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第6話
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愛ちゃんのマンションのドアを前に、慶佑は深呼吸した。夜の冷たい空気が肺を満たす。手には手土産と、迷いに迷って選んだ猫柄のハンカチが入った袋を提げている。
犬も猫も好きな彼女だが、迷わず猫を選んだ自分。以前見た夢に引きずられていると気づいてからは気恥ずかしくなって、自宅の机の隅に追いやっていた。
(……まさか、こんなに早く渡せるとは)
インターホンを押すと、愛ちゃんの明るい声がスピーカーから響いた。
「はーい!」
その声だけで、慶佑の胸の鼓動が少し速くなる。ドアが開くと、淡いピンクのエプロンを付けた愛ちゃんが笑顔で迎えてくれた。いつもの華やかな装いとは違う、家庭的でやわらかな空気をまとっている。
「お疲れさまです!どうぞ上がってください」
玄関を上がると、奥に続くキッチンとリビングが見える。こじんまりとしたワンルームに近い間取りで、バラエティ番組の笑い声が軽やかに響いている。芸人の掛け合いと観客の拍手が、部屋に生活感のある温かさを添えていた。
「ありがとう。これ、つまらないものだけど……」
慶佑が袋を差し出すと、愛ちゃんはぱっと目を輝かせ、中を覗き込んだ。
「わ、たこ焼き~!……でも、ずいぶん大きい?」
袋から出してみると、クッションほどもある巨大なパック。愛ちゃんが両手で支えるようにして持ち上げる。
「パーティにはファミリーパックかなと思って」
「ファミリーパック!!……今夜のところは2人だけですけどね!」
愛ちゃんが明るく突っ込んだ後、慶佑はやっと事態に気づいた。
「…言われてみれば」
頬を赤らめて首をかく慶佑に、愛ちゃんは苦笑した。
「ふふ……食べきれない分は冷凍しましょうか、明日のお昼にでも食べてもいいですしね」
「え?!俺、今日は終電までには帰ろうと思ってて…」
愛ちゃんがいたずらっぽく笑う。
「それでしたらそれでも構いませんよ?」
(——それって俺が泊まってもいいと?!愛ちゃん……上級者すぎるぞ……)
少し意味深な視線を送られて、慶佑は目をそらした。愛ちゃんはふっと話題を手土産に戻す。
「それにこれ……わぁ、猫ちゃんのハンカチ!」
そう言って、刺繍部分を大事そうに指でなぞった。
「……すごく可愛いです」
その仕草があまりにも自然で愛おしく、慶佑は思わず胸が熱くなる。
冷凍庫にたこ焼きをしまう愛ちゃんの後ろ姿を見て、慶佑はドキドキした。腰で結ばれたエプロンのちょうちょ結びがまぶしい。
「もう少しだけかかるので、ひとまず座っててください」
リビングに案内されソファに腰掛けると、奥に寝室らしき空間が見える。その手前には本棚や簡易デスクが配置されている。
料理の香りが慶佑の鼻をくすぐった。
テーブルにはすでに小鉢がいくつも並んでいた。ほうれん草の胡麻和え、かぼちゃの煮物、きんぴらごぼう、彩りのいい野菜サラダ。どれも健康的で、どこか懐かしい温もりを感じさせる料理だった。よく見ると野菜の組み合わせや薬味に工夫が凝らされている。
「……すごいな。料理も、こんなに上手なんだな」
「自慢できるほどのものでもないですよ。まだありますからね。」
そう言って愛ちゃんはキッチンへ戻っていく。台所でエプロンの紐を結び直しながら、最後の仕上げに取り掛かる。
慶佑はソファに腰を下ろし、部屋を見回した。センスよく配置された家具、窓辺に置かれた小さな観葉植物。そして整理整頓された本棚にふと目が止まる。
TOEICの問題集、秘書検定の参考書、ビジネスマナーの本……背表紙には付箋がいくつも挟まれ、よく読み込まれた様子が窺える。
(……がんばってるんだな)
普段見せる明るい顔の裏で、彼女なりに将来を考え、努力を重ねているのだと気づく。その一生懸命さが、いとおしく思えた。
しばらくして、愛ちゃんが小さな蒸し器を運んでくる。
蒸し器の蓋を開けると、湯気の向こうに白い塊が並んでいる。
「これ、佐賀の名産で——あっつ!」
いかシュウマイを取り出した瞬間、指先を火傷して慌てて振る。反射的に指を口に含む仕草が、どこか幼さを残していて微笑ましい。
「大丈夫か?」
思わず身を乗り出す慶佑に、愛ちゃんは苦笑して首を振った。
「平気です、よくやっちゃうんです」
頬を膨らませてふーっと息を吹きかける仕草をする。慶佑はその可愛らしさに、胸がきゅんとした。
(こういうところ、ほんとに可愛いな)
「これ、佐賀の名産でいかシュウマイっていうんです」
愛ちゃんが誇らしそうに説明する。その表情には、故郷への愛情が静かに宿っていた。
「へぇ、佐賀の……初めて見るな」
「あと、これは、実家で作っている日本酒です。」
「え?実家?日本酒?」
テーブルには「黒髪」という銘柄の日本酒も用意されていた。瓶のラベルに書かれた文字が、上品な筆遣いで踊っている。
「実家が酒蔵なんです。中桜酒造っていいまして。これも佐賀から送ってもらったお酒で」
「黒髪?」
「はい。黒髪山っていう山があって、その清らかな水で仕込んだお酒なんです。父が新しい仕込みに入る前に送ってきてくれるんです」
そう彼女は誇らしげに言った。自然な口実だったが、慶佑は遠慮した。
「嬉しいけど、俺そんなに酒飲まないし……」
「じゃあ一杯だけ、味見して?」
慶佑は愛ちゃんの可愛く主導権を握ってくる感じに、意外にも慣れつつある自分にびっくりした。
愛ちゃんが注いだ酒を一口飲んで、慶佑は驚いた。
「……思ったより、飲みやすいな」
愛ちゃんが嬉しそうに笑う。距離が縮まった気がした。
「……なんか、いいな。こういうの」
慶佑が珍しく少し頬を赤らめて言った。
「でしょう?」
愛ちゃんは照れながら答えた。
食事が進むにつれ、お酒も進んでいく。黒髪は口当たりが柔らかく、ほのかな甘みが舌に残る。慶佑の頬が少し赤らんできた頃、箸を動かす手もゆっくりになっていた。
「美味しいな、これ。1杯だけのつもりだったけど、結構飲んでるな俺。」
「いかシュウマイも初めて食べたけど……プリプリして、甘みがあって」
「喜んでもらえて良かったです」
愛ちゃんも少し酔いが回っているのか、いつもより表情が柔らかい。頬に薄っすらと桜色が差していて、慶佑はその色合いに見惚れそうになった。
「あっ……」
愛ちゃんの口元に小さな米粒がついている。
「……ここ」
慶佑が指でそっと示すと、愛ちゃんは慌てて拭う。
「もう、恥ずかしい……」
その照れ顔がたまらなく可愛くて、慶佑の胸がじんわり熱くなる。お酒のせいもあって、いつもなら言えない言葉が心の奥から湧き上がってくる。
「……最初に会ったとき……本当に綺麗だと思ったんだ」
「え……?」
愛ちゃんの箸が止まり、驚いたような表情を浮かべる。慶佑は続けた。
「外見だけじゃない。君の優しい空気そのものが美しかった」
「それに、頼りがいがある。君といると、なんだか自然に喋れるんだよな」
慶佑の素直な言葉に、愛ちゃんの頬がさらに染まる。胸の奥で何かがじんわりと温かくなっていくのを感じた。
(こんなこと言ってくれる人、初めて……)
「もう酔っ払ってるでしょ?そんなに言葉が出るなんて、普段の杉山さんと違う」
愛ちゃんは照れ隠しに軽く慶佑の腕を叩く。その仕草もどこか愛らしい。
「ははっ、言えてる」
慶佑は自分でも苦笑いしながら、大きな手をのばして愛ちゃんの頭をそっと撫でた。
(……っ!!すっ杉山さんが!!杉山さんなのに!!)
愛ちゃんの内心は大混乱。そのまま慶佑の手に導かれるように引き寄せられて愛ちゃんの頭が慶佑の肩あたりに落ち着く。そのまま腕に包まれて、長い指先は愛ちゃんの頭に戻った。
「え?」
「俺、体が大きいから怖いって言われることがある。……これはどう? 落ち着く?」
「……はい」
「気に入った?」
「…はい。」
慶佑の声が優しく響く。
「そっか、よかった……。君に肯定されると生きててよかったって思える」
そのまま頭をなでなでと撫でられて、愛ちゃんの心は完全にパニック状態だった。
(……っ!!!す!杉山さんが!!杉山さんなのに!!??)
愛ちゃんは自分の心臓の音が慶佑に聞こえないか心配しながら、慶祐にされるがまま
その体勢でおずおずと話し始める。
「私も……杉山さんと一緒にいると、すごく自然でいられるんです。」
「いつもは人に気を遣いすぎて動けなくなっちゃう枠みたいなものがあるんですけど、それがまるでなかったかのように振る舞えて……」
「あの、杉山さん!……私、杉山さんのこと——」
その時、肩の上から静かな寝息が聞こえてきた。お酒の影響で慶佑は眠りに落ちてしまったのだった。普段の緊張した表情とは違う、穏やかな寝顔。
愛ちゃんは内心「そげんことある?!」とツッコミを入れつつも、その寝顔をじっと見てしまった。男性のほうが酔いつぶれるなんて、拍子抜けだけど、嫌じゃない。
「……ほんと、子どもみたい」
(なんでだろう。がっかりしたけど、でもまた今度って自然に思える)
記憶を探ってみたが、男性とこんなに自然に過ごせるのは初めてかもしれない。
時間は静かに過ぎて、あと1時間ほどで終電の時間。
愛ちゃんは食器を片付けた後、慶佑の様子をそっと見つめていた。寝息の音が規則的で、安らかな表情に見とれてしまった。愛ちゃんは薄手の毛布を持ってきて、そっと慶佑にかけてあげる。
(こんな顔して眠るんだ……)
普段の不器用で一生懸命な様子とは違う、無防備で優しい表情。まつげが長くて、口元がわずかに緩んでいる。愛ちゃんは思わず頬に手を伸ばしてしまう。
指先に伝わる温もりが心臓をくすぐる。こんなに近くで見る慶佑の顔に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(結構かっこいい……)
愛ちゃんはそっと顔を近づけて、慶佑の頬に軽くキスを落とした。
その瞬間、ぱちり、と慶佑が目を開けた。
「……愛ちゃん」
二人の顔が近い。とても近い。愛ちゃんは内心動揺しつつも慶佑の出方を待つ。瞳が見つめ合い、甘い静寂が流れる。長い沈黙に愛ちゃんは恥ずかしさで真っ赤になった。耐えられなくなり慌てて離れようとする手首を掴んで慶佑は優しく微笑んだ。
「……かわいいな」
愛ちゃんの細いうでを掴んでその瞳を覗き込む。
その言葉に、指から伝わる熱さに愛ちゃんの心臓がドキドキと高鳴る。
(この杉山さんは、まだ酔っ払い……?)
テレビの音だけが、部屋に静かに響く。
自分の発した言葉を耳にした瞬間、慶佑は我に返った。
(うわ、俺何言ってんだ……!)
酔いがすっかり冷めて、今までの状況がどれほど大胆だったかを思い知る。
(酒のせいか?!普段の俺じゃ絶対無理だぞ……!)
視線の先には愛ちゃんの腕を掴む自分の手。
「うわ!ごめっ!」
頬が一気に熱くなり、首筋まで赤く染まる。
愛ちゃんはなぜか嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、慶佑の動揺はさらに深くなった。
(可愛すぎるだろ……こんな距離で笑われたら、心臓止まる……)
距離を測り直すみたいに、慶佑は手を離した。
「駅まで送りますね」
ーーーー
夜の街を歩きながら、二人は並んで駅に向かった。街灯の明かりが歩道を照らし、時折すれ違う人たちの足音が夜の静けさに響いている。愛ちゃんは慶佑の横顔をちらりと見上げたが、彼はまっすぐ前を見つめていた。
駅のホームで電車を待ちながら、二人は並んで立っていた。ホームに響く電車の案内放送と、遠くから聞こえる車輪の音が、別れの時間の近づきを告げている。
「今日は、ありがとう。美味しかった」
慶佑の声は優しく、でもどこか名残惜しさを含んでいた。
「こちらこそ……楽しかったです」
愛ちゃんも同じような気持ちだった。もう少しだけ、この時間が続けばいいのにと思う。
改札前で別れる時、愛ちゃんのスマホが鳴った。画面には「お母さん」の文字が光っている。慶佑はそれを見て、手で合図をして改札をくぐっていく。
慶佑は家族のことかと深掘りしなかった。
――でも愛ちゃんの横顔が一瞬曇ったのが少し気になった。
ーーーー
慶佑が改札の向こうでもう一度振り返りながら手を振る。愛ちゃんがお辞儀を返すと、その姿が小さくなっていった。
慶佑の姿が見えなくなるまで見送ってから、深く息を吐いて電話に出た。
「もしもし、お母さん」
「葵子ちゃん、元気にしとう?」
母の声は標準語にほんのり佐賀弁が混じっている。懐かしい響きが、一瞬愛ちゃんの心を温めた。
「うん、元気だよ」
愛ちゃんは無理やり明るく答えた。でも、その声には先ほどまでの温かさが薄れている。
「そろそろ帰ってきてほしいのよ。お父さんも心配してるし」
駅の雑踏の中で、母の声だけがやけにはっきりと聞こえる。愛ちゃんの胸に、重い石のような感情が落ちてきた。
「え……でも、まだ……」
「もう十分、都会で試せたっちゃろ?女の子は家庭に入って旦那さん支えるのが一番よかと思うと」
愛ちゃんの声が少しずつ曇っていく。
さっきまで感じていた幸せな温度が、急速に冷めていくのを感じた。
「そう……ね」
「いい人、紹介してもらえるから。酒蔵関係で働いとる、まじめな方よ?」
母の声が続く。愛ちゃんは改札の向こうに消えていく慶佑の背中を思い浮かべながら、心の中で呟いた。
(私の声なんて、誰もきいてくれないんだ……)
電話の向こうで母の声が続いているが、だんだん遠くに聞こえるようになる。駅の喧騒も、通り過ぎる人々の足音も、全てが遠い世界のもののように感じられた。
愛ちゃんの心は、さっきまでの温かさから一転して、深い不安の底へと静かに沈んでいった。
犬も猫も好きな彼女だが、迷わず猫を選んだ自分。以前見た夢に引きずられていると気づいてからは気恥ずかしくなって、自宅の机の隅に追いやっていた。
(……まさか、こんなに早く渡せるとは)
インターホンを押すと、愛ちゃんの明るい声がスピーカーから響いた。
「はーい!」
その声だけで、慶佑の胸の鼓動が少し速くなる。ドアが開くと、淡いピンクのエプロンを付けた愛ちゃんが笑顔で迎えてくれた。いつもの華やかな装いとは違う、家庭的でやわらかな空気をまとっている。
「お疲れさまです!どうぞ上がってください」
玄関を上がると、奥に続くキッチンとリビングが見える。こじんまりとしたワンルームに近い間取りで、バラエティ番組の笑い声が軽やかに響いている。芸人の掛け合いと観客の拍手が、部屋に生活感のある温かさを添えていた。
「ありがとう。これ、つまらないものだけど……」
慶佑が袋を差し出すと、愛ちゃんはぱっと目を輝かせ、中を覗き込んだ。
「わ、たこ焼き~!……でも、ずいぶん大きい?」
袋から出してみると、クッションほどもある巨大なパック。愛ちゃんが両手で支えるようにして持ち上げる。
「パーティにはファミリーパックかなと思って」
「ファミリーパック!!……今夜のところは2人だけですけどね!」
愛ちゃんが明るく突っ込んだ後、慶佑はやっと事態に気づいた。
「…言われてみれば」
頬を赤らめて首をかく慶佑に、愛ちゃんは苦笑した。
「ふふ……食べきれない分は冷凍しましょうか、明日のお昼にでも食べてもいいですしね」
「え?!俺、今日は終電までには帰ろうと思ってて…」
愛ちゃんがいたずらっぽく笑う。
「それでしたらそれでも構いませんよ?」
(——それって俺が泊まってもいいと?!愛ちゃん……上級者すぎるぞ……)
少し意味深な視線を送られて、慶佑は目をそらした。愛ちゃんはふっと話題を手土産に戻す。
「それにこれ……わぁ、猫ちゃんのハンカチ!」
そう言って、刺繍部分を大事そうに指でなぞった。
「……すごく可愛いです」
その仕草があまりにも自然で愛おしく、慶佑は思わず胸が熱くなる。
冷凍庫にたこ焼きをしまう愛ちゃんの後ろ姿を見て、慶佑はドキドキした。腰で結ばれたエプロンのちょうちょ結びがまぶしい。
「もう少しだけかかるので、ひとまず座っててください」
リビングに案内されソファに腰掛けると、奥に寝室らしき空間が見える。その手前には本棚や簡易デスクが配置されている。
料理の香りが慶佑の鼻をくすぐった。
テーブルにはすでに小鉢がいくつも並んでいた。ほうれん草の胡麻和え、かぼちゃの煮物、きんぴらごぼう、彩りのいい野菜サラダ。どれも健康的で、どこか懐かしい温もりを感じさせる料理だった。よく見ると野菜の組み合わせや薬味に工夫が凝らされている。
「……すごいな。料理も、こんなに上手なんだな」
「自慢できるほどのものでもないですよ。まだありますからね。」
そう言って愛ちゃんはキッチンへ戻っていく。台所でエプロンの紐を結び直しながら、最後の仕上げに取り掛かる。
慶佑はソファに腰を下ろし、部屋を見回した。センスよく配置された家具、窓辺に置かれた小さな観葉植物。そして整理整頓された本棚にふと目が止まる。
TOEICの問題集、秘書検定の参考書、ビジネスマナーの本……背表紙には付箋がいくつも挟まれ、よく読み込まれた様子が窺える。
(……がんばってるんだな)
普段見せる明るい顔の裏で、彼女なりに将来を考え、努力を重ねているのだと気づく。その一生懸命さが、いとおしく思えた。
しばらくして、愛ちゃんが小さな蒸し器を運んでくる。
蒸し器の蓋を開けると、湯気の向こうに白い塊が並んでいる。
「これ、佐賀の名産で——あっつ!」
いかシュウマイを取り出した瞬間、指先を火傷して慌てて振る。反射的に指を口に含む仕草が、どこか幼さを残していて微笑ましい。
「大丈夫か?」
思わず身を乗り出す慶佑に、愛ちゃんは苦笑して首を振った。
「平気です、よくやっちゃうんです」
頬を膨らませてふーっと息を吹きかける仕草をする。慶佑はその可愛らしさに、胸がきゅんとした。
(こういうところ、ほんとに可愛いな)
「これ、佐賀の名産でいかシュウマイっていうんです」
愛ちゃんが誇らしそうに説明する。その表情には、故郷への愛情が静かに宿っていた。
「へぇ、佐賀の……初めて見るな」
「あと、これは、実家で作っている日本酒です。」
「え?実家?日本酒?」
テーブルには「黒髪」という銘柄の日本酒も用意されていた。瓶のラベルに書かれた文字が、上品な筆遣いで踊っている。
「実家が酒蔵なんです。中桜酒造っていいまして。これも佐賀から送ってもらったお酒で」
「黒髪?」
「はい。黒髪山っていう山があって、その清らかな水で仕込んだお酒なんです。父が新しい仕込みに入る前に送ってきてくれるんです」
そう彼女は誇らしげに言った。自然な口実だったが、慶佑は遠慮した。
「嬉しいけど、俺そんなに酒飲まないし……」
「じゃあ一杯だけ、味見して?」
慶佑は愛ちゃんの可愛く主導権を握ってくる感じに、意外にも慣れつつある自分にびっくりした。
愛ちゃんが注いだ酒を一口飲んで、慶佑は驚いた。
「……思ったより、飲みやすいな」
愛ちゃんが嬉しそうに笑う。距離が縮まった気がした。
「……なんか、いいな。こういうの」
慶佑が珍しく少し頬を赤らめて言った。
「でしょう?」
愛ちゃんは照れながら答えた。
食事が進むにつれ、お酒も進んでいく。黒髪は口当たりが柔らかく、ほのかな甘みが舌に残る。慶佑の頬が少し赤らんできた頃、箸を動かす手もゆっくりになっていた。
「美味しいな、これ。1杯だけのつもりだったけど、結構飲んでるな俺。」
「いかシュウマイも初めて食べたけど……プリプリして、甘みがあって」
「喜んでもらえて良かったです」
愛ちゃんも少し酔いが回っているのか、いつもより表情が柔らかい。頬に薄っすらと桜色が差していて、慶佑はその色合いに見惚れそうになった。
「あっ……」
愛ちゃんの口元に小さな米粒がついている。
「……ここ」
慶佑が指でそっと示すと、愛ちゃんは慌てて拭う。
「もう、恥ずかしい……」
その照れ顔がたまらなく可愛くて、慶佑の胸がじんわり熱くなる。お酒のせいもあって、いつもなら言えない言葉が心の奥から湧き上がってくる。
「……最初に会ったとき……本当に綺麗だと思ったんだ」
「え……?」
愛ちゃんの箸が止まり、驚いたような表情を浮かべる。慶佑は続けた。
「外見だけじゃない。君の優しい空気そのものが美しかった」
「それに、頼りがいがある。君といると、なんだか自然に喋れるんだよな」
慶佑の素直な言葉に、愛ちゃんの頬がさらに染まる。胸の奥で何かがじんわりと温かくなっていくのを感じた。
(こんなこと言ってくれる人、初めて……)
「もう酔っ払ってるでしょ?そんなに言葉が出るなんて、普段の杉山さんと違う」
愛ちゃんは照れ隠しに軽く慶佑の腕を叩く。その仕草もどこか愛らしい。
「ははっ、言えてる」
慶佑は自分でも苦笑いしながら、大きな手をのばして愛ちゃんの頭をそっと撫でた。
(……っ!!すっ杉山さんが!!杉山さんなのに!!)
愛ちゃんの内心は大混乱。そのまま慶佑の手に導かれるように引き寄せられて愛ちゃんの頭が慶佑の肩あたりに落ち着く。そのまま腕に包まれて、長い指先は愛ちゃんの頭に戻った。
「え?」
「俺、体が大きいから怖いって言われることがある。……これはどう? 落ち着く?」
「……はい」
「気に入った?」
「…はい。」
慶佑の声が優しく響く。
「そっか、よかった……。君に肯定されると生きててよかったって思える」
そのまま頭をなでなでと撫でられて、愛ちゃんの心は完全にパニック状態だった。
(……っ!!!す!杉山さんが!!杉山さんなのに!!??)
愛ちゃんは自分の心臓の音が慶佑に聞こえないか心配しながら、慶祐にされるがまま
その体勢でおずおずと話し始める。
「私も……杉山さんと一緒にいると、すごく自然でいられるんです。」
「いつもは人に気を遣いすぎて動けなくなっちゃう枠みたいなものがあるんですけど、それがまるでなかったかのように振る舞えて……」
「あの、杉山さん!……私、杉山さんのこと——」
その時、肩の上から静かな寝息が聞こえてきた。お酒の影響で慶佑は眠りに落ちてしまったのだった。普段の緊張した表情とは違う、穏やかな寝顔。
愛ちゃんは内心「そげんことある?!」とツッコミを入れつつも、その寝顔をじっと見てしまった。男性のほうが酔いつぶれるなんて、拍子抜けだけど、嫌じゃない。
「……ほんと、子どもみたい」
(なんでだろう。がっかりしたけど、でもまた今度って自然に思える)
記憶を探ってみたが、男性とこんなに自然に過ごせるのは初めてかもしれない。
時間は静かに過ぎて、あと1時間ほどで終電の時間。
愛ちゃんは食器を片付けた後、慶佑の様子をそっと見つめていた。寝息の音が規則的で、安らかな表情に見とれてしまった。愛ちゃんは薄手の毛布を持ってきて、そっと慶佑にかけてあげる。
(こんな顔して眠るんだ……)
普段の不器用で一生懸命な様子とは違う、無防備で優しい表情。まつげが長くて、口元がわずかに緩んでいる。愛ちゃんは思わず頬に手を伸ばしてしまう。
指先に伝わる温もりが心臓をくすぐる。こんなに近くで見る慶佑の顔に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(結構かっこいい……)
愛ちゃんはそっと顔を近づけて、慶佑の頬に軽くキスを落とした。
その瞬間、ぱちり、と慶佑が目を開けた。
「……愛ちゃん」
二人の顔が近い。とても近い。愛ちゃんは内心動揺しつつも慶佑の出方を待つ。瞳が見つめ合い、甘い静寂が流れる。長い沈黙に愛ちゃんは恥ずかしさで真っ赤になった。耐えられなくなり慌てて離れようとする手首を掴んで慶佑は優しく微笑んだ。
「……かわいいな」
愛ちゃんの細いうでを掴んでその瞳を覗き込む。
その言葉に、指から伝わる熱さに愛ちゃんの心臓がドキドキと高鳴る。
(この杉山さんは、まだ酔っ払い……?)
テレビの音だけが、部屋に静かに響く。
自分の発した言葉を耳にした瞬間、慶佑は我に返った。
(うわ、俺何言ってんだ……!)
酔いがすっかり冷めて、今までの状況がどれほど大胆だったかを思い知る。
(酒のせいか?!普段の俺じゃ絶対無理だぞ……!)
視線の先には愛ちゃんの腕を掴む自分の手。
「うわ!ごめっ!」
頬が一気に熱くなり、首筋まで赤く染まる。
愛ちゃんはなぜか嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、慶佑の動揺はさらに深くなった。
(可愛すぎるだろ……こんな距離で笑われたら、心臓止まる……)
距離を測り直すみたいに、慶佑は手を離した。
「駅まで送りますね」
ーーーー
夜の街を歩きながら、二人は並んで駅に向かった。街灯の明かりが歩道を照らし、時折すれ違う人たちの足音が夜の静けさに響いている。愛ちゃんは慶佑の横顔をちらりと見上げたが、彼はまっすぐ前を見つめていた。
駅のホームで電車を待ちながら、二人は並んで立っていた。ホームに響く電車の案内放送と、遠くから聞こえる車輪の音が、別れの時間の近づきを告げている。
「今日は、ありがとう。美味しかった」
慶佑の声は優しく、でもどこか名残惜しさを含んでいた。
「こちらこそ……楽しかったです」
愛ちゃんも同じような気持ちだった。もう少しだけ、この時間が続けばいいのにと思う。
改札前で別れる時、愛ちゃんのスマホが鳴った。画面には「お母さん」の文字が光っている。慶佑はそれを見て、手で合図をして改札をくぐっていく。
慶佑は家族のことかと深掘りしなかった。
――でも愛ちゃんの横顔が一瞬曇ったのが少し気になった。
ーーーー
慶佑が改札の向こうでもう一度振り返りながら手を振る。愛ちゃんがお辞儀を返すと、その姿が小さくなっていった。
慶佑の姿が見えなくなるまで見送ってから、深く息を吐いて電話に出た。
「もしもし、お母さん」
「葵子ちゃん、元気にしとう?」
母の声は標準語にほんのり佐賀弁が混じっている。懐かしい響きが、一瞬愛ちゃんの心を温めた。
「うん、元気だよ」
愛ちゃんは無理やり明るく答えた。でも、その声には先ほどまでの温かさが薄れている。
「そろそろ帰ってきてほしいのよ。お父さんも心配してるし」
駅の雑踏の中で、母の声だけがやけにはっきりと聞こえる。愛ちゃんの胸に、重い石のような感情が落ちてきた。
「え……でも、まだ……」
「もう十分、都会で試せたっちゃろ?女の子は家庭に入って旦那さん支えるのが一番よかと思うと」
愛ちゃんの声が少しずつ曇っていく。
さっきまで感じていた幸せな温度が、急速に冷めていくのを感じた。
「そう……ね」
「いい人、紹介してもらえるから。酒蔵関係で働いとる、まじめな方よ?」
母の声が続く。愛ちゃんは改札の向こうに消えていく慶佑の背中を思い浮かべながら、心の中で呟いた。
(私の声なんて、誰もきいてくれないんだ……)
電話の向こうで母の声が続いているが、だんだん遠くに聞こえるようになる。駅の喧騒も、通り過ぎる人々の足音も、全てが遠い世界のもののように感じられた。
愛ちゃんの心は、さっきまでの温かさから一転して、深い不安の底へと静かに沈んでいった。
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