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桓武帖
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四
子刻(午前〇時)に少し早い時刻、ひとりの少年が五条大橋を駆け抜けていった。
川霧に包まれた闇のなかを松明もなしで走る少年の姿は、現実的ではない。が、どこか幻想的な風でもあり、かつ、極めて不気味なものでもあった。六道の辻を越えて死者に引導を渡す六番目の寺の前で、少年は脚を止めた。
六道珍皇寺。
少年は息の乱れもなく、涼しげな面持ちで、闇の包まれた境内地へと歩を進めた。
「篁さま、御出勤で?」
突如、闇に声が響いた。それは清水坂の非人のものか、それとも闇に巣食う魑魅魍魎か。妖しい微笑を闇に投げ掛けながら、少年は本堂裏手の古井戸へと向かった。少年は毎夜、この古井戸に身を踊らせた。古井戸を覆う木切れを払い除けると、軽やかな所作で、少年はこの暝き穴へと跳躍した。
落下するなか、みるみる少年の体躯は成長し、たちまちのうちに大男へと変化していった。少年の姿は仮初めのものであり、これこそ、彼本来の姿である。
井戸の底はひとつの世界。
人はそこをあの世への玄関口。人はそれを、閻魔庁と呼んだ。
「遅くなりました」
大男は一糸纏わぬ罪人たちを裁く裁判官―閻魔大王に声を掛けた。
「おう、来たか。待っていたぞ、篁」
まさしく大男は、現世へ転世した閻魔庁の役人。人の世で、小野篁と名乗る男である。現世ではまだ四歳の童である小野篁も、夜は本来の姿で、閻魔庁にて死者を裁く補佐官を務めている。
「どうだ、現世では何か変わったことはないか」
「そのことですが、大王。倭の帝はもう、おしまいですな」
桓武天皇のことである。
「どうも倭国は陰謀やら暗殺やら、恨みを残して死ぬ輩が多い。死んだ者は必ず閻魔庁へくるべきところを、あの国で恨み死にした者どもはここへ来ることなく現世に魂魄を残してしまう。これは宜しくないこと。今度の倭の王は、そのような無様はあるまいな」
閻魔大王の表情は嶮しい。
「大王の懸念には及びますまい。山部の帝は弟に祟られ義理の母にも祟られて、死しても誰を呪うまでもなし。必ず閻魔庁へくることでしょう」
「そうであって欲しいものよ」
小野篁が現世に転生した理由のひとつは、死した者を須く
「閻魔庁へ出頭させること」
である。
これ以上、現世に怨霊が増えては困る。
倭国は聖徳太子の時代より先、政治という権力を巡り数多の血が流れてきた。
貶められ生命を奪われた者は死して怨霊と化し、冥府へ来ることを拒み、怨みを抱えて現世に留まろうとする。それにより怨霊の巣窟となったのが、平城京である。長屋王……藤原広嗣……井上内親王……そして早良親王。
どんなに時が移ろうとも、彼らは現世に留まり怨霊であり続け、決して閻魔庁に赴こうとはしない。
これは怨霊となった死者を、本気で慰謝し供養することを願わない、現世の人の落ち度である。だからこそ、小野篁は現世へ転生する以前から、桓武天皇の夢枕に立ち、そのことを繰り返し示唆し続けてきた。気づき、償い、思いやること。そうすれば早良親王も成仏し、桓武の罪も浄化される筈だった。そして、これが成功すれば、これまで世に縛られた数多の怨霊も、やがては閻魔の裁きにより行く先を定めることが出来る。
希望を賭けたこと。
しかし、桓武天皇は失敗した。
このまま桓武天皇が呪い殺されれば、祟るべき相手を失った早良親王もまた、古えからの怨霊と同じになることだろう。荒ぶる祟り神となって、いよいよ人の世を脅かすこととなるのは必然だった。
「篁はよくやった。気負うことはないぞ。すべて儂の指図通りに動いた結果なのだ」
閻魔大王の言葉は優しかった。
子刻(午前〇時)に少し早い時刻、ひとりの少年が五条大橋を駆け抜けていった。
川霧に包まれた闇のなかを松明もなしで走る少年の姿は、現実的ではない。が、どこか幻想的な風でもあり、かつ、極めて不気味なものでもあった。六道の辻を越えて死者に引導を渡す六番目の寺の前で、少年は脚を止めた。
六道珍皇寺。
少年は息の乱れもなく、涼しげな面持ちで、闇の包まれた境内地へと歩を進めた。
「篁さま、御出勤で?」
突如、闇に声が響いた。それは清水坂の非人のものか、それとも闇に巣食う魑魅魍魎か。妖しい微笑を闇に投げ掛けながら、少年は本堂裏手の古井戸へと向かった。少年は毎夜、この古井戸に身を踊らせた。古井戸を覆う木切れを払い除けると、軽やかな所作で、少年はこの暝き穴へと跳躍した。
落下するなか、みるみる少年の体躯は成長し、たちまちのうちに大男へと変化していった。少年の姿は仮初めのものであり、これこそ、彼本来の姿である。
井戸の底はひとつの世界。
人はそこをあの世への玄関口。人はそれを、閻魔庁と呼んだ。
「遅くなりました」
大男は一糸纏わぬ罪人たちを裁く裁判官―閻魔大王に声を掛けた。
「おう、来たか。待っていたぞ、篁」
まさしく大男は、現世へ転世した閻魔庁の役人。人の世で、小野篁と名乗る男である。現世ではまだ四歳の童である小野篁も、夜は本来の姿で、閻魔庁にて死者を裁く補佐官を務めている。
「どうだ、現世では何か変わったことはないか」
「そのことですが、大王。倭の帝はもう、おしまいですな」
桓武天皇のことである。
「どうも倭国は陰謀やら暗殺やら、恨みを残して死ぬ輩が多い。死んだ者は必ず閻魔庁へくるべきところを、あの国で恨み死にした者どもはここへ来ることなく現世に魂魄を残してしまう。これは宜しくないこと。今度の倭の王は、そのような無様はあるまいな」
閻魔大王の表情は嶮しい。
「大王の懸念には及びますまい。山部の帝は弟に祟られ義理の母にも祟られて、死しても誰を呪うまでもなし。必ず閻魔庁へくることでしょう」
「そうであって欲しいものよ」
小野篁が現世に転生した理由のひとつは、死した者を須く
「閻魔庁へ出頭させること」
である。
これ以上、現世に怨霊が増えては困る。
倭国は聖徳太子の時代より先、政治という権力を巡り数多の血が流れてきた。
貶められ生命を奪われた者は死して怨霊と化し、冥府へ来ることを拒み、怨みを抱えて現世に留まろうとする。それにより怨霊の巣窟となったのが、平城京である。長屋王……藤原広嗣……井上内親王……そして早良親王。
どんなに時が移ろうとも、彼らは現世に留まり怨霊であり続け、決して閻魔庁に赴こうとはしない。
これは怨霊となった死者を、本気で慰謝し供養することを願わない、現世の人の落ち度である。だからこそ、小野篁は現世へ転生する以前から、桓武天皇の夢枕に立ち、そのことを繰り返し示唆し続けてきた。気づき、償い、思いやること。そうすれば早良親王も成仏し、桓武の罪も浄化される筈だった。そして、これが成功すれば、これまで世に縛られた数多の怨霊も、やがては閻魔の裁きにより行く先を定めることが出来る。
希望を賭けたこと。
しかし、桓武天皇は失敗した。
このまま桓武天皇が呪い殺されれば、祟るべき相手を失った早良親王もまた、古えからの怨霊と同じになることだろう。荒ぶる祟り神となって、いよいよ人の世を脅かすこととなるのは必然だった。
「篁はよくやった。気負うことはないぞ。すべて儂の指図通りに動いた結果なのだ」
閻魔大王の言葉は優しかった。
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