Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生

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第四章

  地味な大学生活

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「え? 車の免許持ってないの?」
 真面目に地味に淡々と大学生活を送る中、寮の先輩の勧めで、朔空君は自動車学校に通う事にした。全く必要性を感じずに過ごしていたのんびりさは、いかにも朔空君らしい。
 三年になり、より難解な課題に取り組み、ますます大学から出なくなっていたが、今後を考えると、先輩の助言を実行するのは今しかないと思ったようだ。
 
 スクールバスに乗る事が出来る日は良いのだが、そうでない時は地下鉄とバスを駆使して教習所まで赴く。積極的ではないため、あまり楽しめない朔空君なのであった。
 ある晴れた日曜日、朔空君は教習所から駅まで歩きたい気分になった。ターコイズの空には飛行機雲が走り、ドーナッツ型の雲が浮いている。非ユークリッド空間に心を馳せながら見上げていると、幼い頃にでたらめに大きな絵を描いた砂浜をぼんやり思い出した。
「最近連絡をしていない。ユウキは、お父さんは、元気だろうか」
 雲の形が徐々に崩れ、シャープな飛行機雲はやがてぼやけた雲の帯に変わる。
「砂浜にはジンがいつも一緒にいた。ユウキとでっかい絵を描いたな。サツキとキリ兄とも描いたっけ……あまり憶えてないや」
 ぼんやり浮かんだ幼い頃の曖昧な記憶は、雲の変化と同時に、それ以上は思い出せなかった。
 最寄り駅の繁華街までは、だいぶ距離がある。朔空君は、上空にどこまでも広がるターコイズの球面に、流木で三角形を描いてみた。
「ニャア」
 朔空君の夢想を打ち破ったのが、足元に擦り寄って来た白猫の声だった。思わず我に返った朔空君が、
「おまえも白猫か。迷子なのか?」
 しゃがみ込んで、その頭をくりくり撫でていると、
「いた! キイ!」
 駆け寄って来た女の子は、この猫の飼い主らしい。と思う間もなく、お互いに目がまんまるになった。
「柊先生!」
「や、やあ。雨宮あまみやさん……だよね」
 雨宮智弦ちづるは、朔空君のアルバイト先の塾の生徒で、この春から個別指導で受け持っている高校二年生である。
「ええ、何でこんな所、歩いてるんですか?」
 彼女の家は、この近くなのだという。朔空君は、こんな所でプライベートを見られてしまったようで、気の利いた言葉も掛けられずに、すぐに立ち去りたい気分だった。
「柊先生、猫ちゃん慣れてますね。好きなんですか?」
「あ、ああ。昔からいたから」
「うわぁ、猫の話、訊きたいです」
 如才なく話しかけてくる千弦に「また今度」と、曖昧な返事をして、朔空君はその場を立ち去ったが、授業の時とは違う可愛らしい笑顔に、妙な懐かしさを覚えていた。
 ぼくのじりじりは即座に反応した。



       4


 そうは言っても、朔空君の相も変わらない真面目で地味で淡々とした生活は、やはり相も変わらなかった。
 変わった事といえば、元気で相変わらずがちゃがちゃしていると思っていた結月さんに激震が走っていた。
 結月さんが庭の百日草の前で、月乃ママとぼくに泣きながら語ったのだ。ぼくの複数の種から育った花は、もちろんぼくの分身だから、結月さんの事だってお見通しだ。

        *

「ママ、ジン、今からわたし、ものすごく泣くわ。
 サクも順調に大学生活を送っているし、お父さんも健康で何の問題もない。結月のドイツ行きを阻むものはないのだから思うように生きなさいと、お父さんが何度も言ってくれるの。で、渡航に心が動いていた矢先の事だった。
 ここ数年は一、二ヶ月に一度程度の通信になっていた聖から、新たなメッセージが届いたのよ。
 ベルリンのラボ繋がりで知り合った科学者の女性と結婚したという知らせがね。知らないわよ、そんな事!
 恋人である前にアーティストとしてのパートナーだと、魂は繋がっているんだと、信じて信じて信じて自分に言い聴かせてきたの。本音は恋人でありたかったわよ。でも、わたしが傷ついたのは、彼女が科学者でありながら植物の細胞を扱うアーティストだったからなの。全てに於いてわたしが適う相手であるわけはなく、今さら聖の元に行ったとして、自分の価値など一ミクロン、いいえ、一ナノメートルすらないのよ。
 離れるって、こういう事なのね。
 わたしはドイツに行かない。今から気兼ねなく自分だけのアートを創り直す事に決めるわ。自分だけの価値を見い出すわ。
 ママ、ジン、サクやお父さんにはしばらく内緒にしておきたいの。わたしが泣きそうになったら止めてね」

        *

 結月さんはたくさん泣いた。
 今後の結月さんの作品はきっと爆発するのだろう。


 朔空君が帰省したのは、本免許の試験を受けるためだった。もちろんぼくも鉢植えごと新幹線に乗って帰って来た。 
 久しぶりに寛げる家で、懐かしの結月ママ特製プリンを食べ、大学での研究成果や問題解決の楽しさをお父さんと語り合い、そして院への進学の意志を伝えた。
 それから、朔空君なりに微妙な何かを感じたのか、
「ユウキ、ぼくちゃんとひとりでやってるでしょ。だからユウキも本来のユウキになって。どんなユウキでも、ぼくのお母さんだからさ」
 結月さんの大きな目からぶしゅっと滝が流れて、
「わあーん、うるせえ、生意気なサクめ!」
 と、霧人君みたいな台詞を吐いた。


 
 塾生の千弦は、あれからちらちらとプライベートな話を持ちかけるし、バレンタインにもチョコレートを贈られたけれど、朔空君は、まるでの霧人君を彷彿とさせるくらいに、淡々と千弦と接していた。
 四年生になるのをきっかけに塾講師のアルバイトを辞め、研究室内のアルバイトに切り替える事にした。秋に院試も控えている。
 千弦も受験生になるわけで、志望校の偏差値に届いていないまま辞めてしまうのは申し訳ないが、自分の代わりはいくらでもいる。嫌いなのではない、千弦が高校生で、しかも塾の生徒である以上、真面目でピュアな朔空君には、個人的に接近してくる千弦を避ける以外、方法が思いつかなかったのだろう。
 ぼくはおねえちゃんとして、いろいろとじりじりした。

 まあ、朔空君には気になる女性がいたのだけれど、それが恋なのか何なのか、ぼくにもまだよくわからなかった。
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