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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした
10 電気もガスも水道も無いけれど風呂は完備しています
しおりを挟むこの世界には、現代日本のような電気もガスも水道も無い。
なんて言ったらどんな山奥かと思うけど、三、四階の木やレンガで出来た建物が並ぶ街の中だ。イメージはそのまま、ヨーロッパの古い地方都市。
そしてそれらのライフラインの代わりに、便利なアイテムがある。その名も魔法石。
火を熾すもの、水を浄化するもの、食材を冷やすものなど、種類も用途もものすごく多い。そんな魔法石を効率よく動かすために呪文がある。能力の高い人は呪文を唱えなくても魔法を発動することができるらしい。
無詠唱魔法……カッコイイ。
ちなみに二階の――最初に見た時にそうだろうと思った、階段を上って直ぐ左手にあるキッチンには窯……いや竈っていうのかな? があった。
オーブンにもなる下の扉の中で火を焚いて、上がコンロみたいに鍋が置ける。排熱は上の管に吸われ、三階で溜められてから外に抜けるらしい。
三階、寝室の反対側――キッチンの真上辺りにバスルームがあって、そこに排熱を利用して蓄熱する魔法石が置かれていた。ボイラーみたいなものだ。ただしこのボイラー魔法石は水を沸騰させるほどの高温にはならないから、もっぱら風呂とかそういう用途に使われるらしい。便利だ。
水は水道みたいに各家庭に引かれているわけじゃない。飲用は近くの井戸から汲んできた物を、浄化用の石を入れた水甕に取っておいて、それ以外の洗濯や掃除は、濾過した雨水を利用していた。
洗濯などちょっとしたものは、手洗い。
ちなみにヴァンさんは近所の洗濯屋さん、いわゆるクリーニングに出していたらしい。いや、スーツとかコートなら分かるけれど、下着ぐらいは自分で洗いたい。
部屋は定期的に家政婦さんが来て掃除するらしい。
「何かおかしいかい?」
「あ、いえ。掃除のしがいがあるな……と」
軽く食事を終えたあと、一通り家の中の説明を受けて、俺は思わず笑ってしまった。
「うん、まぁ……散らかっているよね。本を読んだり研究に没頭すると、他のことはてきとうになる。死にはしないから、手を抜いているだけだ」
さらっと言い返す声が、ちょっと拗ねているように聞こえた。
何でも完璧な超人より、そんなふうに抜けてるところがあるのっていいな。
「呆れたかい?」
「まさか、俺でも役に立ちそうなところがあって良かった」
笑いを堪えながら言うと、ヴァンさんは複雑な表情で返した。
「あの、ところでこの魔法石って、俺でも使えますか?」
お湯を沸かせるぐらいはできた方がいいよね。
家事をする上で火の扱いは必須……だと思う。
ヴァンさんは、ううん、と少し考えるようにしてから側に置いてあった石を一つ、俺の手に載せた。見覚えがある、ランタンの中に入れて明かりの代わりにしたものだ。
「これを、光らせてみてごらん。呪文は――」
「あ、分かります。何度か聞いたので。えぇっと……月長石の光をここに!」
呪文というほど長いセリフじゃない。
妙に力が入りながら唱えた声に合わせて、石が……ふわぁと光り、点滅するように揺らいで……そして、消えた。
「え、えぇえ!?」
「うん、初めてにしては上出来だと思うよ」
情けない気持ちで見上げると、ヴァンさんはおかしそうに笑っている。
「そんな……才能無いのかな」
「才能より練習かな。魔法石の扱いは、才能半分、訓練半分と言われている」
「ということは……才能が無ければ完全に魔法の力を引き出せない」
「あっても練習しなければ使いこなせない。そういうものだよ」
すごく簡単に魔法を使っているから、呪文さえ唱えれば簡単にパパッとできると思っていた。やっぱりそうはいかないか。同時にあれだけ自在に使っているということは、そうとう練習した……ということだよね。
努力の人なんだ、ヴァンさんって。
「才能にもいろいろなものがある。力を引き出す人、浄化する人、封じ込める人」
「封じ込め?」
「世の中には危険な魔法石もある。そういう石の力を使えないようにする才能。今、リクが少しでも光らせることができたということは、そっち方面の力ではなさそうだね」
「そっか……よかった」
「んん?」
ヴァンさんが首を傾げる。
「え? だって、俺が魔法石の力を奪ったり封じるような能力だったら、ヴァンさんの邪魔をしてしまうかな……って。それは、嫌だ……」
はい、と魔法石を返しながら言う。俺のせいで生活や仕事のパフォーマンスが落ちるとか、そういうのは嫌だ。
受け取ったヴァンさんは、優しく微笑んでから俺の頭を抱き寄せた。
「まったく……君は、たまらないね」
そのまま髪に鼻先を埋めるようにして囁く。
わぁぁ……な、なにっ!? 近いよ! か、髪……洗っていないから、汗臭いのに! 恥ずかしい……。は、恥ずかしいけど……なんか、腕が優しくて振り解けない。
「他に知りたいことは無い?」
「あ……うぅう、あ、えぇっと……」
言われて、ドアが開いたままのバスルームを見渡した。
「トイレって、この水甕の水を使っていいんですよね?」
バスルームと一緒に設置されていた、壁とかで区切られていないからやたら広くて落ち着かないトイレ。場所だけは教えてもらって何度か勝手に使っていた。
「そう、手桶ですくって流せばいい。リクのいた世界には無かった?」
「あぁ……大抵、こう、後ろにタンクが付いていて、つまみを回せばいい構造になっていたので。それで水が流れるという」
「へぇ、機械的だね。面白い」
ヴァンさんが感心している。
あれは水道設備があるからこそできる物……じゃないだろうか。それにしても、上水道が無いのに下水設備がしっかりしているって、何だか不思議だ。
「こういう造りは、どこの家も普通なんですか?」
「この街に関してはそうだね。大昔に異世界から来た人が広めた都市構造だよ。この街は迷宮の上に造られた比較的新しい街で、そういった設備が整えられている。おかげで、人の暮らしも大幅によくなった」
そっか……大事なことだよね。衛生環境は健康問題に直結するし。
日本は特にそういうところ、きちんとしすぎているぐらいきちんとしている国だから、下手に発展途上の国に行くと身体を壊して大変なことになると聞いた。この世界……もとい、この国はそういう意味で文化レベルが近くて助かった。
「他には?」
「えぇ……っと、たぶん他にもあると思うけれど、今はこれで」
「分からないことがあったら何でもきいて」
「はい……あ!」
言ったはしから思い出した。
ヴァンさんは笑いながら「何?」ときき返す。
「俺、着替えが無いです……」
「あぁ……」
ヴァンさんもすっかり抜けていたらしい。
「そうだね。用意しないと。今日はもう店も閉まっているから、明日でいいかな?」
「すみません」
「ひとまず僕の服を着ていて……下着は、サイズが合わないか」
「自分の、直ぐに洗濯するので……」
そ、それまでは……無し、でも、ど、どうにかなる……かな。すーすーする、けど。
「シャツを一枚貸してもらえれば」
ヨレて着なくなったTシャツでいいです。
捨てるようなヤツで。
そう思う俺の目の前で、ヴァンさんは高級そうなチェストから高級そうなシャツを一枚取り出した。絶対高級な生地だ。肌触りがヤバイ。
「そろそろ風呂の湯も温まった頃だろうから、先に入っておいで」
「ありがとうございます。えぇっと……使い方は……」
元の世界、日本のように洗い場があるタイプの風呂じゃない。
となると……どこで、どんなふうに洗えばいいんだ? それとも湯に浸かるだけで、洗ったりはしないのかな? いや、そんなわけない。
「使い方が分からないか……うん、じゃあ、入れてあげよう」
……えっ? えぇぇぇっ⁉
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