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第2章 その瞳が見つめる未来は

4話 力づくで見せてもらうよ

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* * * * * *



 それは生命体の中に宿り心の働きを司るもの、肉体とは別に存在する精神的実体など、国や宗教によって捉え方は違う。しかし、魔法使いたちにあるのは概ね二つの考え方である。

 一つは単純に魔力を生み出す動力炉としての狭義の魂。そしてもう一つは、魔力によって稼働し個を形成する器官である「心」と合わせて、肉体に宿る広義の魂である。

 この魂というものの正確な形や大きさをはっきりと捉えることは、この世界に現存するあらゆる魔法を持ってしても不可能である。

 肉体から抜け出した魂であれば探知デクトネシオによって確認することはできる。また、光秀の作るレンズのような魔法があれば、肉体の内部にある魂を見ることもできる。しかし、その輪郭は魂で生成された魔力が駆け巡っているのを見ているに過ぎず、ぼやけた輪郭の球体になるという。

 魔力を可視化する力で、肉体の中に正確に形がわかるほど輪郭がはっきりしたものが見えたとするならば、それは人ではない何かである可能性を意味する。


* * * * * *


「ちょっと待ってくれないか?」
「…………」

 男の肩に右手をかけた蛍司が声をかけると、台車を押していた男は無言のまま彼のことを睨みつける。襟と帽子の隙間から見える男の血走った大きな目に、蛍司は強烈な圧を感じる。その正体を蛍司は知っている。背筋が凍るようなそれを人は殺意と呼ぶ。

 蛍司の左手は腰の高さで構えられたまま動かない。気を抜いたらやられる。そう思えてならなかった。

「国生、避けろ!」

 光秀の声が響き渡ったのとほぼ同じタイミングで、蛍司は男から手を離し5歩分ほど後ろへ飛んで下がった。男の右の裏拳が蛍司の顔面に襲いかかっていた。光秀の声がなければ、彼はその攻撃をギリギリで交わしていただろう。掠めた何かが、蛍司の頬に切り傷を作っていた。

 人が体を動かすとき、魂とをつなぐ糸を通ってわずかに魔力の移動が発生する。しかし、光秀に見えたそれは明らかに正常な量を超えていた。まるで蛍司が足に活性ヴァナティシオを使った時のように。

「素人……ではなさそうだ」

 距離を置いているにもかかわらず蛍司は構えを解かない。男の目は蛍司を捉えたまま、次の攻撃の狙いを定めているかのように静かだ。

 彼を狙った右手は人差し指だけが伸びており、それが蛍司の頬を掠めていた。振り回す速度やほんの少し触れただけで出来た切り傷を考慮すると、もしギリギリで攻撃を避けていたら皮膚が裂けていたかもしれない。

(おかしい……あいつの魔力の発生源は間違いなく胸のアレだ……でもあんな形だったか?)

 光秀がレンズのこの形態を使用するのは10数年ぶり。人を見た時にどういう見え方をしたか、うろ覚えでしかない。だが、レンズが捉えている明希かもしれない存在には同じものは存在しない。胸のあたりと思われる位置に少し大きめの球体が見えるが、男の中に見えているそれとは全く違う。

「なんだなんだ?」

 徐々に野次馬の数が増え始めていた。光秀に向いていたスマートフォンのカメラは蛍司たちに向けられている。駅の改札を出た利用客は、撮影する若者たちを見て何かやっているのかと興味本位で集まる。睨み合う蛍司たちを見て何かの撮影かと勘違いをしているようだ。そのせいもあってか、誰一人として警察を呼ぼうとはしない。

「後でかえちゃんに怒られそうだ」

 自分たちに向けられた視線の多さに、蛍司は苦い笑みを見せる。彼の頭の中には、職場の上司である森永かなえの怒る顔が浮かんでいた。しかし、彼女のことを考えたら、自分に殺意を向けている目の前の男が大したことないように思えてきた。力んでいた蛍司の体から余計な力を抜けていく。張っていた肩は下がり、前のめりになっていた体は背筋が伸びている。

「いきなり肩を掴んで悪かったよ。ただ、あんたの運んでる荷物の中に、後ろにいるポッチャリメガネの友人が大事にしてるものが入ってるみたいなんだ。確認させてもらえないかな?」

 構えを解いた蛍司は、戦闘意思がないことを示すように両手を広げる。

「だっ……誰がポッチャリメガネだ!?」
「ヒデミー……現実を見なよ」
「なっ……」

 光秀はそれ以上口を開かない。言い争いを続ける時ではない……ということもあるが、何より彼の意見を覆す言葉が浮かばない。彼の後ろで話を聞く正信も、蛍司と同じ意見を持っていたが口を閉じた。

 光秀の口から出た言葉に、蛍司は少し安心していた。先ほど腹のことを揶揄った時には出さなかった反応……それは、光秀の心に少しだけ余裕が生まれたということを意味する。

「後ろが騒がしくて申し訳ない。それで、見せてはもらえないかな?」

 男は蛍司に向けて振り回した右手をぶらりと下ろすが、彼の行動を見ても態度を変えない。この男にはわかっていた。後ろにいる光秀と言葉を交わしながらも、彼の細い目がずっと自分を捉え続けていることを。構えを解いているはずの彼の手が、自身の体を狙っているイメージが頭から離れない。

「できれば、同意の上で確認をさせてもらいたいんだけど……」
「…………」

 男は何も答えない。ただただ険しい目を蛍司に向けるのみ。荷物を運ぶには、目の前にいる蛍司を倒さなければならない。男の意思は決まっていた。軽く開いていた両手に力を込める。光秀のレンズにはその様子がしっかりと映し出されていた。

「国生、またーー」
「同意してもらえないなら仕方ない」

 光秀が蛍司に注意を促そうと言葉を発したときには、すでに彼の体は男のすぐ目の前にあった。

「ナッ!?」
「力づくで見せてもらうよ」

 何が起きたのか男にはわからなかった。蛍司との間には5歩分の距離があった。手を振り回しても届かない距離だ。しかし今は半歩しか離れていないところに蛍司の体はある。男は初めて慌てた様子を見せ、体を捻りながらまっすぐ伸ばした右手の4本の指を蛍司の胸に向かって突き立てる。

 しかし、男が感じたのは彼の肉体に指が刺さる感触ではなく、手首に感じた強烈な痛み。彼の胸を狙っていたはずの右手は、何かに弾かれて大きく的を外した。

「何が……起きたんだ?」

 蛍司を正面に見ていた男と、彼を後ろから見ていた光秀たちがその事態を理解するのには少し時間がかかった。しかし、外野の反応は違った。

「なんかすげぇ慌ててたな」
「ただ歩いてっただけじゃん」

 彼らを少し離れていた位置から見ていた野次馬には、蛍司がただ歩いて近づいただけに見えていた。だから、男が慌てて攻撃したのが逆に不自然だった。

「今のカウンターすげぇよ…手首に一発」
「でも、全然わかんなかったぜ?」

 男の手を弾いたのは、蛍司が突き上げた右の拳。野次馬たちが驚くのはその動きだ。体のひねりや肩の上がりといった予備動作なしで、正確に男の手首を撃ち抜いた。しかもその一撃は、相手の手を弾き飛ばしている。生半可な威力ではなかったのは明らかだった。

「あんまり手荒なことはしたくないんだけど」
「クッ」

 弾かれた右手を手刀に変え、男は蛍司の首に向かって振り下ろす。しかし、それもまた彼の拳が男の手首を撃ち上げ、大きく外に弾かれる。焦った男は、台車から離そうとしなかった左手も使って攻撃を続けるが、蛍司の拳はその全てを正確に弾いていく。蛍司は一歩も動いていない。体を捻ったりもしていない。動かしているのは両腕だけ。誰から見てもそれは超人的な技だった。

 素手の戦いで勝ち目はない。蛍司の強さを認めた男は、右手にこれまでとは比較にならないほどの魔力を凝縮していく。男の異様な気配に蛍司も気付いているが、正確な内容を把握しているのは光秀だけだ。

(どうする……大声で魔力がどうこうとは言えないぞ……)

 冷静さを取り戻した光秀の頭に協会ネフロラの法令がチラつく。目が見えないはずの光秀が助言をするのも、怪しく思われるだろう。先ほどから蛍司に向かって叫んでいたのもまずかったと今になって気がつく。

「……レドルトニアウ……」
「何?」
「……イルク」

 男の口から出た小さな声を聞き、蛍司は驚きを隠せない。しかし、その隙を男は見逃さなかった。ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、魔力が集まった右手を大きく振りかぶる。

「しまっ」

 相手の一撃を喰らう覚悟で、蛍司は両腕で壁を作る。だが何も飛んでこない。目の前で交差する腕をゆっくり下げて相手の様子を伺うと、男は途中で腕を止め、何やら悔しい表情をしている。

「攻撃を……止めた?」

 男の右手に集まっていた魔力が霧散していく様子を、光秀はレンズを通して確認している。明らかに何らかの魔法を使おうとしていたのに、それを止めたのだ。何かに驚いて油断した蛍司に一撃を与えるチャンスだったというのに。

「フン!」

 それは突然だった。それまでずっと蛍司のことを狙っていた男が後ろにあった台車を蹴り飛ばしたのだ。台車はそのまま勢いに乗って横断歩道まで進む。歩行者用信号は赤。道路の反対側から大型のトラックが迫っていた。

「やばい!」

 男は歩道の柵を乗り越えて道路の反対側へと逃げていくが、蛍司は彼ではなく横断歩道に向かう台車を追いかける。光秀や正信、そして野次馬の意識も台車の方に向き、誰一人として男の行方を追うものはいなかった。
 
 台車の前輪が点字ブロックにぶつかるが、勢いの方が勝り道路の方へと進み続ける。全力で追いかける蛍司だったが、反応するのが遅すぎた。

 トラックの運転手も、道路に向かって進む台車に気付いてブレーキを強く踏み込む。タイヤの摩擦音が響き、トラックが減速を始める。しかし一般道といえど、50キロの速度で走っていたトラックが急に止まれるはずもなく、そのまま横断歩道に向かっていく。

 追いかけていた蛍司は、そのままいけば自分も巻き込まれるとわかっていながら、それでも足を止めない。
 
「うわっ!」

 後ろの方で、何かに驚いた光秀が尻餅をついた。何が起きたのかわからぬまま正信が近寄ると、光秀は眼鏡の上から自分の目を手で覆っている。

「どうしたんだよ、急に……」
「大丈夫……立ちくらみしただけだ」

「「「おおおおおお!」」」

 急に光秀たちの耳に入る野次馬たちの歓声。彼らの声は、トラックと台車の衝突によるものではなかった。

「マジかよ……」
「よく間に合ったな」
「点字ブロックにうまく引っかかったのか?」
「トラックの運ちゃんが一番驚いてんじゃねぇかな」

 彼らの言葉を聞いてまさかと思い、正信が気になる方向に目を向ける。そこにあったのは、横断歩道を越えたところで停止したトラックと道路に少し頭を出したところで止まった台車。そして、台車の持ち手を右手で掴む蛍司の姿だった。

「危なかった……けどなんで……」

 どう頑張っても拳3つ分は足りない。蛍司はそう考えていた。しかし、不思議なことに後輪が段差に接触する少し手前で何故か台車の速度が落ちたのだ。完全に止まったわけではなかったが、それで十分だった。台車は後輪が点字ブロックの段差にぶつかったところで、さらに速度を落とす。そのおかげで蛍司は台車を掴むことができた。あとは彼が足で踏ん張り、急ブレーキをかけたトラックとわずか数センチの間を残して彼自身と台車は完全停止した。

 息を切らせながら、蛍司は逃げていった男を探したがその姿はどこにも見当たらない。

「やれやれ……一体何が入っているんだか」

 追いかけるのは不可能だと判断した蛍司は肩を竦めると、台車を歩道側まで引っ張り何重にも貼られたガムテープを剥がしていく。

 蛍司は光秀に何も聞かぬまま、男を追いかけた。それは光秀の眼鏡の隙間から深い青色の瞳が、彼が魔法を使っているときの目が見えたから。光秀が協会の法令を守って生活していることは知っている。そんな彼が街中で魔法を使ってまで追いかけていたこのダンボールの中身が、彼の大事なものであると蛍司は気付いたのだ。

「おいおい……嘘だろ……?」

 邪魔なガムテープを取り除き中身を覗き込んだ蛍司は、自分の目を疑い開いたままになった口を手で覆い隠す。

 中身の存在に気付いていた光秀以外、誰もそんなものが入っているとは思いつかなかっただろう。手足をガムテープで止められ、目と口にもテープを貼られた女性が、その女性の手荷物と思われるものと一緒に詰められていようなどとは。

 光秀の悪い予感通り、ダンボールに入っていたのは彼の妻、稲葉 明希であった。
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