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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした
08 言うことを聞きなさい
しおりを挟む足の具合を心配してか、地下道の調査はまた日を置いてと言ったヴァンさんを説得して、俺たちはまたあのトンネルに来た。
正直、もう少しあの寝心地の良いベッドでゆっくりしたかった。美味しいスープを味わって、時々顔を見せたハムスターみたいな小さな生き物に触ってみたかった。
けれど……そうやってもう少し、もう少し、と言っている内に、俺はあの居心地のいい場所から抜け出せなくなりそうな気がして。
いつ出ていくようにと、言われるか分からないのだから。
いや、ヴァンさんなら理由もなく突然出ていけ、なんて言わなさそうだけれど。俺を放置していた母親の所から一時的に保護施設に移された時みたいに、大人の都合で居られる場所は変る。
どうせそうなるなら、まだ日が浅い内に別れた方がいい。
別れて元の世界に戻ったなら、きっと廃ビルですっ転んで気絶して、ほんの少し幸せな夢を見たんだ……ぐらいの気持ちで済む。
「本当に足は大丈夫かい?」
地下道――狭いトンネルの入り口で、ヴァンさんはもう一度きいた。
本当に心配性だなぁ。
「平気です。ちゃんと診てくれて、ゆっくり休んだおかげです」
「そう」
少し困ったような笑顔になったのは、気のせいだろうか。
もちろん完全に痛みが消えたわけじゃないけど、ここまで歩いて来れたんだ。少しぐらい辛くなってきても我慢できる。
無理はしないようにと、もう一度念を押したヴァンさんは、あの明るく光る魔法石を取り出して小さなランタン入れた。慣れた様子で呪文を唱えると、曇天すら照らすような灯火になる。
そして俺たちはゆっくりと、地下道に入っていった。
黴臭い水の匂いがする。
ネズミでもいるのか、時々視界の隅に小さな生き物の影が走った。
中は……入り口こそ狭かったが、少し行くと広い空洞になっていた。更に思ったほど真っ直ぐな道じゃない。俺が持っていた小さなLEDライトじゃ、とても全部を照らし尽くせていなかったと分かる。
慣れているのだろう、半歩前を行くヴァンさんの足取りに迷いは無い。
「あの……明かりを消して歩いていた方が、異変を感じやすいんですよね?」
さっきそう言っていた。
地下道でいつにない違和感を覚えて、魔法石の収集がてら調査をしていたと。
ヴァンさんはちらりと俺を見てから、困ったような笑みを浮かべて前を向いた。
「そうだけれどね、暗いところは足元が見えにくいから危ないだろう?」
それはヴァンさんの後に続く俺がということだ。
真っ暗な中で探索できていたのなら、この場所の構造にも精通している。本当は灯りなんかなくたって平気なのを、俺のために道を照らしてくれているんだ。
「俺のことは気にしないでください」
「リク?」
「魔法とか空間の歪みがどうとか、俺には全然分からないからヴァンさんの感覚だけが頼りです。だったらヴァンさんのやりやすいようにやってください。俺は……すぐ後ろをついて歩けば大丈夫ですから」
あっちの世界に繋がる入り口が見つかるのなら、さっさと見つけて俺の面倒は終わらせて欲しい。そうじゃないとヴァンさんはいつまでたっても店を開けられない。
それはあまりに申し訳無い。
立ち止まって俺をじっと見下ろしていたヴァンさんは、小さく息をついてから、「わかった」と言ってランタンの明かりを小さく絞った。
とたんに辺りの闇が押し寄せて来てくる。空気まで冷たくなったようだ。
「腕につかまって。できるだけゆっくり歩くから、足元に気をつけるように」
「はい」
答えてヴァンさんの腕につかまる。
これはこれで、ヴァンさんが歩きにくいんじゃないかという気がしてきた。けれど今さら言っても仕方がない。
さっきより歩調をゆるめた、けれど迷いない足取りでヴァンさんが行く。
俺は上も下も分からないような闇の中を、ヴァンさの腕だけを頼りに歩いて行く。だんだん、自分の心臓の音がうるさくなっていく。
「んん……魔法石が多いのか、やけに気配が散っているな」
独り言だろうか。
それとも俺を気遣って、不安にならないよう話しかけてくれたのだろうか。だったら聞き返してもいいのかな?
「ま、魔法石って……多くなったり減ったりするんですか?」
「魔法石がどんなふうに生まれるのか、知らない?」
「知りません。俺の世界にはそんなもの無いし」
「そう、なんだ……」
ゲームの中の話とか、魔法石という名前をつけただけのオモチャならあるだろう。けれどきっとそういう意味じゃなくて、「生活の中で使える実用品としての魔法石」という意味なら無い。
ヴァンさんは少し驚いたように声を漏らしてから、ゆっくりと話しだした。
「この世に生きているもの、特に魔力を持ったものは、死を迎えると石を残す。魔力の結晶だよ」
「石を?」
「そう。そしてその石を食べる物がいる」
「石を……食べる……」
「魔物がそれだ。魔法石の干渉を受けて変異した野獣や人がなるもの。危険な生き物だよ」
危険な生き物。
熊とか狼とか、動物園でしか見ないようなトラやライオンが、その辺をうろついているようなものだろうか。だとしたら……それはかなり危険だ。
思わず、ぎゅっとヴァンさんの腕を掴んだ。
俺の指の上を、ヴァンさんはぽんぽんと軽く手でたたいて「大丈夫」と安心させてくれる。
「僕がいる限り、魔物には指一本触れさせないから安心して」
「頼もしいです」
「リクと約束したからね」
微笑みをふくんだような声で、ヴァンさんが答えた。
約束?
俺がヴァンさんの家で具合が悪くなった時、「ここは安全な場所だ」とか「傷つけることはできない」とか言ったあのことかな? あれは約束というより、ただ俺を安心させるためにかけてくれた言葉……だった気がする。
約束というほどのものでもないのに。
気を失う前の出来事を思い出して、俺はぶるっ、と身震いした。
ヴァンさんが足を止める。
「リク?」
「あ、いや……なんでもないです」
そう答えたのに、また少しずつ手が震え始めている。
俺の、心臓の音がうるさい。
足元から闇が這いあがってきて、飲み込まれそうな気がしてくる。ガクン! といきなり床が抜けて、何も無い空間に独り、放り出されそうな恐怖感。
――恐怖感だ。
怖い。
「リク」
少し強い口調で、ヴァンさんが俺の名前を呼んだ。
すぐ側にに居るはずなのに、声が遠くなっていくような気がする。
「平気です……な、何でもありません」
震えを隠せない声で答えた。
本当のことを言えばもう、震えを止められないような気がして。
「戻ろう」
「ほんとうに、へいき……」
「言うことを聞きなさい」
そう言って有無も言わせず俺を抱えあげると、来た道を戻り始めた。
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