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第10話
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お母さん似と言われて拗ねた葵子の頬を、慶佑はそっと指でつついた。ぷくりと膨れた頬の感触が愛おしく、思わず笑みがこぼれる。
視線を戻した彼女とまた目があって、慶佑がニヤリと笑う。
葵子もきょとんとした後、釣られるように口元を緩めて、2人で笑った。
笑い声が静まり、部屋に穏やかな静寂が戻る。
「……慶佑さん」
穏やかな空気の中、葵子がそっと切り出す。いつもより少し硬い、真剣な声音だった。
「今日はいろいろあって、その、すごく驚いたけど……ありがとう」
彼女が慶佑を見上げて、真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。感謝と何かを伝えようとする意志を、慶佑は静かに受け止めた。
「私も偉そうに恋愛指南なんて言ってたけど、……今までの恋愛は褒められたものでもなくて。本当は慶佑さんのこと何も言えないの」
葵子の肩が少しこわばり、手を膝の上でぎゅっと握りしめる。勇気を出して何かを伝えようとしていることがわかる。慶佑は黙って彼女の言葉を待った。
「……葵子」
慶佑の声が優しく響く。続きを促すように、彼女の名前を呼んだ。
「やってあげたいと思ったことが……相手にとっては重いって思われたり。あざといとか、計算高いとか言われたこともあるのよ?……お仕事のこともあるけど、私の他の人への接し方が、……不安にさせちゃうみたい」
葵子の声が次第に小さくなっていく。過去の傷が蘇るように、彼女の表情に影が差した。
そんなことはないと今すぐ否定してあげたい。
でも他の男たちのように嫉妬で彼女を困らせた自分が言うのも少し気が引けて、慶佑はタイミングを外してしまう。
葵子も同じことを思ったようで、少し視線を落とした。長いまつ毛が頬に影を落としている。
「気を遣ってばかりで疲れて……」
一瞬ためらったあと、彼女は小さく微笑む。今度は違う種類の微笑みだった。
「でも、慶佑さんと初めてデートした日ね、困ってる慶佑さんの顔がその、可愛くて、ちょっとキュンとしちゃってた……」
慶佑は目を見開き、口をぽかんと開けて彼女を見つめた。
まるで思いがけない言葉に頭が追いつかないといった様子で、普段のクールな表情からは想像もつかない、気の抜けたような驚いた表情を浮かべている。
「一緒にいる時間が増えると、慶佑さんの前だと今までだめかもって思ってたことが自然にできるのが……、無理してない自分でいられるのが、嬉しくて。……デートが終わる時間は、また会いたいって毎回思ってた」
慶佑は息をのんだ。胸の奥が熱くなり、鼓動が早まるのを感じる。
「……葵子」
手が自然と伸び、彼女の肩を抱き寄せる。葵子の温もりが慶佑の胸に伝わってきた。
「それで、今日なんてもう、私の家族ごと守ってくれるなんて……、そんなこと言われたら」
「私の気持ち、どうしていいかわからないくらい乱れて、もう慶佑さんのことしか考えられなくなっちゃう」
慶佑は葵子をそっと抱きしめ、彼女の髪に顔を埋めるように額にそっと唇を押し当てた。
やわらかく温かいキスだった。葵子が小さく身を震わせるのを感じる。
「俺も……葵子に出会えて、人生が変わった。好きとか、それだけの言葉じゃ足りない」
静かな夜、互いの距離がふっと近づく。慶佑の手が葵子の頬に触れ、彼女の顔をそっと上向かせた。
「……愛してる」
重ねられた唇に、葵子の瞳から涙がこぼれる。それは悲しみではなく、溢れ出る感情の証だった。
外からは虫の声がリズムを刻み、窓の向こうに広がる夜空の下で、二人だけの世界を包み込んでいた。
5 episodes left “Five to Forever — July, Early Summer”
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
月曜日、営業部の会議室は夕日が差し込む窓際に面していた。
長方形のテーブルを囲んで座る三人の男性の表情は、それぞれ異なる複雑さを湛えている。
「というわけで、なんとか話はついた。これから週末は佐賀に足を運んで、一緒に中桜酒造立て直しまで動いていくつもりだ。お前たちにも心配かけたな。」
慶佑が淡々と報告を終えると、田中が椅子から身を乗り出した。
「えぇ……?課長、それって"話がついた"って言うんですか。結局あのイケメンは幼馴染ってオチ?あれ?でも実家に帰ってた理由って?」
田中が疑問を口にする。
「それが……お母さんがなかなか茶目っ気のある人でな」
「どういうことです?」
佐藤が眉をひそめる。
「お父さんが倒れたと葵子に電話したらしいんだが、病気ではなく怪我で……」
「なにそれ、強引なお母さん!どう考えても酒蔵の問題に巻き込まれてるだけじゃないですか!課長お願いだから考え直して!」
田中の声は会議室に響き隣に座る。佐藤が呆れたように重い溜息を吐く。
「……それでも葵子さんを選んだってことだろ?……ごちゃごちゃ言うな」
佐藤の冷静な一言に、田中は口をつぐんだ。
「課長を男らしくないって焚き付けたり、そのくせ恋が成就したら文句言うのか?ガキかよ」
「……うぅ」
少々空気を悪くしながらも自分のために考えてくれる部下たちに慶佑は温かい気持ちを覚える。
苦笑いを浮かべながら立ち上がり、田中の頭に手を置いた。
「ありがとうな、田中」
わしゃわしゃと髪を撫でられた田中は、照れ隠しのように頬を膨らませた。
「もう!子どもじゃないんですから!俺は将来好きな子ができたとしても、ぜったいそんな恋の仕方はしませんから……!どんなに好きになっても自分の幸せを忘れちゃいけないんです!!!」
田中の心からの叫びは会議室に溶けていった。
ーーーー
築百年を超える酒蔵の事務所は、古い木材の匂いと微かな酒の香りに満ちていた。
薄暗い室内に、慶佑と中尾家の面々が向かい合って座る。慶佑が差し出した書類を見つめる父・剛志の顔は、驚きと当惑が入り混じっていた。
「……本当に、二千万で息を吹き返すとはな」
剛志の声は小さく、佐賀弁が混じっている。慶佑は真っ直ぐに剛志を見つめて答えた。
「買えたのは"時間"だけです。お父さん、これからが本当の勝負になります」
葵子が慶佑の隣で緊張した面持ちで見守る中、剛志は急に顔を上げた。
「誰がお父さんって言ったとや! まだ許しとらんばい! それに新銘柄なんて、そげな話は反対や!」
剛志の声が荒々しく響く。
しかし慶佑の表情は変わらない。むしろ、何かのスイッチが入ったように、彼の瞳に鋭い光が宿った。
「では、新銘柄開発の意義から順を追って説明させていただきましょう」
慶佑の声音が変わる。いつもの不器用な課長ではなく、交渉のプロとしての顔が現れる。
資料を整然と並べ、数字を交えながら市場分析を始める慶佑に、剛志は次第に押され気味になっていく。
「現在の『黒髪』は確かに品質では申し分ありません。しかし認知度の低さと販路の狭さが致命的です。新銘柄を開発し、ターゲットを明確化することで——」
「わ、わかったわかった!」
剛志は顔を真っ赤にして席を立った。
「とにかく、今日はもう頭がパンクしそうや!」
そう言い残して事務所から出て行く剛志の後ろ姿を、母がほころんだ表情で見送る。
「お父さん、珍しゅう負けを認めなさったですね」
母が佐賀弁で穏やかに微笑む。
「慶佑さん、お疲れさまでした。ほんとうに、ありがとうございます」
葵子も安堵の笑みを浮かべながら慶佑を見上げた。
慶佑を信頼するように母が言葉を重ねる。
「慶佑さん、本当にありがとうございました。それにお父さんがあがんふうに引き下がるとは思わんかった。」
慶佑は照れたように頭を掻きながら、いつもの不器用な表情に戻っていた。
「いえ、これからが本番ですから」
4 episodes left “Four to Forever — July, Midsummer”
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新宿の雑居ビルの半個室では、串焼きの煙が立ち上り、生ビールのジョッキが並んでいる。
テーブルを囲む五人の表情は真剣そのものだった。
「で、なんであなたも来てるわけ?」
里津が呆れたような視線を井藤に向ける。井藤は手にした焼き鳥を一口かじりながら、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「りっちゃん……冷たくないか?俺は慶佑の親友なんだぞ。……あ!もしかして、この前途中で帰ったの、まだ根に持ってる?可愛いところあるね!」
(メガネなのに野暮ったくない、メガネなのに野性的……!)
井藤の隣の席で粗野な仕草も様になっている彼を意識して彩香が赤い顔を隠すようにビールを煽る。
井藤は爽やかな笑顔の奥の想いが伝わるように情熱を潜ませて絶賛攻略中の里津に視線を投げる。
「残念だけど、私の耳にはバカの声を遮断する機能が付いてるの。……ごめん、で?話の続きは?」
里津の辛辣な返しに、葵子が苦笑いしながら仲裁に入る。
「まあまあ、せっかくみんなで集まったんだから」
慶佑は咳払いをして話を本題に戻した。
葵子も少し緊張した面持ちで慶佑の横に座り時折九州弁が混じりそうになるのを必死に抑えている。
「現在の課題を整理すると、『黒髪』は味については申し分ない。しかし知名度が低く、販路も限定的だ。このままでは成長は望めない」
慶佑が説明を続けていると、突然半個室の入り口が勢いよく開いた。
「葵ちん!やっぱりここにおったか!」
息を切らした秀平が飛び込んできた。
スーツ姿で、ネクタイを緩めて袖をまくっている。汗を額に浮かべ、まるで営業回りから駆けつけたような様子だった。
堂々とした足取りでテーブルに近づいて来た。
「楽しい席に突然すみません。彼女にすぐに伝えたいビッグニュースでしたので、少しだけお時間を頂戴できますか?」
スマートに挨拶する。
(ひぃ……!本日はイケメン供給過多……)
彩香はまた必死にビールを煽る。興奮に息も絶え絶えで早くも2杯目をオーダーしている。
彼女の節操のないイケメンレーダーに先輩女性2人は苦笑いするしかない。
「それで、葵ちん!よかか?ほんに先輩の料亭、話つけてきたばい!『黒髪』置いてもらえるごとなったとよ!」
葵子は箸を持った手を止めて、目を丸くした。
周りの人々は突然飛び出した佐賀弁に驚きを隠せない。
「え、秀ちゃん、本当に?うそやろ?」
葵子の目が大きく見開かれる。秀平は胸を張って鼻を鳴らした。
「本当ばい!俺を誰やと思っとっとか!」
「でも、あの『綾乃井』でしょ?敷居が高いって有名な……」
葵子がまだ半信半疑でいると、秀平がスマホを取り出して画面を見せた。
「ほら見てん、店主の田島さんからのメールや。来月から試しに置いてくれるて書いとる!」
画面を覗き込んだ葵子の顔がぱっと明るくなる。
「ほ、ほんとだ! すごい、秀ちゃん、ありがとう!」
秀平の行動力に、テーブルの全員が感心の表情を浮かべた。
「やろ?!やっぱ俺って最高やろが!」
興奮した秀平が葵子の手を取ろうとした瞬間、慶佑の手が間に割って入った。
「……申し訳ないが、彼女は俺の婚約者だ。そういうのは控えていただきたい」
(まだ正式ではないが……)
慶佑の声は低く、いつもの温和な表情とは明らかに違っていた。
井藤がニヤついた顔でヒューと口笛を吹く。
秀平は一瞬ぽかんとした後、手を叩いて大喜びした。
「ほんとね?! 最高ばい! 葵ちん、よかったな! 頼りになりそうな旦那さんばい!」
「そ、そんな……まだ旦那さんとかじゃなかし……」
葵子は顔を真っ赤にして、モニョモニョと否定の言葉をこぼす。けれど嬉しさを隠しきれず、俯いた頬は緩んでいた。
「……ほんなら、結局、俺の兄ちゃんも同じごたぁもんやろ?くぅ~、兄弟欲しかったっちゃ!」
そう言ったかと思えば、急に標準語に切り替えて真顔になった。
「俺の兄ちゃんになってください!」
次の瞬間、勢いよく慶佑に飛びついてハグしてきた。
「兄弟の話はともかく……秀島さんの行動力と人脈には、素直に感服しました。」
慶佑は興奮する秀平の身体をそっとほどいて距離を取る。
「ぜひ新銘柄のプロジェクトにも力を貸してもらえませんか?」
慶佑の真剣な提案に、秀平は目を輝かせた。
「兄ちゃん!そげんかしこまらんでよかて。俺は中桜のためなら全力出すけん!」
「……君の兄さんではないのだが……。ありがたい。よろしく頼む」
「……騒がしいわね」
里津が冷ややかにつぶやく横で、井藤がケラケラと笑い声を上げていた。
彩香は微笑ましそうに二人を見つめ、葵子は恥ずかしそうに頬を染めている。
居酒屋の喧騒の中、奇妙な仲間たちの輪ができあがっていた。
3 episodes left “Three to Forever — August, Scorching Summer”
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八月の佐賀は容赦ない暑さに包まれていた。中桜酒造の応接間では扇風機が唸りを上げているが、室内の空気は重く淀んでいる。慶佑は額の汗を拭いながら、テーブルに広げた資料を指差した。
「ターゲットを二十代後半から三十代前半に絞り、パッケージデザインも現代的にアレンジすれば——」
「だけん、何度言うたら分かるとね!新銘柄なんか要らん!」
父・剛志が机を叩いて立ち上がる。葵子が慌てて仲裁に入ろうとしたが、慶佑は冷静に続けた。
「市場データを見てください。若年層の日本酒離れは深刻ですが、逆に海外では——」
「数字ばっか!酒は数字で作るもんやなか!」
剛志はそう言い捨てて応接間を出て行った。母が困ったような表情で慶佑を見る。
「すみません、頑固で……」
「いえ、お気になさらず」
慶佑は資料を片付けながら溜息をついた。葵子が申し訳なさそうに俯く。
「慶佑さん、お父さんて本当に……」
「葵子、大丈夫だ。必ず説得してみせる」
そのとき、応接間の戸が勢いよく開いた。
「よう、兄ちゃん!今日もおじちゃんに論破されたんか?」
秀平が軽やかに入ってくる。Tシャツに短パン姿で、手には缶コーヒーを持っていた。
「秀ちゃん、お疲れさま」
葵子が微笑みかけると、秀平は得意げに胸を張った。
「今日も営業回り頑張ったばい!でも兄ちゃん、数字ばっかじゃおじちゃん首振らんて!」
「では、どうすれば良いと思う?」
慶佑が真剣に尋ねると、秀平は缶コーヒーを一口飲んでから言った。
「おじちゃんが一番大事にしてるもん、何だと思う?」
「品質、だろうか……?」
「違う違う!家族だよ」
秀平の言葉に、慶佑と葵子がはっとする。
「確かに……うちのお父さんの酒造りって、効率より手間を惜しまない……」
葵子が呟く。慶佑も頷いた。
「そうか……!家族への想いが品質の根源」
「そうそう!そこを前面に出したらいいと思うとよ」
葵子が突然顔を上げた。
「あ、それなら……『朝音』ってどうかな?新しい一日が始まる音みたいに、家族の時間や思い出を積み重ねていくイメージで。それをローマ字で」
慶佑は目を見開いた。
「『Asane』……いいな。未来を感じさせるし、想いが伝わる名前だ」
「サンプルの画像だったら、多分二日くらいで友達に作ってもらえるよ。俺の知り合い、器用で気のいいやつが多いんだ」
秀平が人懐っこく笑う。
「おじちゃんの好みは俺がよく知ってるけん。兄ちゃんは数字の説明だけお願いします」
慶佑は心の中で呟いた。
(兄ちゃん呼びが定着しつつある……だが、頼もしい)
葵子が立ち上がって、勉強中の語学テキストを手に取った。
「私、退職を決めてから英語と……スペイン語も勉強してたんです。実は、日本酒ってスペインで注目されてるってニュースを見て。ワイン文化の国だからこそ、フルーティーな日本酒が受け入れられてるって。もし本当に海外展開するなら、きっと役に立てると思って」
慶佑が驚く。
「海外展開を見据えて?」
「はい。どんな場所にいても、自分を試すことはできるんだって実感してます。新しい扉を開いてる感じで」
そのとき、廊下で足音が止まった。剛志が戸の陰で聞き耳を立てているのが分かる。
「まぁ、悪くなか」
小さく呟く声が聞こえた。
2 episodes left "Two to Forever — September, Early Autumn"
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九月のロンドン。国際食品展示会の会場は各国の出展者と来場者で賑わっていた。
国際食文化振興会と九州清酒輸出促進協議会の共同ブースの一角に、中桜酒造のスペースも設けられている。
小さな酒蔵ながらも、「Asane」の試作品とパッケージデザインは来場者の目を引いていた。
葵子は緊張した面持ちで、スペイン系のバイヤーに向かって片言の英語で説明していた。
「Hello… this sake is from Saga, Japan… very traditional method…」
(こんにちは……この日本酒は日本の佐賀から来ました……とても伝統的な製法で……)
言葉に詰まる葵子を見て、慶佑が穏やかに補足する。
「Our brewery has been family-owned for over a century. Each bottle represents our commitment to craftsmanship」
(私どもの酒蔵は一世紀以上家族経営を続けております。一本一本に職人としての想いが込められています)
バイヤーが試飲用のグラスを手に取り、香りを確かめてから一口含む。
「Mmm… fruity! Very interesting flavor profile!」
(うーん……フルーティー!独特で面白い味わいですね!)
葵子の顔がぱっと明るくなる。
「Yes! We use… como se dice… local rice and mountain water…」
(はい!私たちは……なんて言うんでしょう……地元のお米と山の水を使って……)
スペイン語が混じりながらも、葵子は身振り手振りで一生懸命説明を続ける。
バイヤーは微笑みながら頷いた。
「Your passion comes through clearly. I'd like to discuss importing this to our European markets」
(あなたの情熱がよく伝わってきます。ヨーロッパ市場への輸入について話し合いたいですね)
慶佑が通訳すると、葵子は手を握りしめて小さく呟いた。
「やった……!」
慶佑が葵子の肩にそっと手を置く。
「大丈夫、ちゃんと気持ちが伝わってる」
会場の喧騒の中で、二人は確かな手応えを感じていた。
1 episode left "One to Forever — October, Harvest Season"
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十月初旬の佐賀。週末になると慶佑は必ず中尾家を訪れるようになっていた。
今日も蔵の手伝いを終えた慶佑に、母が温かいお茶を差し出す。
「慶佑さん、いつもありがとうございます」
「いえ、こちらこそお世話になって」
すっかり家族の一員として馴染んでいる慶佑を見て、葵子が嬉しそうに微笑む。
「お母さん、そろそろお父さんも認めてくれるでしょ?」
「そがんね、もう時間の問題やなかろか」
母も自信満々に頷いた。
数日後、田中と佐藤が東京から遊びに来た。田中はちゃっかりミカちゃんも連れてきている。
「課長~!見てくださいよ、この写真!都内のスーパーで『Asane』が棚一列占拠してました!」
スマホを見せながら興奮気味に報告する田中。
「……なんだかんだでお前が一番楽しんでるな」
慶佑が呆れる。
(俺は自分の幸せ優先って言ったのに、完全に彼女に振り回されてるじゃないか)
慶佑のジトっとした視線に気づいて佐藤が横から耳打ちする。
「まあ、あの二人はあれでバランス取れてるんじゃないですか」
冷静に突っ込む。
「課長、俺、前に失礼なこと言ってすみませんでした。課長が騙されてるなんて……」
数字の積み上げと、実際の行動につなげ中桜酒造の人々から信頼を勝ち得た慶佑に何も言うことなどできない。
田中が深々と頭を下げる。
「……まあ、結果的にうまくいってよかったってことだろ」
慶佑はなんでもないことのようにスッキリした表情で笑った。
十月中旬。「Asane」は すでに国内外の3社との契約もまとまりつつあり、売上データを見た慶佑は確信を持った。
そして十月下旬、佐賀の酒蔵で新米の仕込みが始まった。
数字の上昇を見て、家族全員が自信に満ちた表情を浮かべている。
慶佑は意を決して剛志に向き合った。
「お父さん、改めてお願いします。葵子さんと結婚させてください」
剛志は腕を組んで唸った。
「娘はまだ渡さんばい」
慶佑の顔が青ざめる。まさか、と思った瞬間、剛志の口元がにやりと緩んだ。
「ただし……お前が中尾に来るち言うんなら、文句は言わん」
慶佑の目が見開かれる。
「それは……」
「婿養子として、この蔵を継ぐ覚悟しとっとか?」
慶佑は飛び上がって両手でガッツポーズを作った。
「はい!喜んで!」
葵子が涙ぐみながら慶佑にしがみつく。蔵人たちからも拍手が起こった。
0 "Zero — Under the Warm Lights"
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一年半後の東京。
洗練されたレストランのテーブルでは、温かい照明の下で井藤と里津が向かい合って座っていた。
2人の間には「Asane」のボトルが置かれている。スッキリ味で肉にも魚によく合うこの日本酒は
既に定番商品としてメニューに載っていてすでに気に入ってくれているお客さんがいるのがよくわかる。
さっき入り口で田中とミカちゃんがお店を出て行くところとすれ違った。
田中は浮かれ気味にみかちゃんの手を引いている。
「田中さん、次はカラオケ行きましょ~!」
「うん、ミカちゃんの好きなところでいいよ」
二人が去った後ろ姿を思い出して井藤がくすくすと笑った。
「あれで田村部長にまだバレてないと思ってるんだぜ?」
里津は冷ややかに返す。
「……あの二人、お似合いよね。ある意味で」
テーブルに付くとまわりの席には優しい表情で語り合うカップルや誕生日を祝っているらしい家族の声が聞こえてくる。
里津は「Asane」のボトルを見つめながら、心の中で呟いた。
(私は誰かと時間を重ねられるかしら?)
そっと井藤を横目で見る。
「で、今日は何の用だったっけ?」
「慶佑の成功を祝おうと思ってな。お前も来てくれてありがとう」
井藤の素直な言葉に、里津は少し頬を緩めた。
佐賀の中桜酒造では葵子が蔵人たちと次の銘柄の相談をしていた。
大きくなったお腹を撫でながら、穏やかな笑顔で話している。
「いつも通り味見は慶佑さんと秀ちゃんにお願いしてね」
「承知しました、社長!」
蔵人の一人が頷いたとき、事務所から別の声がかかった。
「専務!お客様が到着されました」
事務作業中の慶佑が振り返る。
「はい、今行きます」
慶佑は応接間に向かい、来客に「中尾慶佑」と書かれた名刺を差し出した。
「この度はお忙しい中、わざわざお越しいただき……」
ーーーー
仕事を終えた夕方、慶佑と葵子が連れ立って母屋へ移動する。
食卓へ向かう道すがら会話していた。
「里津先輩からメールが来てたよ。Asaneを置いてるお店の雰囲気よかったって。他のお客さんの評判も良さそうって!」
葵子がスマホを見ながら報告する。
「そうか、期待できるな」
慶佑が頷くと、葵子は嬉しそうに微笑んだ。
「来月の新銘柄も楽しみね」
「ああ」
返事をしながら慶佑は葵子を抱き寄せて頬にキスを落とす。
「もぅ、こんなところで……見られたらどうするの?」
葵子は赤い顔で目をそらした。
「葵子が可愛いのが悪い」
「もう!慶佑さんなのに!軽いこと言って」
慶佑の女性に対する扱いも葵子限定で改善しつつある。
2人の呼吸は年月を重ねるごとにピッタリと合っていくようだった。
食卓に到着すると、剛志と母、蔵人たちが既に席についていた。
葵子が席に腰を下ろそうとした瞬間、畳の縁につまずいて足元がふらついた。
「愛ちゃん!危ない」
慶佑が咄嗟に駆け寄って葵子を支えた。剛志がちらりと見て鼻で笑った。
「まだ名前もまともに呼べんとや?」
慶佑が苦笑して答える。
「すみません、これはもう俺のお守りみたいなもので」
葵子と目を合わせ、二人で笑う。
(初めて出会った"愛ちゃん"に救われて、今は"葵子"と家族になった)
今でも初めてあったときの眩しい彼女は慶佑の目に焼き付いている。
温かい食卓を囲む家族の笑い声が、蔵に響いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
不器用課長とキャバ嬢愛ちゃん HAPPY END
視線を戻した彼女とまた目があって、慶佑がニヤリと笑う。
葵子もきょとんとした後、釣られるように口元を緩めて、2人で笑った。
笑い声が静まり、部屋に穏やかな静寂が戻る。
「……慶佑さん」
穏やかな空気の中、葵子がそっと切り出す。いつもより少し硬い、真剣な声音だった。
「今日はいろいろあって、その、すごく驚いたけど……ありがとう」
彼女が慶佑を見上げて、真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。感謝と何かを伝えようとする意志を、慶佑は静かに受け止めた。
「私も偉そうに恋愛指南なんて言ってたけど、……今までの恋愛は褒められたものでもなくて。本当は慶佑さんのこと何も言えないの」
葵子の肩が少しこわばり、手を膝の上でぎゅっと握りしめる。勇気を出して何かを伝えようとしていることがわかる。慶佑は黙って彼女の言葉を待った。
「……葵子」
慶佑の声が優しく響く。続きを促すように、彼女の名前を呼んだ。
「やってあげたいと思ったことが……相手にとっては重いって思われたり。あざといとか、計算高いとか言われたこともあるのよ?……お仕事のこともあるけど、私の他の人への接し方が、……不安にさせちゃうみたい」
葵子の声が次第に小さくなっていく。過去の傷が蘇るように、彼女の表情に影が差した。
そんなことはないと今すぐ否定してあげたい。
でも他の男たちのように嫉妬で彼女を困らせた自分が言うのも少し気が引けて、慶佑はタイミングを外してしまう。
葵子も同じことを思ったようで、少し視線を落とした。長いまつ毛が頬に影を落としている。
「気を遣ってばかりで疲れて……」
一瞬ためらったあと、彼女は小さく微笑む。今度は違う種類の微笑みだった。
「でも、慶佑さんと初めてデートした日ね、困ってる慶佑さんの顔がその、可愛くて、ちょっとキュンとしちゃってた……」
慶佑は目を見開き、口をぽかんと開けて彼女を見つめた。
まるで思いがけない言葉に頭が追いつかないといった様子で、普段のクールな表情からは想像もつかない、気の抜けたような驚いた表情を浮かべている。
「一緒にいる時間が増えると、慶佑さんの前だと今までだめかもって思ってたことが自然にできるのが……、無理してない自分でいられるのが、嬉しくて。……デートが終わる時間は、また会いたいって毎回思ってた」
慶佑は息をのんだ。胸の奥が熱くなり、鼓動が早まるのを感じる。
「……葵子」
手が自然と伸び、彼女の肩を抱き寄せる。葵子の温もりが慶佑の胸に伝わってきた。
「それで、今日なんてもう、私の家族ごと守ってくれるなんて……、そんなこと言われたら」
「私の気持ち、どうしていいかわからないくらい乱れて、もう慶佑さんのことしか考えられなくなっちゃう」
慶佑は葵子をそっと抱きしめ、彼女の髪に顔を埋めるように額にそっと唇を押し当てた。
やわらかく温かいキスだった。葵子が小さく身を震わせるのを感じる。
「俺も……葵子に出会えて、人生が変わった。好きとか、それだけの言葉じゃ足りない」
静かな夜、互いの距離がふっと近づく。慶佑の手が葵子の頬に触れ、彼女の顔をそっと上向かせた。
「……愛してる」
重ねられた唇に、葵子の瞳から涙がこぼれる。それは悲しみではなく、溢れ出る感情の証だった。
外からは虫の声がリズムを刻み、窓の向こうに広がる夜空の下で、二人だけの世界を包み込んでいた。
5 episodes left “Five to Forever — July, Early Summer”
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月曜日、営業部の会議室は夕日が差し込む窓際に面していた。
長方形のテーブルを囲んで座る三人の男性の表情は、それぞれ異なる複雑さを湛えている。
「というわけで、なんとか話はついた。これから週末は佐賀に足を運んで、一緒に中桜酒造立て直しまで動いていくつもりだ。お前たちにも心配かけたな。」
慶佑が淡々と報告を終えると、田中が椅子から身を乗り出した。
「えぇ……?課長、それって"話がついた"って言うんですか。結局あのイケメンは幼馴染ってオチ?あれ?でも実家に帰ってた理由って?」
田中が疑問を口にする。
「それが……お母さんがなかなか茶目っ気のある人でな」
「どういうことです?」
佐藤が眉をひそめる。
「お父さんが倒れたと葵子に電話したらしいんだが、病気ではなく怪我で……」
「なにそれ、強引なお母さん!どう考えても酒蔵の問題に巻き込まれてるだけじゃないですか!課長お願いだから考え直して!」
田中の声は会議室に響き隣に座る。佐藤が呆れたように重い溜息を吐く。
「……それでも葵子さんを選んだってことだろ?……ごちゃごちゃ言うな」
佐藤の冷静な一言に、田中は口をつぐんだ。
「課長を男らしくないって焚き付けたり、そのくせ恋が成就したら文句言うのか?ガキかよ」
「……うぅ」
少々空気を悪くしながらも自分のために考えてくれる部下たちに慶佑は温かい気持ちを覚える。
苦笑いを浮かべながら立ち上がり、田中の頭に手を置いた。
「ありがとうな、田中」
わしゃわしゃと髪を撫でられた田中は、照れ隠しのように頬を膨らませた。
「もう!子どもじゃないんですから!俺は将来好きな子ができたとしても、ぜったいそんな恋の仕方はしませんから……!どんなに好きになっても自分の幸せを忘れちゃいけないんです!!!」
田中の心からの叫びは会議室に溶けていった。
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築百年を超える酒蔵の事務所は、古い木材の匂いと微かな酒の香りに満ちていた。
薄暗い室内に、慶佑と中尾家の面々が向かい合って座る。慶佑が差し出した書類を見つめる父・剛志の顔は、驚きと当惑が入り混じっていた。
「……本当に、二千万で息を吹き返すとはな」
剛志の声は小さく、佐賀弁が混じっている。慶佑は真っ直ぐに剛志を見つめて答えた。
「買えたのは"時間"だけです。お父さん、これからが本当の勝負になります」
葵子が慶佑の隣で緊張した面持ちで見守る中、剛志は急に顔を上げた。
「誰がお父さんって言ったとや! まだ許しとらんばい! それに新銘柄なんて、そげな話は反対や!」
剛志の声が荒々しく響く。
しかし慶佑の表情は変わらない。むしろ、何かのスイッチが入ったように、彼の瞳に鋭い光が宿った。
「では、新銘柄開発の意義から順を追って説明させていただきましょう」
慶佑の声音が変わる。いつもの不器用な課長ではなく、交渉のプロとしての顔が現れる。
資料を整然と並べ、数字を交えながら市場分析を始める慶佑に、剛志は次第に押され気味になっていく。
「現在の『黒髪』は確かに品質では申し分ありません。しかし認知度の低さと販路の狭さが致命的です。新銘柄を開発し、ターゲットを明確化することで——」
「わ、わかったわかった!」
剛志は顔を真っ赤にして席を立った。
「とにかく、今日はもう頭がパンクしそうや!」
そう言い残して事務所から出て行く剛志の後ろ姿を、母がほころんだ表情で見送る。
「お父さん、珍しゅう負けを認めなさったですね」
母が佐賀弁で穏やかに微笑む。
「慶佑さん、お疲れさまでした。ほんとうに、ありがとうございます」
葵子も安堵の笑みを浮かべながら慶佑を見上げた。
慶佑を信頼するように母が言葉を重ねる。
「慶佑さん、本当にありがとうございました。それにお父さんがあがんふうに引き下がるとは思わんかった。」
慶佑は照れたように頭を掻きながら、いつもの不器用な表情に戻っていた。
「いえ、これからが本番ですから」
4 episodes left “Four to Forever — July, Midsummer”
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新宿の雑居ビルの半個室では、串焼きの煙が立ち上り、生ビールのジョッキが並んでいる。
テーブルを囲む五人の表情は真剣そのものだった。
「で、なんであなたも来てるわけ?」
里津が呆れたような視線を井藤に向ける。井藤は手にした焼き鳥を一口かじりながら、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「りっちゃん……冷たくないか?俺は慶佑の親友なんだぞ。……あ!もしかして、この前途中で帰ったの、まだ根に持ってる?可愛いところあるね!」
(メガネなのに野暮ったくない、メガネなのに野性的……!)
井藤の隣の席で粗野な仕草も様になっている彼を意識して彩香が赤い顔を隠すようにビールを煽る。
井藤は爽やかな笑顔の奥の想いが伝わるように情熱を潜ませて絶賛攻略中の里津に視線を投げる。
「残念だけど、私の耳にはバカの声を遮断する機能が付いてるの。……ごめん、で?話の続きは?」
里津の辛辣な返しに、葵子が苦笑いしながら仲裁に入る。
「まあまあ、せっかくみんなで集まったんだから」
慶佑は咳払いをして話を本題に戻した。
葵子も少し緊張した面持ちで慶佑の横に座り時折九州弁が混じりそうになるのを必死に抑えている。
「現在の課題を整理すると、『黒髪』は味については申し分ない。しかし知名度が低く、販路も限定的だ。このままでは成長は望めない」
慶佑が説明を続けていると、突然半個室の入り口が勢いよく開いた。
「葵ちん!やっぱりここにおったか!」
息を切らした秀平が飛び込んできた。
スーツ姿で、ネクタイを緩めて袖をまくっている。汗を額に浮かべ、まるで営業回りから駆けつけたような様子だった。
堂々とした足取りでテーブルに近づいて来た。
「楽しい席に突然すみません。彼女にすぐに伝えたいビッグニュースでしたので、少しだけお時間を頂戴できますか?」
スマートに挨拶する。
(ひぃ……!本日はイケメン供給過多……)
彩香はまた必死にビールを煽る。興奮に息も絶え絶えで早くも2杯目をオーダーしている。
彼女の節操のないイケメンレーダーに先輩女性2人は苦笑いするしかない。
「それで、葵ちん!よかか?ほんに先輩の料亭、話つけてきたばい!『黒髪』置いてもらえるごとなったとよ!」
葵子は箸を持った手を止めて、目を丸くした。
周りの人々は突然飛び出した佐賀弁に驚きを隠せない。
「え、秀ちゃん、本当に?うそやろ?」
葵子の目が大きく見開かれる。秀平は胸を張って鼻を鳴らした。
「本当ばい!俺を誰やと思っとっとか!」
「でも、あの『綾乃井』でしょ?敷居が高いって有名な……」
葵子がまだ半信半疑でいると、秀平がスマホを取り出して画面を見せた。
「ほら見てん、店主の田島さんからのメールや。来月から試しに置いてくれるて書いとる!」
画面を覗き込んだ葵子の顔がぱっと明るくなる。
「ほ、ほんとだ! すごい、秀ちゃん、ありがとう!」
秀平の行動力に、テーブルの全員が感心の表情を浮かべた。
「やろ?!やっぱ俺って最高やろが!」
興奮した秀平が葵子の手を取ろうとした瞬間、慶佑の手が間に割って入った。
「……申し訳ないが、彼女は俺の婚約者だ。そういうのは控えていただきたい」
(まだ正式ではないが……)
慶佑の声は低く、いつもの温和な表情とは明らかに違っていた。
井藤がニヤついた顔でヒューと口笛を吹く。
秀平は一瞬ぽかんとした後、手を叩いて大喜びした。
「ほんとね?! 最高ばい! 葵ちん、よかったな! 頼りになりそうな旦那さんばい!」
「そ、そんな……まだ旦那さんとかじゃなかし……」
葵子は顔を真っ赤にして、モニョモニョと否定の言葉をこぼす。けれど嬉しさを隠しきれず、俯いた頬は緩んでいた。
「……ほんなら、結局、俺の兄ちゃんも同じごたぁもんやろ?くぅ~、兄弟欲しかったっちゃ!」
そう言ったかと思えば、急に標準語に切り替えて真顔になった。
「俺の兄ちゃんになってください!」
次の瞬間、勢いよく慶佑に飛びついてハグしてきた。
「兄弟の話はともかく……秀島さんの行動力と人脈には、素直に感服しました。」
慶佑は興奮する秀平の身体をそっとほどいて距離を取る。
「ぜひ新銘柄のプロジェクトにも力を貸してもらえませんか?」
慶佑の真剣な提案に、秀平は目を輝かせた。
「兄ちゃん!そげんかしこまらんでよかて。俺は中桜のためなら全力出すけん!」
「……君の兄さんではないのだが……。ありがたい。よろしく頼む」
「……騒がしいわね」
里津が冷ややかにつぶやく横で、井藤がケラケラと笑い声を上げていた。
彩香は微笑ましそうに二人を見つめ、葵子は恥ずかしそうに頬を染めている。
居酒屋の喧騒の中、奇妙な仲間たちの輪ができあがっていた。
3 episodes left “Three to Forever — August, Scorching Summer”
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
八月の佐賀は容赦ない暑さに包まれていた。中桜酒造の応接間では扇風機が唸りを上げているが、室内の空気は重く淀んでいる。慶佑は額の汗を拭いながら、テーブルに広げた資料を指差した。
「ターゲットを二十代後半から三十代前半に絞り、パッケージデザインも現代的にアレンジすれば——」
「だけん、何度言うたら分かるとね!新銘柄なんか要らん!」
父・剛志が机を叩いて立ち上がる。葵子が慌てて仲裁に入ろうとしたが、慶佑は冷静に続けた。
「市場データを見てください。若年層の日本酒離れは深刻ですが、逆に海外では——」
「数字ばっか!酒は数字で作るもんやなか!」
剛志はそう言い捨てて応接間を出て行った。母が困ったような表情で慶佑を見る。
「すみません、頑固で……」
「いえ、お気になさらず」
慶佑は資料を片付けながら溜息をついた。葵子が申し訳なさそうに俯く。
「慶佑さん、お父さんて本当に……」
「葵子、大丈夫だ。必ず説得してみせる」
そのとき、応接間の戸が勢いよく開いた。
「よう、兄ちゃん!今日もおじちゃんに論破されたんか?」
秀平が軽やかに入ってくる。Tシャツに短パン姿で、手には缶コーヒーを持っていた。
「秀ちゃん、お疲れさま」
葵子が微笑みかけると、秀平は得意げに胸を張った。
「今日も営業回り頑張ったばい!でも兄ちゃん、数字ばっかじゃおじちゃん首振らんて!」
「では、どうすれば良いと思う?」
慶佑が真剣に尋ねると、秀平は缶コーヒーを一口飲んでから言った。
「おじちゃんが一番大事にしてるもん、何だと思う?」
「品質、だろうか……?」
「違う違う!家族だよ」
秀平の言葉に、慶佑と葵子がはっとする。
「確かに……うちのお父さんの酒造りって、効率より手間を惜しまない……」
葵子が呟く。慶佑も頷いた。
「そうか……!家族への想いが品質の根源」
「そうそう!そこを前面に出したらいいと思うとよ」
葵子が突然顔を上げた。
「あ、それなら……『朝音』ってどうかな?新しい一日が始まる音みたいに、家族の時間や思い出を積み重ねていくイメージで。それをローマ字で」
慶佑は目を見開いた。
「『Asane』……いいな。未来を感じさせるし、想いが伝わる名前だ」
「サンプルの画像だったら、多分二日くらいで友達に作ってもらえるよ。俺の知り合い、器用で気のいいやつが多いんだ」
秀平が人懐っこく笑う。
「おじちゃんの好みは俺がよく知ってるけん。兄ちゃんは数字の説明だけお願いします」
慶佑は心の中で呟いた。
(兄ちゃん呼びが定着しつつある……だが、頼もしい)
葵子が立ち上がって、勉強中の語学テキストを手に取った。
「私、退職を決めてから英語と……スペイン語も勉強してたんです。実は、日本酒ってスペインで注目されてるってニュースを見て。ワイン文化の国だからこそ、フルーティーな日本酒が受け入れられてるって。もし本当に海外展開するなら、きっと役に立てると思って」
慶佑が驚く。
「海外展開を見据えて?」
「はい。どんな場所にいても、自分を試すことはできるんだって実感してます。新しい扉を開いてる感じで」
そのとき、廊下で足音が止まった。剛志が戸の陰で聞き耳を立てているのが分かる。
「まぁ、悪くなか」
小さく呟く声が聞こえた。
2 episodes left "Two to Forever — September, Early Autumn"
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九月のロンドン。国際食品展示会の会場は各国の出展者と来場者で賑わっていた。
国際食文化振興会と九州清酒輸出促進協議会の共同ブースの一角に、中桜酒造のスペースも設けられている。
小さな酒蔵ながらも、「Asane」の試作品とパッケージデザインは来場者の目を引いていた。
葵子は緊張した面持ちで、スペイン系のバイヤーに向かって片言の英語で説明していた。
「Hello… this sake is from Saga, Japan… very traditional method…」
(こんにちは……この日本酒は日本の佐賀から来ました……とても伝統的な製法で……)
言葉に詰まる葵子を見て、慶佑が穏やかに補足する。
「Our brewery has been family-owned for over a century. Each bottle represents our commitment to craftsmanship」
(私どもの酒蔵は一世紀以上家族経営を続けております。一本一本に職人としての想いが込められています)
バイヤーが試飲用のグラスを手に取り、香りを確かめてから一口含む。
「Mmm… fruity! Very interesting flavor profile!」
(うーん……フルーティー!独特で面白い味わいですね!)
葵子の顔がぱっと明るくなる。
「Yes! We use… como se dice… local rice and mountain water…」
(はい!私たちは……なんて言うんでしょう……地元のお米と山の水を使って……)
スペイン語が混じりながらも、葵子は身振り手振りで一生懸命説明を続ける。
バイヤーは微笑みながら頷いた。
「Your passion comes through clearly. I'd like to discuss importing this to our European markets」
(あなたの情熱がよく伝わってきます。ヨーロッパ市場への輸入について話し合いたいですね)
慶佑が通訳すると、葵子は手を握りしめて小さく呟いた。
「やった……!」
慶佑が葵子の肩にそっと手を置く。
「大丈夫、ちゃんと気持ちが伝わってる」
会場の喧騒の中で、二人は確かな手応えを感じていた。
1 episode left "One to Forever — October, Harvest Season"
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十月初旬の佐賀。週末になると慶佑は必ず中尾家を訪れるようになっていた。
今日も蔵の手伝いを終えた慶佑に、母が温かいお茶を差し出す。
「慶佑さん、いつもありがとうございます」
「いえ、こちらこそお世話になって」
すっかり家族の一員として馴染んでいる慶佑を見て、葵子が嬉しそうに微笑む。
「お母さん、そろそろお父さんも認めてくれるでしょ?」
「そがんね、もう時間の問題やなかろか」
母も自信満々に頷いた。
数日後、田中と佐藤が東京から遊びに来た。田中はちゃっかりミカちゃんも連れてきている。
「課長~!見てくださいよ、この写真!都内のスーパーで『Asane』が棚一列占拠してました!」
スマホを見せながら興奮気味に報告する田中。
「……なんだかんだでお前が一番楽しんでるな」
慶佑が呆れる。
(俺は自分の幸せ優先って言ったのに、完全に彼女に振り回されてるじゃないか)
慶佑のジトっとした視線に気づいて佐藤が横から耳打ちする。
「まあ、あの二人はあれでバランス取れてるんじゃないですか」
冷静に突っ込む。
「課長、俺、前に失礼なこと言ってすみませんでした。課長が騙されてるなんて……」
数字の積み上げと、実際の行動につなげ中桜酒造の人々から信頼を勝ち得た慶佑に何も言うことなどできない。
田中が深々と頭を下げる。
「……まあ、結果的にうまくいってよかったってことだろ」
慶佑はなんでもないことのようにスッキリした表情で笑った。
十月中旬。「Asane」は すでに国内外の3社との契約もまとまりつつあり、売上データを見た慶佑は確信を持った。
そして十月下旬、佐賀の酒蔵で新米の仕込みが始まった。
数字の上昇を見て、家族全員が自信に満ちた表情を浮かべている。
慶佑は意を決して剛志に向き合った。
「お父さん、改めてお願いします。葵子さんと結婚させてください」
剛志は腕を組んで唸った。
「娘はまだ渡さんばい」
慶佑の顔が青ざめる。まさか、と思った瞬間、剛志の口元がにやりと緩んだ。
「ただし……お前が中尾に来るち言うんなら、文句は言わん」
慶佑の目が見開かれる。
「それは……」
「婿養子として、この蔵を継ぐ覚悟しとっとか?」
慶佑は飛び上がって両手でガッツポーズを作った。
「はい!喜んで!」
葵子が涙ぐみながら慶佑にしがみつく。蔵人たちからも拍手が起こった。
0 "Zero — Under the Warm Lights"
ーーーーーーーーーーーーーーーー
一年半後の東京。
洗練されたレストランのテーブルでは、温かい照明の下で井藤と里津が向かい合って座っていた。
2人の間には「Asane」のボトルが置かれている。スッキリ味で肉にも魚によく合うこの日本酒は
既に定番商品としてメニューに載っていてすでに気に入ってくれているお客さんがいるのがよくわかる。
さっき入り口で田中とミカちゃんがお店を出て行くところとすれ違った。
田中は浮かれ気味にみかちゃんの手を引いている。
「田中さん、次はカラオケ行きましょ~!」
「うん、ミカちゃんの好きなところでいいよ」
二人が去った後ろ姿を思い出して井藤がくすくすと笑った。
「あれで田村部長にまだバレてないと思ってるんだぜ?」
里津は冷ややかに返す。
「……あの二人、お似合いよね。ある意味で」
テーブルに付くとまわりの席には優しい表情で語り合うカップルや誕生日を祝っているらしい家族の声が聞こえてくる。
里津は「Asane」のボトルを見つめながら、心の中で呟いた。
(私は誰かと時間を重ねられるかしら?)
そっと井藤を横目で見る。
「で、今日は何の用だったっけ?」
「慶佑の成功を祝おうと思ってな。お前も来てくれてありがとう」
井藤の素直な言葉に、里津は少し頬を緩めた。
佐賀の中桜酒造では葵子が蔵人たちと次の銘柄の相談をしていた。
大きくなったお腹を撫でながら、穏やかな笑顔で話している。
「いつも通り味見は慶佑さんと秀ちゃんにお願いしてね」
「承知しました、社長!」
蔵人の一人が頷いたとき、事務所から別の声がかかった。
「専務!お客様が到着されました」
事務作業中の慶佑が振り返る。
「はい、今行きます」
慶佑は応接間に向かい、来客に「中尾慶佑」と書かれた名刺を差し出した。
「この度はお忙しい中、わざわざお越しいただき……」
ーーーー
仕事を終えた夕方、慶佑と葵子が連れ立って母屋へ移動する。
食卓へ向かう道すがら会話していた。
「里津先輩からメールが来てたよ。Asaneを置いてるお店の雰囲気よかったって。他のお客さんの評判も良さそうって!」
葵子がスマホを見ながら報告する。
「そうか、期待できるな」
慶佑が頷くと、葵子は嬉しそうに微笑んだ。
「来月の新銘柄も楽しみね」
「ああ」
返事をしながら慶佑は葵子を抱き寄せて頬にキスを落とす。
「もぅ、こんなところで……見られたらどうするの?」
葵子は赤い顔で目をそらした。
「葵子が可愛いのが悪い」
「もう!慶佑さんなのに!軽いこと言って」
慶佑の女性に対する扱いも葵子限定で改善しつつある。
2人の呼吸は年月を重ねるごとにピッタリと合っていくようだった。
食卓に到着すると、剛志と母、蔵人たちが既に席についていた。
葵子が席に腰を下ろそうとした瞬間、畳の縁につまずいて足元がふらついた。
「愛ちゃん!危ない」
慶佑が咄嗟に駆け寄って葵子を支えた。剛志がちらりと見て鼻で笑った。
「まだ名前もまともに呼べんとや?」
慶佑が苦笑して答える。
「すみません、これはもう俺のお守りみたいなもので」
葵子と目を合わせ、二人で笑う。
(初めて出会った"愛ちゃん"に救われて、今は"葵子"と家族になった)
今でも初めてあったときの眩しい彼女は慶佑の目に焼き付いている。
温かい食卓を囲む家族の笑い声が、蔵に響いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
不器用課長とキャバ嬢愛ちゃん HAPPY END
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