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第二章

⑤二十年ぶりに森に入る

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八月

 夏休みだからといって、都内にある柚木ゆのきの家に帰ったりはしない。生徒は全員が帰宅するけれど、私は温室の管理と黒猫コウの世話をしなければいけない、と理由をつけ学園に残る。毎年のことだ。
 森は蝉の声がミンミンと煩く響き、太陽はギラギラと大地を照り付けている。

 昼前、コウが慣れた足取りで森に入っていくのを見かけた。涼しい木陰に、お気に入りの場所があるのかもしれない。
 その姿に誘われるように、私も生い茂る森に入った。二十年ぶりだ。記憶を頼りに光夜こうやのクスノキを探してみることにした。森の木々は伸びたり枯れたり姿を変えていて、見覚えのある場所はなかなか見つけられない。
 もう戻ろうかと諦めかけた頃、ようやく大きなクスノキの前に出た。以前より更に幹が太くなっているようだ。
 ぐるっと木の周りを一周すると、驚いたことに、クスノキには新しい縄梯子がかかっていた。高所の怖さより好奇心が勝って、たどたどしく縄梯子を登ると、三股になった箇所にはあの頃と同じように板が張られている。板の上は蓄積した落ち葉も枯れ枝もなく、綺麗な状態だった。まるで昨日もここに、光夜が寝そべっていたように手入れされている。どういうことだろう?

 キョロキョロと見渡すと、木のうろに昔はなかった小さな四角い缶が置いてあった。そっと手に取り蓋を開けると、まだ開封していないグレープ味のグミの袋が、まるで宝物のように仕舞われていた。
 心臓がドクドクと音を立てる。震える指先で取り出し賞味期限を確認すると、来年の日付が書かれている。この森のどこかで光夜が生きているのでは、と思わずにはいられなかった。だとしたら、誕生日の朝のダリアにも説明がつく。
 居ても経ってもいられなくなり、クスノキを降りて、森の中を探し始めた。
「光夜!光夜!」
 必死に声をあげながら。森は深いから奥へは行くなと、生徒たちにいつも言っている。その昔、光夜にも言われたことがある。
 それでも奥へ奥へと入り込んで、声を嗄らして名前を呼び続け、どんどんと迷い込んでいく。森には蝉の声だけが響き、どこからも返事は聞こえない。
 いつの間にか背の高い樹々に囲まれ、クスノキはおろか、どちらの方向に校舎があるのかも分からなくなった。ポケットに手を入れるがスマートフォンは部屋に置いたままだ。どうせ森の中は圏外なのだろう。

 暑い、とても、暑い。喉も乾いたし、腹も空いた、今朝はヨーグルトしか食べていなかったから。
 森の奥は鬱蒼としていて風が通らず、暑さと湿度で朦朧としてくる。昨晩もなかなか寝付けず睡眠時間が足りていないことも、身体に堪えているはずだ。
 思考力が低下してきて、急速に何もかもがどうでもよくなってきた。木の根元に座り込み、水分不足で消耗した身体を投げ出す。熱中症になりかけているのだろう。
 光夜など、何処にもいるはずがないのに。いったい何を探していたのだろう。止めどなく涙が溢れ、更に水分が身体から抜けていく。
 命の尽きた光夜の身体を、温室で見つけたのは自分だった。思いを告げようと光夜の部屋に行ったが留守で、学園内を探している時に、変わり果てた姿を発見した。
 動かない身体を抱きしめて、揺さぶって、何度も声をかけ、やはり眼を開けない、息をしないと絶望したのを昨日のことのように覚えているのに。
 光夜の背中から流れ出た血が、自分の身体にもベタリとついていた記憶が甦り、まるで今も手のひらが真っ赤に染まっているように見えた。
 このまま死んでしまいたい。けれど、自分にはまだ四十年の月日が残っている。だからどんなことをしても、死ねないだろう……。

 いつの間か意識を失っていた。
「……先生。圭吾けいご先生。圭吾。ねぇ、圭吾……」
 身体が揺さぶられるのを、感じる。
「よかった眼が開いた」
 ぼやっとした意識の中に、知っている気配があった。
「光夜?」
「違うよ、先生。俺は光夜じゃない」
「何を言ってるの。光夜でしょ?よかった、会えて。探したんですよ……」
 ノロノロと手を伸ばすと、その気配は光夜じゃないと言ったくせに、しっかりと手を握り返してくれた。そして反対の手で、私の肩を引き寄せ抱きしめてくれた。
「会いたかった……」
 そう口にすれば、また涙が零れ出る。その涙を吸い取るように、そっと頬に、キスをしてくれた。
「あぁ光夜。光夜、本当に、寂しかったんですよ……」
 今度は口をふさぐように、口づけをされる。その柔らかい唇が冷たく感じるのは、自分の身体が熱いからだろうか。
 光夜の熱を感じたくて、その下唇を軽く喰んだ。そのタイミングで開いた隙間に、舌を潜り込ませる。口内は温かく、ほらやっぱり光夜は生きていたと、また涙が流れ出た。
 更にギュッと強く抱きしめられ、互いの唾液が混じり合う、深くて甘い甘いキスに夢中になる。その忘れていた気持ち良さに、身体の奥がズンと疼いた。
「抱いてほしい。ねぇ、このままここで。裸になって。光夜をもっともっと、感じたいんですよ……」
 自分の中にまだこんな欲望があったことに驚く。
「ねぇお願い、抱いて」
 実際に口にしたかどうか定かではないが、私はまた意識を手放した。

 どれくらい経ったのだろう。今度はハッキリと意識が浮上した。そこは涼しく、生活棟一階、医務室のベッドの上だった。腕には点滴が繋がっている。
「やぁ、気がついたかい?」
雅史まさし先生?」
「熱中症だよ。さぁ、これを飲んで」
 よく冷えたスポーツドリンクを渡される。
「私はいったい……森にいたはずなのに」
 森で光夜に会った。いや、そういう幻覚を見たのだろう。誰がここまで運んでくれたのか。疑問に思っても頭を整理できずにいると、雅史先生が口を開く。
「研究所に提出する書類の一部を学園に忘れて、取りに来たんだ。その時、駅からの長い道で自転車を必死に漕いでいる生徒を見つけてね。この暑いのに無茶をすると呆れ、ピックアップした。彼は君に会いに行くと言っていた。でも部屋にも温室にもいなくて、森から微かに光夜の名を呼ぶ声が聴こえてね。まさかと思ったけれど、二人で手分けをして森を探したんだよ。それで彼が君を見つけて、ここへ運んだんだ」

「彼?」
「その生徒は高校二年の時、どうしてもこの学園に転校したいと、僕を尋ねてきた。その時も自転車だったな。随分と遠くから一人でやってきた。彼の熱意に負けた僕が美智雄みちおに口をきいて転入が決まった」
敦貴あつき?」
「そうだよ」
「敦貴は、今はどこに?」
「あっちのベッドで疲れて眠っている。当たり前だよ。長い距離、自転車を漕いで、その後森の中を駆け回って必死で君を探したのだから。後で僕が連れて帰る。今夜はうちに泊めるよ」
「よろしくお願いします」
「実はね、敦貴と僕は親戚なんだ。血は繋がっていないけれど。彼の母親の妹の旦那が、僕の奥さんの兄さん。母親にも、連絡を入れておいたから大丈夫、安心して」
 雅史先生の親戚……。そうか、今あのクスノキを逃避場所に使っているのは、敦貴なのか。雅史先生が敦貴に教えたのだろう。二十年前に光夜が教わったように。
「敦貴は、私に何の用事があったのでしょう?」
「彼が言うには、漢文が分からないから教えて欲しかったそうだよ」
 そんなはずはない。彼はトップクラスで成績優秀なのだから。

 その日は敦貴に会うことはなかった。翌日も雅史先生はわざわざ様子を見に、学園まで来てくれた。けれど敦貴は一緒ではなかった。
 夏休みが明け敦貴に会った時、お礼を言おうとしたら、プイっと顔を背けられた。当たり前だ。どこまでが夢でどこからが現実か分からないけれど、随分と恥ずかしい姿を晒してしまったから、呆れているのだろう。
 それでも何かせねばと思い、雅史先生経由で「ありがとう。この借りはどこかのタイミングで返します」とだけ書いたメッセージカードを渡してもらった。



 八月最後の日曜深夜。大型の台風が日本列島を横断している。進路からは少し外れたこの森も、暴風雨が吹き荒れていた。
 木々が唸り、窓がガタガタと鳴り、雨がガラスを打ち付ける。その音が気になって、何度も寝返りを打つも、寝付けそうになかった。時計の針は零時を回っている。
 以前はこんな時、股間に手を伸ばし自慰をすると眠れた。そういえばいつからか、そんな選択肢は無くなった。

 ベッドに腰掛け、パジャマのズボンとボクサーパンツを、途中まで下げる。柔らかく暖かい股間のモノを、そっと握った。そして小さく「光夜」と声に出して名を呼んでみた。こんな嵐の夜なら、周りに聴こえることもないだろう。
 光夜がしてくれたみたいに触っていく。粗削りで、まだお互いのことなんて考えられず、ともに自分の快楽ばかりを追ってしまう若者らしいセックスだった。
 きっとあと何回も、何十回も何百回も、何年も何十年も二人でセックスしていたら、もっともっと心を通わせた更に気持ちいい行為になっていただろう。
「あぁ、気持ち、いい、光夜……」
 そう呟きながら、自分を昂らせていく。次第に先走りが零れ、右手でしごく度にクチュクチュと卑猥な音を立てる。
 左手の人差し指を口に咥え、唾液をたっぷりつけた。その指をTシャツの中に入れ、胸の突起を摘まみ擦り合わせる。
「ん……」
 こんなところを触っても、まだ感じることができるようだ。どんどんと行為に没頭していき、熱心に指を動かす。
「いい、いい。あっ、ん。……もう、イ、イクっ」
 吐精した瞬間、頭の中に浮かんだ映像は、この前の森の中の甘いキスだった。相手の顔は光夜ではなく、敦貴だったから、酷く戸惑った。
 
 その後ぐっすりと眠り、アラームの音で眼が覚めると、カーテンの隙間からは燦々と太陽が降り注いでいた。
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