つわもの -長連龍-

夢酔藤山

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一 能登の風

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                    一


 応仁の大乱ののち、能登の守護職は室町将軍足利家に遠く連なる畠山氏のものとなった。長一族はその下に属し、先祖伝来の誉れを守り続けていた。
 武辺こそ、長の伝統だ。
 世は戦国。越中では神保氏による下剋上があり、一向宗徒の一揆が吹き荒れた。加賀一向一揆も悩みどころである。
 畠山一族の独力では、これらを抑えることが難しい。
「新九郎、新九郎はあるか?」
「は」
 能登畠山氏八代当主・義続は年若い。天文一四年(1545)に父・義総が没すると、その若年を侮り、守護代・遊佐美作守が主家を蔑ろにする振舞いに出た。これを輪島の領主・温井備中入道が武力で圧したまではいいが、気付けば、畠山の名のもと似たような専横に奔っていた。
「儂は、もう、堪え難い」
 義続は若い。若いからこそ、忍の一字が足りなかった。
 新九郎とは俗名で、名を、長九郎左衛門尉勝光という。武辺者だが、智謀もあった。
「されば。奴の専横、その心情を逆手にとるは如何かと」
「どうするのだ」
「賞してやるのです」
 何を云いだすのかと、義続は目を剝いた。
「どんな者も高みに至れば逆向けに転げ落ちるものです。温井入道の倅に、偏諱を遣わしてやれば、絶頂を覚えることでしょう。しかし、偏諱は他の者にもやってください。他の者は、むしろ殿のために励みます。それが、温井討伐の機となりましょう」
「気の長いことだ」
「気を長く持つことこそ、先代に肖ることと思いませ」
 長勝光とて、温井一族には腹据えかねていた。絶好の機だと、ほくそ笑んだ。
長九郎左衛門尉勝光は穴水城主である。この地に城を設けたのは頼朝の時代とされる。いまは畠山家に属すが
「もともと能登は我が長の家のもの」
という野心も秘めていた。これは、歴代の当主の切なる想いである。
「新九郎の申すこと、一理あるな」
 畠山義続は、項垂れたように、呟いた。
「ならば、そうなさりませ」
「お前も、だからな」
「有難いことです」
 偏諱は主従を結びつける手法で、室町幕府でも好んで用いる。畠山が守護家である以上、下剋上を企てようが、その序列を違えることは適わず、下賜されることに応じぬ不忠は世間的にも不興となった。もっとも、完全に独立を果たしてしまえば話は別だが、温井備中入道は畠山あっての専横という立場。従わぬ選択肢はない。

 このとき〈続〉の偏諱を与えられた者は複数。そののちの名は、次のとおりだ。

  伊丹続堅
  隠岐続朝
  熊木続兼
  河野続秀
  平 続重
  宮家続長
  遊佐続光
  温井続基
  温井続宗
  長 続連

 ここにある温井続宗とは、備中入道の嫡子である。次世代まで主家の覚えがあることを、温井備中入道は喜んだ。

 温井一族と遊佐一族の専横。欲得に絡むことに、両雄は並び立たぬのが世の常だ。畠山義続の望みは、温井の失脚である。
(遊佐を用いるべし)
 長対馬守続連は、双方の派閥争いを冷静にみつめ、畠山家が上位になるための策謀を思案した。が、感情ある者はこらえ性がない。
 天文一九年(1550)、〈能登天文の乱〉。遊佐続光は畠山主家を担がずにその分家を旗頭にした。畠山義続は温井備中入道側に立たなければいけない。皮肉なことだ。結果として家中をも二分する戦いとなってしまった。
 畠山義続は困惑した。傍らの家臣・飯川肥前守義宗に策を問う。窮した飯川義宗は、急ぎ長続連に質した。
「されば」
と、畠山義続に向き直った長続連は、少し考えて
「まずは一向宗と遊佐勢が結ばぬよう、早急に対応これあり」
「どうするのだ」
「尾山御坊へ使いを出すとともに、大坂御坊の門主に依頼するべきと」
 これに応じ、義続は尾山御坊へ使いを発し、大坂御坊の本願寺門主・証如に、家中の問題につき遊佐側に合力をしないよう依頼する文書を発した。一向宗徒が介入しなければ、遊佐と、同調する者だけを敵にすればいい。証如は介入しないことを約し、尾山へ指図した。尾山は、のちの金沢城である。
 一一月二五日、両軍が激突した。この戦いで鞍川清房率は討ち死にした。遊佐続光は加賀方面へと逃れていった。誰が見ても、功は長続連にあった。
「功あるは新九郎よ。褒美をとらす、何か申せ」
 畠山義続は上機嫌だ。
「ちっ」
 温井備中入道は面白くない。それを尻目に、続連の発した言葉は唇裂なものだった。
「家中の内乱は主家の責任、これあり」
 畠山義続も、誰もが、意外な言葉に唖然となった。
「それは、どういう意味だ?」
「お聞きの通りです」
「責任とは、なんだ!」
「一連の騒乱の責任を取る形で、御館は家督を嫡子様へお譲りなされ。隠居なされることこそ相当なり」
 畠山義続は言葉もない。意外ななりゆきで、大笑いする温井備中入道にも
「家中にこそ、当主を貶めた責任が重い」
 続連は断じた。きっかけはどうであれ、家臣同士が争いを始め甚大な被害が出た事実は重い。
「そのうえで」
新たな重臣間の争いを調停する機構を組織するべしと、長続連は訴えた。
「何かに偏った勢力があるから、今度のことは起こったと思いませぬか?」
 そうなのだ。
 すべては温井と遊佐の権力争いが、発端だ。当事者である温井備中入道は何も云えない。面白くないが、反論すれば、次は温井側が攻められる大義名分とされよう。
「方々これに応じるべし」
と、温井備中入道は苦々しく云うしかなかった。
 こののち、畠山義続は隠居した。当主の座は次郎義綱に譲られた。重臣たちの合議体制も定められた。これを〈畠山七人衆〉という。なんとか形として納めたものの、畠山義続の失脚は、主家の力がなくなったことを意味する。
「ひどいではないか」
 畠山義続の叱責に、続連はほくそ笑んだ。
「ああ纏めても、筆頭は温井備中入道。何も変わりませぬ。だから御隠居様が後見となって、政務に関わればよいまで。まだまだ、収まるはずなどございませぬ」
 じっと長続連は畠山義続をみた。
「そう、なのか」
「そうです」
 これが深謀遠慮。畠山義続は背筋がゾッとした。義続はそれでいいが、傀儡とされた当主・義綱は面白くないだろう。
「気の毒ではないか」
「そう思うなら、よく考えることです」
「なにを?」
「そのことをです」
 そもそもの原因は、無能な父・義続であり、勝手な重臣たちだ。当主となった畠山義綱は、実際、面白くもない。合議制がある限り、当主としての自立が出来ないことになる。このことに鬱屈するのは、当然。若者特有の反抗心もある。七人衆の筆頭である温井備中入道への殺意を滾らせ、畠山義綱は機会をじっと待つしかなかった。
 その機会は、簡単に訪れなかった。


                    二


 天文二二年(1553)一二月、遊佐続光が加賀一向一揆を味方に引き入れ、権力奪取のため挙兵した。引き摺られるように、遊佐続光の陣営に七人衆の多くが参じた。これは単純に、温井備中入道への不満と批判ともいえよう。しかも、遊佐続光は旗頭に畠山傍流を担いだ。畠山義続そのものを否定sたのである。
「負けてはいられぬ」
 震える声で、畠山義続は呻いた。その言葉は、家臣同士の戦いに積極的に参加する意思ともとれる。
「愚かな」
 そういうことでは拙いのだと、長続連は思ったが、もはや流れを変えることは難しい。ならば、戦って勝つしかない。
二七日、遊佐勢は大槻の合戦で七尾城主方の軍勢と激突して、敗北した。軍を退き、七尾西湾に近い田鶴浜に布陣し、戦況を判断した。ここは仕切り直しすべきと、遊佐続光は苦渋の選択を決めた。
 二八日、撤退の直前。
「敵襲!」
 田鶴浜の陣に、畠山義続側の軍勢が急襲した。遊佐孫四郎・同孫八郎・同五郎兵衛・千手院・伊丹宗右衛門・丸山出雲守・同丹後・河野藤兵衛続秀・遊佐源五・安見紀兵衛など、併せて四千の遊佐勢が討たれた。遊佐続光の行方は知れなかった。討ち取った敵将のなかに七人衆もいた。伊丹宗右衛門総堅・続堅父子、河野藤兵衛続秀である。
(どうしたものか)
 長続連は溜息ついた。畠山家中の獅子身中の虫として、これを除くことを求めた義続は、いま、もっとも頼りとする者として温井備中入道を持ち上げていた。
(妙なことになったものだ)
 あのとき頼られたのは、一時の気紛れということなのだろう。とすれば、無駄に血を流したことになる。
(内紛などしていては、他所から攻め込まれる隙になる)
 続連は憂鬱そうに、海の彼方に沈む陽を見つめていた。

 遊佐続光は、末森城主・土肥但馬守親真に匿われた。そして、再び姿を消した。まだまだ温井備中入道の首を諦めていなかった。
 そのときは、呆気なく訪れた。
 弘治元年(1555)、専横を極めた温井備中入道は、主家の排斥を企てた。畠山義続は傀儡として都合がいいが、所詮は隠居だ。そして、当主の義綱は扱いにくい。丁度、畠山四郎晴俊という男がいる。これを傀儡当主にすれば、大義名分を損なうことはない。
 企ては、秘密裏に進む筈だった。しかし、長続連はこれを察知した。どうするか、続連は思案した。元々、能登に在地で栄えたのは長一族である。長い目でみれば、畠山は新興ともいえる守護職だ。これを大事にしても、いいのか。見て見ぬふりをしても、温井備中入道は続連を捨て置くだろうし、味方に望むことも考えられる。
「恩を売るなら、どちらか」
 畠山義続は凡庸であり、その子の義綱は勝ち気で、どちらも好きにはなれない。かといって、温井備中入道はもっと好きになれなかった。
(されば)
 七尾城へ奔った長続連は、主家排斥の企てがあることを、畠山義綱に報せた。俄かに信用しない義綱だったが、後釜に畠山四郎晴俊を用意していると聞き、表情を曇らせた。
「聞き捨てならぬな」
 義綱は温井備中入道を暗殺することを考え、その策を続連に促した。暗殺で事が収まるものか、続連は懸念を示したが
「首謀者が討たれれば、烏合の衆は散る」
 義綱は鼻息を荒げた。
「されば」
 連歌の会と偽り誘い出せば、温井備中入道ひとりを殺すことは可能だ。
「本当に、烏合の衆かのう」
 続連が呟いた。義綱は無視した。そして、続連を下がらせて、飯川新次郎光誠を召出した。飯川光誠は教養人で、正二位権大納言・冷泉為和に師事し和歌を学んだことがある。もっとも歌人とはいえ、冷泉為和は公卿として優れた外交力を持ち、今川義元とも密接だった。五年も前に亡くなったが、その教えを身につけていたのが、飯川新次郎光誠である。
「主計頭、知恵をくれ」
 飯川光誠は連歌の会を装い温井備中入道を討つということに
「よき宴となりますよう」
 そういって、微笑んだ。
 温井備中入道は病がちだった。これまで好き勝手を、力ずくで成し遂げたのだから、特に思い残したこともない。
「兵庫助、これへ」
 子の続宗は、父の権力を傘に生きてきた。その父も輪島に引き籠もり、これからは自身が畠山の家を好きにするのだと自負していた。
「その気概、忘れるなよ。畠山など、ただの看板でしかない」
「はい」
「ただし、気になる奴が一人だけおる」
「それは」
 温井備中入道は目を細めた。
「長対馬守」
 ああと、続宗は頷いた。敵にしたら面倒な男だ。徹底して、味方に置けという父に
「戦さ場でなければ、騙して暗殺すれば憂いもなくなりましょう」
 事もなげに云う息子に
「大義名分のない暗殺は、首を絞める」
「そうですか?」
「いいな、やるなら慎重にやれ。誰からも背かれる暗殺など、下策である」
 そこへ、書状が届いた。連歌の誘い、畠山義綱からである。場所は飯川新次郎光誠の屋敷、七尾城下だ。この者は武辺に程遠く、文吏を主とし和歌を好むような人物である。
「連歌か」
 身体の具合が思わしくないため、断ろうかと思ったが
「お出でになればよろしい」
 温井続宗はそう勧めた。
「億劫だ。こっちに来ては貰えぬかな」
「それでは、こちらが誘うことになります」
「そうだな、それもそうだ」
「兵を五百も率いて、主家を驚かせてやればいいのです」
 それでは無粋に過ぎると、備中入道は笑った。使者には、参上するという返事を与え、いっそその場で、生意気な義綱を討ってしまおうかとも、温井備中入道は思わぬでもなかった。
 温井備中入道が飯川光誠の屋敷へ赴いて程なく、従者が帰宅し
「入道様、御逝去」
と報じた。
「騙し討ちか?」
「さにあらず。道中にて煬帝が変わり、そのまま息を引き取った由」
「おいたわしや」
 輪島では盛大な葬儀が催された。が、畠山家からの弔問はなく、不愉快な思いで続宗は腕を組んだ。
 暗殺の段取りまでしたのに勝手にくたばった。畠山義綱は連日の宴を催していたが、これでは家中に示しがつかぬと、七人衆の三宅総広が諌言した。
「御館は入道の死を望んでおいでかと、家中は疑ってござる」
「まあ、望んでいないと云えば嘘になる」
「なんと」
「畠山の家を蔑ろにされて喜ぶような馬鹿は、親父殿だけで沢山だ」
 このことは、すぐに家中へ拡がった。と同時に、目の上の瘤がなくなった義綱は、自らの主権を取り戻そうと動き出した。宿老を軽んじ、軽輩を引き立て、専制君主の道を歩き出したのである。これは自然な姿かも知れない。しかし、権力争いを続けてきた畠山家の重臣は、居場所がなくなったという怒りを覚えた。特に、これから好き勝手をしようと思っていた温井続宗は、甘い汁を取り上げられたような憤りで一杯だった。
「主家とは申せ、あのガキ。討ってしまえばいい。次の主家として、四郎殿に挿げ替えれば、今まで通りだわ」
 陣触れがされた。敵は、畠山義綱。この声に、賛同する者が多かったのは意外だった。正直、国人は温井備中入道が嫌いだった。死んでくれて、清々していた。しかし、畠山義綱の在り様は迷惑であり、代々の忠勤さえ否定された怒りがあった。応じる者が多かったのは、そういうことだった。
 九月下旬、温井勢に加勢する者たちの連合軍は、能登一帯を占領支配した。あっという間のことだった。
 温井続宗の起こした騒乱は、長く続いた。
 畠山義綱は謀叛者とされてきた遊佐続光に
「許す、帰参せよ」
と誘った。遊佐続光は耳を疑ったが、憎き温井一族を討てるならと、堂々と参じた。
「長新九郎、久しいな」
 よもや七尾城内で遊佐続光を見ようとは。長続連は驚きを隠せなかった。
「今は過去を水に流し、温井の奴らを討ち滅ぼすことに力を貸せ」
 そういって笑う遊佐続光の瞳の奥は、青白い炎が揺らめいていた。続光は先代畠山義続に加担した長続連を許してなどいない。それを察した続連は、ややこしい状況を、考えもなしに作り上げた、義綱の見通しが悪い決断を恨んだ。
 畠山義綱が遊佐続光を帰参させたのは、理由があった。諸国に人脈があるからだ。援軍を要請するための手蔓といってよい。求めた先は、越後の長尾景虎だった。
「これを援軍とすれば、温井の与党は皆殺しである」
 本気で公言したものの、これは実現しなかった。長尾景虎は信濃に出兵する状況だったし、原因となる武田晴信と結びついていたのは畠山晴俊だった。偶然か、能登の諍いは、信濃国の諍いの同陣営になった。ただし、遊佐続光の人脈は他にもあった。近江の六角氏へ働きかけ、本願寺一向宗徒の温井方支援を打ち切ることに成功した。これは大きな成果だった。
 永禄元年(1558)、畠山四郎晴俊をはじめとする温井続宗・神保総誠・三宅総広といった首謀者が討ち死にした。これに参加した勢力は、一旦、加賀へと退いたが、その後も繰り返し、戦さは続いた。翌年、残党は一向一揆を率いて攻め込んだが、長続連により撃退され、弱体化していった。
 この一連の〈弘治の内乱〉により、最も得をしたのは畠山義綱だった。煩い宿老を一掃し、専制君主として家中をまとめるきっかけに繋げたのである。ただしそれは、悪しきことばかりでないことも、事実だった。経済基盤・人事制度の改編を図り、領国の秩序を回復する試みでもある。長続連は辛抱した。能登の平穏を望み、私的な感情を押し殺して、守護職の為さり様に従った。
 が、そろそろ限界だった。


                    三


 永禄九年(1566)、実権を奪われた旧七人衆や重職たちは結束して、畠山義続・義綱と父子を追放するという義挙に出た。守護が家臣によって追放されたのである。理由は後出しで、非道性を強調した話が尾鰭で広まったが、それはどうということではない。国は合議でまとめるべきであり、専横では治まらないという反発が、この事件の根底にあった。
 長続連は、この中核として追放に臨んだのだ。
「残念でござる」
 畠山義綱の抗議に、ただひとこと、呟いた言葉だった。守護職は元服前の義綱の子・次郎が継いだ。その後、畠山家の政権は、温井景隆・長続連・平尭知・遊佐盛光といった年寄衆によって支えられた。ここまでの能登の内紛は、防ぎようもあっただろう。突出した家老間の諍いを制したのち、専横がなければ、もう少し一枚岩の強国にできたはずである。
 能登をとりまく環境は、この間、大きく様変わりしていた。
 越後の長尾景虎は関東管領職を継ぎ、上杉輝虎と名乗った。義のためと云いながらも、領土を増やす戦さを行っていたのである。それは、越中へと、既に拡大していた。加賀の一向一揆は武家の介入を拒み、まさに本願寺信徒のための国主不在の楽土を体現していた。一向宗を拒む者は仏敵である。能登はそのギリギリのところで、火種を抱える有様だった。
 このとき織田信長上洛までも果たし、未知数の不気味さを纏っていた。
 長続連は思う。子供たちの世代まで、このような歪な国であってはならないと。能登は先祖伝来の地であり、これからも生きていく土地なのだ。
 こんな争いは、もう、こりごりだった。

 宗顒は、孝恩寺住職でありながら、必要とあらば進んで戦場に出た。
「この生臭坊主め」
 笑いながら、青々とした頭を撫ぜ回す。宗顒、出家前の名を好連という、長続連の三男である。
 宗顒は聡明な思考を持ち、感受性が豊かだった。だからこそ、早くから僧籍にして、戦さとは無縁の世界で生かしたかった。
「それなのに」
おかしなものだ。僧籍にありながら戦場で働く宗顒は、いっぱしの采配者だった。兵の配りが巧みで、無駄なく戦果を挙げるのである。
「還俗しましょうか」
「いや、坊主でおれ」
 父子のこんなやりとりも、自然なものだった。
 長続連にとって、いまの能登が平穏であるか、思案に難い。元服した当主は畠山次郎義慶と名乗っているが、有り体に申せば、傀儡である。
 温井兵庫助景隆。温井備中入道の孫である。父・続宗とともに挙兵し、敗れたのちは加賀に落ちて長じた。永禄九年、畠山義綱が追放されたときに許され、能登に帰参した。
 温井と遊佐。
 もともと水と油の一族が世代を経たところで、本質は何も変わらない。歴史は繰り返される。どうして、こういう甘さが出たものか、長続連の思惟の外だ。
「父上」
 続連は振り向いた。若武者の名は、長大九郎綱連。続連の嫡子である。いまは長氏の家督を継いで、続連は隠居していた。
「温井のこと」
 綱連の言葉に、続連は顔を曇らせた。
たしかに、畠山義綱が〈永禄九年の政変〉で追放されてしまえば、個人的に義続・義綱父子に私怨を抱く温井景隆には弓引く理由がなくなる。それゆえ、温井家は許され畠山家に復帰したのだが、元々反乱を起こした側の中心にいたことを懸念すれば
「寛大すぎた処置です」
「済んだことは仕方ない」
 そうなのだが、釈然としない。
「帰参は、だれが」
「誰だったのだろう」
 今にして思えば、何となくの空気が、そうさせたのだろう。特定の誰かが主張したのではない気がする。ようは、弓引く対象がないのだから、反乱した連中を丸ごと畠山家に引き取っても問題はない。自然に、誰もが、そう考えたから、こうなったのだ。
「また弓引くのでは?」
「その兆しでもあるのか」
「今はなくても」
 云いたいことはわかる。温井景隆は長く加賀に長く留まり、一向宗とも交わってきた。望まぬ戦乱を持ち込む可能性が高い。
「追放した畠山先代は、常に戦さを仕掛けてくる。これに温井が合することなど、ないとは思うが」
「そうなれば、厄介。だから帰参させたという理由も道理です」
「儂が温井を睨むことで、どうということではないのだぞ」
 そうなのだ。
 しかし、何かが短慮なのだと、綱連は呟いた。
「そなた、おつむが賢い」
「父上」
「賢いだけでは、疲れるぞ」
 そうではあるがと云いかけて、綱連は口を噤んだ。
「宗顒なら、戦さになると喜ぶのだろうな」
「あの馬鹿坊主と一緒にしないでください」
 綱連は思わず苦笑した。
 温井景隆復帰の歪みは、すぐに生じた。かつて〈弘治の内乱〉で、温井勢を駆逐し恩賞として輪島をはじめとする温井旧領を得たのが八代安芸守俊盛という新参だ。もともと八代俊盛は、越中椎名家の与力加勢に過ぎない。
 そのころの当主・畠山義綱は、越後の長尾景虎への援軍要請や、本願寺に働きかけ温井への合力を停止するといった、対外交渉を精力的に行っていた。椎名家への援軍要請もそのひとつに過ぎない。八代俊盛は義綱の心をつなぎ留め、越中に帰参せずに畠山家中に残った。そして温井領を得たのである。
 帰参した温井景隆が再び台頭すると、八代俊盛の立場は揺らぎ始めた。
「旧領の返還」
 温井景隆が墳墓の地を求めるのは道理だ。しかし、いまの領主の立場もある。専制君主でない畠山義慶には、独断で采配する知恵も権限もない。行き着く先は、ひとつしかなかった。
永禄一二年(1569)一一月、八代安芸守俊盛は鶏塚において挙兵した。ただでさえ新参者であり、己の正当性を信じた挙兵だった。
しかし、温井景隆は
「謀叛なり」
と、畠山の家老衆に逆臣討伐を働きかけ、多勢に無勢の形成を整えてしまった。
これが政治力の有無だ。正論の義挙でさえ悪しき方へと曲げる力が政治である。八代俊盛は、このあたりが青かった。
「兄上」
 前線にある長綱連の陣に馳せ参じた宗顒は、この戦さを一気に平らげると息巻いた。
「お前は単純でいいな」
「単純に戦わなければ、迷うし、そうなれば討たれてしまう」
 宗顒の云い分も道理だった。八代安芸守俊盛の鶏塚挙兵に際し、長続連・杉山則直・飯川義実らは、七尾城の守備を固めた。八代俊盛の云い分が
「温井に領地は返せない」
というものであっても、もはや収まらない。
「代わりに、もっといい土地を与えてやれば気も収まっただろうに」
 つい、長続連は口にした。
 傀儡とはいえ、そういう知恵のない畠山義慶の甘さが歯痒かった。これは、いらざる戦さである。困るのは領民だった。結局、八代勢は灘浦から七尾城の背後を攻める経路をとった。意図するものが分らない。畠山家を責めるためか、七尾城に籠って出てこない温井景隆に向けた敵意か。
 戦闘は、長勢との間ではじまった。戦場を走り抜ける宗顒は、錐で鋭く刺さるように敵陣に食い込み、それを綱連の兵が追うように進撃した。戦さ慣れした兄弟だ。八代俊盛の敵ではない。
 このこと、『長家家譜第二巻抄録』は、かく記す。

   依レ之同晦日綱連公四千余之人数を率、孝恩寺様並温井備中景隆、三宅備後長盛、
   松波常陸義智、同丹羽、同隠岐等随兵たり。鶏塚へ押詰攻破らる。八代父子戦力
   尽、自殺す。一説、安芸病中故自殺し、外記は戦死す。安芸弟肥後、主水、義則
   と共に越中へ遁去。

 この戦いで八代俊盛・外記父子が自害して果てた。戦さの手練れには適わなかったのである。俊盛の弟・である肥後と主水も、戦場を脱し、越中へと逃げ果せた。
 この戦いで、得をしたのは温井景隆だけだった。旧領を取り戻し、戦さへの直接関与はない。何ひとつ損なわず
「さすがは長の父子よ。名うての戦さ上手、あやかりたし」
 軽口ひとつで、鼻歌混じり。なんとも憎らしい限りだった。


                  四


 長続連は、穴水城へ子供たちを呼んだ。戦勝の宴といいながらも、兵の賑わいとは裏腹に、父子は重い空気のなかにあった。
 能登北湾は凪いでいた。
「温井の復権が早すぎる」
 続連が、呻くように呟いた。
 このままでは義続時代に逆戻りする。それがいいことなのか、どうか。能登を取り巻く情勢は変わった。時代は、戦国大名による専制統治が主流である。
「能登の守護職は、戦国大名とは違うのだ」
 続連は断言した。
 能登の今後を考えれば、遠交近攻を視野に入れて逸材と結ぶことが最良だ。逸材とは、織田信長のことである。
「織田上総介殿は美濃を抑えた。近いうちに近江も平定するだろう。やがては越前朝倉を下すに違いない。そうなれば、加賀へも進出しよう。なればこそ、能登の値打がある間に、早くから結ぶこと。きっと無駄とは思っておるまい」
「しかし、父上」
 綱連は織田信長で本当によいものか、疑問を抱いていた。
「畠山家中が守護家を強くすればよいではござらんか」
 図星だ。しかし、義綱は戦国大名ではない。国政は滞っていたし、諌言する者に耳すら貸さなかった。畠山には逸材などいないのかも知れない。
「ならば、父上が下剋上しますか?」
 場に不釣り合いな明るい声の主を、一同は睨んだ。
「どういうことだ、孝恩寺殿」
 声の主は宗顒だ。
「そのままの意味です」
 宗顒の表情は涼しい。続連は思わず大声で笑った。
「戯けめ。下剋上など、簡単ではないぞ」
 続連の言葉に
「いつも通りに領民采配すること。何が変わりましょうか」
「外交なんて、不得手じゃわ」
「ならば、能登を手土産に織田へ降り、土地を預かるだけという考えも出来ましょうな」
 宗顒の言葉を遮ったのは、綱連だ。
「これでは謀叛の相談じゃ、阿呆が」
「あれ、そう聞こえましたか?」
「そうとしか、聞こえぬぞ」
 馬鹿馬鹿しい、続連は笑った。
「笑い事ではございますまい」
 激昂したのは綱連だ。
「父上は、どうしたいのですか」
 綱連には、長一族がどうすればいいのか、その先が見出せなかった。苛立ちは、棟梁ゆえの気張りである。
「温井が台頭するなら、これに与して守護家を操るというやり方を望むのですか。あまり好きにはなれませんが、能登を安泰とするならば」
「ああ、それもいいな」
「じゃあ」
「遊佐は別を向いているだろうよ」
 綱連は困惑した。畠山家中が、また割れて、騒乱へ向かうこともあるのだろうか。追放した先代・義綱の進行も、きっとあるだろう。能登の安泰は、いったい何処にあるというのか。続連にだって、その答えなど、全く分からないのだ。
「ならばこそ、守護家が上手に立ち振舞ってくれればいいのだろうよ。家老を煽てて、掌で躍らせながら、向かうべきところへと知らずのうちに導くことが出来れば、問題などあるまいて」
 宗顒の言葉に、皆は項垂れた。
 それが出来れば、こんな苦労など負うことはない。出来ぬから、悩むのだ。
「温井も遊佐も好き勝手ならば、長家も勝手でよかろうに。自分の領地だけでも守れれば、いいだろう」
 宗顒は云った。これもまた、正論だ。出来る出来ないと決めつけているのは、自分自身である。綱連にだって、それくらいは分かっていた。

 畠山義慶の時代は、重臣寡占体制に復したような格好だ。見た目は理想的な合議制を期待させるが、しかし、現実は違う。気がつけば、バラバラな派閥が形成されて、当主の意思など全くない状態だった。
 派閥は三つ。
 温井と遊佐と、長だった。ただし長続連は徒党を誘い派閥を設けた自覚などない。しかし、強大な軍事力を保有するだけでも、それは脅威であり、人の目には威圧感を与えた。それを派閥という者がいても、不思議はない。
 それでも利点はあった。
 温井と遊佐に二分されれば、畠山家は内紛が再燃することとなる。第三の派閥があるからこそ、双方は警戒し、軽挙妄動を慎んでいるのだ。
「それはそれで、意味があるのだろう」
 続連は諦めたように笑う。綱連はそのように割り切れない。
 どうにも対照的な、父と子だ。

 その頃の能登周辺は、どうか。
 越中には戦国大名と呼ばれる類はいない。西半分を神保氏が、東半分を椎名氏が支配していたが、越後から上杉輝虎が侵攻したことにより神保氏は分裂。片や椎名氏は上杉輝虎に抵抗したため没落した。事実上、越中は上杉輝虎の勢力下にある。
 加賀は相変わらず一向宗徒の支配下だし、越前は朝倉義景による強大な国となっていた。北陸路において有力大名は、上杉・朝倉・畠山の三者であることは間違いない。しかし二者が戦国大名であるのと異なり、畠山は守護大名だ。他国を侵さず安寧のみを望む。これでは、侵略されるのも時間の問題である。
 そして、火種はあった。畠山義綱の能登奪回行動。これを支えているのが上杉輝虎。安心はしていられない。これが、能登の現実だ。
 越中へ侵攻したのは上杉輝虎だけではない。加賀の一向一揆も越中へと進出してきた。一揆を裏で扇動するのは、甲斐の武田信玄だ。信玄と本願寺は盟約関係にあり、双方、軍事的な利を以て協力関係にあった。目的は、上杉輝虎を越中へ釘付けにするためである。現在、武田信玄は東海へ侵攻していた。すなわち北信濃に上杉輝虎が侵攻しない措置だ。
 幸い、このことで今の能登は置き去りだった。
 畠山義綱の能登奪回。
 上杉輝虎は状況からこれを見放した。思案の末、義綱が結んだ先は織田信長だった。
「先代畠山守護家を能登へ戻すよう、助成あれ」
 織田信長の声に長綱連が苦悩したのは当然だ。守護家を、どうしたらいい。
「先代を迎えることは出来ぬ。さりとて織田弾正殿の意思は重い」
 続連も、苦悩した。そのうえで、ひとつの結論に達した。先ずは主家を立てる。そのうえで国外に先代の居場所を設け、和解させる。義綱を当主として迎えることは出来ないが、隠居として実権のない帰参を叶えるならば、やれぬことはない。
 思案の末の結論だった。これが、長一族の総論だった。
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