閻魔の庁

因果帖

　　　　　　　　　　　　　　　三


　いよいよ臨終の近付いたある日、小野篁は現世眷属を召集し、今後のことを遺言した。
「小野郷は世を隠遁した者の隠れ里とすべし。小野の者は今後一切すべての立身を放棄し野に下るべし。そして生と死の間に立って事を為すべし」
　その言葉に、孫娘が顔を上げた。
「和歌こそ我が道と志たくあり。これを以て死者を慰め生者を慰めんと欲するが如何？」
　孫娘の歌の才能は小野篁の認めるところである。
「それもよかろうて」
「有難う、爺さま」
　小野篁の言葉に、孫娘・小野比古姫は美貌を綻ばせた。

　小野篁が言葉を発した翌日、早々に世を隠遁した者が小野郷に迎えられた。文徳天皇第一皇子・惟喬親王である。皇太子の道を人為的横槍で断たれた宮の身の置き処は、もはや都の内には何処にも残されていない。実のところ、惟喬親王が小野郷へ来たのは、文徳天皇の希望でもあった。文徳天皇は藤原良相と言葉を交わすことも多く、このとき惟喬親王の身の振りは
「小野参議に頼るべし」
と勧められたらしい。
　その裏を返せば、惟喬親王の身を案じなければならぬ事態が、水面下では起きていることを意味する。事実、惟喬親王は生命を狙われていた。その死を望んでいたのは、藤原良房である。辺境である小野郷へ惟喬親王を下らせるのは、政権への執着がないポーズであり、更に小野篁という得体の知れぬ存在は暗殺者を躊躇させることにつながる。今や小野篁の裏の正体は、公然の秘密になっていた。如何に現世権力を握っても
「死して地獄へ堕ちては」
割に合わない。
　小野郷へ手を出すことを憚るには、充分すぎる理由であった。
　身寄りなき惟喬親王を親身になって世話をしたのは、小野比古姫であった。のちに二人は添い遂げることになるのだが、歴史はそのことを後世に伝えてはいない。類稀なる美貌の主として、小野比古姫は小野小町という名の伝説のなかでのみ、綺羅星の如く生き続けていく。小野郷へはそののち政界の表舞台から追われた多くが暮らすか通うようになる。在原業平を始め、文屋康秀・大友黒主といった面々である。また惟喬親王の母筋の縁故もあり、紀家の者たちも小野郷を訊ねてきた。
　小野郷という田舎が、一大文化村になったのも、惟喬親王という存在あったればこそのものだろう。小町こと小野比古姫を含めて小野郷に関わった歌の名手六人をして〈六歌仙〉と後世の人はいう。