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良相帖
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三
この目紛るしい世の中を傍観しながら
「余計な怨霊が殖えたら、面倒だな……」
小野篁は事の行方を想像していた。
最も怨霊の座に近いのは、流刑を被った二人だろう。特に橘逸勢は有力株であった。かつては嵯峨上皇・空海と並ぶ三大筆達者と称されただけに、位は低くとも志が高い。このような男は、我を失うと始末に負えないのである。
「おとなしく閻魔庁へ来れば、同情の余地がいくらでもある」
それだけを小野篁は強く願っていた。伊豆流刑の途中、橘逸勢は遠江で憤死した。すわ怨霊と化すか、そう思われた橘逸勢は、意外にも閻魔庁を訪れ、閻魔大王の裁決に従おうとした。
閻魔大王は橘逸勢の境遇にかなり同情的であった。長年没落していた橘氏を必死で盛り立てた苦労は買って然るべしといえた。ましてや書道に精進し、世に三達筆とまで称賛された影には、並々ならぬ努力の跡がある。
「無念であろう、このうえは涅槃より一日も早く現世へ転生できるよう取り計らうものである」
閻魔大王の言葉に、橘逸勢は感涙を溢すのであった。
ところが、である。世に名人と称される者の痕跡には、図らずも魂魄が宿ることがある。よく人形の髪が伸びるなどといわれるが、それも精魂込めた人形師の念が強すぎるためといわれる。されば筆の達人・橘逸勢の遺した筆跡に魂が宿っても、それは決して不思議なことではないのではなかろうか。
大内裏北面安嘉門。この額文字の筆を取った人物こそ、誰あろう橘逸勢であった。類稀なる達筆は、ともすれば一己の書画のようにも見て取れる。安嘉門という文字は見様によれば、髪を逆立てた童子が沓を履いている姿にも受け取れた。
橘逸勢の憤死より間もなく、その安嘉門に怪異が起きた。門を潜る者の頭を、何物かが踏みつけるというのだ。そしてそれの犯人が、額文字ということが判明した。陰謀により死に至らしめた藤原良房は急遽僧侶を召し出し、ただちに祈祷を行なった。
しかし額文字の不思議は決して止まなかった。
「藤原貴族の阿呆を助ける気などないが、罪なき者どもまで不安せしむるは宜しくない」
ある夜、小野篁は門に登って文字を削った。沓に見えなくなった筆跡は、以来そこを通る者たちを踏まなくなった。
現世で四一の齢を重ねた小野篁である。その間に起きた怨霊沙汰や人の心の欲望に、ほとほと嫌気がさしていた。もはや現世の役目を終えて、閻魔の役人に戻りたいと心底考えていた。
しかしその願いに反して、五年後。
承和一四年正月一二日。小野篁は現世朝廷の参議に任じられ事実上の公卿に列せられたのである。面倒だからと固辞したが、聞き入れられるものではなかった。
かくして昼の公卿と、夜の閻魔庁補佐という、二足の草鞋が出来上がったのである。
「いいではないか、現世の寿命はたかが知れている。残りの刻を楽しんでみろよ」
閻魔大王の戯言が恨めしい。
小野篁は嫌々参内する憂き目に、些か欝を覚えていた。しかし翌年正月一〇日、新参の公卿が列せられると、小野篁の憂は霧散した。かつて遣唐使問題の折に助命奔走をしてくれたあの藤原良相が参議に就任したからである。あの頃と変わりもなく権力欲すらない。真正直にして堅実な人物でいてくれたことが、小野篁には何よりも嬉しかった。そして藤原良相と同じく参議に任じられたのが、伴善男という、堅物なれど勤勉な人物である。彼の不遇な運命は、参議に列せられたこの瞬間から決定づけられてしまったのかも知れない。
とまれ憂欝な参議ライフに一筋の光明が差したのは間違いない。
小野篁は寡黙に参議職を送るのであった。
この目紛るしい世の中を傍観しながら
「余計な怨霊が殖えたら、面倒だな……」
小野篁は事の行方を想像していた。
最も怨霊の座に近いのは、流刑を被った二人だろう。特に橘逸勢は有力株であった。かつては嵯峨上皇・空海と並ぶ三大筆達者と称されただけに、位は低くとも志が高い。このような男は、我を失うと始末に負えないのである。
「おとなしく閻魔庁へ来れば、同情の余地がいくらでもある」
それだけを小野篁は強く願っていた。伊豆流刑の途中、橘逸勢は遠江で憤死した。すわ怨霊と化すか、そう思われた橘逸勢は、意外にも閻魔庁を訪れ、閻魔大王の裁決に従おうとした。
閻魔大王は橘逸勢の境遇にかなり同情的であった。長年没落していた橘氏を必死で盛り立てた苦労は買って然るべしといえた。ましてや書道に精進し、世に三達筆とまで称賛された影には、並々ならぬ努力の跡がある。
「無念であろう、このうえは涅槃より一日も早く現世へ転生できるよう取り計らうものである」
閻魔大王の言葉に、橘逸勢は感涙を溢すのであった。
ところが、である。世に名人と称される者の痕跡には、図らずも魂魄が宿ることがある。よく人形の髪が伸びるなどといわれるが、それも精魂込めた人形師の念が強すぎるためといわれる。されば筆の達人・橘逸勢の遺した筆跡に魂が宿っても、それは決して不思議なことではないのではなかろうか。
大内裏北面安嘉門。この額文字の筆を取った人物こそ、誰あろう橘逸勢であった。類稀なる達筆は、ともすれば一己の書画のようにも見て取れる。安嘉門という文字は見様によれば、髪を逆立てた童子が沓を履いている姿にも受け取れた。
橘逸勢の憤死より間もなく、その安嘉門に怪異が起きた。門を潜る者の頭を、何物かが踏みつけるというのだ。そしてそれの犯人が、額文字ということが判明した。陰謀により死に至らしめた藤原良房は急遽僧侶を召し出し、ただちに祈祷を行なった。
しかし額文字の不思議は決して止まなかった。
「藤原貴族の阿呆を助ける気などないが、罪なき者どもまで不安せしむるは宜しくない」
ある夜、小野篁は門に登って文字を削った。沓に見えなくなった筆跡は、以来そこを通る者たちを踏まなくなった。
現世で四一の齢を重ねた小野篁である。その間に起きた怨霊沙汰や人の心の欲望に、ほとほと嫌気がさしていた。もはや現世の役目を終えて、閻魔の役人に戻りたいと心底考えていた。
しかしその願いに反して、五年後。
承和一四年正月一二日。小野篁は現世朝廷の参議に任じられ事実上の公卿に列せられたのである。面倒だからと固辞したが、聞き入れられるものではなかった。
かくして昼の公卿と、夜の閻魔庁補佐という、二足の草鞋が出来上がったのである。
「いいではないか、現世の寿命はたかが知れている。残りの刻を楽しんでみろよ」
閻魔大王の戯言が恨めしい。
小野篁は嫌々参内する憂き目に、些か欝を覚えていた。しかし翌年正月一〇日、新参の公卿が列せられると、小野篁の憂は霧散した。かつて遣唐使問題の折に助命奔走をしてくれたあの藤原良相が参議に就任したからである。あの頃と変わりもなく権力欲すらない。真正直にして堅実な人物でいてくれたことが、小野篁には何よりも嬉しかった。そして藤原良相と同じく参議に任じられたのが、伴善男という、堅物なれど勤勉な人物である。彼の不遇な運命は、参議に列せられたこの瞬間から決定づけられてしまったのかも知れない。
とまれ憂欝な参議ライフに一筋の光明が差したのは間違いない。
小野篁は寡黙に参議職を送るのであった。
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