Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生

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第四章

  朔空の恋

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       1



 研究室のアルバイトは、自分の学科内というわけではない。その時期必要とされるラボに派遣され、簡単に言えば、教授のお手伝いをするのだ。
 朔空君がしばらく通ったのは、生物学科の植物学のラボで、教授の研究の実験データ取りだった。
 そのラボでは、白衣を着て肩に緑色の大きな蜥蜴を乗せている女性が、毎日顕微鏡を覗きながら、細かい手作業をしていた。初めは驚いたが、大学に残って研究を続けている助教さんであった。
「可愛いでしょ、アリスって言うの。おとなしいから大丈夫よ」
 と、肩の蜥蜴を紹介してくれた。リードが付いている。
「何でアリスと名付けたんですか?」
 作り物のような蜥蜴から目が離せないまま朔空君が訊ねると、助教が言った。
「チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン」
「ルイス・キャロルですね」
「そう! 私、大好きなの。時々気分転換にやるのよ」
「何をですか?」
「決まってるじゃない、ルイス・キャロルの数学問題」
「え?」
 朔空君は蜥蜴から助教に視線をスライドした。
 無造作に後ろで髪をひとつに束ね、まるで化粧気のない顔に輝く漆黒の瞳が神秘的で、初めて朔空君は、女性を綺麗だと思った。
「バイト君、数学科だったよね、解いてみる?」
 と言って、手に持った本を振って見せる助教。
「あ、柊です。解きたい……けど、バイト中なので」
「ごめんごめん、そうだよね。わたしは野依のよりと言います。野依萌絵もえ。バイトの邪魔してごめんね。教授に頼まれた仕事に戻って」
 それからというもの、朔空君はすっかり野依助教にご執心で、カップ麺を啜りながら、ふたりで解いたルイス・キャロルの数学問題を、楽しそうにうれしそうにぼくに語るのだった。
 それよりも、ぼくは猫の時の感覚がまだまだ抜けなくて、麺のうねうねが気になって仕方なかったが。
 ふたりの会話はルイス・キャロルに留まらず、例えば自然界のフラクタル幾何について雲の自己相似を眺めながらキャンパスのベンチで語り合うなど、尽きる事がなかった。
 これをデートと呼ぶのか、ぼくにはわからない。
「野依さんと話している時は、ぼくはすごく自然体でいられるんだ」
 すっかり蜥蜴のアリスに懐かれていた朔空君のこれは、恋なのか。恋だとしたら、それは瞳の美しい野依助教になのか、それともルイス・キャロルの問題を解く行為になのか……どちらも当たりでどちらも勘違いかもしれない。
 少なくともぼくは、じりじりしなかった。むしろ安心して、ぼくも自然体で見守る事が出来た。
 サクラ・イン・ワンダーランドの渦中でも、朔空君の大学院への進学はしっかりと決まり、卒論の大仕事が待っていた。



       2


 晴れて大学院生になった朔空君は、珍しくわかり易く落ち込んでいた。
 学部卒業と同時に寮から出なくてはならない。
 広大な理学部の敷地の外れ、隠れた通用門の裏手にある、安いワンルームのアパートに引っ越した。
 荷物は多くないので、同じように院生になった白尾君に、春休み中に毎日少しずつ寮から運び出すのを手伝ってもらった。ちなみに、白尾君は地元の学生である。
 今度の部屋は狭いながらもベランダがあり、朝陽が入る部屋だったので、ぼくは充分日光浴が出来て満足だった。
 引越し蕎麦の名目でコンビニで食料を買い込み、朔空君と白尾君は慣れないビールで乾杯をして、引越し完了と卒業と進学を祝った。
「野依さん、大学変わったんだよね」
「うん、任期三年だったんだろ」
「はぁー」
 朔空君はわかり易く溜め息を吐いた。
「あの人、変わり者でラボの中でも浮いていたらしいけどさ、おれも何回か話した事あるけど面白い人だったよな」
「うん、あんなに自由に話せる人いなかったからさ……はぁー」
「確かおれ等より八歳くらい上だよな。まさか柊、好きだったとか……」
「うーん、わかんない。けど、居て欲しいと思う……疲れないんだ」
「携帯番号、訊いた?」
「そんなの訊いてないよ……ふぅー」
「まあ、生きていればまた会えるよ」
 白尾君の言葉に、
「魂は生きてるよ、ぼくみたいに記憶や感情も継いでいく例外もあるみたいだけど」
 と、こっそりぼくは思った。
「また猫カフェに気晴らしに行こう、お互い暇があるうちに」
 白尾君が色白の猫みたいな顔で誘うと、
「行く行く」 
 と、ほんの少しだけ元気を取り戻した朔空君なのであった。

 学部生の時よりも、朔空君にとってはずっと時間が作り易く、大学の図書館やぼんやりベンチで雲を見て過ごす時もあった。
 逆に、白尾君は自分だけの研究テーマに挑むため、日夜実験室に籠る事が多くなっていた。

「ひとりで猫カフェに行ってもな」
 入り口付近までやって来て、入ろうかどうしようか朔空君が迷っていると、
「柊先生!」
 店から出て来た女性に声をかけられた。
 ふたり連れのひとりが、屈託のない可愛い笑顔を見せる。雨宮千弦だった。なぜか朔空君に懐かしさを感じさせる、以前と変わらない笑顔なのだった。
「私、大学生になれました。柊先生と同じ大学は全然無理だったけど、隣町の教育大の一年生です」
「おめでとう。頑張ったんだね。途中で辞めて申し訳なかった」
「本当ですよ。私、本気で泣いたんですからね。って、先生、私の名前、憶えてます?」
「ええと、宮……」
「雨宮千弦です! 忘れないで下さいね」
 隣にいた千弦の友人がスマホを指差しながら、肘でぐいぐい千弦に合図を送っている。
「あ、そうだ。柊先生、連絡先交換してもらってもいいですか」
「あ、ああ」
 朔空君は、その場の雰囲気で連絡先の交換に応じた。
 ぼくは、この時ほどじりじりした事はなかった。
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