに射抜いた。あの終電車、ちっちゃなつくしんぼみたいにひょっこり顔を出す入木すずが、画面の中にいた。
『僕は七月の第二週から新しい仕事の研修はじまるから、それまでは完全ニート。いつでもいいよ! すずちゃんの都合いい日で。昨日みたいに翌日勤務ない日だと安心だよね』
『んー。六月は早番五連勤だらけだなぁ。七月初週ういさん空いてるんだったらそのへんわたし休み多いから丁度いいかも! ちょっとシフト確認しますね』
『ありがとー。むりしてまで予定空けなくていいからね! ほんとに行ける時で!』
『七月一日早番、二日遅番、三日休み、四日早番ですね。五日は休みだけど予定があったんでした……』
『んーと、それなら一日かな? でも翌日勤務かぁ。二日なら翌日休みみたいだけど、遅番だとオールになっちゃうもんね』
『んーーどうしようかなぁ。五日以降はまた連勤だから、そしたら二日の遅番終わりかな? オールとか怒られそうですけど……お互いの同居人に笑』
 僕が促してしまった側面があるとはいえ、すずの方からまさかオールを提案してくるとはとても意外で面食らった。確かに遅番終わりならすずの退勤は遅くても十時くらいで、都会のチェーン居酒屋なら大抵どこも朝四時前後までやってるだろうし、昨日よりも話す時間もたっぷりあって僕からしても願ったり叶ったりなのだが……。
 洗濯物を干す手が完全に止まって、僕はベッドの脇でしゃがんで画面を見つめる。洗濯籠に詰め込んだ衣類から、柔軟剤と洗濯槽のカビ臭いにおいが混ざり合ってさっきから鼻を突いてくる。洗ったのにいいにおいなんだかくさいんだかわからない。胸がざわざわしていた。
 その後も何通かすずとのやり取りは続き、本当にオールで大丈夫なのかの確認をやんわりとしつつ、しかし確実に僕の文面は浮足立っていて、七月二日の約束が決定した。

 夜十一時半ごろ、バイトに行っていたマヤから「迎えに来て」と突然の連絡があった。それまで途切れがちながらもすずとメッセージの交換を続けていたので、スマホが鳴った瞬間、相手がすずではなくマヤだとわかると僕はわかりやすく落胆した。すずとの会話に横槍を入れられたからだけではない。この後の展開が垣間見えてうんざりしたからだ。
 今日バイトの飲み会があるから遅くなる、という話は朝聞いていた。マヤは就活という僕と同じ理由で僕と同じタイミングでキャラクターショップのバイトを辞めたが、僕と違って週契約を少なくしていた彼女は雇用保険に入っておらず失業給付金を受け取る権利がなかったため、こうして生活費のために駅前の百貨店で短期バイトをしている。元々家賃八万のマンションは1DKとはいえアルバイト二人の同棲生活には頭でっかちであり、このままでは二年目の更新が難しいという理由もあって二人でちゃんとした会社に就職してちゃんとした収入を得ようということになったのだ。僕もいい歳だし、マヤも二十六だ。そのことに異論はなかったからこそ慣れ親しんだアルバイト先を辞めた。でも恐らく、いや絶対、僕とマヤの覚悟はずれている。マヤはきちんと僕との将来を見据えてバイトしながら就活をしているんだろう。でも僕は、確かに家賃払えなくなるよな、と、目先の問題にだけ向かって就職を決めた。七月からの新しい仕事も新しい環境も、その時になって悩んだりすればいいやという感じで、将来を見据えている感覚はまるでない。誰かに説教されるまでもなく自分の方が浅はかだとわかっている。でもマヤをないがしろにしているつもりもない。刹那主義なのか楽観主義なのか、主義というパワーのあるワードを当てはめられるほどカタチがあるのかすら定かではないが、とにかく僕は昔からそんな性分なのだ。
「ういくん、おそいー」
 待たせると不機嫌になるとわかっていたので連絡を受けてすぐ駅前に直行したのだが、マヤは迎えにきた僕を見つけると案の定文句から入った。
「すぐ来たでしょが。うわ、酒くさ」
 ふらふらと抱き着いてきたマヤの全身からアルコールが放たれていた。僕は両肩を掴み、すぐにマヤの身体を離した。酒臭さとは関係なく、僕は人目につくところで抱き着かれるのが嫌いだ。イチャつくカップルを見る他人の視線の冷たさといったら。
「酒弱いのにいつも飲み過ぎんだから。ほら、帰るよ」
「やだー。むり。歩けない」
 マヤは僕に手首を掴まれたまま街灯の下にうずくまった。唸り声そっくりのため息が僕の口から勝手に漏れる。やっぱりだ、絶対こうなるから、酔っぱらったマヤだけは相手にしたくない。しかも都合がいいことに翌日になると全部忘れていやがる。
「歩かなきゃお家帰れないでしょ。ほら! 立って」
「うー、気持ちわる」
 むりやり立たせると一瞬吐きそうに顔を歪めるから、僕は思わず手を離す。汚いし恥ずかしいから絶対街中でゲロなんか吐くなよ。支えを失ったマヤは千鳥足でふらついて、うへへと笑って電柱にしがみついた。後ろで結んだ髪は汗で固まって乱れた昆布みたいにぬめぬめしていて、昨日見たすずの髪とは大違いだ。電柱にしがみついている動物園の霊長類的なその姿も、すずだったら可愛く見えるんだろうか。
 帰り道で、何度もマヤは「帰りたくない」「むり」「ねむい」「ここで寝る」と繰り返し、その度に僕の手を振り払って座り込んだ。振り払うくらいなら迎えに来させるなよ。もうこれで何度目だろう。大体、なんで迎えにきてほしいと思うんだ。結構マヤは、素面の時も迎えに来てと言う。昔からだ。付き合った当初の三年前はそれも可愛いと思ったんだろうか。もう覚えてない。どちらにしろ僕は、こんな五分程度の帰り道でマヤに迎えに来てほしいなんて思ったことは一度もない。
「ほらいい加減にして。みんな見てるから。マヤ」
 イライラして次第に僕の口調も荒くなった。しかし酔っていて気分がいいらしいマヤは我関せずだった。短いスカートが捲れるのも気にせず、アーケード街の真ん中で三角座りしたりした。ほとんど飼い犬のリードを握る気分で、僕はマヤをとにかく引っ張った。
「ういくん、最近デートしてないよねぇ」
 アーケード街を抜けた人気のない住宅街で、マヤが鼻にかかった声で言った。
「お互い就活で忙しかったろ。マヤはバイトもあるし」
「ねぇねぇ、じゃあつぎいつデートしてくれる?」
「……さあ」
 我ながら空返事だな、と思った。空返事で上の空。なんで心がここにないことを上の空って言うんだろうな。ぼんやり思って空を見上げた。濃密な雲に覆われて、月も星も、見えなかった。空の眼も、僕らを見下ろしてはいなかった。


 好意とは、毒のある牙だ。
 狭義の毒ではなく広義での毒。異性からの好意を感じる時、僕はいつもこの毒牙に皮膚を咬まれているイメージがよぎる。
 マヤ――里崎真弥子の場合もそうだった。バイト終わり、更衣室を出たらばったり遭遇したので途中の駅まで二人で帰った。そのままどちらからともなくごはんに行こうということになった。マヤは彼氏の話をした。ギャンブル好きで資金が底を尽きるとマヤにたかるという絵に描いたようなクズ彼氏の話だ。僕はこの時、マヤの毒牙が肌をかすめるのを感じたと思う。もしかして僕に気があるんじゃないかっていう、毒。僕がそれを毒と表現するのは、全身に沁み渡るまで時間がかかる上に同じ毒から精製される血清で消毒もできるからだ。一度好意という毒に侵されると僕は毒の分析を慎重に進める。血清は、勘違いだった時の保険。かくしてマヤの毒牙に咬みつかれた僕は、その後毎日のように彼女と電話し、クズ彼氏と別れる決断を彼女にさせることに成功し、そのまま僕との交際がはじまった。僕を苦しませながらもワクワクさせた毒は、この瞬間に全身から雲散霧消する。
 僕は今、たぶん、入木すずの白い牙に咬まれている。二人で飲みに行ったあの日から毎日欠かさずスマホ上で会話をし、なんてことのない雑談のはじまりとおわりは、いつもおはようとおやすみだ。
『おはよーすずちゃん。今日は早番だったかな?』
『おはようございます! 早番~ねむい~!』
『僕は今日珍しくマヤと映画観にいく~。グロいやつだから絶対すず嫌いだろうけど(笑) すずちゃんとは楽しいアニメ映画とか行きたいね!』
『グロとかホラーは無理無理無理ってなります笑』
『うーん、わーきゃー言ってるすずちゃんも見てみたい』
『やだー笑 楽しいのにしましょっ、ね!』
 この反応だ。映画の話をして映画デートを匂わせる、なんて、ありふれた駆け引きで、僕も真面目に言ってるつもりはないが、すずはどちらかといえばいつも前向きな反応を見せる。かといってじゃあ映画いつ行きます? なんて提案は絶対してこない。そうして僕は、腕に咬み傷の痛みを覚える。毒は沁み込まない。この牙の中に毒が仕込まれているのかどうもわからない。異性としての好意をすずから感じるとも、感じないとも言えず、探りを入れるような僕の文章が僕の指から自動的に打ちこまれていく。
 すずはとても優しい子だ。仕事でもいつだって他人を思いやれる子だった。そんなすずのことだから、今束の間のニートで暇してて、マヤへの不満も燻ぶらせている僕のことを、思いやって元気づけてくれているだけ。異性としての意識なんてそこにはない。その方が自然だ。すずには六年も付き合っている彼氏がいるし、僕にもマヤがいる。その絶対的な大前提が最も強靭な力で毒を否定する。
『ふー。いま帰宅しました。今日は荷受けが百カートン来て倉庫死にました……笑』
『おつかれさま! ああー今日は本部倉庫から商品届く日かあ。くぅー倉庫アサイン手伝いにいきてえ~!』
『来てほしい~笑 あ、もう彼氏帰ってきてるんで今日はあまりメッセできないかも……。最近壁を背にしてスマホいじってると視線を感じる。笑』
『あー僕も壁とお友達だな最近。マヤが誰と連絡してるのーってたまに聞いてくるわ(笑)』
『うっ、マヤさん鋭そう……。マヤさんに怒られちゃわないようにしてくださいね? 二人が喧嘩するのは嫌なんで……。なんか最近毎日ういさんと話すの日課みたいになっちゃってますけど! やめたほうがいいかな』
『大丈夫大丈夫! マヤはマヤで、最近バイト先で知り合った男とよく連絡してるのは知ってるし(笑) いや、浮気とかじゃないんでこちらも心配しないで(笑)』
『えええそうなんですね笑 さーてごはん作らなきゃ! 今日はマーボー豆腐~』
『むむっ、すず手料理いいなぁ。彼氏か? 彼氏に作ってあげるんかっ』
『は、はい、まあ笑 でもマヤさんも料理するじゃないですか~』
『まあねぇ。最近は外食多いけど。ふんっ、さっさと彼氏にごはん作ってあげればっ』
『ふんだっ、そっちこそ作ってもらいなさいなっ』
 わざとらしい嫉妬の言葉は、じゃれつくようなもので。お互いそこに真剣な何かを宿していないのはわかっていた。僕は嫉妬っぽい反応を見せるすずがただ可愛くて、それで満足だった。牙から毒が沁み込んできてほしいのか、そうでないのか、わからないというか、考えていなかった。
 六月下旬に入っても、僕らの秘密の連絡は途絶えなかった。そう、確かにそれは秘密であった。いつからか僕もすずも、メッセージの通知音をオフにしていた。お互いの親密な関係をお互いの同居人にバレるのは良くない、それは共通認識だった。でもその認識の裏側でなにが共通しているのかもしくは何が食い違っているのか、やはり僕は考えなかった。楽観主義。刹那主義。主義というワードが、少しずつ本来のパワーを取り戻してきている気がした。
『いやぁ、しかしすずちゃんは今セーラー服着てもバリバリ現役いけるだろうね』
『またそゆこと言う……笑 華の高校生、かわいいもんなぁ。今高校生すれ違うと眩しくて見れないババアです』
『大丈夫、すずちゃんはむしろランドセル背負っても不自然じゃないから……』
『ぎゃーロリコンー! ロリういさん』
『戦国時代はみんな女子高生くらいの年齢で結婚して子供産んでたよ?』
『だからなに!笑 わたしも高校時代にキャピキャピしてみたかったという思いがありまして、しなかったからこそ冷めた人間性に拍車がかかってしまった』
『え~~すずちゃんが冷めてるんなら、そのへんの女子高生なんて凍ってるよ~』
『笑』
『キャピらなくていいんだよ。それがすずちゃんの魅力』
『そうかな~。若い時くらいはっちゃけてれば……! って友達ともよく愚痴ります笑』
『すずちゃんはすずちゃんのままでいいのさ』
『はっ』
『ん?』
『いまうっかりきゅんとしてしまった。あかんっ』
『あかん? あかんくない!』
『あかんっ! んーー、ういさんときどき嬉しいことゆう……』
 きゅんとしてしまったのはこっちだ。一体なにが、どこが、どうなって、どんなふうにすずをきゅんとさせたのか、見当もつかなかった。ただ、ワクワクした。ふざけた言葉で返すのに時間を要するくらい、ワクワクした。すず、こんなこと言うんだ。こんなこと僕に伝えてもいいって思ってるくらいには、僕にこころ開いてるんだ。どういう気持ちでいるんだろう今すずは。牙が刺さった腕が、ぴりりと痺れた。
 すずに会う目的で、彼女のバイト先にも何度か遊びにいった。僕の元バイト先でもあるし、三年間も勤続した以上後輩も社員もほとんどが知り合いだったので、そこに僕が赴くことに何ら不自然はなかった。フロアで品出ししているすずを目ざとく見つけ、後ろから近付いて頭をぽんと叩いた。ひゃっ、びっくりした、目をまんまるくして彼女は飛び跳ねる。もーまた初生谷さんはすずさんにちょっかいだしてー、と近くにいた後輩が笑う。いやーすずちゃんは僕の大切な妹だからね。そう言ってすずの頭を撫でる。ぎゃー仕事中仕事中ですお客様セクハラーっとすずが身をよじる。僕はいつまでもこの場所にいたくなる。
 その日、まさかすずと二人で本当に映画を観にいくことになるなんて、もちろん僕は計画していなかった。ただ、せっかくバイト先に遊びにきたんだしすずが退勤するまでは待って一緒に帰ろうかと思ってただけで。お待たせしてすいません。いやいや僕が勝手に来て勝手に待ってただけだよ。いつもどおりのやり取りをした後、手芸用品が見たいという彼女の買い物に付き添った。なんか付き合わせてすいません、今日寄るつもりだったんで。いやいやデートみたいで楽しいよ、手芸が趣味なんてどこまでも完璧に可愛いなすずは。またいつもどおりのやり取りをして、手芸用品店を出た。出たら、目の前の映画館で今話題のディズニー作品の宣伝映像が流れていた。あーこれすごい評判ですよね。みたいだね。観たいけど彼氏がディズニー苦手でまだ観れてないんですよねー。へぇーじゃあ今から僕と観よっか。三度のいつもどおりのやり取りをしたつもりでいたら、すずは、えっ、と息を呑んで、そのほんのちょっと飲み込んだ息の沈黙だけで、空気の色が変わった。
 うう、さすがにこれはバイトの人に見られたらマズイかも。シアターの座席に腰かけた瞬間、すずは我に返ったように言った。でも本当に困っている感じや無理やり僕に合わせている感じには見えなかった。すずは目を細めてほっぺたをつんつんつんつんしていた。いやーこれはもう完全にデートだね。僕もそう言って茶化すことに徹した。デートじゃないもん、仲良しの先輩だもん。あはは職場の先輩とイケない逢瀬だねー。映画観たかっただけだもん。そうだねー、あ、こんなこと中々ないだろうから映画館にいるすずちゃんの写真撮っちゃおっと。ひゃーだめだめ、仕事終わりで汗掻いてますし。はい横顔も可愛いねー。パシャッ。館内の照明が一段階暗くなって、僕はスマホを仕舞った。
 家に帰ってからは、マヤとも普段通り会話をした。もちろんマヤにはすずと会っていることは一切内緒にしていて、僕が出かける時は大学時代の友達の名前を出した。それでも僕はマヤを裏切っているつもりはわずかも無かった。マヤが作っておいてくれていたハンバーグも完食した。美味しかったしありがとうも言ったが、その後家の契約更新の話になり、なんだか他人事みたいにどうでもよくて僕は不機嫌にすらなった。そんな自分を嫌いになること自体面倒くさがる自分がいることをよく知っている。中三の時、班のメンバーが嫌という理由だけで親も担任もさんざん困らせて修学旅行を丸々サボったことがある。その時から僕はちっとも変わっちゃいない。本当は別にメンバーもそこまで嫌じゃなかったし、いざ修学旅行に行ったら楽しいことはわかってたし、逆に行かなかったら後々面倒事が増えて後悔することもわかっていたと思う。でもそれ以上に、一度行かないと意地張ってしまった事実を覆すことがもっと面倒だった。過去よりも現実よりも遠い未来よりも、眼鏡のレンズに映りこみそうなくらい目の前にある近い未来ばかりが見えていた。
 でも、すずはそうじゃないのかもしれない。
『寝坊した上にお腹も痛かったので、今日は遅番にしてもらいました』
 映画に行った翌日、すずから早番だと聞いていたのに中々返事がなかったので心配していたら、昼前にそんな連絡があった。
『だ、だいじょうぶ? いつも頑張ってるんだから休んでもいいのに』
『だいじょぶですよ~。いま出勤中です。映画館の前通って、昨日の映画おもしろかったなぁとか思ってるとこでした笑』
『ならよかった。ふふ、これからその映画館の前通る度僕のこと思い出したりするのかな!』
 またお得意の笑かすための冗談。しかし、次のすずの反応はいつもと違っていた。
『うう。わーん』
 泣き顔の顔文字が添えられている。
『あれ、泣かしてしまった』
『情緒不安定!』
『たいへんだ』
 いつもどおりのやり取りが、なんだかいつもどおりじゃなくなる。最近そんなことが増えた気がする。僕は焦った。
『イヤホンの音がどんどん大きくなる……。本質が内向的なので、ストレス溜まったりするとつい音大きくしちゃうんです。それで発散させてることがちょいちょい』
『ストレス……。うーん、映画はやっぱりちょっとアレだったかな』
『いえ! 映画は楽しかったしストレスじゃないですけど! なんかいろいろ不安定なのです』
 あまりに不本意で不甲斐なかった。すずを楽しませて笑わせるのが先輩としての僕の役目なのに、逆に不安定にさせているなんて。でも、不安定って、どういう。
『あの眼もこわいですよね』
 あの眼? 何のことだか訊こうとする前に、すずは言葉を続けた。
『空の眼です』
『あー。今日は晴れてるからよく見えるね。昨日もテレビで特集やってたけど、未だに何光年くらい遠くにあるかもわからないんだってね』
『うう。じっと見られてるみたいでやだ。早く事務所入ろっと』
『昔、友達と望遠鏡持って空の眼見にいったことあったなぁ。レンズで何倍も拡大して見たけど、全然あんな眼こっちのことなんか見てないよ。変に意識しない方がいいよ』
『そう、ですよね……。でも、結局あの眼って何なんでしょうか。さすがにUFOとかじゃなさそうですけど』
『世間的には新天体って括りだね。それでもオカシイことだらけだからあくまで現段階での定義でしかないらしいけど。目玉だって思うからオカルト感増しちゃうんだよ。ただの模様だよ模様。月のウサギとおんなじさ』
 僕はベランダに出て、四階から空の眼を見上げた。白い球体にはっきり刻まれた黒の二重丸は確かにぎょろついた目玉に見えてくるが、僕がじっと見つめても目が合うという感覚はなかった。それどころかここ最近はすずと仲良くなっていくのが楽しくて、空の眼なんていう非現実だけれどもはや太陽みたいに当たり前の存在、意識することもなかった。
 実際どうでもいい。僕は部屋に戻り、気落ちした状態ですずを出勤させまいと急いでメッセージを打った。
『突然ですが、楽しいお話タイム!』
 文章を送ってすぐ、僕は写真アプリに保存しているオモシロ画像を漁った。
『な、なんだなんだ笑』
『うーんと、僕のせいなのかなというのは傲慢かもしれないけど、少しでもそのストレス緩和させてあげたいので……あ、こういうのが一番ストレスかな?(笑)』
『ストレスじゃないです。ういさん悪くないです。わたしの問題なんで……』
『よしっ、じゃあ出勤前に楽しくて笑える画像送るね! 何の力にもならないかもしれないけど(笑)』
『ういさん優しいなぁ。うう、本当にありがとう』
 僕は思わず左腕をさすった。好意という名のすずの白い牙が、じゅくっ、と食い込んだ。
『敬語なくてごめんなさいっなんか本当にうれしかったので!』
 すずが慌ててごまかしてくる。けれど、ごまかされるはずがなかった。敬語のない、今告げた、彼女の「ありがとう」は、あまりに鮮烈で、まばゆくて、爆発で、なにより鋭利だった。鋭すぎる純白の牙は僕の腕から全身を縫うように暴れ、最後は深々と脳天を突き刺した。
 エメラルド色の毒が、そこから全身に沁み渡っていった。
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