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第一章
【4月】風呂場で。
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「郁三(いくみ)さま。本日より、執事として生活を共にさせていただく吉野でございます」
親に用意してもらったマンションのドアを開けた時、そこには見知らぬ男がいた。
僕よりずっと長身で、真っ黒な髪をオールバックにし、時代錯誤のタキシード姿の男が。
「え?あっ、すいません。間違えました」
慌ててバタンと玄関の重たいドアを、閉めた。
混乱する頭で表札を確認するが、そこには確かに807号室の部屋番号がある。
「八木」と僕の苗字だって書かれている。
呆然と立ち尽くしていると、再びドアが開く。
「何をしているのです?早くお入りください」
さっき吉野と名乗った十歳程年上の男が、冷たい声で僕を急かす。
やはり僕は、何も間違えてはいないようだ。
「し、失礼します」
自分の家のはずなのに、ひどく緊張して玄関で靴を脱ぐ。
そして、用意されたスリッパを履いてリビングへと進んだ。
父と内覧で見た時には、空っぽだった部屋には、成金趣味の実家とは違う、センスのいい家具が既に並んでいる。
「あ、あの。状況がよく分からないのですが、貴方はいったい誰ですか?」
---
高校生活を終え、初めての一人暮らしに胸を膨らませながら新幹線に乗り、東京へと向かった。
ここ数日、家族以外の誰とも会わず、家に引きこもって引っ越しの準備のみをしていた為、体調は安定していた。
東京へ移り住んだら、原因不明の体調不良に悩まされることも減るのではないかと、漠然と思っている。
この調子でいけば、それも叶うんじゃないだろうか。
気分良く、新幹線の窓から流れるように見える、桜のピンクを眺めていた。
「お隣よろしいですか?」
暗い顔をした中年女性が声を掛けてきた。
ぺこりと会釈をし、OKである意思を示して、また流れる車窓を眺める。
そのまま女性のことは気にも留めずにいたが、いくつかトンネルを抜けた頃、再び話しかけられた。
「あの。話を聞いていただけませんか?」
知人友人、加えて見ず知らずの人に声をかけられ、失恋などの悲恋の話を聞かされる。
これが僕の体調不良の原因ということに、実は薄々気がついている……。
東京駅で新幹線を降りる頃には、女性は笑顔になっていた。
「貴方にお話できてよかった!」
僕はただ「うんうん、そうなんですか」とうなずいていただけなのに。
「お元気になられて、よかったです……」
そう伝えたが、代わりに僕の体調は急降下。
どんより憂々とした気分になり、身体が怠く重かった。
溜め息ばかりをつきながら、マンションのある駅へ向かうオレンジ色の電車に、乗り換える。
やはりこの事象は、生まれ故郷の街を出ても、僕について回るのだ。
早くも認めざるを得ない敗北感に、潰れてしまいそうだった。
「大学は東京で一人暮らしをしたい」
高三の進路を決める頃、恐る恐る父に申し出た。
すると予想に反し、あっさりと許可が下りた。
実家は無駄に金持ちの成金で、小さな街では有名な家。
家族も親戚も皆、地元の学校へ行き、同族経営の会社に就職をしている。
僕は男ばかりの四人兄弟の三番目で、上の兄二人は勉強ができ、下の弟はスポーツに秀でていた。
残念なことに、僕だけは得意なことは何もなく、平凡。
その上よく体調を崩し、皆に迷惑を掛けている。
父は心配し、頻繁に色々な医者へ連れて行ってくれたが、検査をしても悪いところはなかった。
そんな僕は幼い頃から「ねぇ、話を聞いて」と、いろんな人の話し相手に選ばれることが多かった。
聞かされる話は老若男女、恋だ愛だの悲しい話ばかり。
恋人どころか好きな人もいない僕が、人の恋話を聞いても「うんうん、そうなんだ」と相づちしか打てない。
話の内容だって、さっぱり理解できない。
それでも思う存分話し終わった相手は、心がスッとするのだろう。
「話せてよかった」
皆、笑って帰っていく。
僕は何もしていないのだが、役に立てたならばと嬉しくなる。
けれど、人の話をうなずきながら聞くだけで、僕の体力は消耗し、食欲もなくなる。
その不調は、ぐっすり眠ればだいぶ回復するのだが、聞いた話の内容がヘビーだと、翌日も翌々日も体力の回復に時間を要してしまう。
この体調の優れなさい様を、僕は上手く言語化できず、他人に的確に説明できたことはない。
僕が高校三年になったばかりの頃。
父が、仕事で知り合った「気が見える」という人を家に呼んだ。
その人が、本物かペテン師かは知らないが、僕の部屋の前で立ち止まり、言い放ったらしい。
「この部屋だけ気が滞り、悲しみに覆われている」
おそらくその人の発言のおかげで、僕は都心で一人暮らしをすることが、許された。
父は「商売の要は日々を暮らす家だ」と常々言っていたから。
大事な家に悪い気を滞らせない為、僕を外へ出したのだろう。
その負い目で、いいマンションを借りてくれたのだから、僕は充分に恵まれている。
---
「あぁ郁三さま。貴方という人は、引っ越し早々、どなたかの悲しい気を、持ち帰られたのですね」
「悲しい気持ち?」
「自覚がないのですか?まあいいでしょう」
「あの、貴方はいったい誰?」
彼は僕の質問には答えず、自分のペースで物事を進めていく。
「さぁ、まずはシャワーを浴びてください」
吉野さんが何者で、誰に許可を得てこの部屋にいるのかは不明のままだ。
でも、その超然とした物言いに、抵抗する体力も気力もない。
僕は重い身体を引きずって、言われるままにシャワーを浴びるしかなかった。
初めて入ったバスルームには湯が張られ、いい香りのシャンプー、トリートメント、ボディソープが並んでいる。
これも吉野さんが、揃えてくれたのだろうか?
湯船に漬かりながら、目を閉じてため息をつく。
頭を洗い、身体を洗うことすら億劫だ。
こんなことで、僕の新生活は大丈夫なのだろうか。
「郁三さま、まだグズグスと湯船に入っていらっしゃるのですか?」
突然風呂のドアが開かれた。
「え?し、閉めてください」
「やれやれ」
タキシードのジャケットを脱ぎ、ベスト姿で腕まくりをし、靴下を脱いで、裾をまくった吉野さんが風呂場に入ってくる。
「ちょっと。何なのです?やめてください」
「どうもこうも、いつまでもその状態にいられるのは迷惑です。とっとと排出してしまいましょう」
湯船から引っ張りだされ、シャワーの前に座らされた。
吉野さんは僕の背後に膝をつき、しゃがんだ。
そして自分が濡れるのも気にせず、僕に湯をかけ、シャンプーで頭を洗ってくれる。
洗いながら、僕に告げた。
「どうか、私のことは吉野とお呼びください」
戸惑っているうちに、泡はシャワーで洗い流され、今度は丁寧にトリートメントを付けてくれる。
「いいですか?幸せという気持ちも、悲しいという気持ちも、人から人へ流れていくのです」
唐突に何の話だろう?
「何もないところから湧き出るものではないのです。分け与えられるもの、移動してくるものなのです」
トリートメントが流され、今度はボディソープを手で泡立てている。
泡立った手は、するすると僕の上半身を撫で始めた。
「え?身体は自分で洗えます、吉野さん!」
背後に向かって、懇願するように話しかける。
「吉野と敬称なしでお呼びください。執事ですので」
「いや、あっ、だから身体は恥ずかしいので自分で……」
「ご命令される時は、吉野と」
吉野さんの手が、妙に艶かしく僕の太ももを這う。
「自分で洗いますからやめてください、吉野!」
吉野は鏡越しに、フフフと美しく笑う。
「ダメですよ、郁三さま。しっかりと出さなければ」
「出す?何を?」
「このマンションへ来るまでの間に、誰かの悲しい気を、引き取って連れ帰ってしまったでしょう?」
「悲しい気持ち?」
「ええ。だからそれを、排出するのです」
泡だらけの手が、背後から僕の股間へと、伸びてくる。
吉野の腕まくりしたシャツには、シャワーのお湯が掛かり、既にびしょ濡れだった。
突然、包み込むように僕の敏感な中心を握られたから「んぁっ」と変な声が出てしまう。
「普段、ご自分で出すことを、積極的にされないのでしょ?それではダメなのですよ」
ヌルヌルと泡だらけの手で擦られれば、そこは僕の意志とは関係なく、反応を示してしまう。
「や、やだ」
吉野の指が緩急をつけ、上下に動き出した。
こんなこと、自分でだってほとんどしたことがないのに……。
性欲はなく、性的なことに疎い僕の中心が、硬く上を向いている。
「郁三さま、立ち上がってこちらを向いてください」
「で、でも」
「早く!」
僕は操り人形のように、言われるまま椅子から立ち上がった。
しゃがんだ吉野の方へ身体を向けるが、勃ち上がった股間が恥ずかしく両手で覆い隠す。
「手を退けないとできませんよ?」
「な、なにを?」
「大丈夫ですから。私に身を委ねて。その手をどうか私の肩へ」
吉野のシャツは肩口までもびしょ濡れで、肌が透けて見えていた。
躊躇いながらも有無を言わさぬ雰囲気に負け、肩に手を乗せれば、吉野の体温を感じる。
シャワーで股間の泡が洗い流され、勃起した僕自身がより露わになった。
吉野が長い指で、それをツーと撫でる。
他人に触られるのは初めてで、彼が男だとはいえ、どんどんと変な気分になってゆく。
「んっ」
あろうことか、吉野は僕の硬く大きくなったモノを、パクリと口に咥えた。
突然の行為に、自分が何をされたのか分からず、パニックに陥ったが、未体験の気持ち良さが身体を駆け巡る。
熱い膜に包まれるような、ねっとりとした甘く腰にくる快楽だ。
「あっ、あっ、やめて、あっ、そんな」
吉野が、上目遣いで僕を見た。
オールバックにしている髪が乱れ、ハラリと美しい顔にかかり、ひどく色っぽい。
何者なのか分からないこの綺麗な人が、全裸の僕の昂りを、口に咥えているのだ。
あぁ、どうしよう……。
すぐにでも、達してしまいそうだ……。
「はっ、離して、出ちゃうから、よしの、あっ、離して……んっ」
吉野はより奥まで咥え込んで、吸い上げてきた。
僕は彼の肩に、しがみつく。
「あっ、んぁ」
更に根元を指で擦られれば、堪えきれない。
快楽に震えながら、彼の口の中に勢いよく白濁を放ってしまった。
その気持ち良さに全身の力が抜け、吉野に寄りかかってしまう。
……それでも僕は、乱れた息を必死に立て直す努力をした。
驚いたことに、吐精した後の僕からは、鬱々とした気持ちが消え去り、身体も軽くなっていた。
だからと言って、吉野に礼を言う気にもなれず、ただ心の底から「恥ずかしい」という感情だけが、押し寄せる。
彼から逃げるように湯船に戻り、鼻の下までブクブクと湯に浸かった。
吉野は僕が口内に出した白濁を「ペッ」と床のタイルに吐き出し、シャワーの湯でうがいをする。
そして、びしょ濡れになったズボンとベストとシャツを脱ぎ始めた。
濡れた服は肌に張り付き、ひどく脱ぎづらそうだ。
手を貸すでもなくそれを眺めてしまえば、吉野が言う。
「郁三さま、もうスッキリされたのでしょう?出ていっていただけますか?」
僕は我に返り、慌てて風呂場から出た。
脱衣所には、バスタオルと着替えが畳んで置かれている。
そこには、見慣れた下着があった。
ということは、僕が実家から送った段ボールを、既に吉野が受け取り、荷解きしてくれたのだろう。
十歳は年上に見える吉野は、本当に僕の執事になったのだろうか?
リビングのソファで、猫っ毛の髪をバスタオルで拭いていると、スマホが鳴った。
父からだ。
「もしもし郁三。無事に着いたか?」
「あっ、はい。先程着きました。それでお父さん、ここに吉野という......」
父に吉野のことを聞こうとしたところで、風呂上がりの執事が目の前に姿を現す。
彼は僕の顔を至近距離で覗き込んで「シー」と人差し指を、唇に当てている。
どういう意味だろう?
「あぁ、吉野くんか。もう会ったのか?」
「はい」
「東京に知り合いが居ないと心細いだろうから、彼に時々、郁三の相手をしてやってくれと頼んである」
「僕の相手?」
「そうだ。郁三が体調不良になった時にみてもらえるよう、合鍵も渡してあるから、よくしてもらいなさい」
顔を寄せ、聞き耳を立てている執事を見れば、鋭く睨みを効かせてきた。
これ以上のことを言わぬよう、けん制されるのだろう。
僕としても、風呂場でのことを父には知られたくない。
「また連絡します」
そう言い電話を切った。
吉野は父が雇った執事ではなかった。
けれど父は吉野の存在を知っていた。
信頼もしているようだ。
少しだけ安心できたが、何者なのかは不明のまま。
改めて吉野を見れば、またタキシードに着替えていた。
先ほどのものはびしょ濡れだったから、何着も同じ服を持っているのだろうか?
「吉野、あの……貴方は、なぜここに?」
僕の問いに動揺もせず、ベストを美しい所作で羽織り、ボタンを留めている。
「その話は後日ゆっくりいたしましょう。まずは夕食をお召し上がりください」
言われてみれば、部屋の中にいい匂いが漂っている。
驚くことばかりで、匂いに気づけていなかったようだ。
「ビーフシチューを作っておきましたから。私もご一緒してよろしいですか?」
親に用意してもらったマンションのドアを開けた時、そこには見知らぬ男がいた。
僕よりずっと長身で、真っ黒な髪をオールバックにし、時代錯誤のタキシード姿の男が。
「え?あっ、すいません。間違えました」
慌ててバタンと玄関の重たいドアを、閉めた。
混乱する頭で表札を確認するが、そこには確かに807号室の部屋番号がある。
「八木」と僕の苗字だって書かれている。
呆然と立ち尽くしていると、再びドアが開く。
「何をしているのです?早くお入りください」
さっき吉野と名乗った十歳程年上の男が、冷たい声で僕を急かす。
やはり僕は、何も間違えてはいないようだ。
「し、失礼します」
自分の家のはずなのに、ひどく緊張して玄関で靴を脱ぐ。
そして、用意されたスリッパを履いてリビングへと進んだ。
父と内覧で見た時には、空っぽだった部屋には、成金趣味の実家とは違う、センスのいい家具が既に並んでいる。
「あ、あの。状況がよく分からないのですが、貴方はいったい誰ですか?」
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高校生活を終え、初めての一人暮らしに胸を膨らませながら新幹線に乗り、東京へと向かった。
ここ数日、家族以外の誰とも会わず、家に引きこもって引っ越しの準備のみをしていた為、体調は安定していた。
東京へ移り住んだら、原因不明の体調不良に悩まされることも減るのではないかと、漠然と思っている。
この調子でいけば、それも叶うんじゃないだろうか。
気分良く、新幹線の窓から流れるように見える、桜のピンクを眺めていた。
「お隣よろしいですか?」
暗い顔をした中年女性が声を掛けてきた。
ぺこりと会釈をし、OKである意思を示して、また流れる車窓を眺める。
そのまま女性のことは気にも留めずにいたが、いくつかトンネルを抜けた頃、再び話しかけられた。
「あの。話を聞いていただけませんか?」
知人友人、加えて見ず知らずの人に声をかけられ、失恋などの悲恋の話を聞かされる。
これが僕の体調不良の原因ということに、実は薄々気がついている……。
東京駅で新幹線を降りる頃には、女性は笑顔になっていた。
「貴方にお話できてよかった!」
僕はただ「うんうん、そうなんですか」とうなずいていただけなのに。
「お元気になられて、よかったです……」
そう伝えたが、代わりに僕の体調は急降下。
どんより憂々とした気分になり、身体が怠く重かった。
溜め息ばかりをつきながら、マンションのある駅へ向かうオレンジ色の電車に、乗り換える。
やはりこの事象は、生まれ故郷の街を出ても、僕について回るのだ。
早くも認めざるを得ない敗北感に、潰れてしまいそうだった。
「大学は東京で一人暮らしをしたい」
高三の進路を決める頃、恐る恐る父に申し出た。
すると予想に反し、あっさりと許可が下りた。
実家は無駄に金持ちの成金で、小さな街では有名な家。
家族も親戚も皆、地元の学校へ行き、同族経営の会社に就職をしている。
僕は男ばかりの四人兄弟の三番目で、上の兄二人は勉強ができ、下の弟はスポーツに秀でていた。
残念なことに、僕だけは得意なことは何もなく、平凡。
その上よく体調を崩し、皆に迷惑を掛けている。
父は心配し、頻繁に色々な医者へ連れて行ってくれたが、検査をしても悪いところはなかった。
そんな僕は幼い頃から「ねぇ、話を聞いて」と、いろんな人の話し相手に選ばれることが多かった。
聞かされる話は老若男女、恋だ愛だの悲しい話ばかり。
恋人どころか好きな人もいない僕が、人の恋話を聞いても「うんうん、そうなんだ」と相づちしか打てない。
話の内容だって、さっぱり理解できない。
それでも思う存分話し終わった相手は、心がスッとするのだろう。
「話せてよかった」
皆、笑って帰っていく。
僕は何もしていないのだが、役に立てたならばと嬉しくなる。
けれど、人の話をうなずきながら聞くだけで、僕の体力は消耗し、食欲もなくなる。
その不調は、ぐっすり眠ればだいぶ回復するのだが、聞いた話の内容がヘビーだと、翌日も翌々日も体力の回復に時間を要してしまう。
この体調の優れなさい様を、僕は上手く言語化できず、他人に的確に説明できたことはない。
僕が高校三年になったばかりの頃。
父が、仕事で知り合った「気が見える」という人を家に呼んだ。
その人が、本物かペテン師かは知らないが、僕の部屋の前で立ち止まり、言い放ったらしい。
「この部屋だけ気が滞り、悲しみに覆われている」
おそらくその人の発言のおかげで、僕は都心で一人暮らしをすることが、許された。
父は「商売の要は日々を暮らす家だ」と常々言っていたから。
大事な家に悪い気を滞らせない為、僕を外へ出したのだろう。
その負い目で、いいマンションを借りてくれたのだから、僕は充分に恵まれている。
---
「あぁ郁三さま。貴方という人は、引っ越し早々、どなたかの悲しい気を、持ち帰られたのですね」
「悲しい気持ち?」
「自覚がないのですか?まあいいでしょう」
「あの、貴方はいったい誰?」
彼は僕の質問には答えず、自分のペースで物事を進めていく。
「さぁ、まずはシャワーを浴びてください」
吉野さんが何者で、誰に許可を得てこの部屋にいるのかは不明のままだ。
でも、その超然とした物言いに、抵抗する体力も気力もない。
僕は重い身体を引きずって、言われるままにシャワーを浴びるしかなかった。
初めて入ったバスルームには湯が張られ、いい香りのシャンプー、トリートメント、ボディソープが並んでいる。
これも吉野さんが、揃えてくれたのだろうか?
湯船に漬かりながら、目を閉じてため息をつく。
頭を洗い、身体を洗うことすら億劫だ。
こんなことで、僕の新生活は大丈夫なのだろうか。
「郁三さま、まだグズグスと湯船に入っていらっしゃるのですか?」
突然風呂のドアが開かれた。
「え?し、閉めてください」
「やれやれ」
タキシードのジャケットを脱ぎ、ベスト姿で腕まくりをし、靴下を脱いで、裾をまくった吉野さんが風呂場に入ってくる。
「ちょっと。何なのです?やめてください」
「どうもこうも、いつまでもその状態にいられるのは迷惑です。とっとと排出してしまいましょう」
湯船から引っ張りだされ、シャワーの前に座らされた。
吉野さんは僕の背後に膝をつき、しゃがんだ。
そして自分が濡れるのも気にせず、僕に湯をかけ、シャンプーで頭を洗ってくれる。
洗いながら、僕に告げた。
「どうか、私のことは吉野とお呼びください」
戸惑っているうちに、泡はシャワーで洗い流され、今度は丁寧にトリートメントを付けてくれる。
「いいですか?幸せという気持ちも、悲しいという気持ちも、人から人へ流れていくのです」
唐突に何の話だろう?
「何もないところから湧き出るものではないのです。分け与えられるもの、移動してくるものなのです」
トリートメントが流され、今度はボディソープを手で泡立てている。
泡立った手は、するすると僕の上半身を撫で始めた。
「え?身体は自分で洗えます、吉野さん!」
背後に向かって、懇願するように話しかける。
「吉野と敬称なしでお呼びください。執事ですので」
「いや、あっ、だから身体は恥ずかしいので自分で……」
「ご命令される時は、吉野と」
吉野さんの手が、妙に艶かしく僕の太ももを這う。
「自分で洗いますからやめてください、吉野!」
吉野は鏡越しに、フフフと美しく笑う。
「ダメですよ、郁三さま。しっかりと出さなければ」
「出す?何を?」
「このマンションへ来るまでの間に、誰かの悲しい気を、引き取って連れ帰ってしまったでしょう?」
「悲しい気持ち?」
「ええ。だからそれを、排出するのです」
泡だらけの手が、背後から僕の股間へと、伸びてくる。
吉野の腕まくりしたシャツには、シャワーのお湯が掛かり、既にびしょ濡れだった。
突然、包み込むように僕の敏感な中心を握られたから「んぁっ」と変な声が出てしまう。
「普段、ご自分で出すことを、積極的にされないのでしょ?それではダメなのですよ」
ヌルヌルと泡だらけの手で擦られれば、そこは僕の意志とは関係なく、反応を示してしまう。
「や、やだ」
吉野の指が緩急をつけ、上下に動き出した。
こんなこと、自分でだってほとんどしたことがないのに……。
性欲はなく、性的なことに疎い僕の中心が、硬く上を向いている。
「郁三さま、立ち上がってこちらを向いてください」
「で、でも」
「早く!」
僕は操り人形のように、言われるまま椅子から立ち上がった。
しゃがんだ吉野の方へ身体を向けるが、勃ち上がった股間が恥ずかしく両手で覆い隠す。
「手を退けないとできませんよ?」
「な、なにを?」
「大丈夫ですから。私に身を委ねて。その手をどうか私の肩へ」
吉野のシャツは肩口までもびしょ濡れで、肌が透けて見えていた。
躊躇いながらも有無を言わさぬ雰囲気に負け、肩に手を乗せれば、吉野の体温を感じる。
シャワーで股間の泡が洗い流され、勃起した僕自身がより露わになった。
吉野が長い指で、それをツーと撫でる。
他人に触られるのは初めてで、彼が男だとはいえ、どんどんと変な気分になってゆく。
「んっ」
あろうことか、吉野は僕の硬く大きくなったモノを、パクリと口に咥えた。
突然の行為に、自分が何をされたのか分からず、パニックに陥ったが、未体験の気持ち良さが身体を駆け巡る。
熱い膜に包まれるような、ねっとりとした甘く腰にくる快楽だ。
「あっ、あっ、やめて、あっ、そんな」
吉野が、上目遣いで僕を見た。
オールバックにしている髪が乱れ、ハラリと美しい顔にかかり、ひどく色っぽい。
何者なのか分からないこの綺麗な人が、全裸の僕の昂りを、口に咥えているのだ。
あぁ、どうしよう……。
すぐにでも、達してしまいそうだ……。
「はっ、離して、出ちゃうから、よしの、あっ、離して……んっ」
吉野はより奥まで咥え込んで、吸い上げてきた。
僕は彼の肩に、しがみつく。
「あっ、んぁ」
更に根元を指で擦られれば、堪えきれない。
快楽に震えながら、彼の口の中に勢いよく白濁を放ってしまった。
その気持ち良さに全身の力が抜け、吉野に寄りかかってしまう。
……それでも僕は、乱れた息を必死に立て直す努力をした。
驚いたことに、吐精した後の僕からは、鬱々とした気持ちが消え去り、身体も軽くなっていた。
だからと言って、吉野に礼を言う気にもなれず、ただ心の底から「恥ずかしい」という感情だけが、押し寄せる。
彼から逃げるように湯船に戻り、鼻の下までブクブクと湯に浸かった。
吉野は僕が口内に出した白濁を「ペッ」と床のタイルに吐き出し、シャワーの湯でうがいをする。
そして、びしょ濡れになったズボンとベストとシャツを脱ぎ始めた。
濡れた服は肌に張り付き、ひどく脱ぎづらそうだ。
手を貸すでもなくそれを眺めてしまえば、吉野が言う。
「郁三さま、もうスッキリされたのでしょう?出ていっていただけますか?」
僕は我に返り、慌てて風呂場から出た。
脱衣所には、バスタオルと着替えが畳んで置かれている。
そこには、見慣れた下着があった。
ということは、僕が実家から送った段ボールを、既に吉野が受け取り、荷解きしてくれたのだろう。
十歳は年上に見える吉野は、本当に僕の執事になったのだろうか?
リビングのソファで、猫っ毛の髪をバスタオルで拭いていると、スマホが鳴った。
父からだ。
「もしもし郁三。無事に着いたか?」
「あっ、はい。先程着きました。それでお父さん、ここに吉野という......」
父に吉野のことを聞こうとしたところで、風呂上がりの執事が目の前に姿を現す。
彼は僕の顔を至近距離で覗き込んで「シー」と人差し指を、唇に当てている。
どういう意味だろう?
「あぁ、吉野くんか。もう会ったのか?」
「はい」
「東京に知り合いが居ないと心細いだろうから、彼に時々、郁三の相手をしてやってくれと頼んである」
「僕の相手?」
「そうだ。郁三が体調不良になった時にみてもらえるよう、合鍵も渡してあるから、よくしてもらいなさい」
顔を寄せ、聞き耳を立てている執事を見れば、鋭く睨みを効かせてきた。
これ以上のことを言わぬよう、けん制されるのだろう。
僕としても、風呂場でのことを父には知られたくない。
「また連絡します」
そう言い電話を切った。
吉野は父が雇った執事ではなかった。
けれど父は吉野の存在を知っていた。
信頼もしているようだ。
少しだけ安心できたが、何者なのかは不明のまま。
改めて吉野を見れば、またタキシードに着替えていた。
先ほどのものはびしょ濡れだったから、何着も同じ服を持っているのだろうか?
「吉野、あの……貴方は、なぜここに?」
僕の問いに動揺もせず、ベストを美しい所作で羽織り、ボタンを留めている。
「その話は後日ゆっくりいたしましょう。まずは夕食をお召し上がりください」
言われてみれば、部屋の中にいい匂いが漂っている。
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過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
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